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立の章 使命 ~遂~

4月も中旬になり、テラは部屋の窓から葉桜に変わった公園を見ていた。


少し前に太力は帰って行った。

夕食にピザを食べながら、成彦との再会を太力に話すと、「だいじょうぶか?」とだけ聞いてきた。

太力の言葉の少なさに、成彦のことをすでに知っていたように思えた。

あの夜も、太力はどこからかテラのことを見守っていたのだろう。


USBのことは相談しなかった。たとえ相談したとしても、太力は、良いか悪いかは問題ではなく、テラが聞くか聞かないかだ、と答えてくるのが分かっていた。


ひとりになったテラは、ワインを用意してソファーに座った。

手には成彦から渡されたUSBが握られていた。

ワインに口をつけた。

パソコンに差してファイルを開くと、少し置いて、自覚のないテラの声が流れてきた。


テラは皮膚の常在菌の変化について話し始め、今後人の皮膚は、より過酷になる環境の中で、熱波や酸性雨、紫外線、そして有害物質から身を守るために、皮膚の細胞自身が独自に変化すると言っていた。

淡々とした抑揚のない口調で話は続き、それは宇宙のことにまで及び、何かの予言のようにも聞こえた。


自分の言葉なのに、全く理解できないことばかりだった。

それどころか、その内容は初めて聞いた言葉や数字の羅列で、到底テラが語れるものではなかった。


この録音自体が故意に作られたものかもしれない。

そんな疑念が浮かんだ。

でも何のために?なぜ私なの?

髙木家の人たちも絡んでいるの?

私の過去に何かあったのだろうか。


テラは、改めて華やかな過去を振り返っていた。


何も迷わずに夢中で生きてきた最中の不本意な挫折。

自分の内側にため込んだ、晴らす術のない怒りや恨みは、すべて銀色に光る毒となり、精神を蝕み、切り刻んでいった。

足搔き、苦しんだ挙句に、死という覚悟さえ拒否されたテラが手にしたものは、意識のないまま発した己の言葉が残されたUSBだった。


佐多成彦という男はそれを必然と言った。


USBを成彦の名刺の上に置いた。


名刺にある佐多成彦の肩書を改めて見て、漠然とした不安が生まれ、疑念がさらに強くなった。

この部署は何をするところなのか?


その成彦に検査を受けるように言われたことが気になった。血管腫は消えたのに、なぜ私の体を調べる必要があるのか?


飲み残しのワインをグラスに注いだ。


視線を上げると、カウンターの固定電話が目に入った。

グラスを持ってカウンターの椅子に腰掛けると、テラは留守電の再生ボタンを押した。

「俺だ、スマホを玄関に置いた・・・病院・・・行けよ」


もう一度押した。

「俺だ、スマホを玄関に置いた・・・病院・・・行けよ」


雄介からの電話を待っていたのが、昨日のことのように思い出された。

テラは不意に泣きたくなった。泣くまいと決めて過ごした苛酷な日々の、鬱積した感情が一気に溢れてきた。「泣いてもいいんだよ」・・・雄介?太力?お父さん?


優しく、強く、テラを思いやる声が胸に広がった。

 

