立の章 遂 ~使命~
運命にて
卯月は待ち構えていた縁に触れ、神域の扉が開く音を聞いた。
卯月、成彦、雄介、テラ、仁宜、耀、奈留瀬、真琴それぞれの縁は交わりを繰り返し、明日を告げるいくつもの扉が現れた。
たとえ苦悶に喘ぐ道であろうと突き進むと決め、運命の扉を開き、生きる糧となるものを手に入れた。
立の章
使 命 遂
人は自己を守るため、愛するものを守るために不確かなものに命を懸ける。
己の決断を握りしめ、空の高みを目指せば、体の奥底から情熱が湧き上がる。
これが求めていたものと心が叫ぶ。
アマテラスオオミカミニタマワリテ、ノタマハクイマシオホセゴトハ、タカアマハラコレシラシムトコロゾ
天照大御神に賜りて而、詔はく之汝の命者、 高天原これ知らしむ所矣
ツギニ、ツクヨミノミコトニ、ノタマハクイマシオホセゴトハ、ヨヲオスクニコレシラシムトコロゾ
次に、 月読の命に、 詔はく汝の命者、 夜之食國これ知らしむ所矣
ツギニ タテハヤスサノヲノミコトニ ノタマハクイマシオホセゴトハ ウナハラコレシラシムトコロゾ
次に、 建速須佐之男の命に、詔はく汝の命者、 海原これ知らしむ所矣
犬と刻印された男がいた。
名前は棚伏雷樹。
5歳の時に父親が病死。10歳の時に母親が年の離れた男と再婚して、その男の養子になった。
養父からは「お前は何をしてやっても喜ばない、可愛げのない奴だ」と言われ続けた。
体が大きくなると、あからさまな嫌がらせが、より激しくなった。ペットの犬のほうが生きる価値があると言われたが、母親は生活のために我慢しろと取り合わなかった。
可愛げがないとはどういうことなのか。
欲しくもないものを押し付けられて、ありがとうを言えという。しっぽを振れと言われても、俺にしっぽはない。
そんな思いを口に出せずに思春期を過ごした。
そして、家では一言も話さなくなった。
ある日、些細なことでけんかになり、男を突き飛ばした。男は警察に通報した。母親が必死に謝り、家族で解決をするようにと警察に言われ、家に戻ってはきたが、男との溝は深まるばかりだった。
雷樹は全寮制の高校に入学した。3年間、家には一度も帰らなかった。
男は母親の手前、大学に行かせてくれたのだが、目的のない雷樹の大学生活は荒れてすさんでいった。
そのうち大学に行かなくなり、仕送りも断たれて、タウンに入った。
そんなとき、興味本位で訪れた宗教団体の教祖から、前世が犬だと言われ、その言葉が頭から離れなくなった。
何をしてもうまくいかなくなり、タウンもやめた。
雷樹はタウンを出た後、しばらくしてホストになった。他愛のない会話で客の相手をしていると、何はともあれ犬ではなかった。
ある夜、派手な身なりの女性客から指名を受けた。その女は、雷樹を犬と言った教団と繋がりのある、向出手という占い師だった。
女は雷樹を覚えていた。
「相変わらず卑屈な目をしてるねぇ。あんた、私の手伝いをしな。いいかい、成功したいんなら人を選ぶんだ。金持ちの金で成功するんだよ。客を紹介してやるから、1ヶ月でここのてっぺん取ってみな。こんなしがないクラブでも、てっぺんはてっぺんだ。それができたら店持たせてやるよ」
雷樹はチャンスだと思った。因縁の相手だと承知で引き受けた。
金は力だと知っていたから迷いはなかった。
雷樹は1ヶ月必死で売り上げを伸ばして、ナンバーワンになった。
気持ち良かった。
何を言われようと、数字が結果を表していた。
ナンバーワンという肩書が客を呼び、半年が過ぎるころには、店で一目置かれる存在になっていた。
そして、そのころには向出手の自宅に呼ばれ、仕事の手伝いをするようになっていた。
そんなとき、ひいきにしてくれる真木という客から、ネットワークビジネスの誘いを受けた。その客に連れられて話を聞きに行った。
まだスタートしたばかりのビジネスだから、旨みが大きいというのだ。
その女性の下に付き、客を連れてくるだけでいいと言う。あとはマニュアル通りに進めれば、自然と金が入ってくるらしい。
向出手の言葉が思い出された。「金持ちの金で商売する」うまくやれば犬じゃなくなる。
