明の章 使嗾の根源~生命~
携帯を返す日、まだ入院中だと聞き、一度訪れた特別室に向かった。
ドアを開けると、ベッドの中で少し傷は残っているものの活発そうな女性が、はじけるような笑顔で雄介を出迎えた。
「宇佐野さんでしょう。よくいらしてくださいました。そちらへお掛けになって」
特別室らしい豪華なソファーを指した。
そこには病院には似合わない派手な服装ではあったが、魅惑的な先客が座っていた。
「鈴音、私を助けてくれた人。宇佐野さんよ」
白峰鈴音は名のごとく、涼やかな瞳と声の持ち主だった。
「宇佐野さん、私の親友を助けてくれてありがとう。でもお話を伺って驚いたわ。天ヶ淵を偶然、通りかかったなんて、本当に運命ってあるのかもしれないわね、市子」
「そうなの、これは運命でしかないの。だから、宇佐野さんはずっと一緒にいてくださるのよ」
市子は雄介が断りに来たとは思っていなかった。
「あら、そうなの。良かったわね」
鈴音はそう言うと、よく通る声で笑った。
雄介はこの声に聞き覚えがあるように思ったが、喜ぶ市子を見ると慌てて、率直に断りの返事を告げ、スマホをテーブルの上に置いた。
「大山さん、今日はこのお話をお断りしようと思ってきました。預かっていたスマホをお返しします」
市子の顔が一瞬で青ざめ、身体が震え出した。
「いやよ、お願い私の側にいて、私を守って。あの人みたいになるなんていや。怖い、怖い」
付き添いの看護師が医師を呼んだ。
雄介は、市子の変わりように驚いたが、あの子という言葉が気にかかり、鈴音を見た。
鈴音は落ち着いていて、雄介の尋ねたいことを察していた。
「1年前に同じようなことがあって狂ってしまった女の子がいたの。そして今度は市子が狙われて・・・次は私かもしれない・・・」
鈴音の言葉尻は消え入りそうな声になっていた。
医師が入ってくると鈴音は何も言わずにコートを取り、病室を出ていった。
入れ替わるように、市子の世話をしている大山狭霧が入ってきた。
「市子さま」
大山狭霧は声を掛けて医師に視線を移した。
「大丈夫です。少し興奮されたようですね。落ち着かれるようお薬を出します」
雄介は廊下に出て、大山狭霧を待った。
「何があったのか、教えてください」
大山狭霧は雄介に詰め寄った。
「仕事の件をお断りしただけです」
「ああ・・・そうでしたか」
納得した大山狭霧は、場所を変えて話がしたいと事務所らしきところへ雄介を案内した。
雄介は、鈴音の話していた狂った女の子が気になっていた。
芽唯が発病したのと同じ時期、同じ場所、恐怖に取りつかれる症状も同じ。
偶然なのか?雄介は、確かめずにはいられなかった。
雄介は大山製薬の支店の会議室に通された。
大山狭霧がおもむろに切り出した。
「やはり、市子さまの頼みは叶えていただけませんか?」
雄介は首を横に振った。
「ご無理は承知いたしております。1ヶ月でもいいのです。市子さまが東京に帰られて落ち着かれる間でいいのです」
大山狭霧の切実な想いに嘘はなく、市子が雄介しか頼れないというのも、恐怖と不信感がさせていることと理解できた。人との接触を拒む芽唯とかぶった。
「狭霧さん、ひとつお尋ねします。病院で市子さんがあの人みたいになるのはいや、と言ってました。あの人とは誰のことかご存知ですか?」
大山狭霧の握り占めていた両手に力が入った。迷いが感じられた。大山狭霧は躊躇しながらも重い口を開いた。
「昨年の梅雨の時期でした。お嬢さまよりひとつ年上の方が矢口神社の近くで意識のない状態で発見されました。
何週間も意識が戻らず、目覚めた時には抜け殻のようだったそうです。噂の域でしかありませんが、発狂して病院に隔離されているとか、自殺したとか、行方が分からないとか、その後のことをはっきりと知る人はいません。
ただオロチと呼ばれる者がいて、その連中が若くきれいな女性をいけにえにしているとまことしやかに言われています。
ですから、市子さまはそんなオロチから命がけで助けてくださった宇佐野さんを、誰よりも頼りにされているのです」
「でも今は大丈夫ではありませんか?こうして皆さんに守られているし、警察も動いてますよね」
「これも噂なのですが、オロチは繰り返し襲って来て、恐怖の闇に引きずり込むと言われています。
命を奪うことはありませんが、その人が笑顔を失うまで付きまとうのです。
一度恐怖を味わうと根も葉もないことでも気になるものです。
