立の章 使命 ~遂~
秋津総合病院。
和久由宇子は駐車場を回り込みフェンスに囲まれた中庭の入り口に着いた。
整えられた芝生の中を散歩道が通っている。そして日差しを遮り木陰をつくるであろういくつかの大きな木が植えられている。
シンプルに整備された中庭は、3棟の建物に面していて、見上げると今の時間は病室から消灯前の明かりが漏れている。
フェンスの扉を開けて中に入ると、由宇子はフラットライトが照らす歩道を卯月が教えてくれた院長専用の入口の方へ向かった。
由宇子は少し歩いて立ち止まり、虚ろな目で空を見上げた。
今夜、卯月は秋津都医師に、神盛奈穂さんのことを話すという。
何を話すのだろう。卯月は若狭に関連することを見つけたのだろうか?
今でも若狭のことを思い返すのは辛い。
若狭のことはもう終わりにすると決めていた。今さら話を聞いて、私は何をしようとしているのだろう。
由宇子は、卯月にすべてを託したあと、若狭の薬と伊江谷の関係を調べることを断念した。すべてを投げ出し、挫けてしまった情けなさを抱えたまま、若狭の死を納得していない秋津都医師に会う心苦しさが、気持ちを萎えさせていた。
気を取り直して歩き出した由宇子だったが、その出入口らしきところに近づくにつれ、俯き気味に歩く足取りは、更に重くなった。
ひときわ大きな木の下を通りかかったとき、由宇子は立ち止まり、その薄暗い方向に目を凝らした。
何?
視線の先にベンチが2脚並んでいる。
人?
恐る恐る近づくと、ベンチに寄りかかって女性が座り込んでいた。
「大丈夫ですか?」
意識はあるようだが、立てないらしい。
脈は速く息苦しそうで、冷や汗をかいている。
「車椅子を取って来ます」
だが女性は、立ち上がりかけた由宇子を引き留めた。
「側にいて・・・」
弱々しくそう言うと、ぐったりと由宇子にもたれ掛かった。
由宇子は直ぐさま卯月に連絡を取った。
卯月と共に、由宇子の到着を待っていた秋津都医師が車椅子を押して来た。
由宇子は都に状況を報告しながら、手際よく女性を車椅子に乗せた。
手伝おうとした卯月は、その女性を見て立ちすくみ、思わず名前を口にした。
「テラさん」
その名前に、由宇子と都は一瞬驚き卯月を見たが、直ぐに車椅子の女性テラへ視線を戻した。
都は、テラという名前が腑に落ちたらしく、後から追ってきた警備員に指示をした。
「1階の特別室を使用します。それから表立たせないように秋津先生へ連絡を入れてください」
特別室に入ると、都はベッドで横になったテラの診察を始めた。
「低血糖の症状ね。血糖値を計って、点滴と注射。大丈夫。心配はないわ」
その病室はVIPの部屋らしく、院長室からは少し離れており、ベッド近くの棚には応急処置に必要なものが大方揃っていた。
指示を受け、テキパキと動く由宇子の働きぶりを意外そうに見ている都に、邪魔にならないよう控えていた卯月が、小声で伝えた。
「由宇子は看護師の免許を持っています」
ほうと納得した都は、由宇子に真顔で尋ねた。
「ねぇ、私と一緒に働かない?」
無我夢中で手伝っていた由宇子は、都の唐突な誘いに手を止めた。
「・・・私は・・・」
戸惑いをあらわにし、返事に詰まる由宇子の様子に、都の顔がほころんだ。
「びっくりした?由宇子さん、でも私、本気だからね」
とそのとき、ノックがして秋津が現れた。
テラの方へ向かってくる秋津の前に、都は腕を組み、遮るように立った。
「特別な患者って、このかただったのね」
「そうだが、なぜこうなったのかな?」
秋津は、説明を求める都の態度を受け流し、テラの容態を聞いてきた。
「中庭で、低血糖で倒れていた。処置はしたので大丈夫だけれど・・・」
都の肩越しにテラを見ていた秋津に、都は簡単に応えた。
「ありがとう。あとは院長室で話そう」
「そうね。えっと由宇子ちゃん、後は任せたわよ」
「うん?任せる?」
素人にまかせるのか?と怪訝な顔の秋津に、都が自慢げに応えた。
「安心して。彼女は立派な看護師さんよ」
そして由宇子と卯月にテラを任せて、秋津夫妻は病室を静かに出て行った。
卯月は、由宇子の脇に立ち、横になっているテラをしげしげと見た。
奇跡と呼ばれた高千穂での出来事から、ほぼ3ヶ月が経っていた。
こんな形でテラと再会するとは信じ難かった。
ふと、高千穂で一緒だった熊野のことが頭を過ぎり、疑問がわいた。
テラさんは1人で病院に来たの?
