明の章 追憶の陽炎 ~身命~
ある夜のこと、大戸野は和久に代わり久しぶりに白湯を持って那美の部屋を訪れた。
「那美さん、少し話をしましょう」
那美は聞く気はないらしく、無言で手遊びを始めた。しばらく大戸野も白湯を飲み、過ごした。
「私は話すことはないけど」
「そうですか」
那美が20年の眠りから目覚めた時のように、ゆっくりと時間が過ぎていった。那美は何も言わなかったが、大戸野の感情を読み取ろうとしているのがわかった。
大戸野は那美に1枚の写真を渡した。那美は興味なさそうに写真に目を向けたが、理解をするのに時間はかからなかった。愛した男性と小首を傾げる少女。那美は説明を求めるように大戸野を見た。
「女の子はあなたの娘、瑠瑚ちゃんというらしい」
那美は写真を見ながら、ホロホロと涙を流していた。
「桃子さんと同じくらいの年齢らしい。会いに行きませんか」
那美は素直にうなずいた。
翌日那美は、和久に20年前のことを聞きたいと申し出た。
「和久さん、あの日のことを教えてください。私の赤ちゃんは・・・」
和久は椅子に掛けている那美を前に、言葉を選びながら話し始めた。
「帝王切開分娩は成功しました」
那美はその言葉にほっとしたようだった。
「しかし那美さんの意識は戻らず昏睡状態のまま、大戸野先生の診療所にナル先生によって運ばれました」
「どうして赤ちゃんは一緒ではなかったの?なぜ離れ離れになってしまったの?」
「それは・・・赤ちゃんが・・・赤ちゃんは未熟児でした。あの日那美さんと赤ちゃんは隔離病棟に移ることになっていたのです。
原因を調べるということでしたが、隔離されるということは、面会もままならなくなります。ナル先生はとにかく那美さんだけでも退院させようと、病院の許可も取らず連れ出しました」
那美は叔母だと思っていた母親のナルのことを思い出していた。
「那美さんをナル先生に託して病院に戻った後、大きな地震がありました。その後病院は大変なことになりました。私も稲木先生の姿は見かけましたが、対応に追われてしまい、落ち着いたころに確認したところ、那美さんの赤ちゃんの消息は不明でした」
「消息不明?病院なのに、動けないのに、いなくなるはずない」
信じられない様子の那美は妙に落ち着きがなくなった。
「でも那美さん、赤ちゃんは助からない状態だったのです」
「助からないなんて無事生まれたのでしょう。どうして?」
那美は立ち上がり、和久に詰め寄った。
「那美さんは出産後、原因がわからない血管腫が広がり、感染症の疑いもありました。そして赤ちゃんも同じ症状で生まれてきたのです。全身が血腫で覆われていました」
和久は迷った挙句、話を続けた。
「稲木先生は赤ちゃんを何とかしようと考えておられたように思います。私の憶測ですが、当直の稲木先生が出かける準備をされていたのです」
「賢一さんは・・・」
「でも赤ちゃんは生死が確認できないまま、死亡届が出されました。稲木先生は了承されたようでした」
「そんな馬鹿なこと」
那美は絶望に押し殺された悲鳴とともに、崩れ落ちるように意識を失った。
那美が昏睡状態に陥って3日経った。
その間大戸野は何の処置もせず、ただそばに付いていて記録を取っていた。そんな大戸野に研究者の姿を見た和久は、少なからず大戸野に対し不信感を抱き始めていた。
その夜、和久は大戸野に白湯を持って行った。
「先生代わりましょう。お疲れでしょう」
「ありがとう。そうですね、お願いしましょう」
そう言っても大戸野はすぐに代わろうとせず、和久の不信感を見透かしたように話し始めた。
「和久さん、私は20年間、この様に那美さんのそばにいました。
多少の知識があっても、那美さんのこの脅威に太刀打ちできないと思っています。こうして何の手立てもできず、傍らでただ待つことだけが、唯一私にできることだと分かったのです。
