明の章 使嗾の根源~生命~
記憶のないまま過ごすLUNAは諦めと息苦しさで追い詰められていく。思わずとった行動で記憶のかけらがLUNAの周りで見え隠れする。
男は奈留瀬佐久真、小さな警備会社を経営していて、いくつかのホテルの周辺の夜間警備を請け負っていた。この夜は契約の更新のためTホテルに来ていた。
半年前に失った香り。記憶に残る香りが、たったいま残り香となって奈留瀬を誘った。
奈留瀬が戸惑いを確信にしたとき、愛おしい香りはすでに雑踏の匂いに混ざり消えていた。
鼻腔に残るあの香りが奈留瀬の記憶をくすぐった。
奈留瀬は警備の確認を理由にして、ホテルに戻った。警護訓練で鍛えた奈留瀬はあの瞬間を記憶していた。
ロビーを出た10秒の間にすれ違った人間。
あのときの若い女は、2人連れの女、集団らしき3人、そのあと1人。
最初の2人は顔を思い出した。
違う。
最後の女は身長が低い。
違う。
集団の女の1人はぼんやりと思い出したが、あとの2人は夜なのにサングラスをかけていて、顔の印象がなかった。
男たちが周りをガードしていたようにも思えた。
調べていくと予約客の中に極秘扱い、詳細が閲覧できない会合があった。
「WOMプリンセス・・・」
場所は最上階で、限られたものしか出入りのできないフロアー。
「奈留瀬さん、何かありましたか?」
長居する奈留瀬を不信がり、ホテルの従業員が声を掛けた。
「ええ、ちょっと気になったのですが、ご心配なく大丈夫です。お時間いただき有り難うございました」
奈留瀬は礼儀正しく頭を下げ、事務所を出た。
エレベーターホールで行きかう人波を眺めながら、半年前を思い出していた。
俺は恋をしていた。そうあのときから。佐多成彦の事務所であの香りに出会い、交差点で香りの女だと気付いたときから、一生忘れないと思った。忘れたくなかった。その女が昇の女だと分かったとき、胸の真ん中の黒い傷がナイフになった。宮崎で追っていたとき、金はどうでも良かった。昇を消すことだけ考えていた。あの海で昇はルナを連れて逝ったと諦めた。今まで、人を追い詰め、自滅させることを己の強さの証としてきたが、初めて追い詰めたことを後悔し、愛しい香りを失ったことを認めたくなかった。誰かの女でも、生きていれば香りは消えなかったのに。俺は後悔の夢の中でも香りを求めていた。
求める香りを探しだせない奈留瀬の心は、手の届かない最上階へと続くエレベーターの数字を追っていた。
その頃LUNAは準備を済ませ、初めての新月の宴を前に緊張していた。
月乃はそんなLUNAに、改めて会の流れを説明した。
参加者は5家族で、いずれも娘を持つ名家の当主や大企業の経営者が選ばれていた。
最上階の特別室で5家族が顔を合わせた後、振り袖姿の娘たちは別室へ案内され、残された親たちは、樫戸綾をはじめとしたこの会の幹部との会食に臨んだ。
月の目覚めの宴とも言われ、新しい出会いやスタートを祝う会とされているのだが、その目的は別にあるように月乃は感じていた。
月乃は親たちと別れた娘たちを、華やかだった満月の夜会とはまるで装いの違う、落ち着いた和の雰囲気の部屋へ案内した。
娘たちが胸を高鳴らせて待つ中、月の光を放つ白絹の和服に身を包んだLUNAが咲紅とともに登場し、着座した。
その瞬間から仕草の1つ1つが洗練されたLUNAに、羨望の眼差しが向けられた。
LUNAは食事の間一言も発せず、にこやかに微笑み、うなずくだけ。
質問されれば月乃が答え、咲紅、砂弦、雨弦が参加者との間をうまく取り持ち、LUNAは完璧な月の姫として女性たちのあこがれの的となり、無事に新月の宴を終えた。
仕事を終え、着替えを済ませたLUNAは、ひとりでホテルの窓から東京の夜景を見ていた。
「私は東京を知っている・・かも・・・」
