立の章 使命 ~遂~
3月下旬、懐かしい東京は、満開の桜を散らす激しい雨でテラを迎えた。
マンションに着くと、熊野が待っていた。
熊野はすぐに生活ができるように部屋を整えていた。
テラは愛着のあるソファーに座ると、二度と帰らないと思っていた部屋を見渡した。鏡・・・醜く崩れていく顔を見たくない、その思いで外した鏡が元に戻してあった。
熊野の気遣いと分かっていたが、テラは懐かしさの中に感じる居心地の悪さを消すことができなかった。
そんなテラに、熊野は1個の小包を持ってきた。
熊野宛の物で、差出人が雄介と書いてあった。テラは小包の中身に察しがついた。雄介は、テラが渡した1億円を、志布志から熊野宛に送り返していたのだ。
お金が目的ではなく、本当に私のために動いてくれたんだと思うと、胸が詰まった。テラはすぐに送り状の携帯番号に連絡をしたが、現在使われておりませんと渇いた声だけが返ってきた。
テラは膝を抱え、ソファーにうずくまった。
テラの性格を知っている熊野はその様子に、静から預かった薬を飲ませると「明日来るね」と軽く言って出ていった。
ひとりになったテラは、宮崎までの車中や、霧島の別荘での雄介との会話を思い出そうとしたが、
1年も経った今では、全てがドラマのような出来事になり、実感として残っていなかった。
ぐずついた天気にテラは塞ぎこみ、再び引きこもる生活に戻っていた。
そんなテラを、女野宇太力の存在が救ってくれた。
護衛として一緒に上京した女野宇太力は、テラのマンションの近くに部屋を借りて、しばらくの間テラを助けてくれることになっていた。
東京での太力は、テラの生活のリズムを作るため、スケジュールどおりにテラを支えてくれていた。
太力ははっきりとしていて、嫌なことには手を出さず、判断も早く、決断したら迷いがない。そんな太力の思い煩うことがない性格に、テラは救われていた。
太力は10時にやって来て、テラと昼食をとり、しばらくすると帰っていく。
テラが外出するときは、10分前にやって来てテラを待つ。
たまに夕食を共にするが、夜8時になると帰っていく。太力はテラ本人に興味がないのか、テラの過去について一切質問をしなかった。
太力に見守られた生活の中で、テラは少しずつ居心地の悪さから解放されて、鏡に映るテラを認め始めていた。
桜が新緑へと変わり始めたころ、雨上がりの夜空に、輝く月を見上げていたテラは、フードの付いたコートを羽織り、マンションから外に出た。
空にあって当たり前の月。太陽と同じく、その存在は明かりのない夜に足元を照らし、導いてくれる尊い光であり、太古の昔から無くてはならないものだ。
だが東京は躍り狂う光の森。暗闇を持つ森は消え、眩しすぎる光の中で人は行く道に迷う。足元からも光が放たれ、浮足立つ感覚で踏みしめている実感がない。
輝くとは何なのだろう。
ネガティブな感情の対極にある憧れ。
それは、闇があっての輝きなのではないか?
テラは、暗い空に煌々と輝く高千穂の月を思い出していた。
神々の郷の月は、地上のものすべてを包み込む、大いなるものの中に存在していた。そしてテラは、テラ自身もその中に生かされている唯一無二の存在だと自覚した。
「ここは東京・・・熊野がモデルに復帰させると言っていた」
唐突に熊野を思い出したテラは、雨上がりの桜を見上げた。
雨に洗われた桜は、幹がはっきりとして力強い。
人の目をひく華やかな花の塊りの奥に、かくれて存在する強靭な生命力。
寒さに耐え忍び、開花のときを待ち、咲き誇ったのも束の間、大いなる自然の度重なる洗礼を受けても、ひたすらに存在し続ける。どんな条件下でも花開かせ、不本意な散り方であろうと、次へ生きる準備をし始める。
華やかで儚いイメージだけではなく、根底にあるその逞しさに人は魅了され、満開の桜を待ちわびて愛でてきたのだろう。
「桜のように生きられたら、こんなに苦しまなくていいのに」
テラは周りを見渡して立ち止まり、フードを外した。
雄介に会ったのは1年前のこの場所だった。
テラはこの1年を振り返りながら、のんびりと歩き始めた。
テラは霧島の山中で心地よい眠りにつき、春を告げる神楽の夜に、高千穂の髙木家で目覚めた。
そのあと、静養が必要と言われ、しばらく髙木家に留まったが、思ったよりテラの回復は早く、寝たきりの状態だったにもかかわらず、ひと月もすると歩けるようになった。
昏睡状態の期間のことを、医師と名乗る髙木静が記録していた。
そして、霧島から高千穂に運ばれた経緯や、覚醒直後にテラが話したことも静は教えてくれたのだが、すべて作り話に聞こえた。
見知らぬ人が心配そうに見守る、見知らぬ部屋で目覚めたテラには、静の語ることは事実として到底受け入れられるものではなかった。
そんな中、テラが雄介を思い出したのは、天照大神が姿を隠したという神社を訪ねたときのことだった。
神が姿を隠した場所を直接見ることはできなかったが、テラはその祀られている方角に向かい、手を合わせた。
物音ひとつ感じない時が流れていく。すると閉じた瞼に、暖かい光と仄暗い闇が、交互に訪れる無形の空間が現れた。
その空間をふわふわと漂う感覚があまりにも心地よく、戸惑いも恐怖心も消えていった。そして空白の10ヶ月が物理的なものではなく、月日を重ねるという感覚で埋められていった。
しばらく、目を閉じたままその感覚に身を委ねていると、徐々にテラの心は静かな湖面のように落ち着き、空白という形のない苦悩が消えた。
さわさわと境内に吹く風がテラを撫でた。
静まり返った無形の空間に風が線を引いた。その線は割れて奥に深い亀裂となった。
追手がいた。
私たちは追われていた。
醜い顔。奇病と書かれた週刊誌。
記憶に沈んでいた事実をはっきりと思い出した。
雄介は、昇君は、ルナちゃんは、どうなったんだろう?
