明の章 永遠の不文律~宿命~
成彦は久しぶりに秀の住む花の郷を訪れた。
花の郷の中庭に続く道の木々が、秋の風情をまとい始めていた。
秋の柔らかな陽ざしの中に優しい歌が聞こえてきた。
不思議な歌をうたう瑠瑚という女性と、父親であろう男性が海を見ていた。
立ち止まり二人の様子を見ていると、落ち葉を集めていた清掃員が作業の手を止めて話しかけてきた。
「瑠瑚ちゃんのお父さんの稲木先生。お医者さんだよ。男でひとつで育てているのさ。瑠瑚ちゃん、あんなだからね、いろいろ大変だろうにね。そうそう、摩帆留ちゃんが逝った後、お母さんが後を追うようになくなったけど、瑠瑚ちゃん分かってたのかね。優しい歌を歌ってた。私もちらっと顔を見て、摩帆留ちゃんが迎えに来たんだと思ったよ。ところで、あんたも大変だね。お友達よくなるといいね。」
秀のことに話が及び始めると、成彦は時間を気にする様子をしてその場を離れた。
そのまま、秀の部屋に向かった。変わらない空気の中に秀が動かずに座っていた。
目を閉じている秀の姿が当たり前になっている成彦だが、たまに「秀、起きろ」と身体を揺さぶりたくなる衝動に駆られる。その度に「生きているなら俺を見てくれ、何か言ってくれ」と叫びたい気持ちを抑えなければならない。辛くても吐き出せない思いだった。
今日もそんな思いを抑えて、秀の手をさすりながら話しかけた。
「秀、元気か?うん?また絵を描いたのか?」
机に置いてある茶封筒に気づき、中の絵を取り出して見た。
「なんだ?・・・ヤマタノオロチ?」
その絵は石見神楽で表現される八岐大蛇のようなもので、その周りにびっしりと小さな昆虫が描かれている気味の悪い絵だった。
「秀、何が言いたいんだよ。えらく難しい絵だな。これもあの女性の歌で描いたのか?」
返事がないと分かっていても尋ねずにはいられなかった。成彦は前の絵を思い出しながら、しばらく絵を眺めていた。
「さて、家で酒でも飲みながら、解読するかな」
そう言いながら腰を上げたとき、スマホにメールが届いた。
画面に重兼智とあった。
開くと、
「催眠術で洗脳されることがあると思うか?」とあった。
「その昔、アメリカのCIAが実験していたという噂があったが、実際に成功したのかは分からん。今じゃ犯罪に近いことだからやらんだろう」と返信した。
「ありがとう、また連絡します」
相変わらず礼儀正しい奴だと柔和な重兼の顔が目に浮かんだ。
しかし突然催眠術で洗脳とはなんだ?重兼は何をしているのだろうと成彦は首を傾げた。
秀の部屋を出た成彦は通りかかったホールで、瑠瑚という娘と一緒にお茶を飲む稲木を見かけ会釈した。すると医師らしくない会釈が返ってきた。
成彦はそれを受けながら、先ず瑠瑚の父親の稲木に秀の絵のことを話さなければならないと思った。
秋の優しい陽ざしに包まれた花の郷の中庭で、稲木賢一は娘の瑠瑚の歌に促されるように、ここ数ヶ月の間に自分の身にもたらされた信じ難い情報を振り返っていた。
思い返すと3ヶ月前、その昔西宮の病院に一緒に勤めていた和久看護師が連絡をくれた。
突然現れた和久は那美の20年間の記録を持ってきていた。そこには那美の覚醒への経過とそれを見届けようとする父親の葛藤と執念が記録されていた。
20年前の混乱の中、すべてを失い途方に暮れていた稲木は、広島に住む那美の実父と名乗る医師から那美は無事との知らせを受けた。
だが当時、那美は病院側の管理下にあり、所在が知れると連れ戻される危険があった。
そこで稲木は、愛しい妻を自身で見守ることを断念し、さらに生死がはっきりとするまで連絡を断つ、苦渋の決断をした。
そして引き寄せられるように現れた愛娘とともに、親子の再会を願いながら那美の命が途絶えぬよう祈り続けていた。
しばらくして、稲木はにわかには信じ難い経過記録を持って、秋津総合病院の院長室を訪れた。
ソファーに対面で座り、秋津は抜粋された記録を開いた。那美の無事を喜んでくれているのだろう、あまり感情が表に出ない秋津の声が弾んでいるように聞こえた。
「それじゃあ、那美ちゃんは無事に生きているといいうのか?」
「そうだ、生き抜いてくれた」
「良かったな、すぐに迎えに行けよ」