と思い立ち、靴を履いた。
「・・・無理・・・」
すぐに靴を履き棄て、そのままベッドにもぐりこんだ。
頼れる人もなく、お金もないのに、どこに行こうと思ったのか。くすくす笑っていたLUNAの顔はすぐに泣き顔に変わった。
しばらくして月乃が部屋に入ってきた。
「おやすみになられましたか?月の姫のこと、夜の世界でうわさになっていますよ」
月乃は履き捨てられた靴に目を止め、そっと揃えた。
「ホットミルクお持ちしました。いかがですか?」
LUNAは毛布をかぶったまま返事をしなかった。
「こちらに置きますね」
LUNAの気持ちを察した月乃は、音を立てずに部屋を出た。
このひと月、目まぐるしい時間を過ごしたLUNAだったが、記憶は戻っておらず月の遣いの指示通りの生活をしていた。
満月の夜会、新月の宴とも月の遣いと呼ばれる5人のスタッフが全てを仕切っていた。
LUNAは訳の分からないまま月の姫を演じていたが、その実、半年間もの監視の付いた生活に疲れ、追い詰められていた。
そんなLUNAを心配して、月乃は京都に帰ると外出を勧めた。
「近くに月読神社があります。散歩でもどうですか?」
「外出は・・・しない」
ソファーに座って雑誌を見ていたLUNAは、顔も上げずに素っ気なく返事した。
「そうですか・・・お出かけされたいときはおっしゃってくださいね」
「どうせ、ついてくるんでしょ」
「これをお持ちになればおひとりでの外出も可能です」
月乃の手にはスマホが握られていた。
黒い画面に記憶のかけらが見えた。
「いらない・・・」
月乃は無理強いをしなかった。
「おひとりになりたいのでしょう?」
「・・・・・」
「月の姫は謎の女性となっています。神秘的な登場から姿を見せないことで、その存在は神格化されるまでになっています。ネットでも話題になっていますから、月の姫が生身の女性として、今目撃されるとなると少々・・」
「イメージが壊れて面倒なことになるのね。いいわよ。契約していることだから諦める」
説得しようと構えていた月乃は、あっさりと言い切ったLUNAの読めない表情に、もやもやとした嫌悪を感じた。
「こんな生活うんざりだけど、仕事だから・・・でも・・あなたもうんざりよね、月乃?」
LUNAの思いもよらない攻撃だった。LUNAは月乃と呼び方を変えた。月乃は動揺を押し隠し、切り返した。
「・・・いいえ、楽しくお世話させていただいています。誰よりも月の姫の成長を実感しています。月の姫がより美しく、魅惑的になられるのを身近に見られるのですから、役得というものですわ。私にとって月の姫との生活は充実しています」
「本当?だったら私大丈夫ね。月乃がずっといてくれるのなら頑張れると思う」
LUNAは立ち上がり、月の姫として身につけた、すべてを魅了する笑顔を月乃に向けた。
だが月乃は立ち上がる寸前のLUNAの苛立ちを見逃さなかった。
「月乃、東京に行く前に、あなたが言っていた月読神社に行ってみたい。連れていってくれる?」
月乃は、今まで見せたことのない甘えた仕草に、LUNAが月の姫を演じていると見抜いた。LUNAの真意を測りかねたが、しばらくその演技に付き合うことにした。
「承知いたしました。上京前に調整いたします」
「お願いね、つ・き・の・・・それからコーヒー飲みたいわ」
LUNAはわざと癇に障る言い方をすると、月乃の返事を待たずに階下に降りた。
従順だったLUNAは尊大な月の姫へと変貌していた。
それから、LUNAの月乃に対する態度は明らかに変わっていった。
不安を抱えオドオドしていたLUNAは消えていた。
柔らかい物腰ながら要求は増えて、より細かくなり、ドレスの試着1つとっても納得するのに時間がかかるようになった。