何事もなかったように片付けられた部屋のいたるところに、押し殺していたテラの感情が、ひと続きの物語のようにポワンと現れてはパチンと割れて消えていった。

そしてその度、頬を伝うテラの静かな涙は、睡蓮の咲くみそぎの池の奥底に、その苦しみを沈めた。


グラスに残ったワインを飲み干したテラは、もう一度留守電の再生ボタンを押した。

「俺だ、スマホを玄関に置いた・・・病院・・・行けよ」

「雄介、ありがとう。そうするね」


現実と向き合おうと決めたテラは、発病時に予定していた秋津総合病院で精密検査を受けることにした。



テラは初診の前日、病院への送迎時間の調整ために、太力が来るのを待っていた。

ほぼ1ヶ月、人との接触がなかったテラだったが、太力の生き方に影響され、不安を感じることも少なくなっていた。

「生まれてきたこと。生きていること。先に繋ぐこと。人生はそれだけのこと」


その言葉は、太力の生き様そのものを表していた。

太力はこの大都会東京にいても、大いなるものを感じさせてくれる不思議な力を持っていた。

太力にその話をすると「テラさんがそう感じるからで、俺にはそんな力はないよ」と笑って取り合わなかった。

太力は感情がないわけではなく、感情は実体がないものだから、感じたとしても心に留めておく必要はないと思っているらしい。


悲しみの継続は、同じ悲しみの連続性により、悲しいという感情を手放す機会が削がれたか、あるいは本人が悲しみの本質を手放したくないから、という持論を持っていた。繰り返される悲しみは、止めようがなければ仕方がなく、それを手放さないことで心が満たされているのなら、それも仕方がない。

太力は簡単に言っていたが、人にとっては、一度手にしたものを手放すことは難しいとテラは思っていた。


テラが手放そうとしているものの中に、熊野と追いかけた夢があった。

スマホを失くしたときに駆けつけてくれた熊野。

相談もせずに消えたテラを、待ち続けた熊野。

今も、テラを支えようと奮闘してくれている熊野。

絶えずテラの側にいてくれた熊野は、テラにとってかけがえのない家族同然の存在だった。


東京に戻った翌日に、そんな熊野が復帰の話を持ってきた。

ありがたいと思いつつも、雄介のことでゆとりのなかったテラは、話を聞かずに熊野を追い帰してしまった。

それから何回か会って話をしたが、熊野がテラに相談もせず、早々に復帰の話を進めていたこともあり、会う度に焦りの見える熊野に対して、テラの不信感は増していった。

テラは、以前のテラに戻れないことを何度も話したが、復帰することがテラのためと思い込んでいる熊野は、分かろうとしなかった。

そのうちに、熊野の気持ちが負担になり始めたテラは、少しずつ距離を置くようになっていた。

熊野は訪れる度に、復帰について話し、押し問答の末、気まずい雰囲気を残し、寂しげに帰っていった。熊野は大切な友人。はっきりと断ることで熊野本人を否定していると誤解されたくないテラは、復帰の話をうやむやにして終わらせたかった。