「いや、20年もの時の流れを、一度に受け入れることができないらしい」
「もっともだな」
「うつ症状が出ているらしい。もうしばらく大戸野先生と和久さんにお願いしょうと思う」
稲木は那美の回復の様子を秋津に話した。
「俺は実際を見ていないから言いようがないが、記録の通りならば・・・いや、信じられんな。水も飲まないで20年間生きられるか?冬眠状態でもあるまいし」
「でも生きているんだ、那美さんは」
秋津は現実的に受け入れられずに口をつぐみ、実は半信半疑の稲木も言葉に詰まった。
途切れた会話を繋げようとそれぞれの思いが何かを探っていた。
「稲木、ちょっと待てよ」
秋津は何かを思い出したようにパソコンに向かった。
稲木も立ち上がり、パソコンをのぞき込んだ。
寺田美香という名前のカルテだった。
「動脈瘤?これがどうしたんだ?」
稲木はことの関連が分からず急くように尋ねた。
「寺田美香はモデルのテラだ。今は海外で暮らしているらしいがはっきりしない。動脈瘤というのは診察をした担当医からの報告だが、問題はここだ」
秋津はカルテの欄の一部を指差した。
不自然な膨張の気配あり。
要精密検査。
秋津は腕組みして続けた。
「週刊誌のことだから真実はわからんが、テラは奇病に侵されたと報じられていた。その様子を聞く限り、血管腫とも考えられる」
「那美さんと同じと言うのか?それでこの人は精密検査はしたのか?」
「いいや、その後来院されていないし、実際のところ今は消息不明らしい」
「そうか・・・」
「・・・少し因縁めいているが、テラの一連の週刊誌報道のネタ元は摩帆留と言う噂もあった」
「摩帆留って、あのモデルの摩帆留なのか?」
「そうだ、お前も知ってるだろう。死亡して1か月も経っていないな」
「ああ、可哀想なことだったな、原因がはっきりしないとも聞くが・・・」
「都が診察したが、彼女は死因について納得していない、何かおかしいと今だに言っている」
「何がおかしいんだ?」
「都が言うには死因とその過程だそうだ」
「血管腫と関係があるのか?」
「分からん」
「血管腫がどうなったのか知りたいな。どこにいるんだろう、モデルのテラは」
「ふむ・・・俺は知らん」
簡単な返答は秋津らしいと納得している稲木に、秋津が尋ねた。
「話は変わるが、瑠瑚ちゃんが最近歌わなくなったらしいな」
「ああ、看護師さんが言ってな。同じ入居者の身体の動かない人が瑠瑚の歌に合わせて絵を描くらしい。本当かい?」
「俺もその話は聞いたが、俺は手が動くのを見てないから分からん、それに俺は外科医だからな」
秋津は冗談だか本気だか分からない口調で応えた。
何か現実離れの結論の出ない話ばかりで、食傷気味の間の悪さに、今度は稲木が現実の話を始めた。
「ところでライフシェアタウン進出計画はどうなったんだ?」
「なかなか難しいな、芳志総合が都議の紅雲議員を使って動いているらしい」
「紅雲って、福祉には強いとは聞くが、ライフシェアタウンにも影響力があるのか?」
「そうらしいな、手強いな、巷では紅雲ならぬ紅蜘蛛とも呼ばれているらしい。福祉とは名ばかりで、貧困ビジネスで荒稼ぎしてるという話もある」
「ほう・・・紅蜘蛛か、なんか恐ろしいな。芳志総合といい、相手が悪いな。お前のことだ、今更止めようとは考えられんか」
「うん、それも考えてる。だが、このライフシェアタウン計画も何かあるように思えて、そっちのほうに興味がある」
「お前の悪い癖だな、なんでも裸にしないと気が済まない・・・」
「ついついな、悪気はない、性分だな」
「自分で言うか、まあ気を付けろよな。さて、そろそろ失礼するかな」
「稲木、今度1杯やろうな」
稲木はいつもの閉めの会話に頷き、その日病院を後にした。
考えごとで気がつけば3時近くなっていて、秋の中庭は肌寒くなっていた。
天を仰ぎ歌う瑠瑚を見ながら、稲木は那美や瑠瑚の現実離れした人生を受け入れようとしていた。
瑠瑚の歌が途切れた。
瑠瑚のうつむき加減の顔には哀しみが映っていた。
ふと稲木は、抱きしめることもなく手放してしまったもうひとりの我が子のことを思った。
心の外に置いてしまった息子。
生きているのだろうか?