強いて言えば、触れてはいけないものがあることを知りました。きっと那美さんの中では計り知れないことが起こっているのでしょう。
医学を志したものとして、那美さんの体の中で起こっていることを解明したいと思うこともありました。
しかし私は那美さんの親ですから、娘の命を守らなければなりません。那美さんの体には、いかような医療行為も行ってはいけないと思っています。
注射針を刺すことさえ躊躇いがあります。たとえ那美さんがこのままだったとしても、すべてを受け入れようと思っています」
大戸野は父親の顔に戻り、穏やかに話し席を立った。和久は、老いた後ろ姿を目で追いながら呟いた。
「20年間、何もせず・・・違いますね。してはならないと診断された。お医者様なのに手当を断念して、見守ってこられたのですね。なんて辛いこと、私は何かをせずにはいられない」
和久は、那美を託された大戸野の心中を思い、深いため息をついた。
ナル先生は、母親のナル先生は、那美さんがこんなにも苦しい人生を歩かなければならないことがわかっていたのだろうか。
あのまま病院にいたとしたら、那美さんはどうなっていたのだろうか。
あのとき那美さんの望み通り自然分娩を選んでいたら、赤ちゃんは無事に生まれたのだろうか。
今の和久には過去には戻れないことは分かっていたが、過去にしか希望を探せないほど、未来を照らす光のない那美に心が痛んだ。
和久は、那美の顔を見た。苦悩の色に沈んだその寝顔は、苛酷な試練が深く刻まれ、絶望の中で自分を消し去り、なすすべもなく、那美はただ存在していた。
このままではあまりにも悲しい。和久は、人生はやり直せると思っていた。信念をもって看護師の仕事をしてきたが、那美のことだけは悔やまれた。今度こそ那美が穏やかな人生を取り戻すことができれば、後悔の日々を振り返らずに済むと思って那美のもとへ来た。
だが、また何もできずにいる自分が腹立たしく、苛立たしかった。
「存在している。存在しなければならない?」
ふと和久は、自分の言葉を繰り返していた。
那美さんの生きる意味は、生きていなければならないから。存在し続けることが那美さんの使命ではないか。
私は何があっても、那美さんがどう変わろうと、那美さんの命を守ればいい。和久は、胸を張り、自分に言い聞かせるように言葉にした。
「那美さんに生きてもらうことが私の使命」
那美さんは妊娠と同時に血管腫を患い、血液に覆うわれた赤ちゃんを出産した。災害の中でも命をつなぎ、20年間の時を経て今も存在している。
理由は分からないが、その事実こそが真実なのかもしれない。気持ちを新たに那美を見た。那美の唇がかすかに動き、かすれた声がした。和久は、耳を寄せた。
「和久さん・・・」
「那美さん、よかった。気づかれましたね」
「和久さん、私夢を見ていたの」
「そうですか、後で聞かせてくださいね」
「今でないと・・・いなくなってしまうの」
話ができる状態ではないと分かっていたが、那美の切迫した様子に那美の手を握り、顔を寄せた。那美は肩で呼吸をしながら話し始めた。
「私は山頂に立っていたわ。空はとても美しい光に輝いていたけれど、その下はくすんだ青い霧がうずまいていた。途方にくれていた時、引き込まれるように霧の中へ落ちていったの。その時助けてくれたのが小夜美さんだった」
那美はとぎれとぎれではあったが、はっきりとした口調で、夢の中での出来事を話し終えた。
「小夜美さんは私に生きろというの。2人の子供たちと幸せにならなきゃいけないっていうの」
「そうです。元気になって会いに行きましょう」
那美は目を閉じて、かすかに首を横に振った。
「私、おばあちゃんみたいだったわ。こんな姿で賢一さんに会いたくない」
「那美さん、そんなことありません。おばあちゃんだなんて」