雷樹は二つ返事で入会した。
少しずつ客を紹介してビジネスらしい結果が出始めたころ、向出手の別荘で開かれる食事会に手伝いとして呼ばれた。
「お客が5人、私を入れて6人。ホストやってくれ。いいお客だからね、肝据えてやりな」
細かいことは何も知らされずに部屋に行くと、6人と言われたのに、席が7人分用意されていた。
雷樹は丁寧に5人の客を出迎え、席に案内した。
使用人が料理を運んできた。
雷樹はワインを注いだ。
会が始まると部屋を出て、入り口で待機していた。
しばらくして、雷樹は部屋の中に入るように言われた。
にやついた傲慢な顔が並んでいた。
嫌な雰囲気に気後れした。
向出手が正面の席に座るように言った。
見るからに怒りを抑えている顔つきをしている。
俺は何かしでかしたか?考えようとするが頭が回らない。
逃げろと心が言っているが、背を向けられない。
心を無視して体が勝手に動き、雷樹は言われた席に座った。
テーブルには有名な店から取り寄せた料理が並んでいた。
雷樹は息を殺して気配を探っていた。
左隣りの女が雷樹の顔を覗き込んだ。
「姐さん、この人のお料理はないの?」
向出手は無表情のまま料理を口に運んでいる。
「可哀想に、私のお寿司あげるわ。食べて。遠慮しなくても良くってよ」
年齢の分からない女が、一巻の寿司をはでなマニキュアの指で摘み、雷樹のまえのテーブルに投げるように置いた。一同の視線が一気に雷樹を刺した。
雷樹は、黙ったままテーブルに直置きされた一巻のすしを見ていた。
「食べていいのよ、おあがり・・・なさい」
お預け食らっている犬にでも言うようにその女は甲高い声で雷樹に言った。
雷樹の中に残っているわずかなプライドが砕かれそうになっていた。
向出手が音をたてて箸を置いた。
「お前のために分けてくれたんだよ。ありがとう、だろうが・・・食え」
雷樹は背筋の凍る思いを隠し震えている手を握りしめていた。
もう1人の女が天ぷらを持って歩いてきた。
「私もあげる。脂っこいの食べないから」
そう言いながら、天つゆにつけた天ぷらを寿司の上に置いた。
「旨そうだな、俺も恵んでやるよ、ほれ」
左隣に座っていた男が、魚の煮物を重ねて置いた。
「皆さん優しいですね。私も何かあげないと、でもほとんど食べてしまっていて。あ、少し残っていました。よかった」
そう言うと、スーツを着た若い男が汁椀を持って近づき、重なっている料理の上にたらたらとかけた。
「雷樹、お前、客に誘われて仕事始めたんだってな」
突然の切りつけるよな向出手の声に、雷樹の体がぎくりと音を立てた。
「相談もなしにやってくれるねぇ」
雷樹には、向出手の怒りがどす黒く膨らんでいくのが見えていた。
「向出手姐さんを差し置いて、厚かましいわね」
「ねぇ朱雲さん、あの男、私たちの仲間になったつもりなのかしら?」
女2人が口々に雷樹を嘲笑った。
「番犬ごときが仕切れるはずもないことに手を出して、身の程を知れ」
一変した冷ややかな向井手の声に、雷樹は得体の知れない恐怖に襲われていた。
テーブルの上に流れた汁が、雷樹のズボンに垂れてきた。
雷樹は縛られてもいないのに、身動きできなかった。
震えることも許されない状況に耐えるのに必死だった。
「汚いわね、早く食べなさいよ」
白峰という女が箸で寿司のネタをつまみ、雷樹の顔に向けて投げた。
雷樹はそれを避けることさえできなかった。
笑い声が遠のいていく。
雷樹は何も感じなくなっていた。
そんな中、ひとり笑わずにいた厳しい表情の男が口を開いた。
「百合さん、もういいじゃないか。見てるだけで気分が悪い。早く退席させろ」
土屋に百合さんと呼ばれた向出手の態度は別人のように優しい物腰に変わった。
「そうだね、土屋さんのおっしゃる通りだ。楽しい見世物じゃないね、気分の悪くなる面だ」
「まだ食べてないわよ。姐さん、ちゃんと・・」
そう言いかけた白峰は土屋の視線に気づき、次の言葉を吞み込んだ。
「そうよ、もういいじゃない、残飯はさっさと片付けなきゃ」