市子さまはこのままでは一生おびえた生活を送ることになります。宇佐野さん、改めてお願いはできませんか?」
「オロチ、そういうやつが本当にいるんですね」
雄介は市子を助けたときの男たちを思い出していた。
「宇佐野さんは目撃されていますね。オロチかもしれない奴を」
雄介は返事をしなかった。
雄介の高ぶった気持ちの奥で、動いてはいけないと諌めるものがあった。
大山狭霧の口調が強くなった。
「オロチは残酷な子供の遊びを大人がやっている。周到に計画し、嵐の中人気のない所で実行する。正体もわからず証拠もない。
宇佐野さんが見た男たちだって、未だに何者か分かっていない。
その上被害者は恐怖に怯え記憶は消えてしまっているから、被害者の証言も取れない。
一事例だけ表に出ていますが、その実は被害者が恐れて被害届を出さないので、事件になっていないものがあると思います。巧妙なのです。
目的は被害者に恐怖を与えるだけのように見えますが、もしかすると危険な組織が動いているのかもしれません。
あくまで憶測ですが、前の被害者のご両親はたくさんの不動産をお持ちでした。しかし、今では売り払って引っ越されてしまいました。」
雄介は黙っていた。最初の被害者とは芽唯のことと想像できた。
だからこそ引き受けることできないと思った。
「市子さまはオロチの唯一の目撃者なのです。このままで終わるとは思えません」
「たとえ市子さんが目撃していても、オロチも危険を冒してもう一度狙うとは思えない。狭霧さん、危険な組織と言われましたね。心当たりでもあるのですか?」
「八神会という表向きは問題はありませんが、その実は非社会的組織があります。最初の被害者の不動産を買いたたいて転売したのはその八神会なのです」
雄介は耳を疑ったが思わず尋ねていた。
「八神会?」
「ご存知ですか?」
「いいえ、いいえ・・・」
大山狭霧は雄介の反応に首を傾げたが話を続けた。
「お話した通り、市子さまは大山製薬の後継者です」
「だからといって今さら八神会が市子さんをどうにかする必要がありますか?」
「転売した土地にできるのが製薬絡みの建物らしいのです。東京の病院が関係しているとか言われています。そうなると話は違ってきます」
雄介は八神会という名前を聞いて、込み上げてきた怒りを抑えることができなかった。
ぎりぎりと奥歯が鳴っていた。市子のこともオロチのことも芽唯のことさえ、怒りに押されて消えていた。
「宇佐野さん、どうかされましたか?」
「とにかく、俺には市子さんを守ることはできないです。すみません」
冷静さを失った雄介は、振り返ることなく部屋を出た。
「お待ちください。お願いですからもう一度考えてください。市子さまを助けてください」
大山狭霧の引き止める声は、閉じられた扉で雄介には届かなかった。
事務所を後にした雄介は、怒りに任せ走り始めた。
雄介は後をつけられていることに気づかず、真っ直ぐに竹林庵へ向かった。
翌日、風もないのに竹が騒々しく動いていた。
昼食の用意をしていた芽唯は、手を止めて震え出し、逃げるように部屋に入ってカーテンを閉めた。部屋の隅に座り込んだ芽唯の顔は、青ざめ、恐怖に凍りついていた。
芽唯の異変に気づいたばっちゃまは、すぐさま芽唯に薬を飲ませると事務所に入り、パソコンに向かった。
雄介が昼食に戻ると、ばっちゃまが芽唯の代わりに準備をしていた。
「ばっちゃま、芽唯はどうした?」
「調子が悪くてな、部屋で横になっている」
「大丈夫なのか?」
「う・・ん」
ばっちゃまの返事が重かった。
「雄介、早く食べろ」
急かすように言うとばっちゃまは自分の部屋に行った。
そのころ、竹林庵の登り口では、フードを被った数人の男がうろついていた。
「ここで間違いないのか」
「奴はここから登っていった。どうする?」
「行ってみようや」
「面白そうだな、あいつのせいで余興が途中で終わっちまったからな」
「余興は最後まで楽しまなきゃな」
男たちは竹林庵の入口を登り始めた。
すぐに先頭の男が止まった。
「行けねえぞ」
「退け、俺が行く」
先頭を代わった男が大げさに声を上げた。
「痛ぇ」
「どうした?」
「竹が刺さった」
行く道をふさぐように折れた竹の根元が斜めに尖っていて、先には進めなかった。
「おかしいな?回り道はないし、・・・あいつはどこに行ったんだ」
思わず見上げると、頭上の竹がかぶさってくるように見えた。
「なんか、やばいぜ」
「おい、おい、何言いだすんだ」
「引っ返せ、帰るぞ」
