明の章 追憶の陽炎 ~身命~
一週間ほど経った夜、和久は那美に呼ばれた。
「西宮に行きたいの。私、行けるかしら?」
那美は和久がたじろぐほどの強いまなざしで尋ねた。
「西宮ですか?」
「そう、帰りたいの。故郷だから。震災で変わってしまったでしょうけど、帰って確かめたいことがあるの」
「確かめたいことですか?」
和久は、その時が来たと悟った。
あの日の和久だけが知っている事実を話さなければならい時がいつか来る、と覚悟をして那美に接してきたが、それが今だと知っても和久の思考は停止し、
「何から伝えればよいのか、なにを話せばよいのか」
と、思いを巡らせている和久に気づくこともなく、那美は続けた。
「西宮に行けば何か思い出せそうな気がするの。今もぼんやりとしか思い出せない。
入院したことやおば様のこと、結婚していたこと、あの人のこと、思い出のすべてが霧の中でさまよっているみたい。掴もうとすると消えてしまう。
だから和久さん、一緒に行ってくださらない?」
「先生に相談してみますね。那美さん・・・」
那美の穏やかな物言いとは裏腹に、追いつめられた表情が気になる和久だった。
和久と那美が新神戸から三宮に着いたのは午後1時を過ぎていた。
ホテルで休むこともせず、那美は自宅のあった場所とエンゼル助産院に向かった。
那美の住居の後はマンションが建ち、叔母の家は空き地になっていた。
「なんにもない。思い出そうと思っても何も残っていない・・・私は幸せだったの?」
和久は、力なく肩を落とした那美に寄り添うことしかできなかった。
那美は西宮神社に向かって歩き始めた。
「那美さん、大丈夫ですか?タクシーで行きましょう」
「あの年はお詣りできなかったの。ずっと悔やんでいた。大丈夫です。歩いてみたいの」
和久は、半歩下がってついていくことにした。
しばらく行くとえびす宮総本社西宮神社が見えてきたが、近づくにつれ那美の歩調は遅くなり、えびす宮と書かれた鳥居の前で立ち止まった。
「那美さん?」
和久も立ち止まった。那美の様子から迷いが見えたが、何も言わず那美の気持ちに任せることにした。
再び歩き出した那美の前に表大門の赤い鳥居が現れた。那美はまた立ち止まり赤い鳥居を見上げた。
那美の思い悩みたたずむ姿に「那美さん、何と闘っているの?」
そう感じずにいられなかった。
何かを思い出したように那美が足早に鳥居をくぐった。
和久もあとを追った。露店の並ぶ直線の参道を過ぎて右に曲がり、二つ目の鳥居をくぐり、左へ曲がると西宮神社本殿にたどり着いた。
「那美さん、大丈夫ですか?」
那美は肩で息をしていたが楽しげな表情でうなずいた。
「息切れしちゃったわ。お詣りしましょう」
那美は身だしなみを整えると静かに拝殿した。
和久は、そんな那美の願いが何であれ、これ以上那美が悲しまないようにと願い、手を合わせた。
那美は本殿の前にある庭園の池のほとりを歩きながら、独り言のように話し始めた。
「変わらないところもあるのね。賢一さんが福男の真似をして走ったことがあったの。
あの賢一さんがあんなおちゃめなことをするなんて、楽しかった。
朝早くだったから誰もいなくて、賢一さん本気で走ったの。あれは・・・」
那美の話が途切れた。続きが気になったが、和久はあえて尋ねずにいた。
「和久さん、フリーマーケットをしてましたね。見てみましょうよ」
和久を誘うと、返事を待たずに来た道を戻り始めていた。
西宮駅への帰り道に商店街を歩くと、小さな靴屋の前で那美は足を止めた。
「パリの靴屋・・・」
思い出したのか店の名前を声にしていた。
「那美ちゃんじゃないかい?宇治地先生のとこの那美ちゃんだろ」
店の奥から顔を出した店主が声を掛けた。戸惑いながらも那美ははっきりと返事をした。
「はい」
「元気だったか?病気やないかと聞いとってん、元気でほんまよかったな。よかったわ」
