立の章 開 ~運命~
2月に入り、高千穂は悪天候が続いていたが、春を告げる祭りの当日は雨が上がっていた。
卯月は編集長の熊野とともに、神楽の衣装の取材に同行していた。ほとんどが観光のようなもので、頭の整理をするのにちょうどいいと、ついて来たのだった。
高千穂に着くと、天照大神を祀っている神社にお参りし、天安河原に向かった。
整えられた道を下って行き、橋を渡ると、少しずつ幽玄の世界へと変わっていく。
幾重にも積み上げられた石の塔を足元に見ながら進み、歴史を刻む鳥居をくぐり、知恵の神様と言われる重金の神に手を合わせた。
すると卯月は、人1人が通れるほどの狭いお社の脇に入り、後ろに回った。昨夜泊まったホテルのご主人が、瀬織津姫という重要な神様が祀られていると、教えてくれていた。
汚れを祓う神様らしい。
熊野もあとに続き一緒に手を合わせた。
2人は1900年前に創建されたという神社に着くと、手を繋ぎ3回まわると、縁が結ばれるという夫婦杉の前に立ち、その御神木を仰ぎ見ていた。
「卯月と結ばれてもなぁ・・・」
「先輩、友達同士でもいいんですよ」
「止めとこう。次の機会に取っておこう」
「え?次の機会って」
名残惜しそうな卯月の手を引き、熊野は高千穂峡に向かい、歩き出した。
鬼八の力石、眞井の滝、柱状節理の仙人の屛風岩を観光した。
そして3時過ぎには、稲を刈り終えた棚田が広がるのどかな景色を満喫しながら、神楽が舞われる公民館に着いた。
準備中らしく、観光客の姿がまばらな神楽宿の公民館には、その象徴として、屋根に弓矢と山冠・立冠・横冠の3本の御幣が棟飾りとして設けられ、竹の器に神酒を注いだ「かけぐり」が供えられ、また庭には「山」と呼ばれる一間四方の外注連が設けられていた。
そして神楽が舞われる中央の部屋「おもて」には、二間四方の内注連「神庭」が厳かな雰囲気を醸し出す。神々は天に近い山に降臨し、注連を伝わり、「神庭」に舞い降りるという。
古来の神事形態の中で神楽は、奉仕者の意味でほしゃどんと呼ばれる舞手によって、奉納される。
そんなことをメモしながら取材していた卯月は、忙しそうに食事の用意をしている女性に声を掛けた。
「何をしているのですか?」
「道行神楽の人たちが帰って来るので、ご飯の準備をしているんですよ」
「道行神楽って何ですか?」
「氏神様を神楽宿にお連れするんだよ」
「氏神社はどこにあるんですか?」
女性は、卯月たちが下りてきた道の方を指差し、忙しそうに仕事を続けた。
わざわざ来たのだから、何ひとつ見逃すものかという記者根性で、卯月は神楽宿を出ると、外で村人と話している熊野を誘い、指された方に向かい、足早に歩き出した。
しばらく歩いたが、見渡しても神社らしいものは見えない。
すれ違った高校生に尋ねると、親切に案内をしてくれた。
町の中心部から入ってきた道路を横切ると、大きな鳥居があった。
「あらあ、登るわねえ」
鳥居の先の整備された上り坂を見て、熊野は立ち止まった。
「見えませんね、神社。でもここって編集長の神社でしょ、行きましょ」
と言いながら、卯月は歩き出した。
参道らしき道沿いには、高千穂の人々の生活があった。
「すごいね、生活の中に神様がいるんだ」
卯月は呟きながら、坂道を楽しんでいた。
車が熊野を追い越して行った。
「天野、ちょっと待ってよ。休憩しよう」
しばらくして熊野が止まった。
少し先を歩いていた卯月は、その声に立ち止まった。
卯月の前には木々がかぶって、暗くなっていた。
「まだまだですかね。あれ、車が下りてきましたよ。きっともうすぐですよ」
追い着いた熊野に、行き先を見上げて、ため息をついた卯月が告げた。
「今度は階段です」
たどり着いた目の前には、80段はありそうな急な石段が待ち構えていた。
「今日は歩くわね。つくづく思うけど、昔の人はすごいよね。神様のためとはいえ、この石段を造って、ことあるごとにお参りしてきたんだから」
ほうと息を吐いた熊野だったが、上から何やら音が聞こえると、萎えた気持ちは消え、卯月を追って石段を上り始めた。
上りきると、目の前にお社が現れた。間口はそう広くなく、閉じられた扉の向こうで神事が行われているようだ。2人は、神事の終わりを左手の広場で待つことにした。
