明の章 使嗾の根源~生命~
海に消えたルナは、実業家樫戸綾の配下の仁科月乃に付き添われ、京都の月読神社近くの綾の別邸で意識のないまま命を繋いでいた。月の遣いと呼ばれる月乃は、毎夜月を見上げながら謎の女性の目覚めを待っていた。
京田辺町、月読神社近くの樫戸綾の別邸。
仁科月乃は黄昏ブルーの空に現れた二日月を見ていた。
月乃は繊月という別名を持つ二日月が好きだった。
新月の暗闇から目覚め、透き通るような光を放つ細い細い月。束の間に現れ、すぐに西の空へと姿を隠す。
月と名乗るにはあまりにもか細い姿でありながら、明日へと繋ぐ無くてはならない存在感に強く惹かれた。
西の空に二日月を見送り、月乃は別邸の2階和室のベッドに横たわる美しい人を見た。
この人がいずれ月の姫と呼ばれる人。
医師免許を持つ月乃は、突然WOMプリンセスの会長、樫戸綾に京都の別邸に来るように言われた。
そこには5月の始めに日向灘で遭難したという女性が運ばれていた。
目立った外傷はなく、海水も飲んでおらず、外洋で遭難したとは思えなかったが、ただ2週間経っても意識が戻っていなかった。
「あなたが月の姫にふさわしいのならば、今日が二日月、月が満ちるまでに目覚めるはず。そうしたら私はあなたを月の姫と認めましょう」
月乃はそんな思いを胸に秘め、今日も診察記録を取り始めた。
WOMプリンセス会長の樫戸綾は東京で夜の店をいくつも経営し、コスメブランドをネットで展開している実業家。
そして月の姫とは月読命が持っていたという変若水の継承者。
変若水を飲むと若返るという言い伝えがあり、樫戸綾はそれを利用し、奇跡の化粧水と称して売り出そうしていた。大がかりなイベントを開催し、会員制でその中でも特化した顧客のみを招待し、優越意識を煽ろうというのだ。
このプロジェクトに携わっているのは、月の遣いと呼ばれている御剣、咲紅、雨弦、砂弦、そして月乃の5名。月乃以外のメンバーの本名は明かされず、部下や対外的にはそれぞれの月にちなんだ名前で呼ばれていた。
当初、月乃は化粧品の開発に医師として携わっていた。このプロジェクトが始まってすぐに、開発部から企画部へ移動した。
企画部の幹部として、満月の夜会を仕切る御剣、新月の宴を仕切る咲紅、月の姫を守る雨弦と砂弦、そして月の姫のすべてを管理する医師の月乃の5人が配属されていた。
ひと月に一度満月の夜、2百人程度の規模で満ちる月の夜会が開催され、客たちは月の姫と席巻する。
その2百人はデータに基づき選ばれ、予め健康チェックと称して様々な検査を行い、より詳しい情報を集めていた。
かなり詳しい個人情報であっても、ほとんどが美容を意識している女性のために、拒否されることはない。その中から月の姫に選ばれた5名が、家族とともに半月後の新月の夜、目覚め月の宴に参加する。この会にはV I P の参加があり、内容は月乃たちにも詳しくは明かされていなかった。
美しい人が保護されたのも、クルーザーでのV I P会議の最中だったと聞いた。何かがあるように思っていたが、月乃には関係ないことと割り切っていた。
翌日の同じ時刻、月乃は美しい人の部屋を検温のために訪れた。
夕間暮れの中に肌の白さがほのかな明かりを放っているように見えたが、美しい人の目覚めの兆しはなかった。
その後、月乃は一通りの仕事を終えると、夜空を一望できる広々としたベランダへと出た。
西の空には三日月が研ぎ澄まされた鎌のような姿で現れていた。
三日月、束の間の繊月の意を継ぎ、人々に月としての姿を鮮明に魅せる。
初月とも、若月、眉月など呼ばれ、古き時より人々に親しまれている月。
そんな月の始まりを見届けたようにベランダの戸締りとカーテンを閉めると、部屋をた。
その人は美しいままそこにいた。
幾日か経ち、日没のころ南の空に上弦の月が輝く姿を現した。弓張月ともいうこの月は西の空に沈むとき弦が上向きに沈むことから上弦の月と呼ばれるらしい。
美しい人は月の明るさが増していくのとは反対に夜の闇にその謎めいた姿を隠そうとしているように思えた。
そして上弦の月より少し膨らんだ十日月 (とおかんやの月)が過ぎた。
十三夜の月の夜
月乃は月を眺めながら未だ目覚めぬ美しい人に初めて話かけた。
「今日は十四夜・・・古来より満月の次に美しいと言われている月が出ています。人は少し陰りのある美しさにも惹かれるのでしょうね。美しいあなたになぜか寂しさを感じます。私は・・・」
月の満ちる前の夜。診察を終えると月乃は、ベランダへ出た。
薄雲のある空に月が出ていた。
十四夜その月を小望月という。その月は幾望とも言われ、近いという意味を持つらしい。目覚めが近いと思ってもいいのか?