和久は、気のよさそうな店主との偶然の出会いに内心焦っていた。
那美の様子を見ながら、何が飛び出すか分からない会話を止めることを考えていた。
「この辺りも昔と随分変わりましたよね」
話を変えようと和久は会話に加わろうとした。
「そやろ。あれの時高速道路がやられちまうし、この辺りも大変だったもんな。西宮神社にはお詣りしたんか?」
うなづく那美に店主は話を続けた。
「お母さんが毎日お詣りに来とったで」
「おかあさん?」
「ああ、無事に赤ちゃんが生まれますようにゆうてお願いしとったな」
「赤ちゃん・・・」
しまったと和久が思った時には那美の表情から感情が消えていた。
「那美さん、急ぎましょう。ご主人、いろいろとありがとうございました。電車の時間なので失礼します」
今にも崩れ落ちそうな那美を抱きかかえ、タクシーを拾い予約していたホテルへ向かった。ホテルに着くと、和久は那美に横になるように促したが、那美は首を横に振り、ベッドのわきに身を守るように膝を抱え座り込んだ。
冷蔵庫からペットボトルを出して、和久が近寄ると顔をそむけた。和久は、漠然とだが那美の受けたショックを理解していた。
「記憶の闇の扉の前に立っている那美さん。
私に何ができる?扉は開けないほうがいいのか?私は一緒に闇に入ることができるのか?那美さんが拒否したらどうする?那美さんは耐えられるだろうか?安定剤?とにかく那美さんの気持ちを落ち着かせることが先決」
そう結論を出すと、薬を取り出し那美に差し出した。
那美は顔も上げずに薬を手に取ったが、紙コップの水を受け取らず、錠剤は那美の指の間から床に転げ落ちた。
不意を突かれた和久は、ベッドの下に転がった薬の粒を拾おうとしゃがみこんだ。那美の冷たく刺さるような視線に動きが止り動悸が激しくなった。
「私の赤ちゃんは、どこ?」
その問いに和久の荒い息づかいが止まった。短くも永遠に感じられた沈黙は、那美を絶望へと突き落とした。途端に冷酷な目は涙であふれ、声なき叫びで狭いホテルの部屋は悲しみで覆われた。
和久は、扉を開けて闇に飲まれた那美を、傍観者のように見ている自分に吐き気がした。
「あの時もそうだった。帝王切開の日、那美さんは懇願していた。最後まで自然分娩を望んでいた。
だがあの決断は管理出産を行う上での病院側の都合に、誰も反対できなかった結果だったのだ。
手術は那美さんの意志を無視して決行され、母親と胎児との関係を断ち切ってしまったのだ。
今那美さんは子供を守れなかった母親として自分を責めている。稲木先生をも責めている」
和久は必死で那美に説明することを思い返しながら、那美を守るすべを考えていた。
「あなたたちには二度と管理されない」
和久は、介護を始めたころ豹変した那美にそう言われたことを思い出した。
那美は泣きつかれたのかベッドの端に寄りかかり、力なく座っていた。
我に返った和久は那美をベッドに横たえ、まじまじと顔を見た。優しい寝顔は、その心を覆う苦しみを感じさせなかった。
「今度こそはあなたを守ります。那美さん」
しばらくして和久は、那美の様子がおかしいことに気づいた。
「あの時と一緒。不自然に胸が上がり、緊張のままで寝ている。那美さん、那美さん」
和久は、声をかけながら抱き起そうとした。
「なにをするの?触らないでよ」
荒く手を払われた和久は、絶句した。そんな和久を気にする様子もなく、那美は続けた。
「広島に帰りましょ。支度して」
「那美さん、今9時過ぎています。那美さんは疲れてるでしょ。新幹線も乗れるかわからないし、明日にしましょう」
「いいえ、今から帰るの」
那美は強く言うと帰り支度を始め、和久を待つことなくフロントへ向かった。
ロビーに着くとチェックアウトの手続きをしている和久を急かすように、落ち着きなく動き回る那美がいた。
それは和久にとって到底受け入れらない、別人のような那美の姿だった。