もしかしたら誰かが育ててくれているかもしれない。
いやあの状態で命があるはずはない。「でも那美さんは生き延びている」
今は那美が生きているという奇跡が、息子の生存にかすかな望みを繋いでいた。
再び歌い始めた瑠瑚の声はより優しくなり、そんな稲木を励ますように包み込んでいた。
午後の3時を過ぎると、稲木はホールで施設の定例茶話会に瑠瑚と参加していた。
居室のほうから歩いてくる大柄な男性に気づき、稲木がコーヒーカップを置き、顔を向けると相手は会釈するような仕草をした。
稲木は何かしらの縁を感じて、会釈を返していた。
あとでその男性は瑠瑚の歌に合わせて絵を描くという人の身内だと知った。
梅雨明けを待ちながら、和久由宇子は行方が分からなくなった同僚の若狭を探していた。
若狭は、会社に退職願を送ってきた後、連絡が取れなくなっていた。
研究に行き詰っていたとか、薬の開発に失敗したとか、パワハラを受けていたなど、噂はいろいろとあった。
だが部署の違う由宇子は、噂まがいの情報しか得られず、本人に直接話を聞くしかないと、大学時代の友人の天野卯月に若狭の捜索の協力を頼んだ。
そんな中の5月に、兵庫から広島に引っ越すとの連絡を最後に、音沙汰なしだった母親が突然訪ねてきた。
由宇子の母、和久霧子は若くに夫を亡くし、女手一つで由宇子を育ててくれた。
何事においても誰を頼ることなく、1人で悩み、決断し、行動する母親を由宇子は少し距離を置いて見ていた。
そんな母親が、部屋に入るなり近況を手短に話し始め、頼みたいことがあると言ってきた。
母親に何かを相談されたり、頼まれるのは初めてだった。
自分の母親ながら、「この人の大胆さにはついていけない」と思いながら過ごしてきた日々を思い出した。「そう、話だけ聞いて断ればいい」
由宇子は逃げ出したくなる気持ちを我慢して、正座をした。
母親は大きなバッグから、厳重に梱包された箱を出した。
「今、看護している人の皮膚片が入っている。誰にもわからないように調べてほしい」
「誰の?」
「頼んでいるのに悪いけど、それは言えない」
「・・・できないよ」
「お願い、由宇子にしか頼めない」
「ちゃんとしたところに頼めばいいじゃない」
「それができないから、あんたに頼みに来たんだ」
由宇子は黙ってその箱を押し返した。
少し間を置き、母親は別の箱を取り出した。
「これは私の皮膚片。一緒に詳しく調べてほしい」
「母さんのも・・調べるの?・・・何で?」
「今は詳しくは話せないけど、母さんのやらなきゃいけないことなんだ。ちゃんと見届けないとナル先生に顔向けできないんだよ」
ナル先生・・・。
血の気の引くほど小箱を握りしめた母親の手を見ながら、由宇子は幼い頃、車椅子に乗せた人をナル先生という人の車まで運んだことを思い出した。
幼心に母親の必死な姿が記憶に残っていた。あの時の人の皮膚片なのかもしれない。
複雑な事情があるんだ。
「わかったよ。大学の先生に頼んでみるけど、何か危険なことがあるんだったら教えて」
母親は由宇子の返事に少し笑うと、その患者の経過と状態を話し始めた。
話し終わると、近くのレストランで軽い食事を取ったが、もう1人合わなきゃいけない人がいると言って、食事を早々に切り上げて出ていった。
「また置いていかれちゃた」
由宇子は母の後ろ姿を見送りながら、甘いココアに浮かんだ心の奥の寂しさをなだめるように飲み込んだ。
翌日、研究を手伝っている大学の教授に頼み込み、預かった皮膚片を調べることにしたが、しばらくかかると言われた。
8月になって捜索の協力を頼んでいた卯月が、若狭が発見されたと連絡をくれた。
しかしほっとしたのもつかの間、「和久、俺とんでもない物作っちまった」その言葉を残して若狭は急死した。
若狭の作った薬が気になるものの、研究の内容を知るすべもなく、由宇子にその手掛かりとなるものは何も残されていなかった。
風のない蒸し暑い夜、由宇子は若狭の通夜に参列した。
親族だけのひっそりとした葬儀だった。
焼香をしようと立ち上がり、列に並んだ由宇子は家族に詰め寄っている若狭の上司の伊江谷の姿を見つけ、人の陰に隠れて様子を見た。
何かをしつこく尋ねている伊江谷に、若狭の家族は迷惑そうに首を何度も横に振っていた。