遠くに見える月に雲がかかり始めた。明日の夜、満月は姿を見せるのだろうか?
雲が月を覆い始めると、月乃は部屋に戻った。
呼吸さえ聞こえぬこの美しい人は目覚めるのだろうか?命の限界はとうに過ぎているのに、ただ見守っているだけの毎日。でもこの人は生きている。
満月に目覚めるという何の根拠もない月乃の思いは、雲の広がりに覆われてしまった。
そんな月乃の心を、雲間に見え隠れする月明かりが慰めるように優しく届いた。
「私はあなたの目覚めを待っています」
月乃は、目覚めぬ人に気持ちを伝えて部屋を出た。
満月の夜、月乃は就寝前の診察に美しい人の部屋を訪れた。
ここ半月の間、月が満ちていく中、美しい人には何の変化も起こらなかった。
その状態から見ても、今夜突然目覚めるというのは確信が持てなかった。
半ば諦めて、和室の障子を開けた月乃は、目を疑った。
ベッドに美しい人の姿はなく、ベランダ側のカーテンが大きく揺れていた。
月乃はカーテンの影に隠れて外の様子を見た。
そこには今しがた満月から降り立ったように、月映えの女性がたたずんでいた。
薄絹をまとい月光に浮かび上がった美しく輝く姿に、月乃は己の言葉を思い出していた。
「満月のこの光の中に目覚めたあなたは、確かに月の姫、月の姫と認めましょう」
月乃はガウンを手にベランダに出ると、彼女の肩に掛けて、少し離れた。
月と月の姫を結ぶ光の帯に、遠い昔に聞いた、月に帰る姫の物語を思い出した。
月光に守られているような風情に近寄り難いものがあった。
「お目覚めですか?ご気分はいかがでしょう」
彼女は先行く月の光に促されるように振り向いた。
その瞳に映るものは何もなく、視線は月乃にさえ留まらずにさまよい、煌々と輝く月に戻った。
医師であることを忘れてその姿に見入ってしまった自分に気づき、月乃は月の魔力を感じずにはいられなかった。
我に返った月乃は、自己弁解していた。
「この環境にあの姿、・・・私の想いどおりの結果、誰でもおかしくなるわよ」
気を取り直して、彼女の背中に手を当てて促した。
「お部屋に入りましょう」
抵抗を覚悟していたが、彼女は宙に浮くようなふわりとした動きで素直に従い、定まらない視線のままベッドに横たわり、静かに目を閉じた。
診察をすると熱は平熱で脈も落ち着き、健常な状態だったが、この人に月の姫の仕事が務まるのか?
月乃はためらっていた。
このままそっとしてしておいた方がこの人のためなのでは、と感じていた。
「私が決めることではないわね」
その夜のうちに、目覚めまでの経過と状態を樫戸綾に報告した。
ルナの物語。月乃と同じように毎夜月を見上げて過ごしました。遠い昔、月の名前の名付け親はきっと感性豊かなロマンチストだったのでしょうね。時間に追われる日常に、少しだけ時間を見つけて月と戯れれば・・・月の魔力にかかってしまうかも・・・