「日を改めて、来りゃいいし」
男たちは追手から逃げるように慌てて山を下りていった。
食事を済ませ、片付け終わった雄介が芽唯の部屋の前に立っていると、隣のばっちゃまの部屋の開いた扉から話し声が聞こえてきた。
「そうか、帰っていったか。よかったよ。ありがとうな、透久那」
「ばあちゃん、今日は大丈夫だけどあいつらはまた来るよ」
「そうか、困ったな」
「周りは固めておくから入ってはこないけれど、芽唯ちゃんがそれを感じて怖がっているから、考えないとね。あの人に相談した方がいいよ」
「そうだね、話してみるよ」
「ばあちゃん・・・」
「心配しなくて大丈夫だよ。また顔見せておくれ」
「もちろん、ばあちゃん、またね」
雄介は音を立てずに部屋を離れた。
「ばあちゃん?透久那って誰だ?パソコンで話してたのか?あいつらって、芽唯が怖がる・・・」
雄介はオロチが関係していると直感したが、雄介は自分の部屋に帰るとしばらく考え込んでいた。
あの台風の夜のことに繋がっていると思い、ばっちゃまに話そうと部屋を出た。
台所に芽唯の姿はなく、ばっちゃまが料理していた。
「ばっちゃま・・・」
声を掛けるといつもの笑顔でばっちゃまが振り向いた。
「どうした?雄介」
「忙しいな、今・・」
「なんか話でもあるのか?」
「芽唯だけど・・・」
「ちょっと待ってな、仕込みするから」
雄介はそう言うばっちゃまを食堂で待った。
握った拳を口に当てて、噛んだ唇を隠していた。
しばらくしてばっちゃまがお茶を持って食堂に入ってきた。
「どうした?雄介、難しい顔して」
「ばっちゃま・・・俺が原因かもしれない、芽唯がおかしくなったのは」
驚いた顔でばっちゃまが尋ねた。
「どういうことだい・・・何があった?」
雄介は台風の夜のことを話した。
「そいつらがオロチなのかもしれない」
「そう思うのか?」
「市子さんの会社の人もそう言ってたし、市子さんと芽唯は恐怖に対して同じ反応をしている。芽唯も天ヶ淵で同じようにひどい目にあったのかもしれない」
ばっちゃまはお茶を一口飲んで雄介の顔を見た。
「それで携帯は返したのかい」
「昨日、返してきたけど・・・」
ばっちゃまは何か考えているようだった。
「雄介、そのことは誰かに話したのか?」
「知っているのは警察と病院関係の人と、市子さんの家族、狭霧さん、会社の人だけだけど」
「だったら外に漏れることはないね」
「そういえば、市子さんの親友の、ええと白峰何とかって女の子が来てた。その子も市子さんが襲われたことは知っている」
「白峰鈴音・・か」
「そう鈴音っていう名前だった。ばっちゃま知ってるのか?」
「ああ、有名だからね」
雄介は問い返すのをためらった。
ばっちゃまは何か思い当たることがあるようだった。
雄介はうなじを垂れて黙っていた。
「雄介、少し時間をくれな・・・それから・・・芽唯のそばを離れんでくれ」
静かに席を立って台所に戻って行くばっちゃまを見上げながら、雄介はうなずいた。
その夜の夕飯に芽唯が姿を現した。
芽唯は落ち着いているが、うつむく姿は痛々しさが増していた。
雄介は自責もあり、駆け寄りたい衝動を抑えていた。芽唯を抱きしめたくなった。そんな気持ちが前に出たとき、芽唯は立ち止まり雄介のほうに少し顔を向けた。
「ありがとう、大丈夫よ」
その小さな仕草が雄介の気持ちに答えていた。
芽唯はすぐに背を向けたが、そんな姿に雄介はか細い肩が背負ったものを己の手で祓ってやると誓っていた。
芽唯は竹林庵での日常を取り戻し、雄介はいつも芽唯の姿を目の端に置きながら、農作業で汗を流していた。
あれ以来、雄介は竹林庵の山から出ることはなく、竹の座での時間を楽しんでいた。
そんなある日の帰り道、雄介は竹林庵への登り口で不審な男たちを見つけた。
その姿はあの日の男たちに間違いはなかった。
反射的に雄介が竹林庵の登り口へ向かおうとしたとき、竹のカラカラかたんという小さな音が無数に聞こえたかと思うと、竹林庵の入口付近の小竹が折れ曲がり、突き出て、あっという間に母屋に通じる道がなくなった。それはまるで竹の意思でふさがれたようだった。
男たちは口々にを悪態をつきながらいなくなった。
雄介は登り口だけではなく、竹林庵の周囲をくまなく見回り、男たちが消えたのを確認して母屋に向かった。
その途中、不意に云い知れない不安が雄介を襲った。
「芽唯、芽唯、・・・芽唯」
あいつらのせいで芽唯が苦しくなるのかもしれない。何故あいつらがここにいる?
