立の章 開 ~運命~
人々の日常の中にある別れは、いくつもの顔を持つ。
不条理な別れ、置き去り。
母親の後ろ姿が遠ざかっていく。
母親は、何も言わずに振り返りもせず、黒い霧の中に消えて行った。
置き去りの後すとんと幕が下り、すべてが終わる。待てども次の演目は決して始まらない。
次の場面は、身動きの取れない状況に置き去りにされた主人公が、その非情な現実を受け入れ、見知らぬ舞台でひとり生きようと立ち上がったとき、幕が開く。
あのとき、幼い奈留瀬佐久馬には、自分の身に起こったことが理解できなかった。
母を追うことも出来ず、その場を動かずに、戻ってくる母をひたすらに待った。
しかし母が戻ることはなく、保護されたときのその手には、三千円の現金が握らされていただけだった。今まで、自分を捨てた母親の顔も忘れ、置き去りにされたことも思い出すことはなかった。
だがあの満月の夜、手を払いのけて去って行った、ルナという女の後ろ姿に、薄情な母親を思い出した。
母の顔は思い出せないのに、置き去りという辛い記憶だけが鮮明に甦った。
それ以来、奈留瀬は酒浸りの空虚な日々を送っていた。
東の空に夜の始まりを静かに告げる白月が浮かぶと、その夜も奈留瀬の足は新宿に向かった。
その月は眩い街の空に、透明な姿で浮かんでいた。
その中にルナがいた。
儚く切なく果てしなく、遠くにルナがいた。
ルナの後ろ姿を追えなかった満月の夜、突然の拒絶に、手を取ることもできなかった。
別れの理由さえ、未だ分かっていない。
奈留瀬はルナに尽くした。
ルナためにすべてを捧げ、2人の時間を永遠に守ると誓っていた。
なのにルナは、過ごした時間がなかったような態度で去って行った。
薄暗いスナックの時計が午後10時を回っていた。
手に持ったワイングラスの中で、赤い液体が揺れていた。
酔った奈留瀬の脳裏に、女の足で揺れるプールの水面が現れた。
その揺れは奈留瀬に何かを告げていた。
「なんだ、何なんだ」酒の酔いが奈留瀬の思考を阻む。
揺れが大きくなった。女が何か言っている。
そのとき、入り口のドアが開き、冷気とともに堂本が入ってきた。
「やっぱりな、ここだと思ったんだよ。藤代・・いや奈留瀬社長、ちょっと付き合え」
堂本は半ば強引に、奈留瀬を外へ連れ出した。
「うるせぇ、ほっといてくれ」
唸るように言った途端、頭の中の女が消えた。渦を巻くように頭痛が襲ってきた。
「面白いとこへ連れてってやっから。毎晩、毎晩、飲んだくれて、何があったか知らねぇけど、あんたらしくねぇな・・まったく」
「なんか、やめろ・・・うるせぇ」
堂本は嫌がる奈留瀬にはお構いなしで、強引に歩き始めた。
足のもつれる奈留瀬に肩を貸し、しばらく歩くと、きらびやかなビルの前に着いた。
奈留瀬は場所を確かめるようにビルを見上げ立ち止まったが、酔いには勝てず、堂本に連れられ中に入った。
堂本が受付を済ませている間、奈留瀬はぼんやりとワインの揺れを思い出していた。
「俺に何が言いたい」奈留瀬は、そんな自分を狂っていると思った。
「あの女を愛してしまったときから、狂ってしまったのかも知れない」あの香りに出会ってから、そうだ、狂おしいほど愛してしまったんだ。
片ときも離れたくなかった。
離したくなかった。
だが、そんな俺をあの女は置き去りにした。
一言の別れの言葉もなく、一瞥もくれず去って行った。
奈留瀬の酔いは急速に冷めていった。
「奈留瀬、行くぞ。2階だ」
そう言うと劇場の2重扉の入り口を通り、大きな螺旋階段を上り、VIPROOMと書かれている部屋に着いた。
「堂本さん、俺は遠慮する。今、女には興味ない」
「何言ってんだよ、いい女が魅せてくれるんだぜ、ここの女も頑張ってんだ。見て褒めてやんねぇとな」
堂本はにやりと笑い、部屋に入った。
部屋は個室で、ガラス越しにショーが見れるようになっていた。
「早く入れ、いいところ見逃すぞ」
「顔、洗ってくる」
「おお・・急げや」