氏神社で神迎えの神事を終えると、道行き神楽は始まった。
熊野神社からの道行き神楽、総勢50人ほどのほしゃどんの後ろを、小学生が3人で神輿を担ぎ、石段をゆっくりゆっくり下りて行く。
急な石段を、まだ幼さが残る男の子が神主に見守られ、大切な神様を里へ運ぶ。
小さいときから神事の核となるところを任せられ、全うすることで、神の存在は特別でありながらも、身近な存在として、生活の中に溶け込んで行くのだろう。
卯月は、神を感じるとは、超自然的なものではなく、神と向き合う時間に、それぞれの中に湧き上がることを意識することなのかもしれないと思った。
一切を祓い、その時に身を置けば、きっと生きることの意味が見える。
日本の神様が八百万の神々として、すべてのものに宿るというのは、空も、森も、私たちにその時間を与えてくれるからかもしれない。
道を練り歩く人々を追いながら、卯月は生活の中にそういう時間を持つ、高千穂の人々を羨ましく思えた。
小雨の降る中、お神輿の行列は神の道を標す、道注連の張られた村道を練り、祭場の神楽宿に着いた。そして道行神楽の一行は、準備された山の周りを踊りながら周回する。神々に奉げる踊りは少し前かがみで、膝を曲げ、前後左右に揺れながら、棒や刀を優雅に回し、扇を反し、ゆっくり進む。
笛や太鼓の繰り返しのリズムは、雨を含む雲を貫き、神々にその始まりを告げているようだ。
そのあと、準備されたふるまいと呼ばれる軽い食事を取ったほしゃどんは、高千穂で行われる最後の神楽夜33番に臨む。
夕方5時半、いよいよ神庭に八百万の神々をお迎えする、御神屋ほめ(みこやほめ)が始まった。
卯月と熊野は神妙な顔つきで、用意された白い座布団に座り、神庭のなかで行われる神楽を観ていた。
いよいよ神楽夜33番が奉納される。神楽1番は彦舞。
猿田彦の神が登場し、不浄を払う舞らしい。
徐々に、一夜氏子と呼ばれる観光客や、村人が増えてきた。
正座をしていた卯月が、周りを見渡しながら足を崩したとき、奥の入り口に見覚えのある大柄の男を見つけた。
それは卯月の手帳を拾い、届けてくれた男だった。
村人と話している。別れ際の腹立たしさが思い出され、神楽のほうに目を向けた卯月の気持ちに、構うことなく神を迎える神楽は粛々と進められた。
一方、成彦は大柄な身体を屈めて、神楽宿に入った。入り際に、派手な格好の2人連れのひとりが天野卯月なのに気付いたが、重兼智に促され、そのまま村の重鎮、髙木千尋翁の隣に着座した。
重兼智。旧知の友と呼ぶにはそれほど知っているわけでない。だが、成彦にとって、信頼できる友と呼べる人物だ。
夜通しの里神楽を観なければ悔いが残ると、赴任最後の年の重兼が成彦を誘ったのだ。
忙しいと一旦断った成彦だったが、宮崎という土地に気持ちが動いた。
12月の雪雨の中、雄介に昇のことを聞くことをしなかった成彦だったが、宮崎での昇の大まかな足取りは分かっていた。
昇の事故は秀の事故と重なり、成彦はしばらく喪失感を埋めることはできなかった。
しかし、絵を描く秀の姿に、感傷的なことは消えて、運命に従うことも選択肢の中にあると考え直した。
そう考えれば、突然の昇の死も、運命という厄介なものに踊らされた結果なのかもしれない。
昇の足取りを辿ってみようと思った成彦にとって、重兼の誘いは宮崎へ出向くきっかけになった。
成彦は昇が乗船したフェリーで志布志まで行った。
その日の海は荒れていたが、フェリーの上から眺める志布志湾は穏やかに見えた。
霧島連山の麓のホテルに宿を取った。
1年前、何があったのだろう。
遊びのつもりが、命を落とすことになると昇は考えていたのだろうか。
取り返せない時間だった。
若さは恐怖心を麻痺させるのだろう。
命を賭けてしまったことに気づかずに、突っ込んでいく。
連山を前に屈託のない昇の笑い声が思い出された。
成彦は昇の好きだった缶ビールを2缶開けた。
「昇・・・」
成彦は手にしたビールに口をつけず、2缶を並べて置き煙草に火をつけた。
煙の中に昇を探しながら成彦の眠れない夜は過ぎていった。
翌日宮崎に戻り、重兼と落ち合い、高千穂町へ向かった。
高千穂に着いたときには、神楽は始まっていた。
そのとき紹介された髙木翁は、髙木仙人と呼ばれる武道家で、人望の厚い名士ということだった。