朱雲がそんな様子に笑うのをやめ、機嫌を取るような作り笑いを土屋に向けながら、向出手に同意を求めた。
「堂本さん、片づけてくれ」
向出手に言われ、堂本と言われた男が雷樹の腕を掴み、部屋から引きずり出すと、唾を吐きかけドアを閉めた。
「あれは尻尾巻いて逃げていく臆病な犬だね、面白いわ」
笑い声の中の朱雲の放った犬という言葉が、雷樹の心に残っていた微かな輝きを消し去った。
翌日、雷樹は起き上がることができなかった。
何があったのか、家に帰り着いたことさえ思い出せなかったが、ぶずぶずとした屈辱の夜の記憶が、犬の文字の中に消えていったことだけが残っていた。
雷樹は自分自身を消し去りたい衝動に駆られながらも、背を丸めうずくまっていた。
それは痛手を負った獣が、本能のまま生きることを諦めずに耐えている姿だった。
食欲もなく臥せていたが、寝ていても頭の中でごわごわと何かが音を立ててうごめいていた。
店を休んで3日目にようやく起き上がり、冷えた水を飲んだ。
スマホに店からの連絡が来ていた。店長には向出手からの情報が入っているはずだった。何を言われているか想像がついた。
このまま仕事をやめようと思っていた雷樹は、無視して連絡も入れずスマホの電源を切ろうとした。
LINEの軽い音がした。
懐かしい名前が表示されていた。
タウンにいた頃、可愛がっていた後輩からだった。
雷樹は佐佑にという名前を、焦点の合わない目で見ていた。
表示が消えると、雷樹はLINEを開かず、スマホの電源を切った。
翌日、向出手から電話があっても無視した。
恐怖で括られた雷樹は出ることができなかったのだが、無視をした報いを夜には受けることになった。
無視をしたことで、向出手の怒りは頂点に達していた。
雷樹は向出手の事務所に連れていかれた。
防御本能のため雷樹が消しさっていた屈辱の夜がよみがえり、震えを止めることができなかった。
向出手が仕事部屋から出てきたが、雷樹は顔を上げることができなかった。
事務員がコーヒーを持ってくると、向出手と2人になった。
向出手は不気味なほど静かに雷樹を見ていた。
雷樹は、許しを願う言葉を言わなければと分かっていたが、思いつかなかった。
焦る雷樹は足元に何かを感じた。向出手の杖が足先に触れた。その感覚はじわりじわりと首元まで迫り、無理矢理に顔を上げさせた。
その先には、目を細めて愛おしそうに雷樹を見ている向出手がいた。
予想外の穏やかな表情に、雷樹はうつむいて一層身を固くした。
「まあコーヒーを飲みなさい」
雷樹はコーヒーに手を伸ばしたが、手の震えがカップに移りカタカタと鳴った。
「まったくこの子は、世話の焼ける子だ。たったあれくらいのことで拗ねちゃって。あいつらも少し遊び過ぎたけど。店も、ナンバーワンに休まれちゃ困るって言ってるしね、そろそろ出てやんなさいよ。あんたは私が見込んだ子なんだからね。大きな夢があるんだろ、こんなことで負けてどうなるの・・・まあ、明日からでも店に出るんだよ」
向出手の言葉は、雷樹を落ち着かせるのに十分だった。
「ネットビジネスやりたきゃ、私の下に付けばいいからね。これからは何事も相談して動くんだね、分かったね」
向出手は事の起こりを許してはいなかった。その言葉で、飼い主と従順な飼い犬の関係が成立した。
手の震えは止まり、コーヒーに口をつけてみたが、味がしなかった。
苦みさえも感じないほど、本能が雷樹の心の感覚を殺した。
翌日、雷樹はナンバーワンとして、お客の相手をしていたホストという役を演じることは気楽に思えた。だが、演じ続ければ続けるほど、てっぺんにいるのになぜか敗北感に襲われた。
飛び込んだところは地獄だった。地獄なら耐えてみせる、そう思っていたナンバーワンの雷樹を、残飯を食わされ、汚物にまみれた雷樹が引きずりおろした。
それでもなお、雷樹は矢の刺さった闘神のように起きあがっていた。
そんな中、ある夜雷樹はネットビジネスに誘った真木の席に呼ばれた。
そこには、雷樹を追い落とそうと躍起になっているホストの聖がすでに付いていた。
「雷樹、ここ座って」
真木からの久しぶりの指名に雷樹は動揺を隠し、横に座った。