堂本の返事を聞き流して、奈留瀬は洗面所の鏡の前に立った。
酷い顔をしていた。こけた頬に濁った目。顔を洗い、髪を撫でつけたが、虚無感は隠せなかった。
部屋に戻ると、華やかな女性を乗せた山車が、目の前を通るのがガラス越しに見えた。
「何やってんだ、早く来い、終わっちまうぞ」
奈留瀬は投げやりにソファーに座り、氷の入ったグラスに手を伸ばした。
そのとき場内に、「今日の頂点、衣通姫は月姫」とアナウンスが流れた。
奈留瀬の目の前を通る月姫が、顔に当てていた仮面をゆっくりと外した。
月姫と目が合った。くぎ付けとなったそこには、あの女がいた。
立ち上がった奈留瀬の視線は、再び仮面に遮られた。
「堂本さん、ここは何なんだ?あの女達は何をしている?」
「さっき話したろうが・・・まあ座れよ。酔っぱらって聞いてねぇんだな」
「すまん」
「謝るこっちゃねぇ。まあ飲もう」
堂本はにやにやしながらハイボールを作って、奈留瀬に渡した。
奈留瀬が座ると、少し自慢げに話し始めた。
「ここは会員制のマッチングクラブってやつだ。1か月に1回、衣通姫ってやつを選ぶんだ」
堂本は飲めと奈留瀬に促し、自分も一口飲んだ。
そして、このクラブのシステムを長々と話し始めた。
「それでどうしたら女は手に入るんだ?」
「なに?なんだ、気にいった子がいたのか?」
「いいや、聞いただけだ」
「山車に乗っている子は、ポイントを満たせば交渉できる。簡単に言えば、金を出してポイントを買えば済む。ただ相手が承知しなければ、交渉成立とはいかない」
堂本はまた一口飲み、つまみに手を伸ばした。
「それで?」
先を話すように奈留瀬が催促した
「それで?」
堂本は奈留瀬の意外な反応に聞き返した。
「山車のてっぺんにいた子は、今日をもって終わりの子さ。華の華姫、雪の雪姫、月の月姫この3人は桁が違う。VIPにしか交渉権はない。まあ、今日が最後ということは、必ず誰かがものにする、ということだがな」
堂本は探るような眼で奈留瀬を見た。
奈留瀬はグラスの氷をカラカラと鳴らしていた。
残りを一気に飲み干して、ふぅと吐いた。
「あの女を手に入れて欲しい」
「あの女?」
「月姫とか、言ってたな・・・」
「突然何言いだすんだ?」
「金は出す。なんとかしてくれ」
「おいおい、山車のてっぺんの女は特別なんだぞ。簡単には行かんだろうな」
奈留瀬の申し出に半ば呆れたように、堂本は諦めろと手を振った。
「何か訳ありなのか?あの女」
「・・・あの女、月姫とやらで金儲けができるってことだよ」
奈留瀬は計算高い顔を堂本に見せた。
「へぇ、金儲けか。・・・よし、任せとけ。ふぅん、奈留瀬社長の顔に戻ってら・・・金儲け、金儲けと・・」
堂本は機嫌よく部屋を出ていった。
奈留瀬は愛と憎しみの狭間で、あの女への想いを持て余していた。
そんな奈留瀬の前に「離れないで側にいて」と言っていたあの女が現れた。
月姫という女は、あの女ルナに似ていた。
あの女を手に入れる。
奈留瀬はグラスの氷を揺らして、焦る気持ちを紛らわしていた。
グラスの中に、おぼろげながらに見知らぬ女が現れ、何か言っている。
音のない言葉が刺さった。「あ・な・た・が・こ・ろ・し・た」奈留瀬は眩暈がした。
「あの夜に、記憶が・・・戻った。海に沈んだ昇のこと、俺が藤代だということ、すべてを思い出したんだ、だからこそのあの別れ、あの後ろ姿、すべてが終わっていたんだ」と奈留瀬は絶望の叫びをのどの奥で押し殺した。
冷静に考えれば簡単なことだ。
あの女の記憶が戻ったとき、目の前にいたのは怯える日々を支えた奈留瀬ではなく、愛した男を殺した憎い藤代だったのだ。
あの香りを追い詰め、愛する女を失ってしまった藤代という男の生き方に嫌気がさし後悔したとき、藤代という男と違う生き方を求めて、本名の奈留瀬佐久馬に戻っていた。