にこにこと穏やかで、少しアクセントの違う言葉で話した。
「一晩中観る予定かな?」
「はい、そのつもりいますが」
重兼が応えた。
「ふるまいが出るので、腹が空いたらご馳走になったらいい。寒ければ焼酎を飲めばいい」
「自由に頂いていいのですか?」
「ふるまいですからな。私の家はここから5分ぐらいですわ。横になりにお出でなさい」
そう誘いの言葉を残し、髙木翁はいったん家に帰って行った。
神楽は、村人が神庭に入り参加する神事が終わり、6番の袖花の舞が始まった。
「ちょっと外に出てきます」
卯月は小声で熊野に告げ、外に出た。
小雨の降る中、張られたテントの下で、人々がふるまいのおにぎりや煮物を食べながら、談笑していた。
「おいしそうですね」
「おいしいですよ。どうぞ一緒にいかがですか」若い女性が応えた。
「わあ、それではご一緒させていただきます」
「焼酎飲まんね。酒みたいに甘いよ」
椅子に腰掛けた卯月に、地元の男性が勧めてくれた。
「ええ、アルコールは飲めないので、ごめんなさい」
「まあ一杯だけでも、さあ」
気の良さそうな男の勧めにためらっていると、
「私が代わりにいただきます」
男性の後ろから熊野が顔を出し、竹で作ったお猪口を差し出した。
ふるまいを囲んで話が弾んだ。
奈良からやって来た女性は、パワースポットを巡っているらしい。
30歳の男性は、島根の稲佐の浜で行われる神迎祭の話をしていた。
熊野が神楽の取材に来たことを話していた。
卯月は空腹を満たすことを優先した。
豚汁が運ばれてきた。
ドラム缶の炭火で、暖を取るようになってはいるものの、小雨の降る外気は冷たい。だが酒を酌み交わしている人々は、穏やかで満ち足りた表情をしている。
2月の寒さを、炭火と、豚汁と、焼酎でしのぎながら、人々は神楽を通し、神々の空間に身を置き、暖かいもてなしの時間を過ごす。
そんな人々と会話をしていると、卯月のイラついた気持ちも、いつの間にか落ち着いていた。
お腹が満たされ、集まった人と一通り話しをした卯月と熊野は、神楽に戻ることにした。
雨は止んでいた。
卯月は、東京から毎年来ているという夫婦に引き止められた熊野を残し、先に神楽宿に戻った。
神楽宿に入ろうとしたとき、上から見下ろす視線を感じた。
成彦と鉢合わせをした。
その男の顔つきに、収めたはずの怒りがこみ上げてきた。
ぎりぎりと奥歯を噛み、睨みつけ神楽宿に入った。
あの顔が気に入らなかった。何を考えているのか分からない。でも計算しつくした行動をすることは分かる。威圧的で人を馬鹿にしているようにしか思えない男。
しばらくして熊野が帰ってきた。
「何かあった?疲れた?」
卯月の表情の変化に、熊野が尋ねた。
「いいえ。なにも・・」
と笑ったが、不快感は消せなかった。
神楽は地固、弊神添、沖逢と続いていた。
神楽の舞を追う卯月の視界に、大柄な男が入った途端、卯月は神楽から目をそらした。
「お腹空いちゃった。ふるまい食べてきます」
「さっき食べたばかり・・それに11時前よ」
「大丈夫ですよ」
10番太刀神添が始まった。
感情を抑えるのがやっとの卯月は、外に出て深くため息をついた。
山を作っている本榊が落ちていた。拾い上げ、山に戻した。
すっかり雨は上がり、空には薄ぼんやり、少し欠けた月が出ていた。
少し勢いのない炭火のそばに腰掛け、お茶を飲んだ。
炭火の暖かさが心を軽くした。
あのときあの男の言葉は、卯月が必死で追いかけ、ようやくたどり着いたものを否定するどころか、一笑したのだ。
流浪の賢者の存在も、人の身体に起こっている不思議な変化の可能性も、ありえないと鼻で笑ったのだ。切り返せなかった思いが歯がゆく、あの男の存在にイラついた。
「一杯飲まんね、ほれほれ」
酔ったおじさんが絡んできた。
やんわりと断ったが、おじさんが横に座ってきた。
やりきれなさが、たがを外した。
「そうね、飲もう、飲もう」
ひと度あおると、止まらなくなった。
30分も飲みっぱなしの卯月に、周りもつられて飲んだ。
神楽を観ていた熊野は、外が騒々しいのに気づいた。
観客も外を見ていた。
熊野はどきりとした。
「まさか、あの子飲んじゃったの?」
そう言いながら慌てて飛び出した。
外に出た熊野は、靴を履きかけ、止った。