心臓は早鐘のようにテラの胸を打ち、呼吸ができなくなった。
テラは、霧島に向かった理由はもちろんのこと、協力してくれた人がいたことも忘れていた。すべてを思い出したテラは、座り込み震えていた。
奇跡を目撃したすべての人は、霧島山中にテラが入ったのは、導かれての必然なことと考えていて、巻き込まれてしまった人がいることなど知る由もなかった。
記憶の奥底に沈んでいたことに気づいたテラは、早速医師の静に、早めに東京に戻りたいと相談をした。十分な体調ではないと反対されたが、テラの決心は固かった。
そして高木翁の信頼する重兼智という人物が、東京に戻るまでの間を引き受けてくれて、女野宇太力とともに東京に戻ってきた。
太力のことを思うと口元が緩み、ほっとする。
テラは昨夜の夕食を思い出した。珍しく会話が弾んだ。
自然の寵児そのものの女野宇太力という男は、「生まれたから生きる。寿命が尽きれば死ぬ。それが人生だ。何があっても変わらない。理屈はいらない」と言った。
不信や疑惑を感じれば、聞く耳を持たない。受け入れられないものには関わらない。そんな信念を持つ男が、故郷を離れてテラを守ってくれる。
「なぜ?」テラは太力に訪ねた。「人はそれぞれいろんな思いを抱えて生きている。テラさんもそうだろう、テラさんの悩みには興味がない。だが、テラさんにとって、今俺が必要だということは分かる。だからそばにいる」即答だった。「結婚はしないの?」その質問はしなかった。するとか、しないとか考えたことがない、と答えるだろうと、なんとなく分かった。
今ではテラの生活に、太力の存在は欠かせなくなっていた。
随分歩いたと気づいたテラは、フードをかぶり直すと、マンションの方へ引き返し始めた。
向かう先に人影が見えた。
とっさに身を隠すところを探したが間に合わず、そんなテラの方へ近づく大柄な男を避けることができなかった。
テラは後ずさりしようとする恐怖心を押さえ、顔を上げ、歩き出した。
「テラさん、少し話をしませんか?」
すれ違いざまに名前を呼ばれ、とっさに逃げようとするテラの腕を、男が掴んだ。
テラはフラッシュバックを起こした。
「テラさん、落ち着いて。今の貴女は隠れることも逃げることもないでしょう。私たちは高千穂で会っています」
「高千穂?」
その地名に、テラは抵抗を止めて、ちらっと男を見た。
男は失礼しましたと言い、掴んでいた手を放した。
「私は佐多成彦です。少々寒いですが、歩きながら私の話を聞いてもらえませんか?」
「佐多成彦さん?・・・なぜ、ここにいるのですか?」
テラはこの大柄な男に見覚えがあった。目覚めたときに、重兼さんと一緒にいた男だった。
成彦はその問いには答えずに、話し始めた。
「雄介、ルナ、昇を覚えていますか?」
突然飛び出した名前に、テラは成彦を見た。
「雄介・・・ええ・・あなたがなぜ知っているの?」
「私の大切な友人です」
テラは意外な言葉に驚き、そして安堵した。
この人に聞けば雄介を探せる。テラの表情が明るくなった。
「そうでしたか・・・それで今、雄介や昇君は?」
「雄介とルナは行方不明です」
「行方・・・不明。昇君は?」
「交通事故で死にました」
「・・・それはいつのことですか?」
成彦は答えなかった。無言の成彦が全てを語っていた。
「私の我がままのせいで・・・私が命を奪ったのですか?」
「いや、あなたのせいではありません。昇のことや雄介やルナのことは、やむを得なかったのです」
テラはうつむき、足を止めた。
成彦は歩くことを促し、話し始めた。
「2月に高千穂でテラさんの目覚めに立ち会い、テラさんの言葉を聴きました。信じられませんでした。正直今も受け入れられずにいます」
「佐多さん・・・高千穂で私が話したと言うことはまったく記憶がありません。・・・ですから、そのことについてあなたとお話しすることは・・・ないと思います」
「そうですか。しかし、あのときのテラさんの言葉を信じれば、雄介と昇がテラさんに出会ったこと、私の友人だったこと、昇が死に、雄介やルナの存在が分からないこと、全てが必然なのではと思われます」