熊野先輩は一緒じゃないの?
先輩は、テラさんの復帰に向けて話を進めていると言っていた。なのにテラさんは体調が悪く、入院するという。それって復帰どころじゃないよ。
またテラさんと仕事をすると張り切っていた先輩が、テラさんの一大事に現れないなんておかしい。何かあった?
不安が高まった卯月は、熊野に連絡を取ることにした。
「9時半か、ねぇ由宇子、朝まで付き添う人が要るよね。ちょっと遅いけど、熊野先輩に頼めないか連絡してみるね、・・由宇子、大丈夫?」
「うん」
そこには気丈な看護師姿の由宇子は消え、いつものおっとりとした由宇子が、疲れた顔で立っていた。
卯月が病室を出たあと、由宇子は点滴の状態を確認すると、あらためて回りを見渡した。
簡単なキッチンと食事のできるテーブルと椅子。
ソファーにテレビ。
病室というより、介護式のベッドを除けばリビングのような部屋だ。由宇子は、飾り気はないがセンスの良さを感じる椅子を、ベッドの傍らに運び腰掛けた。
テラを見ると、軽く寝息を立てている。
白い壁に視線を移すと、部屋の雰囲気にそぐわない神社の絵が掛かっていた。
由宇子はぼんやりとその絵を眺めた。大きな鳥居に続く道、昇る朝日。
見たことのある風景。どこか有名な神社なのだが、思い出せない。
ため息をつき、由宇子はテラに視線を戻した。
静かな時間が流れ、由宇子は現実を受け入れる冷静さを取り戻していた。
看護師。母の姿を見て憧れた職業だった。
由宇子は、現実を直視する看護師の仕事が自分の性に合っていると思っていたが、現実には命と向き合う仕事の生々しさについていけなかった。患者の感情や痛み、はっきりとしない症状をくみ取ることができなかった。的確な判断をしようと、考えれば考えるほど身動きが取れなくなった。悲痛な叫び、苦痛に喘ぐ声、そして歓喜の声さえ、由宇子を不安にさせた。看護師という仕事は、己の感情を飲み込むということも含め、すべての痛みを受け止められる母だからできたのだと痛感し、由宇子は憧れた仕事から逃げ出した。
それからの由宇子は、視覚で確認できないものとは正面から向き合わない、と決めて生きてきた。
そして、人の人生に関わることを怖がり、極力避けるようになっていた。
そんな思いを抱えていた由宇子だったが、看護師の職を離れて何年も経つのに、今夜の切羽詰まった状況下では、戸惑いや不安を感じることなく身体が動いた。
わが身を実感するように抱きしめた。
ふと都の言葉が思い出された。「彼女は立派な看護師さん」「私と一緒に働かない」いいえ、私は・・・看護師には戻らない。二度と命と向き合うことはしない。あんな苦しい思いはしたくない。
私は顕微鏡の世界がいい。
由宇子は顔を上げて、正面の白い壁を見上げた。
息苦しさに喘いでいたとき、あるイベントで目には見えないのに存在している物を、顕微鏡の中で見つけた。顕微鏡の中の菌類は見えないものでありながら、はっきりとした存在を由宇子に見せつけた。
菌類の世界にのめり込み、勉強を始めた。顕微鏡を覗くたびに、言葉のない生き物に癒され、ほっとした。
そして新しい職場で若狭と出会った。若狭は妹のアレルギー性の痒みを止める薬を開発するという、はっきりとした目的を持っていた。言葉は少ないが、穏やかながら端的な物言いをする若狭は、由宇子にとって、唯一安心して会話のできる存在だった。