記憶を失ったあの女に、再び出会った奈留瀬は、その手を取り、愛おしい香りに包まれるたびに、忌まわしい記憶が戻らないことを願い、たとえ戻ったとしても、この手で支え、愛で包み、尽くせば過去の男に勝てると思っていた。
「こんなにお前を愛しているんだ。振り向いて俺を見てくれ」
あの時点で、奈留瀬の悲痛な叫びはどう足掻いてもあの女には届かず、もう一度やり直せるという一縷の望みは消えていたのだ。
奈留瀬はスマホを取り出し、確かめるように月の姫を検索した。
満月の夜、湖畔に佇む後ろ姿のルナが出てきた。
堂本の足音が聞こえた。
ルナの画像を消した途端、タブレットを手にした堂本がドアを勢いよく開けて入ってきた。
「おい、どうする?最低1000ポイントだそうだ。1ポイント、10,000円ってことだが・・・」
「・・・」
返事をしない奈留瀬の横に堂本はどかっと座った。
「奈留瀬さんよぉ・・・どうした?」
「・・・どうでもいい・・・」
「あん?金儲けだろう?まあな、手に入れるのは難しいな、リスク高いから止めっか」
「難しいのか?」
「月姫を押している客が4人いるらしい。筆頭が4000らしいから、月姫も金に転ぶだろうしな、一か八かで賭けたとして、負けたら半分は戻ってこねぇって話だ」
「ほう・・・なら勝てるわけはないってことだな、1000くらいじゃ」
「月姫次第ってこともある。月姫が金に執着がねぇ女だったら、チャンスはあるけどな」
ようやく顔を上げた奈留瀬に、堂本はあらためて説明を始めた。
「名乗りを上げた客は4000ポイント、3000ポイントが2人、あと2500ポイントが1人、月姫は上の客から顔見世をする。決まれば金を会社と折半する。だからエントリーすれば、会社の取り分は返ってこないってことだ。まあ別の女に乗り換えるって方法もあるらしいが、それはあんたにゃ必要ないだろう」
奈留瀬は空になったグラスをテーブルに置いた。
「負け勝負をするかい?今なら止めれるぞ。無駄なことは止めだ。このタブレットに入力してあるから、キャンセルすりゃあいい」
「負け勝負・・・なのか、ふん、顔も見ずに引き下がれるか」
奈留瀬は空のグラスに氷を入れ、ハイボールを作った。
炭酸の弾ける音とともに、別れの理由を考えて苦しみ続けた日々を飲み干した。
冷たく苦い思いがグラスの底に残った。
「しかし、素性の分からん女だぞ。いいのか?」
「必要経費だ」
グラスを置いた奈留瀬は、事もなげに言った。
「おぅ、本気だな、じゃあ契約すっぞ」
眼下に繰り広げられているショーを感情のない目で見る奈留瀬は、冷酷で計算高い藤代に戻っていた。
あいつらは一方的に契約解除通知書を送ってきた。文句があるなら弁護士に言え、と言ってきた。あいつらがひと言、あの女の記憶の回復を教えてくれていたら、こんな思いはしなかった。許しを得る機会さえ奪い、地獄を味わった。
思い出すうちに、奈留瀬の目は残忍な光を帯びてきた。重なる恨みは倍にして精算してもらおう。
「あいつらを叩きのめして、あの女ごと乗っ取ってやる」
奈留瀬は呻くように言いながら、堂本から受け取ったタブレットの契約書にサインをした。
2人は眼下のショーを観ながら、結果を待つことにした。
しばらくすると、3つの山車のてっぺんの姫と呼ばれる3人の女が消えた。
二巡すると、その下段にいた9人の女が消えた。
残された女達は周りの客に向かい、さまざまにアプローチを始めた。
少しでもポイントを稼ごうとする必死な様子に、奈留瀬の顔が嫌悪で歪んだ。
気を晴らそうと空のグラスに氷を入れていると、タブレットにメッセージが届いた。
ゆっくりと開いた。「月の姫、筆頭者と契約終了」とあった。
「やっぱりな、金は半分パーだぜ」
横から覗き込んだ堂本が悔やむと、奈留瀬は薄ら笑いを浮かべ、未練なく立ち上がった。
「堂本さん、いい弁護士がいたら紹介してくれ」
「弁護士か?何すんだ?」
「不当解雇で訴えるのさ」
「ここの会社をか?」
「いいや、WOMプリンセスコスメをだよ」
奈留瀬は堂本を待たずに部屋を出て、しばらく人任せにしていた会社へと向かった。