「私のしてしまった罪深いことが必然だったというの?私のために命を落とした人がいるのに、簡単に言わないで・・・必然という言葉で許される訳がありません・・・もうやめてください。私はあの夜、何を言ったのか覚えていません。きっと無責任なことを言ったのでしょう。奇跡だと言われても、私は何も知らないのです。本当に・・・」
テラはわなわなと震えはじめ、それを隠すように足早にマンションへ向かった。
「テラさん、しっかりしてください。今起きていることが否応なしのことならば、雄介もルナも必然と共に、必ず生きています」
「否応なしのこと?何が否応なしなの?」
テラは自分の身体に起こった、おぞましい変化を思い出していた。
私の意志など通じなかったことはわかっていた。あの身体になるために生まれてきたのだと受け入れていた。
何を思ったのか、テラは立ち止まった。そして呼吸を整えて、追いついた成彦に向き合った。
「佐多さん、私と雄介、ルナちゃんの否応なしの繋がりを思い出したわ。雄介の背中にも血管腫があった。そしてルナちゃんの足にも」
「どういうことですか?」成彦は興味深げに聞き返した。
「私は奇病と言われていたけど、それは事実でした。今は消えたけれど、首筋に血管腫があった」
言葉を切ったテラは思い出したのか、辛そうな表情が一瞬よぎったが、こらえて続けた。
「霧島に行く前に、雄介が背中を見せてくれたの。私の手伝いをしなければならない理由だって。そこに刀傷のような赤黒い盛り上がった筋があった」
少し声を落としてテラは続けた。
「ルナちゃんは、シャワーを浴びた後、隠しながら靴下を履いていたけど、足の甲に同じものがあったと思う」
背に黒い傷の男、足に黒い傷を持つ女、そしてテラ、秀の絵に描かれていたものだった。
成彦は一連の絵の持つ重要性を確信した。
「すべてが必然だったのか・・・。それはいつからの必然なのか・・・秀・・・」
成彦の言葉は独り言のように消えた。
「と、なれば・・・」
成彦は少し考え、口を開いた。
「テラさん、不躾なことと承知していますが、私の下で精密検査を受けていただけませんか?」
ようやく成彦を受け入れ始めていたテラは、その言葉に身を硬くして、成彦の顔を凝視した。
「佐多さん、馬鹿なこと言わないでください。確かにあなたがおっしゃるとおり、私の身に起きたことは普通ではないことです。あなたにとって必然だからと言って、あなたが私に強要できることではないでしょう」
そう言い放ち、テラは歩き始めた。
成彦は急ぐテラの後を追った。
「性急過ぎましたね、すみませんでした」
テラはその言葉に振り向き、ついてくるなと言う顔を向けた。
そんなテラに、成彦は笑顔を返した。
「一緒に帰りましょう」
驚きは一瞬で、テラはより強い疑惑の表情に変わった。
「実は、私の住まいもあのマンションです」
成彦はテラのマンションを見上げた。
「大体分かっていました。雄介がしようとしていたことも、テラさんの存在も、ただ厄介なやつらが絡んでいて動けませんでした。・・・それもきっと決まりごとだったのでしょう」
成彦を疑い始めたテラは、釈然としなかった。確かに運命や縁という言葉で片付けてしまえば済むことだが、あまりにもそれは、この男に都合が良すぎると思った。
「決まりごと?すべてを運命で片付けるのですか?偶然あなたが同じマンションに住んでいたことも、雄介のことも?・・・馬鹿な・・・有り得ない」
成彦も運命という正体のないものに、人生を委ねるつもりはなかった。
秀を巻き込む事故が必然の始まりで、それが運命だったとなど、一言で片づけることはできなかった。
全てが定められたものなのか?
秀に予言書のような絵を描かせるために、この手で秀の人生を奪ってしまったというのか・・・秀・・・・すまん。運命という言葉に、逃げるわけにはいかない。
成彦は鋭く息を吐いた。
テラはそんな成彦を不思議そうに見ていた。
「着きましたよ」
マンションのエントランスで、成彦は少し横柄さの漂う顔をして、不審がるテラに名刺と、録音データのUSBを渡した。
「記憶にないと否定するあなたが発した言葉は、この中に存在しています。何か思い出したら連絡してください」
「それから体のこと考えて、しばらくは出歩かないほうがいいでしょうね」
そう付け足した成彦に見送られて、テラは最上階のボタンを押し、渡された名刺を見た。
そこには「官房長室付特殊有事処理班室長 佐多成彦」とあった。