俺が後をつけられたのか?でもいつ?病院に行った日しかない。でもあの日は人に会ってない。
雄介は母屋に飛び込んだ。
「ばっちゃま、芽唯は大丈夫か?」
ちょうど、ばっちゃまが芽唯の部屋から出てきた。
「雄介か、芽唯は少し具合が悪いから横になってる。薬を飲んだし、前よりも軽い発作だから心配ない」
ばっちゃまは雄介を食堂に来るように手招きし、座るように促した。
「どうして芽唯の具合が悪いのが分かったんだ?」
「あいつらが、オロチのあいつらが登り口のあたりをウロウロしてたんだ。そしたら竹が・・・」
雄介は口ごもってしまったが、勢いで続けた。
「いや、そしたら芽唯のことが気になって、あいつらが芽唯のこと追い詰めて、芽唯はあいつらに追い詰められて・・・」
「雄介、落着いてくれ。ほれ、座われ。芽唯のことを話すから聞いてくれるかい?」
ばっちゃまは興奮している雄介を座らせ優しい表情で話し始めた。
「芽唯は、優しくて素直な女の子だった。
大学じゃチアリーダーとかいうのをやっとった。
去年の梅雨明け前に帰ってきたときだった。雨の中を濡れて歩いている人を親切心で送っていったらしい。乗せるところを見ていた人がいてな、そう証言した。
その帰りに連れ去られて発見されたときには意識もなく、命も危なかった。何とか一命は取り止めたが、半年は生ける屍・・・意識が戻っても話せない、食べれない、眠らない、瞬きをしない」
「瞬きをしないって・・・」
「目を開けたら閉じることができなかった。
夢でうなされ、怖い、怖いと叫び、天ヶ淵、天ヶ淵と呪文のように震えながら繰り返し、飛び起きては目を見開いたまま失神する。そんなことの繰り返しが何日続いたのか・・・
だがな雄介、芽唯は負けなかった。壊れかけている心を持ちながら、何とか生きようとしていた。芽唯自身の生命力がここまで芽唯を回復させた。
芽唯の生きようとする力を信じたから、預かった。ここにいれば、オロチの脅威を受けずに済むから。繰り返しの恐怖で芽唯はオロチを、オロチの微かな気さえを感じ取ってしまうようになった。
だから今日もオロチ・・オロチなんだろうな。その連中が近づいたから体調を崩した、というより全身ですべてを拒否した。
ここではなかったが、病院でも何回かあったらしい」
ばっちゃまはいったん言葉を切った。
「雄介が見た輩に、芽唯が反応したのだからオロチなのかもしれないな」
「俺がオロチをここに連れてきてしまったんだね。芽唯のことばれちまったんだ」
雄介は声を震わせ頭を抱えた。
「雄介、芽唯のことは大丈夫。ここになら守ってやれる。オロチからはな」
雄介の上げた顔に安堵の色が走ったが、ばっちゃまの硬い言葉で微かに見えた光は消えた。
「だがオロチが現れるたびに芽唯は追い詰められる・・・回が増せば、持たないかもしれないな・・・」
雄介の中で、川面に立つガラスの芽唯が割れ、壊れていった。雄介は再びうなだれた。
「雄介、心配だがそんなに芽唯はもろくない。オロチ退治の方法を考えような」
雄介は自信なくうなずいた。
雄介は竹の座へ向かった。途中、竹林庵の登り口に回ると、道をふさいでいた竹は消えていた。
竹の座で雄介は、オロチの退治方法を考えることにした。
「オロチは芽唯がここに保護されていることを知らない」
「もし、知ったとしても、この山には仕掛けがある。オロチが来ても芽唯の体は守れる」
「だが、オロチが近づく、それだけで芽唯の心は破壊される」
「だから、ここにオロチを近づけてはならない」
「なぜ、オロチは何回もここに来るんだ?」
「オロチの狙いは・・・俺・・か?」
「俺が狙いなら、叩き潰せばいい。でも、ことが大きくなると迷惑がかかる」
「・・・俺が狙いなら、・・・俺がここを離れればいい」
雄介は早々に結論を出した。
雄介は竹の座で、次にオロチが現れたら竹林庵を出ると決めた。
誓いに近いものだった。
だが、芽唯の顔を見ると決心が揺らいだ。
迷いが出てきた。芽唯が雄介を必要としていることがわかったから、離れたくなかった。雄介は芽唯の穏やかな日常を守ってやりたいと思っていた。
それが今の雄介の存在理由だったから。