その別れは悲しみを包み隠し、静かに届けられる。
遺書、死の決意を伝える物。
受け取りの拒否はできない。
開けば未来を拒絶した文字が、悲しみの色を帯びて並ぶ。
受け入れるしかない言葉が綴られている。
一言一句が己の無力を知らしめ、生き様を打ちのめす。
母親の依頼していた結果が出たとの連絡を受けて、由宇子は大学に出向いた。
しかし神盛教授は休まれていて、聞けば娘さんが亡くなったという。
その日は結果の書類だけを受け取り、帰宅した。
年が明け、由宇子は何回か神盛教授を尋ねたが、体調が悪いとの理由で会えずにいた。
そして1月も終わりの頃、神盛教授から連絡があった。
自宅に伺うと、真っ白いクロスのかけてあるテーブルの上に、娘の奈穂の写真がポツンと置いてあった。傍らに教授あての手紙。由宇子は周りを見て、供養をした様子が見受けられないことを不思議に思った。
いつも飄々とした風貌の神盛教授は、見る影もなく憔悴しきっていた。
「今日は来てくれてありがとう。・・・由宇子君、娘の話を聞いてくれるか?」
教授は由宇子に椅子に掛けるようにすすめながら、ため息交じりに娘さんの写真の前に座った。
そんな教授が辛そうに奈穂のことを話し始めた。
娘の奈穂さんは若い頃に、とある宗教団体に入信して、以来連絡を断っていた。
入信の理由ははっきりとしないが、教授は、奈穂を出産して逝ってしまった母親のことがきっかけではないかと話した。
成人式の日の日記に、「私が生まれなければ、お母さんは死なずに済んだのに、20年も生きてしまった。お母さんの命を踏み台にして、のうのうと生きている私。・・・罪深い」この言葉を最後に日記は途絶え、その1か月後に奈穂さんは教授の元から姿を消した。
2年経った頃に、一度連絡があった。
やりがいのある仕事をしているから心配するなと言ってきたが、その一方で、一緒に居たいから教団に入信してほしいと勧誘してきた。信者になればいつでも会えるという。落ち着いた穏やかな口調だったが、精神的な隔離を感じたと言う。
教授は何度も連絡をし、奈穂さんが住むと思われる場所に出向きもしたが、本人の意志という理由だけで、面会を拒否され続けたらしい。
それ以来、盲信、洗脳、カルト、脳裏に巣くったおぞましい言葉が、教授の娘への愛情を蝕み、諦めへと変えていった。
20年が経ち、どこであろうと娘が穏やかに過ごしていればいい、生きてさえいてくれたらそれでよいと、気持ちを抑えてきた教授の元に、突然、鹿山という弁護士から、奈穂さんの死亡診断書が送られてきた。
そして、死後の処理はすべて教団に一任する、とのサインのある書類が添えられていた。
奈穂さんの生死を確かめるすべはなかった。
何度も弁護士に連絡をしたが、「すべて神盛奈穂さんのご遺志でした」との一点張りで、詳しい説明はなかったという。
話が進むにつれ、教授の顔は父親の顔になり、娘への注ぐことのできなかった愛情が後悔の念の中に滲んできた。
死亡通知が届いて2か月後、うつろな日々を送る父親に、逝ってしまったはずの娘から手紙が届いた。父親は震える手で開封した。
その手紙には、神様の下でとても幸せだったと書かれており、文面からは辛さや苦しさは感じられなかった。そして細い紙縒りで束ねた髪の毛が同封されており、それは娘が別れを告げているのだと父親は天を仰いだ。
差出人の名前に、生きているという喜びを感じたのも束の間、父親は再び娘の死を突き付けられ、向き合わなければならなかった。
父親に残されたものは、別れの手紙と一束の娘の髪。会うことも話すこともかなわず、引き裂かれ、死に際に手を取ることもできなかった。父親の胸に去来するものは、親子という現実を手放してしまったという後悔だった。
教授は白い紙に挟まれた髪を手にしても、到底娘の死を受け入れることはできなかった。
写真を前に二十歳の娘に何度も問いかけた。
奈穂、幸せだったのか?