「はぁ」

とため息をついたとき、玄関のチャイム音が聞こえた。

インターホンの画面に、太力のいかつい顔が映っていた。


太力は部屋に入ると、真っ直ぐに自分の席と決めている椅子に向かい座った。

テラの顔を見るなり尋ねた。

「どうした?」

「何にも・・・」

「そうか」

悩みを見透かされそうになり、テラは慌てて太力の斜め前の椅子に座った。

「太力は結婚しないの?」

突拍子な質問に、太力は即答した。

「する、しないは考えたこともない。そうだな・・・共に歩く人と出会ったらしてるだろうし、その時にならんと分からん」

「太力は幸せ?」

「幸せ、考えたことないな。ありもしないことは分からんし、求めもしない」

「生きていて、むなしくない?」

「むなしいも、ありもしないものだからな」

「楽しい時ってあるの?」

「楽しいかどうかは分からんが、俺の体が実感する時がある。脳天に響くんだ」

「・・・分からない・・・」

頭を横に振り、困った表情をするテラを見て、太力のいかつい顔が笑った。

「・・・熊野さんのことか?」

何で分かるの?という顔をテラが見せると、太力は真顔になった。

「負担だと感じるものだけを、手放なせばいいだけだ」

太力の一言で、負担なのは熊野ではなく、熊野が描いた復帰という夢だと気づいたテラは、熊野との関係が簡単に切れるはずはないと思った。

「ありがとう。今度、熊野が来たらはっきりと断るわ」

「そうか」

その後、明日の打ち合わせを済ませた太力は、30分ほどで帰って行った。


受診のことを伝えた日、熊野は気をつけてとだけ言った。

以前の熊野なら、明日の受診には付いていくと言い張ったに違いない。そしてテラも、そんな熊野に付き添いを頼み込んだだろう。


時とともに人は変わり、それに伴い関係も変わることは、止めようがないこと。しかしそれは関係が終わることではないと太力は言っていた。

「検査が終わったら、熊野と今からのこと話さなきゃいけない」

気持ちを軽くしたテラは、窓辺に立ち、ゆっくりと大きく伸びをした。






4月19日

和久由宇子は日付を書いただけの日記帳の白いページを、ぼんやりと見ていた。

今日もとりたてて書き込むこともなく、1日が過ぎた。

パラパラと前のページを捲ってみる。手が止まった。


3月3日

仕事帰りに、奈穂さんの手紙を卯月に渡し、神盛教授の依頼を伝えた。卯月は引き受けてくれたが、少し荷が重そうに見えた。それはそうだろう。亡くなった人の人生の終わりを確かめるなんて、簡単なことじゃない。それも事故の可能性もある。卯月、ごめんね。教授に一緒に手伝うように言われたけれど、私は何をしたらいいのだろう。私に何ができるのだろう。分かんないよ。


3月4日

仕事がつまらない。楽しい菌ちゃんはいないかな。若狭、私はこのままでいいのかな。若狭の薬までも、うやむやになってしまった。ごめんね。しかも若狭の研究をあいつが横取りしたのは分かっているのに、所長も知らんふりをしている。どうしようもないよ。会社辞めようかな。若狭、どうしたらいい?


3月5日

本当に面倒くさい。伊江谷は、主任になってからやりたい放題。若狭の後に入った新人をいびり倒している。所長は伊江谷のご機嫌を取ってばかりで、何人かは伊江谷の言いなりになっている。あんな奴のこと認めるなんて、みんなどうかしてる。


3月6日

今日はマジでムカついた。なんで私が書類の整理をしなきゃいけないのよ。それも倉庫の片づけをしながら。若狭もこんなふうにやられてたのかな?菌ちゃんの研究ができないなら、辞めようかな。そうしよう、決めた。


3月7日

退職願を出した。心残りはあるけれど、あそこに居たって得るものはない。

逆下さかもと所長は体面を気にして、退職理由ばかり聞いていた。一応預かっておくと言われたがどうでもいい。明日は休みだし、教授のところに行ってみよう。

新しい菌ちゃんに会えるといいな。


3月8日

大学に神盛教授を尋ねたら、奈穂さんの薬の分析を頼んだという伊豆野穂希さんを紹介された。薬と毒の研究をしているらしい。

挨拶だけ交わす。少し取っ付きにくい。会うことはないと思ったが、連絡先を交換した。



由宇子は日記を開いたままにしてキッチンに行き、牛乳を温め始めた。

ふつふつと鍋の周りが泡立って来た。そろそろ頃合いだと思いつつ、泡立つ様子を眺めながら、若狭がいなくなってからのことを思い出した。



若狭の薬のことは伊江谷のガードが硬く、探ることができずに半年が過ぎた。

今では若狭の死も薬も忘れ去られ、由宇子もいつの間にか若狭を思い出すことが少なくなった。

若狭の死後、何かと伊江谷に逆らった由宇子は、重要な研究から外された。

仕事と言っても単調な作業を進めるだけで、面白味もなく身が入らなくなった。

その上、所長の失念の多さと、いい加減さ、伊江谷の執拗な嫌がらせで、長年にわたり続けてきた由宇子の研究は否定され、研究自体も打ち切られてしまった。


そんな中、神盛教授から預かった彼の娘の手紙は、若狭の薬との繋がりを感じさせ、由宇子を奮い立たせた。

だがその手紙を卯月に渡したとたん、由宇子は張りつめていた糸が切れて、身体中から気力が消えていくのを感じた。

その夜、由宇子はぽっかりとあいた穴の中に、無抵抗のままゆっくりと落ちていく夢を見た。

落ちていく途中、由宇子の手からこぼれ落ちて消えていく若狭の薬を目で追った。

その先に若狭が笑っていた。笑っている若狭に尋ねた。「もういいってことなの?終わっていいの?」

若狭が消える前に目が覚めた。

体がだるい。


その日から由宇子は若狭の真実を追うのをやめた。


熱し過ぎた牛乳が、由宇子を現実に引き戻した。

由宇子は、膜の張った牛乳を鍋からカップに移し、砂糖を1つ入れ、スプーンでかき混ぜながら日記帳の前に戻った。


退職を決めたあたりから、日記には「今日は何もなくて良かった」の1行だけの日々が続き、しばらくすると、好きな常在菌のイラストを描いて1日を終わらせた。


先を捲ると、珍しく言葉が綴られているページがあった。


3月20日

昼休みにサンドイッチを食べた。

若狭の落としたUSBを、届けてくれた大歳が話しかけてきた。

退職のことを知ったらしく、所長が大騒ぎしていたと教えてくれたが、ほんとうは伊江谷のことを愚痴りたかった?一緒になって悪口でも言えばすっきりしたかもしれない。いやいや、会社のことはもう終わりにしたのだから、巻き込まれないようにしないとね。