真木の腰に手をまわしている聖の顔が妙に、にやついていた。
嫌な予感を振り切り横に座ると、間を置かずに真木が雷樹の耳元に顔を寄せてきた。
「あなた、お金持ちのどなたかの番犬なんですってね・・・ふふふ・面白い・・・」
雷樹は一瞬かっと目を見開いたが、すぐに目を細めて真木に顔を近づけると、囁いた。
「そうですよ・・・僕は素敵な方の番犬になるのが好きなんです。お金持ちの大物は特に大好きです。でも・・・あなたの番犬にはなれないな・・・あなたは貧乏だから」
真木は雷樹の切り返しに唖然とし、体を引き、訴えるように聖を見た。
「雷樹、お前な・・・」
「聖、お前なら真木様とお似合いだよ。真木様、こいつをお願いします」
皮肉めいた物言いで、立ち上がりかけた聖を抑えた雷樹は薄ら笑いを浮かべて席を離れた。
その夜、店で番犬呼ばわりされているのを知った。
「どうせ俺は犬だ・・・」
どう足搔いても開き直れない自分の弱さに嫌気がさした。
その夜の精一杯のはったりに疲れ果てた雷樹は、家に帰るとすぐにベッドに潜り込んだ。
だが、目を閉じても瞼に様々な映像がフラッシュバックして、雷樹のイラつきは収まらなかった。
LINEの軽い着信音が瞼の映像を消した。
佐佑とあった。
「あいつ・・・しつこいな・・・」
雷樹の表情が緩んだ。
先輩元気すか?
今度遊びませんか?
佐佑、元気だよ
今は何してんだ?タウンにいるのか?
雷樹は佐佑とLINEでやり取りをするうちに自分を取り戻していた。
佐佑は会って話がしたいという。次の休みに会うことにした。
息を吐くと苦々しさが薄れ、大きく吸うとイラつきが消えた。
タウンをやめて半年が経っていた。
他愛のない佐佑との日々を思い出すと、今の悩みはどうでもよくなった。
佐佑は、友達になった上司と旅行に行ったことを、面白おかしく伝えてきた。
話の中で、父親のことをくそ親父とけなしていたが、そんな親子関係が羨ましかった。
佐佑と話した後、雷樹は自分の父親に思いをはせた。
誕生することを、生を受けるという。
それは誰が誰に与えるんだ?
それを受けるのは誰だ?俺が受けたのか?
こんな惨めな情けない生きざまを見て、犬と呼ばれる俺を見て、父親が生きていたら何て言うだろう。
「・・・・・」
答えのない自問自答の苦しさに、雷樹の目には涙が浮かんでいた。
悔し涙?思慕の涙?
雷樹は想像以上にダメージを受けている自分に気づいた。
誰も俺のことを犬じゃないと言ってくれない。
雷樹の中に再び犬という字が膨れ上がった。
それ以降の雷樹は、ホストとしての客への気遣いや、しゃれた会話もしなくなり、毎日酒をあおり、酔いつぶれるまで飲み続けた。それでもなお、犬という字を意識から消せなかった。
そして佐祐と会う約束の日になった。
雷樹は午後1時を過ぎても、ベッドの中でだらだらとスマホの動画を眺めていた。
迷っていた。
今の俺は犬のままだ。
でも誰かと話がしたい。
犬の俺を知らない誰かと会いたい。
踏み出せない雷樹は両手で顔を覆った。
突然、両手が急激に熱くなった。
両手を見た。
燃えるように熱くなった手のひらが、以前公園で出会った男の手を思い出させた。酔っていて、記憶になかった男の手を鮮明に思い出していた。
あのとき、権力を手にすると誓ってからどんな屈辱にも耐えてきた。
だが、憧れた権力を持つ奴らはクズだった。
あんな人間になりたくて、俺は頑張って生きてきたのか。
「違う、違う・・・」叫んだ。
犬と言われた俺を、楽にしてやると言ってくれたあの男に会いたかった。
あのときに戻れたらと雷樹の心がうめいた。すると手のひらが記憶していた、あの男の温もりが、全身に広がっていくのを雷樹は感じた。雷樹の記憶にない父親の声が、血流に乗り全身に響いた。
「負けるな。立ち上がれ」雷樹は閉じていた瞼をゆっくりと開き、布団の中で伸びをすると、突き上げた両の手のひらを見た。
「父親の存在は俺の中にある。俺は犬じゃない」
そして、雷樹は父の温もりを両の拳に握りしめて、佐祐との待ち合わせ場所に向かった。