奈穂、本当に穏やかな人生だったのか?
奈穂、死を覚悟していたのか?
奈穂の求めた幸せは何だったんだろう。
「今の私には、奈穂の20年間を確かめるすべはない」
ひと通り話し終えたのか、教授は娘の書いた封書を手に取り、奈穂さんが書いたであろう自分の名を眺めながら、深い諦めのため息をついた。
「この中には手紙と髪の束が入っていた」
由宇子は何か胸騒ぎがした。
うつむいて話を聞いていたが、思わず顔を上げると教授と目が合った。
教授の表情には静かな怒りが見え隠れし、その中に研究者としての厳しさが戻っていた。
「奈穂の死は、いや、人生は不自然そのもの。私は納得できない。奈穂が何をしていたのか、なぜ死んだのか、はっきりさせたい。今さら何をしても取り戻せない時間だが、せめて娘が、奈穂が私に託した理由を明らかにして、娘を見送りたい」
弔いをしていない理由が、教授にはあった。
託されたもの?教授に由宇子は無言で問いかけた。
教授は手にしていた封筒を逆さに振ると、コロンと1錠の薬が教授の掌の上に転がり落ちた。
由宇子は「うん?・・・」と錠剤と教授を交互に見た。
掌にある1錠の小さな粒。
封筒から髪の毛の束が見えている。
「私は二十歳の奈穂の顔しか思い出せない。20年たった奈穂が、どんな姿になっていたのか想像できない。だが、それでも私は奈穂の父親だ。一束の髪、奈穂が私に送ってくれたもの。別れの儀式ではない、別の意味があると思う。奈穂の本当の意志がこの手紙に、髪の毛と一粒の薬に隠されていると確信している。髪の毛と薬は私が調べる。奈穂が入信していた教団のことを知りたい。由宇子君、君に手伝ってほしい」
そして教授は、天野卯月という人物のことを聞いてきた。卯月のことは、若狭の件で手伝ってくれている友人だと話したことがあった。
教授は薬、教団、娘の死の真相を明らかにするために、由宇子と卯月に協力を求めていた。
そして由宇子は、卯月に渡すために神盛教授から手紙を預かり、帰宅した。
卯月は教授の協力依頼を断らないだろう。「でも何か・・・怖い」由宇子は持ち帰った死者からの手紙を手にして、卯月を巻き込んでしまうのではと、連絡を取るのを躊躇していた。
「卯月ならきっと正しい判断をする」由宇子はスマホを手に取った。
卯月に連絡したが、しばらく忙しいとメールが届いた。
2月のはじめ、ようやく時間が取れ、待ち合わせをしたが、卯月に急用ができたらしく、宮崎の仕事が終わったら連絡をすると約束した。
スマホを片時も離さず卯月の連絡を待っていた由宇子は、日が経つほどに気持ちが沈んでいくのを意識していた。
若狭の不自然な死と薬。「伊江谷の薬の仕様書が分からないと動けない」
20年前の謎の病気と母親の皮膚片。「異常な症状は明らかなのに、検査結果は異常なしなんておかしい」
奈穂さんの薬と死の謎。預かってきた手紙。「何から調べるの?」
ひとつずつを拾い上げて考えてみたが、結論は出ていた。
若狭は摂食障害を起こして衰弱死した。20年前の謎の病気は完治している。そして奈穂さんも病死だと診断されている。今さら私に何ができるというのか。
「立ち往生してる・・・菌ちゃん、私の常在菌達、お願い、はやく卯月に会わせてよ」
由宇子は背中を丸めパソコンの画面に向かい、ぶつぶつと独り言を言いながら、卯月の連絡を待っていた。
しかしその日も時間を持て余し気味の由宇子を尻目に、ゆっくりと夜は過ぎていき、卯月の声を聴くことなく眠りについた。