菌ちゃん、いつか仇を討ってくれるよね。頼んだよ。



読み終わってふっと笑った。


4月19日、今日のページに戻った由宇子は、愛用のボールペンで「今日は何もなくて良かった」と書き込んで、菌ちゃん栞を挟み日記を閉じた。

そして壁掛けカレンダーの19日のところに斜線を入れた。

「今日はこれでおしまい」

そのあと20日をペンで指した。明日の夜に久しぶりに卯月と会うことになっていた。

秋津総合病院の秋津都を尋ねるという卯月に、付いていくことにしたのだ。

「卯月と会えばこんな憂鬱、パッと晴れる」


由宇子は気持ちを切り替えるように小声で言うと、飲む気をなくしたカップの中身を捨てた。



翌日、4月20日の夜、約束の時間少し前に秋津総合病院に着いた由宇子は、駐車場から裏手にある院長専用の出入り口へ向かっていた。



そして同じ時刻、所は変わりここは中目黒のとあるビルの会議室。

同じ色のスーツ姿で、同じような眼鏡をかけた8人の男たちが席に着いていた。

年齢も体形も様々なのに、醸し出す冷酷な雰囲気で、一見すると皆同じ風体に見えた。


その中でイヌワシと呼ばれるひと際目つきの鋭い男が、着席している他の男たちの様子を窺っていた。

陸の息子たちを束ねる縁者えんじゃ長のキング、以下ベア、カイマン、ハイエナと呼ばれる男たち。

そして、空の息子たちを束ねる縁者長のイーグル、アウル、シュライク、クロウの男たち。

合わせて8人の男たちが、無表情のまま会の始まりを待っていた。


微動だにしない静止動画のような空間で、1人の男がちらりと腕時計に目をやった。


そのとき、ドアをノックして1人の女性が入ってきた。


それを確認して、ハイエナと呼ばれる男が意気揚々と声を上げた。


「10分前ですが、そろそろ始めますか?」


その言葉に一瞬の緊張のあと、より重苦しい空気に変わった。

会が始まる前の発言は禁止されていて、発言に際しては、陸と空の2人の縁者長の許可が必要とされていた。

それを無視しての発言に、空の縁者長イーグルの表情が鋭くなった。

その男は上座に腕を組み、座っているイーグルに向かって、のんびりとした口調で雑談でもするように話しかけた。


「イーグルと呼ばれている方が獲物に逃げられたと噂で聞きましたが、どうされましたか?お体でもお悪いのでは?」

挑発するような発言に一同の視線が、尋ねた男からイーグルと言われた男に移った。


空の長のイーグルは、無反応で静かに目を閉じていた。いっぽう陸の長のキングは目を細めて成り行きを見ていた。


「その獲物は約束をすっぽかして現れなかったとか。鳳凰への糸掛だったそうですね。残念でしたね」


続けて癇に障る言い方をするハイエナという男の話に、一同興味のないふりをした。


「何かと心当たりでもありそうな言い方ですね」

イヌワシの隣に座っているアウルと呼ばれる男が、発言した男を見据えて静かに尋ねた。

「心当たり・・・ありませんよ。ただ縁者を選ぶのは、縁を求める者の自由ですから・・・ね」

ハイエナと呼ばれる男は、含みのある笑いを押し殺して答えた。


尖った沈黙の中、パソコンの前に座っていた女性が、部屋の空気を一切気にせずにこやかな笑顔で開会を告げた。


「時間になりましたので、今月の格決め会議を始めさせていただきます」


場の緊張はその声で一掃され、来世の格を決めるというその会議は夜更けまで続いた。


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