しかし若狭は研究半ばで、謎を残したまま逝ってしまった。
その若狭の最後の言葉を、今も由宇子は忘れられずにいる。
「和久、俺とんでもない物作っちまった」
ぼんやりと見ていた壁の向こうに、笑う若狭がいた。
時が経って、夢に見る若狭の笑顔を以ってしても、消し去ることのできない最後の言葉だった。
「・・・あのとき、ちゃんと聞いていれば・・・若狭・ふぅ・・」
若狭を思うたびに後悔のため息をついた。
沈む気持ちと共に、壁から目線を下げた由宇子は、テラの手が何かを探るような動きをしているのに気づいた。
由宇子はテラの手をそっと握り、落ち着かせた。
テラは由宇子の手を握り、静かに動きを止めた。
しばらくしても手を放そうとしないテラに、戸惑いが生じた。
由宇子は、握られたその手を振りほどきたい衝動を我慢した。
なぜ私はこの人の手を握っているの?
どうして私がこの人を看ていなければならないの?
この理由なき状況は何?成り行きだなんて、答えにならない。
でも私は動けない。
動かないでいる。
この感覚は初めてじゃない。
望みもしないのに、訳も分からずに巻き込まれる感覚。
何も見ない、何も聞かない、何も知らない。すべてを閉ざし、ただ座って得体の知れない不安に怯えている私がいた。
あれは・・・
由宇子はふらりと椅子から立ち上がりかけた。
すると、泣き出しそうな由宇子の不安を察したように、テラの手の暖かさが優しく伝わってきた。
そして、ゆっくりと霞がかった静けさに包まれて、部屋の音が消えた。
「夢を見たの。あなたを助けなさいって」
かすれたテラの声が、霞の中に響いた。
「・・・」
穏やかな寝顔は半眼の無機質な表情に変わっていた。
由宇子はテラの顔を凝視した。
呼吸ができない。由宇子は瞬きをした。
由宇子の平常心を奪う出来事が続く。
静寂が破れ、不安を連れて一気に音が戻ってきた。
そこには目を閉じて、軽く寝息を立てているテラが戻っていた。
重ねたテラの手の力も抜けていた。
由宇子は呼吸を整え、テラから目を離さずにゆっくりと手を抜いた。
「何が起こったの?夢を見た?私を助けるとは?どういうこと?テラさんが言った?いいえ、テラさんは起きていない。あり得ない。寝言?」
混乱した由宇子は椅子に座り込み、頭を抱えた。
ノックをして卯月が入ってきた。
「由宇子、どうしたの?」
卯月は、身を硬くして俯いている由宇子の顔を、心配げに覗き込んだ。
「顔色悪いよ、だいじょうぶ?」
「・・・何でもない・・・」
頷いて由宇子は時計を見た。時計の針は35分を指していた。
たった5分間の出来事だったのだ。夢だったのかもしれない。
「そう私は何も聞いていないし、何も見ていない」
由宇子はそう呟いて、襲い掛かる不安を打ち消そうとした。
だが由宇子は、幼い頃の記憶の奥底にしまい込んだものに、その呟きが届いてしまったことに気付いていなかった。
「由宇子、疲れたね、これ飲んで」
「ありがとう」
由宇子は卯月の差し出した飲料水に口をつけた。
喉がカラカラに渇いていた。一気に半分を飲んだ。耳に残っていた音の塊が、喉を下りて消えると、肩の力が抜けた。
気を取り直した由宇子は、何事もなかったように目を閉じているテラの、バイタルを再度確認した。
すべてが正常値を示していた。
「異常はない・・・大丈夫、大丈夫」
深呼吸をした。由宇子は不安を感じる本心をねじ伏せた