場をわきまえない言動を止めようと由宇子が歩き出したとき、圧倒的な存在感の女性が伊江谷と家族の間に入り、その人の一瞥で伊江谷は退散した。
それは若狭を看取った秋津都医師だった。
胸をなでおろした由宇子の方へ、秋津医師が歩いてきた。
「こんばんは。若狭さんは残念でしたね」
静かな口調だった。
「はい、受け入れなければならないのですが、あっけなくて・・・まだ信じられない」
「そうね、私も同じよ。釈然としないでいるわ」
同調するように頷いた由宇子に、秋津都が顔を寄せ、声を潜めて尋ねた。
「ところでさっき、ご家族と話をしていたのは若狭さんの会社の関係者かしら?」
「そうです。直属の上司ですが・・・」
「若狭さんが残したものを探しているって、言っていたわ。場の状況もわきまえないくらい切羽詰まっている感じだった」
秋津都の表情は、由宇子に心当たりを尋ねていた。
由宇子は薬だとすぐに思ったが、首をかしげることだけに留めた。
「そう、それじゃあね。天野ちゃんと遊びにおいで」
そう言い残して都は去っていった。
若狭の研究を引き継いだ伊江谷が何かを探している。
「若狭・・・何が言いたかったん?」
由宇子は、病室で今度話すと言っていた若狭を思い出していた。
翌日、由宇子が出勤すると、若狭の後輩が声をかけてきた。
「おはようございます」
「おはよう、早いね、何かあった?」
「これは和久さんのですか?」
後輩は周りを気にしながら、USBを差し出した。
表皮ブドウ球菌のシールが貼ってあった。
「若狭さんの私物を整理していた時に落ちていました。すみません。忘れてました。昨日主任が若狭さんのことみんなに尋ねていたから思い出しました」
「主任は若狭の何を聞いたの?」
「預かっているものはないかとか、何か研究のことで聞いてないかとか、です」
由宇子は視線をUSBから後輩の顔に移した。
「菌のシールが貼ってあったから和久さんに渡した方がいいかなと思って・・・これ、預かった訳じゃないし」
後輩は面倒はごめんとばかりに、由宇子の手にUSBを残して研究室へ帰っていった。
その日の夜、由宇子は持ち帰ったUSBを開いた。
植物由来のかゆみ止めの成分分析が記されていて、若狭の妹への兄としての思いが研究の過程に表れていた。しかし研究が伊江谷を中心としたプロジェクトへ移行すると、妹を思う気持ちは薬の内容から消えていった。そして塗り薬が副作用も常用性もないという、夢のような内服薬へと姿を変えていく記録が残っていた。
阻害され、追い詰められていく中でも、USBには若狭の兄としての思いが残されていた。
ストレス性のかゆみに対して、冷却や痛覚、さするなどの接触行為が優先されるという可能性から、若狭はある植物にたどり着いたようだ。
そして若狭は自分自身で治験を行い、どこにでも存在するが、人に影響しないはずのウイルスが体質により反応し、アナフィラキシーショックを起こしてしまう可能性があることに気づき、それを探している途中のようだった。
ほかにも薬について幾つかの危険性が指摘してあった。
だが、そんな若狭を疎ましく思った伊江谷は、副作用も常用性もないというところだけに注目して、健康食品として売り出そうと方針を変えた。
若狭は独自の視点で研究を進めようとしたが、伊江谷により研究そのものができなくなっていた。若狭は、人体への影響がはっきりしないものを売り出そうとしていることに対し、社会的な責任の大きさに潰れそうだとも書いていた。
そして「今日も薬を飲んで楽になる」という言葉を最後に、記録は途絶えていた。
それからしばらくして若狭は会社を辞め、放浪者となった。
「若狭・・・」
若狭の無念を思うと由宇子は、病室の若狭は薬の完成を諦めていなかったように思えてきた。
「いま、伊江谷は若狭の薬をどこまで完成させているんだろう。伊江谷に完成させることなんてできるのかな?」
研究半ばで思いを残し、逝ってしまった若狭の無念を晴らしたい。
若狭の最期を看取り、今もその死に疑念を持つ秋津都医師。
このことを話せば若狭の死の原因が分かるのだろうか?
「少し落ち着こう、何時?・・・寝なきゃ」
由宇子は明るくなり始めた空を見て、そそくさと布団にもぐりこんだ。