「ホテルのロビーのガラスに映っていたの。私、私、」
時の移ろいは偶然の中で残酷な事実を映していた。
顔を覆い泣いている那美に、和久は唇をかんだ。
生きるとは何なのだろう。那美さんは確かに20年間生きていた。その証は記録として残された何冊ものノートがある。だがそこには那美さんの意志や感情は一切書かれていない。
時の移ろいはゆっくりと拒否のできないスピードで人々に老いを重ねさせる。子供の成長や親の老いた姿に自分を重ねて、知らず知らずのうちに老いを受け入れていく。那美の過ぎてしまった空白の時間は戻ることも、何かで埋めることもできない。
那美さんはこんなに辛く悲しい人生を選んでもいないし、望んでもいなかった。和久は、那美のこれからを考えると運命という言葉で片付けるわけにはいかないと思った。
「声を立てて笑う那美さんに戻ってもらわなきゃね。きっと大丈夫」
和久は那美に対して、看護師としての使命感を思い起こしていた。
確かに那美の話は突拍子もないことのように思えた。
那美は小夜美とともに時をさかのぼり旅をしていたらしい。霧の中から助けられたものの、那美の体は形をなくし眉間のあたりに集まった光の球体の中に那美は存在していたという。
那美が不安になったり、やり切れなくなると球体の発光は弱くなり、その度に小夜美が現れた。
小夜美とは一緒にいても会話をしたわけでもなく、那美から頼みごとをしたこともなかったが、小夜美ははっきりとものの言えない那美に代わり、代弁者のように振舞い、強い那美を出現させていた。
死を望む那美を小夜美が諌め、励まし、現実を受け入れさせようとした。だが生きることを強要していた小夜美が、突然旅の終わりを告げ、後は那美次第と伝え、消えていったという。
小夜美とは何者なのだろうか。
人は無意識のうちに自己が壊れかけるときを知ると、何らかの形でそれを阻止しようとするのかもしれない。
信頼できる人に助けを求める人、壊れることを受け入れ自分の世界だけで生きようとする人、来世を夢見て死を選ぶ人、那美さんのようにもう一人の自分を作り、乗り越えようとする人、様々な人生の選択肢の中で何がその道を選ばせるのだろうか?
答えなどわかるはずもない和久は、那美の話をそのまま信じて大戸野に伝えていいものか迷っていた。
「そう言えば、私も独り言が多くなってたな。誰と話してたんだろう」
クスッと笑うと、和久は疲れ果てて再び眠りについた那美の寝具を整えようとした。
そして那美の首筋に目を止めた。
ゆっくりと毛布を剥ぐと、那美の胸元から首筋にかけてところどころが熱を持ち、火傷のように赤くなり始めていた。
診察室に慌てて駆け込もうとした和久の足が止まった。
「火傷は治る。特異体質だから、治療は不要・・・だった」
毛布をかけ直して大戸野のもとへ報告に向かった。
「先生、那美さんの体がまた火傷のようになりはじめています。処置はされますか?」
大戸野は和久とともに那美のもとに向かい、患部を診たが何にもせず、毛布を掛けながら驚いた様子もなく、事もなげに答えた。
「前回と同じですね。様子を看ましょう」
分かり切った答えだったが、和久は尋ねずにはいられなかった。
「やはり何もなさらないのですか?」
大戸野は少し考えて、那美から和久のほうへ向き直った。
「実は前回出血したところに軟膏を塗りました。そこが悪化して水泡へと変化しました。そう考えると今回は傷がないのに火傷の症状へと悪化しています。処置は見合わせます。熱発したらアイシングをお願いします」
「わかりました」
「それと・・・那美さんに触れるときはグローブ着用してください。道返さんにも話しておきます」
和久は、どうしてという疑問を飲み込んだ。
