明の章 使嗾の根源~生命~
満月の夜、目覚めたLUNAは待ち受ける現実に、流されながらも生きていく。
記憶が戻らないまま、月の姫となったLUNAは目覚めの時に手にしたペルソナをつけ、きらびやかに登場する。謎めく光で心の影を隠すLUNAは心もとない一歩を踏み出した。
翌日、雨弦とともに樫戸綾がやって来た。
月乃はすでに彼女の身だしなみを整えて階下の応接室で待っていた。
樫戸綾は穏やかな優しい表情で入ってきた。
立ち上がって待っていた彼女に微笑むと、座るように促した。
昨夜月乃は、今日の面接は今までの感謝を伝えて、これからのことを相談するためのものと彼女に話をしていた。
樫戸綾は別人のようだった。月乃たち部下に対する厳しい姿や言動は一切見せなかった。
その樫戸綾に彼女は深々と頭を下げた。
「このたびは命を助けていただいたうえに、この1か月もの間、お見守りいただき、誠にありがとうございました。お礼申し上げます」
「これもご縁というものでしょう。とにかくよかった。お話ができるようになって」
そう言いながら、もう一度着席するように目くばせをした。
「ありがとうございます」
彼女は視線を落として座り、膝の上で手を合わせた。
そんな姿に満足したように樫戸綾は本題に入った。
「ただ心配なのはあなたの名前や住所がいまだに分かっていないこと。それがわかればすぐにご家族のもとに返してあげられるのだけれど。さてどうしたものでしょう、この先」
不安げな彼女の表情を気に止めず、樫戸綾は続けた。
「捜索願も出てないようだし、この際、警察に保護していただいて、あちらの方でご家族を探していただくこともできるけれど・・・」
樫戸綾は彼女の様子をうかがった。そこには沈黙しかなかった。
月乃はこの追い詰めるやり方を知っていた。不安をあおり、逃げ道をふさぐ。
物を手に入れるときの樫戸綾のやり方。
「そうね、でも成人していることだし、私たちが口を出すことではないわね。あなたがご自分で決めるといいわ。自分で家族を探すか、警察にお願いするか、雨弦、このかたの結論が出たら手配してあげなさい」
限りなく優しく、残酷に告げる。
そして・・・雨弦がおもむろに口を開く。
「承知いたしました、ですが綾さま、今の状況はお1人では厳しいと月乃様からの報告を受けております。今しばらく・・・」
「雨弦、ここにお引止めすることは容易いなことよ。でもどうでしょう。何もせず面倒を見てもらうことなんて・・・お嫌でしょ」
樫戸綾はうつむいたままの彼女に返事を求めた。
沈黙は続いた。
それでも樫戸綾はにこやかな表情を絶やさずにいた。
動かぬ空気を切るように、彼女は背筋を伸ばすと毅然とした態度で、樫戸綾に問い返した。
「私の仕事は何でしょうか?」
「あら、ここにお残りになるということなの?」
「はい、私にできることならお手伝いさせていただきたいと存じます」
「ここに置いて欲しいとお願いしてらっしゃるのかしら?」
彼女は静かに立ち上がり、再び頭を下げた。
「そうね、あなたに出来ることあるのかしら・・・月乃、検討してあげて。雨弦に相談するといいわ」
「承知いたしました」
シナリオ通りの運びで終わった。
あとは月乃が月の姫の仕事の内容を伝えて説得し、彼女を月の姫に仕立てるだけ。
予定では9月の満月の夜会に間に合わせることになっていた。
部屋に戻ると彼女は月乃の用意した安定剤を飲み横になった。
彼女が落ち着いたのを確認すると、樫戸綾の待つ応接室へ戻った。
厳しい表情の樫戸綾が待っていた。
「なかなかよろしい。明日、契約をしなさい。手抜かりのないように、契約はWOMプリンセスコスメの社長と・・・彼女の名前は・・・本人に決めさせなさい。本名が分かり次第、契約書を差し替えること」
「承知いたしました」
「月乃、今回の仕事は評価できます。よくやりました」
樫戸綾はにこりともせず、月乃の肩に手を置いただけで応接室を出て行った。
月乃は、仕事に厳しく賞賛することない樫戸綾に認められたことが素直に嬉しかった。
今まで何人もの幹部社員が恥をかかされ無能呼ばわりされて、潰れていったのを見てきた。
そんな裏腹の恐怖を抱えながら、難しくても厳しくても挑戦して来た。潰れていない自分、立ち向かう自分、それがプライドとなっていた。
月乃の歩いてきた道。これからも歩く道。と今日も自分に言い聞かせた。
翌日、指示通り契約を終わらせた。
彼女は月の姫の仕事を理解して、しばらくは監視下におかれることも含め自分の意志で月の姫を演じることを承諾した。
名前を思い出せない彼女は、月を意味するLUNAという名前で契約書にサインした。
翌日から月の姫の教育が始まった。LUNAは2か月で、すべての女性が認める美の化身に求められるものすべてを、身につけなければならなかった。
月乃は自身が身につけたすべてをLUNAに伝えた。
月の姫LUNAは所作、動作、礼儀作法、言葉遣い、全てにおいて完璧だった。それは一朝一夕でできるものではなく、すでに身についているものだった。
育ちの良さは随所に現れ、月の姫としての自覚さえ生まれれば、ステージで羨望のまなざしを浴びることは間違いなかった。
そして曖昧な記憶のまま2か月が過ぎ、LUNAはステージに立つために東京へと向かった。
都心のホテル満月の夜会の会場