卯月が本榊を手に、踊っていた。
その神がかった踊りは見事で、周りの人を魅了していた。
あっけにとられている熊野に、成彦が耳打ちした。
「見事なダンスですが、神楽に張り勝っちゃまずいですよ」
「あの子、踊りの家元の娘なの。お酒入ると踊りだすのよ」
熊野は言い訳にならない説明をして、卯月をベンチに座らせると、ざわついていた周囲の空気は、元の神楽のリズムに戻った。
卯月は熊野に寄りかかり寝ていた。
どうしたものかと考えあぐねていた熊野に、髙木翁が声を掛けた。
「家にいらっしゃい」
その後ろには成彦と重兼がいた。
「でも、ご迷惑では・・」
「わははは、これもご縁ですわ」
「ありがとうございます。でもこの子寝てるので」
成彦が卯月の手を取りながら、
「僕が引き受けましょう。この人とは浅からぬ縁があるようなので」
「はあ・・それではお願いします」
なんとも不思議な成り行きに、熊野の声は擦れていた。
成彦は卯月を抱き上げたまま、髙木家に運んだ。
「じいちゃん、どうしたの?」
何ごとかと、家の者が出てきた。
「チキンヒーロー君」
熊野は出迎えた者の顔を見て、思わず呟いた。
「チキン・・」
成彦も思わず反応したが、途中で切った。
高木翁が一同を20畳もある部屋に通した。
「ここで、昔は神楽宿として神楽を舞いました」
「おじいさんも舞ったのですか?」
熊野の問いに、髙木翁は誇らしげに応えた。
「いや、わしは、棒術をやっておった。わが家は新陰流を継承しておる」
そこへ仁宜とその母の静が、お茶を持ってきた。
「奥にお布団を引きました。その方をどうぞ」
成彦が卯月を抱き直し、静に連れられて奥に消えた。
熊野は改めて、髙木翁にお礼を言った。
「ご親切にありがとうございました。助かりました。でも髙木さんは、どうしてあの時間にいらしたのですか?」
「年を取りますとな、続けて舞を観るのがなかなかで、わしは初めの神事に、そして12時の火の前という、高千穂神楽特有の舞いを観に行きますのじゃ。天照大神の出御を、祝福する舞ですわ。ちょうど終わりましたかな」
「それはすみませんでした。今年はご覧になれなかったですね」
「いや、いや、ご縁ですわ。皆さん、しばらく休んでいきなされ。3時に面白い神楽があります」
3人は卯月を残して行く訳にもいかず、髙木翁の言葉に甘えることにした。
3時。
成彦は時計を気にした。重兼はまだ寝ているようだ。
そのとき、ガタリと奥の部屋で音がした。
音を立てずに身を起こすと、卯月の寝ている部屋に行った。
部屋に卯月の姿はなく、その奥の部屋の襖が少し開いていた。
成彦は襖に手を掛け、覗き込んだ。
卯月が立っていた。
その向こうに、人が横たわっているように見えた。
そして、その横たわる人は、柔らかな光に包まれているように見えた。
成彦はゆっくりと襖を開けた。
卯月は立ったまま、泣いていた。
成彦は前に進み、その人の傍らにひざまずいた。
「テラさん、生きていたのか」
卯月がそばに来て座った。
「私、気がついたらここに居て、そしたら、この人の身体が光り始めたの。身体が震えて止まらない。何が起こっているの?」
慌てた様子で仁宜の母の静が、医療器具を抱えてやって来た。
テラの体調は心配ないらしいが、その身体から発せられる光は、強さを増しているように感じられた。高木家の人々が集まってきた。目の前の情景に、熊野や重兼も呆然と立っていた。
卯月の胸元が金色に光り始めたのを熊野が気づき、卯月を突ついた。
仁宜の額もまた同じ色を放ち始め、その光は、忍を、静を、耀を包み、太力の両腕、熊野の首元、重兼の頭頂部が光っていた。
成彦はその光景に、神の領域を感じずにはいられなかった。
何秒かで発光は収まり、高木家に静かな夜が帰ってきたが、言葉を発する者はいなかった。
「高天の原、葦原の中つ国、自ずから照り明かりぬ。騒ぎ立てまい。事の成り行きを見届けて、次に備えることじゃ」
静寂の中に高木翁の声が、まるで天からのお告げように響いた。
一同は医師の静にテラを託し、興奮を抑え込んだ状態のまま、神楽宿に向かった。
卯月は満点の星空を見上げた。
神々の仕業なのか、それとも時空のゆがみに入ったのか、漠然とした畏怖の念にとらわれて、身震いが止まらなかった。