「ただ和久さん、今回はだめかもしれません。血液検査の結果が出ました。非病原性のウイルスが那美さんの体に何らかの形で影響しています。火傷の症状がウイルスと関係があるのなら、治療のできない状態では覚悟しなければなりません」
和久は、深いため息をつき那美へ向き直った。
「仕方ありません。これは那美さんに課せられたことなのでしょうね。すべてを天に任せましょう」
和久は、大戸野の言葉に思いを同じにした。胸の痛みが広がり、震えている自分に気づいた。
「ところで和久さん、あなたの娘さんはウイルスの研究をされていましたね。今のところ那美さんは大丈夫ですから、申し訳ありませんが、東京の賢一君と娘さんに手紙を届けてくれませんか?」
大戸野の突然の申し出に驚きはしたものの、その言葉に打開策は稲木のもとにあり、すべてが落ち着くところへ落ち着くのではと、那美の未来に小さな光が見えたように思えた。
和久は、梅雨の明けた吾妻山にいた。那美が重篤な状態から回復したのをみて、和久は、3日後に上京を予定していた。その前に登山の経験のある和久は、比婆山縦走を実行した。
2011年に復元されたという比婆山古道を歩きながら、那美を探して霧の中を御陵をめざしたことを思い出していた。闇の中、不安と焦りに追い立てられていた。
それは那美を取り巻く状況と同じだった。だが今は瑞々しい山々の中に身を置き、一歩一歩踏みしめながら登山道を進み、目まぐるしく変化したこの3ヶ月を改めて思い起すゆとりが生まれていた。
那美の状態はまだ予断を許さないが、家族に会えるという希望が那美に力を与え、そのことが和久自身にも影響していた。
光射すブナの林を通り、御陵を守り示すイチイの巨木のもと、那美が命を預けていた御陵と言われる巨石が現れた。
傍らには美古登神社跡があり、いにしえよりの言い伝えをひっそりと守り続けているようなたたずまいに、和久は手を合わせた。
御陵をあとにした和久は、烏帽子山へ向かった。山頂に近づくと一気に視界が開けた。
和久の気持ちも心地よい風に誘われ、晴れやかになった。理屈抜きの感覚に身を任せ、和久は伸びをすると気持ちを新たに、吾妻山を目指した。
比婆山山系で一番の高さを有する吾妻山の山頂にたどり着いた。見上げると雲一つない空が果てしなく広がり、視線を下げると眼下に山並みが続く。
そんな吾妻山山頂にシンボルのエノキが立っている。その姿に、和久は那美を重ねていた。
エノキの幹を撫でながら、存在していることが素晴らしいことなのだと和久は思った。山の天気は一日として同じ日はないという。晴れの日も、雨の日も雪の日も、人の訪れのない日も、自然とともにここに存在しているエノキ。変わることのない姿は、人々に心地よさや安心を与える。
父がそうであるように、母がそうであるように、血のつながりは普遍的なものだからだろう。
でもエノキの木は孤独を知らない。比べて人間は幸か不幸か、感情を持ちイメージを創ることができる。
人は、外からの刺激に一喜一憂する生き物で、一瞬たりとも同じ心ではいられない。だからエノキの木にはなれない。
20年の間、那美の風貌は恐怖に近い変貌を繰り返していた。それでもなお命を保っているということは、那美の命の根源は変わりなく存在しているということになる。那美が存在する意味は何なのだろう。
和久は、答えを求めて上を見上げた。枝の間から空が見えた途端に何かが消えた。諦めに近い脱力感が和久を覆い、気持ちが楽になった。
「どうでもいいことだわ。那美さんが生きていてくれれば、笑っていてくれればそれでいい」
和久は、風に吹かれて身ぶるいした。
「武者ぶるいだわ」
和久は無力だと気付きながらも、あえて挑戦的な言葉を口にして、山を下りはじめた。
次の章は雄介とルナ(ツクヨミノミコト)の物語です
ツクヨミノミコトはエピソードが少なく、関係する神様も少ないためオリジナルの物語になっています