9月9日、満月の夜会を仕切る御剣の紹介で、LUNAはステージに立った。
登場するや否や、会場からどよめきと割れんばかりの拍手が沸き起こった。
ただにこやかに微笑むだけの仕事だった。
ステージからスッポトライトの帯で結ばれたテーブルの観客に、時間をかけて視線を投げかけ微笑むと、なぜかそれだけで観客は喜んだ。
月の姫が私を見た、私に微笑みかけた、私に霊気をくれたなど、勝手な思い込みを口にして、LUNAが退場しても会場の騒めきは収まらなかった。
それほどLUNAは気高く美しかった。
会社の概要、商品や販売のシステムの説明が終わると会場が暗転し、観客の目の前に闇夜を照らす大きな満月が現れた。
観客はアナウンスに従い、手元にあるゴーグルをつけた。
静かな音楽が流れると、バーチャルリアリティの世界の中に満月を背にした月の姫が登場した。
幻想的な雰囲気で優雅に髪をなびかせ、森を駆け、湖に佇み、花を摘み、雨に舞う月の姫が映し出された。
会場は一瞬でその世界に引き込まれていった。
月の姫が月に消えると、満月の中から別の女性が現れた。
会場の中から震える声が聞こえた。
「わたしだ・・・」そう言った女性がバーチャルな空間で森を駆け抜けた。
「あ、あ、私がいる・・・」その女性は湖にたたずんでいた。
会場の若い女性たちは月の姫と等しく森を駆け、湖に佇み、花を摘み、雨に舞った。
そのたびに短い感嘆の声が聞こえた。
会場は食事が運ばれてきても興奮は冷めず、月の姫のように皆振舞った。
会も終盤になり、再び砂弦に手を取られた月の姫が会場に姿を現した。
どよめきの中、月の姫はあらかじめ指示されたテーブルを回り終えるとステージに上がり、会場を見渡してただ微笑んだ。
エスコートしていた御剣が閉会を告げ、月の姫は仕事を終えた。
控室に月乃がホットミルクを持って現れた。
「お疲れさまでした。月の姫、初回を無事終えられましたね」
「月乃さん、月の姫と呼ぶのはやめて。LUNAでいい」
「いいえ、あなたは月の姫なのです。そして私は月の遣い。立場ははっきりとしています」
「大昔の召使みたいなこと言わないで、命がけで守ります、ですか?」
「そうです。お守りします。全力で」
あなたが途中で仕事を投げ出さないようにするのが私の仕事、と思っていても笑顔で月乃は答えた。
「そうですか・・・」
疲れのせいかLUNAは自分でも驚くほど冷めた返事をした。
月乃はそんなLUNAに気づかぬふりをして、バッグから包みを取り出した。
「それから、先ほど、依頼していた香水が届きました。思い出された通りの調合です。さっそく試されますか?」
LUNAは無言で手を伸ばし、差し出された香水を受け取った。
LUNA ORIGINALと洒落たケースに書いてあった。
「ルナオリジナル。ルナ・・・」
声にすると、ルナという響きが馴染み深く心地よかった。
私の香水。LUNAは香水を開けて少し手首につけた。
その香りになつかしさが込み上げてきた。
これは私の香水。確かに私だけのものに違いない。また1つ記憶のかけらを見つけた。
でもなぜか悲しい。
月の姫を演じることを決意した理由も、新月の夜に記憶のかけらを見つけたから。
LUNAは美しいと誰もが認める女性になりたいと願っていたことを思い出したのだ。
月の姫になり、願いはすべて叶ったはずなのに、身にまとうお気に入りの香りにさえ感じる虚無感はなんなのだろう。
記憶のかけらを見つけても私は悲しい。
LUNAは手にした香水をバッグにしまった。
月乃はそんなLUNAの様子を興味深げに見ていた。
翌日には月乃とLUNAは京都に戻っていた。
その夜、LUNAは薄雲の中に浮かぶ月を見上げていた。
「雲と遊ぶいざよいの月も美しい」
そうLUNAに声をかけながら月乃は横に並んだ。
月を見上げたまま微笑むLUNAに、静かな時間は雲を呼び、徐々に月を隠していった。
「いざよいの月も見えなくなってしまいました。お部屋へ・・・」
月乃の言葉は途切れた。
月を隠す雲を追いながら、唐突にLUNAは話し始めた。
「消えない不安は広がって、微かな希望を隠してしまう。・・・自分のことさえ分からない私。そんな私に毎回違う表情を見せてくれる月だけれど、月はただ決まり事として自転しているだけよね。崇める私たちの感情が月の姿を美しくも、悲しげにも、慈悲深くにも変えて見せるだけ。今も私の囚われている感情が月に映っているだけ。月乃さんはそう思わない?」
「そうですね。今夜の月はどうですか?」
「月よ、ただそこにある・・月」
低い声で言い放ち、背を向けLUNAは部屋へと向かった。
その後ろ姿はかげりゆく月光の硬い鎧をまとっていた。
新月の夜、混雑する都心のTホテルの玄関。
高級車から降り立ち、月の遣いとともにLUNAはホテルに入った。
LUNAの一行とすれ違った1人の男が立ち止まった。
忘れられない女の香りに男は戸惑いの表情で回りを見渡し、若い女を探した。だがその女は、人ごみの中に消えていた。
すれ違い。歯がゆく、切なく、狂おしく、愛おしい時間が織りなすひと模様。人と関われば色々なすれ違いが生じます。気づかなければ過ぎ去ることも、すれ違いに気付くと感情が揺れます。
あの時・・・と思っても取り戻せない時間。でもやり直すことはできるかもしれない・・・