月の姫の役作りのためなのか、いやがらせなのか、月乃は判断しかねていた。
仕事だと割り切っていたが、繰り返されるわざとらしいやり取りには辟易していた。
上京の2日前、月乃はLUNAを月読神社に案内した。
砂弦の運転で月読神社に着いた。
東向きに立つ一の鳥居をくぐり、石段を下りると、楚々とした手水舎があり、LUNAは作法通りに清めると月乃を待たずひとり境内を先に進んだ。
二の鳥居の奥に社殿が並んでいた。
LUNAは拝殿にて手を合わせ、お参りをせがんだわりには興味のない足取りで瑞垣に囲まれている本殿に進んだ。
本殿の横にある御霊神社に興味を持ったLUNAは、月乃に説明を求めた。
御祭神が少名毘古那神様で、クサガミさんとよばれ腫れ物に霊験があると説明すると、なぜかLUNAは右足の甲に触れ、神妙な顔つきで手を合わせた。
LUNAはしばらく趣きのある境内を散策して、満足したようだった。
10月の満月の夜会前日、一行は東京入りした。
月乃は変わりのないLUNAの様子に、京都での変貌ぶりを御剣に報告しなかった。
LUNAはホテルに着くとすぐにシャワーを浴びると言い出した。
「それから、シャワーの後甘いもの食べたいから買ってきて。お願いね」
「夕食の前ですが、」
「今食べたいの。コンビニのスイーツがいいな」
LUNAは聞く耳は持たぬとばかりに背を向けて、旅行バッグを開き整理を始めた。
最近のLUNAは口論を好んだ。口論というより口答えのようなもので、月乃は中学生の反抗期だと笑って済ませていた。
「承知いたしました」
月乃はバスルームにシャワーの音がし始めると、御剣が来るまで間をホテルのスタッフに頼み、御剣にメールを送信してホテルを出た。
月乃は雑踏の中、息苦しさを忘れてひとりきりの空気を満喫し、コンビニまでの10分間を楽しんだ。
ホテルへと向かいながら、月乃はコンビニで買った3個のスイーツを確かめた。
月の姫は月乃のはずだった。だが新たな月の姫の登場で月乃は二日月と呼ばれ、今は使い走りの毎日。
私は儚い二日月・・・。
そう思うと月乃の足取りは重くなり、立ち止まった。
メールに気づき開くと、月の姫の姿がなく探したが見つからない、すぐに帰るようにとあった。
月乃の全身から血の気が引いた。計画的だ。
LUNAは京都から考えてチャンスをうかがっていたのだ。
出かける前に部屋をのぞくとシャワーの音はしていた。
油断した。
人ごみをかき分けながら月乃は駆けだした。
夜の訪れを拒否する電飾の街で、急ぎホテルへ向かう月乃と、人ごみに身を隠しホテルから遠ざかるLUNAがすれ違った。
それは15分前のこと。
月乃が隣りの部屋へ入ると、LUNAはシャワーをひねり水音を大きくして、すぐに部屋を出た。
エレベーターで階下へ降りようとしたとき、閉まったドアの向こうに月乃の気配がした。
月乃より早くホテルを出ようしたが思い直した。ロビーの化粧室で掴んできた服に着換え、帽子に髪を入れ深くかぶった。
5分経った。
LUNAは焦る気持ちを抑えながらロビーを横切り、ホテルを出た。
都会の喧騒の中、うつむきながら歩くLUNAの目線には、行きかう人の足元が映っていた。
その流れの中にうっすらと過去への道のりが映り、しばらく歩くと意思とは関係なく導かれた結果のように、LUNAは西新宿の一角に立っていた。
辺りを見渡したが思い出すようなものはなかった。
そんなLUNAに記憶のかけらが「そこで待っていろ」とつぶやいた。
縁はその時を選び、その場所に導き、そこに人を立たせる。
巡り、巡りて、ようやく見つけた縁の糸。
儚い縁とわかっていても、人は手繰り寄せずにはいられないのが・・恋心・・・。
たとえ報われなくても真っ直ぐな想いは素敵ですよね。憧れます。




