明の章 追憶の陽炎 ~身命~
和久たちが診療所に着いたのは真夜中を過ぎていた。連絡をしていたので大戸野が待っていた。
報告を受けた大戸野の見解は冷静なものだった。
「様子をみましょう。那美さんは20年間抱えていたことの重大さに気づきました。受け止められないのも当たり前です。ましてや私たちには、那美さんが一番知りたいと思っていることについて答えることができません。和久さんにまた迷惑をかけるかもしれませんが、今は那美さんが乗り越えてくれることを願うだけです」
しかし和久は、日々の生活の中で那美が垣間見せる表情や反応に不安が高まっていった。
那美の勝手な行動は日に日にエスカレートし、駄々っ子のように和久に反抗し始めた。
ある日、道返が慌てて和久を呼びに来た。
「和久さん、来てください。那美さんがケーキを」
和久は、道返が言い終わらないうちに那美の部屋に向かった。
そこにはホールケーキを手づかみで口に入れている那美がいた。
「那美さん、なんてこと・・・やめましょう」
和久は那美の手を掴もうとしたがケーキはこぼれ落ち、その手はそのまま静かに那美の膝まで降りた。手に負えないいたずらっ子のような表情は消えて、満面の笑みで部屋の入口に立つ桃子を迎えていた。
「和久さん、すみません。これ片付けてもらえませんか?」
和久は、那美の少し気取った言い方に困惑したが、とにかくいわれる通り散乱しているケーキを片付けた。
和久の片付けが終わると、那美は口元にクリームをつけたまま桃子を手招いた。
「桃ちゃん久しぶりよね。早くここに来て座って」
桃子はケーキにまみれた那美に近づけずにいた。それを感じ取ったのか那美の表情が曇り、険しくなった。
「桃子さん。これで那美さんの手を拭いてくださいませんか」
桃子は和久に手渡された数本のおしぼりの一本を開き、那美の手を取った。那美は瞬間手を引くそぶりを見せたが、桃子の気持ちを確認できたのか素直に従った。
「那美さん、クリームがついてます。私のほうを見て」
桃子は那美に顔を近づけ、クリームを拭き取った。
「助けて」
どこからか消え入りそうな声が聞こえた。桃子は那美の顔を凝視した。
「那美さん?」
那美は変わりなく微笑んでとりとめのない会話を続けた。桃子は思わず周りを見て、声の主を探した。入り口近くで和久と道返が遠目に見守っているだけで人影はなかった。もう一度那美を見た。
「桃ちゃん、なあに?」
不思議そうに桃子を見た。
「何でもないです。もう一度手を拭きましょう」
少しふっくらとした那美の手は前の印象とは違い、妙な強引さが感じられた。
「桃ちゃんあなたの故郷はどんなところなの?」
「とてもいいところですよ。道返さんと同郷です。」
「そうなの、道返さんは島根の生まれって聞いたわ。田舎だけれど家の近くに死者の国への入口があるって言ってた」
「黄泉平坂ことですね。古事記に登場する、この世とあの世との境目だといわれていますけど・・・」
桃子は話を切って那美の様子を見た。
那美は両手の指を親指から一本ずつ合わせては離すことを繰り返していた。
しばらく黙っていると
「そこに行けば死ねるの?」
指で作った三角の中を覗き込みながら、軽い口調で尋ねた。
「いいえ、すこし怖い感じのところだけど、お話の中のことだからそれはないと思います」
その後は松江や宍道湖の話をして、20分ほどすると桃子は帰っていった。
和久は、落ち着いた様子の那美に検温を促した。
「那美さん、熱と血圧を測りましょう」
だが、和久を見上げた那美の目は鋭く、口調も激しくなっていた。
「何回も何回もくどくどと同じ事ばかり、うるさいのよ。熱はないし、怪我もしてない。私は病人じゃない。あんたは黙って見てりゃいいの。私のすることに口出ししないで」
和久は那美の剣幕に圧倒されたが、取り合わなかった。
「わかりました。またあとにしますね」
拍子抜けしたような那美の顔が和久を追ったが、和久は無視して部屋を出た。
和久は初めて那美に背を向けた。どう考えても今の那美は理解できなかった。幸せになってほしいと願えば願うほど、那美は遠くなっていくように思えてならない和久だった。
「疲れたのかな。今夜は道返さんにお願いしようかな、那美さんのこと」
その夜那美は部屋から消えた。
和久は比婆山の御陵に向かった。車で比婆山古道の入口まで行き、登山道を登って行く。
ブナの純林を過ぎると煙立つように霧が濃くなった。
足元に気をつけながら進むと、樹齢千年を超えるというイチイの老木に囲まれた御陵とされる巨石の前に横たわる那美の姿があった。今回は街の若者に捜索の協力を求めていた。
担架で山を下り、診療所に着くと大戸野が診察をした。
「足の裏が火傷のような状態になっている。何をしたのかな」
「治療は必要ですか?」
「痛がっていないから様子を看てください」
「原因がわからないですね」
大戸野は那美の特殊な体質を考えると常識では測れないものがあるのではと考えていた。那美は生きるために必要とされていることを必要とせずに20年を過ごしてきた。
逆に何かをしてはならないのかもしれない。大戸野は何の根拠もないが結論を出していた。
2日目の朝、那美の足は踝から下が火傷のようになっていた。
「那美さん、痛みはありませんか?」
尋ねる和久に、那美は弱々しく首を横に振った。
「痛くないですか?でも薬を処方してもらいましょうね」
和久は、こんなに酷い火傷、という言葉を飲み込んだ。那美の足は水泡になっていた。
放っておけるものではなかった。和久は大戸野に相談して薬を持ってきた。
「那美さん、薄く薬を塗りますね」
「・・・・」
那美が聞き取れない声で何かを言った。和久は、薬を塗ろうとしていた手止めて、那美を見た。
「私死ぬわよ。そんなものを塗ったら死ぬんだから、やめて、やめて」
和久と目が合った途端に、那美は大声で叫びながら薬を取り上げようと掴みかかった。
和久は驚きはしたものの、冷静に那美を見ていた。
「分かりました。薬は塗りませんから」
和久の言葉を聞きもせず、那美は興奮してまくし立てた。
「私は変わったの。分かる?昔の私ではない。だから放っておいて。火傷?そのうち治るわ。何にもしなくていいの。これだって飲み込んでやるから。弱くて女々しい私はいらない。死にたいなら消えればいい。引っ込んでなさい。私は死にたくないから」
突然那美は震え始め、左手を右手で掴み胸に押し当てた。深く呼吸をして和久に投げ捨てるように言った。
「あなたも同じ。せいぜい気を付けることね。じゃないと死ぬわよ。・・・和久さん、・・・」
数秒間を置き、消え入るような声になり和久の名前を呼ぶと那美は気を失った。
「今のは、何?」
理解できない状況でも、和久は那美の脈を取り血圧を測った。
大戸野の言っていたことが理解の扉を開けた。
那美の特殊な体質だと。だから火傷は治療しなくても治るのだと。那美本人も言っていた。何もしなくていいと。でも死にたいのは誰なの。那美さんは死にたくないと言ってた。引っ込む?消える?那美さんは誰と話していたのか?
理解不能な問題が和久を悩ませた。




