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明の章 追憶の陽炎 ~身命~

待つことに託せ。

荒ぶる血汐の託宣を慈愛のまなざしに映して、開放の時をただひたすらに待つ。


ソノカム   サリマシシ   イザナミノカミハ   イズモノクニト  

その神    避りましし    伊邪那美神は      出雲国と  


ハハキノクニトノ   サカイ    ヒバノヤマニ   カクシマツリキ

伯伎国との       堺、     比婆の山に    葬しまつりき



稲木賢一イザナキノミコト

稲木ナミ(イザナミノミコト)

和久霧子看護師ワクムスヒノカミ

大戸野博士オオトノジノカミ

20年前、稲木那美の命は和久霧子看護師の手で病院から運び出され、叔母のナルから秘密裏に父親である大戸野に託された。

広島県と島根県の県境にある比婆山。

一名を美古登山といい、山頂にある墳墓は国生みの女神、伊邪那美の命の鎮座ます神陵として、古くから崇拝されている。

そんな比婆山の麓で、那美は大戸野に見守られながら、命を繋いでいた。

 当時、医大の教授だった大戸野は、運ばれてきた娘の姿を目の当たりにして、なすすべのないことを悟り、自然死を迎える覚悟をした。

 大戸野は大学を退職し、自然に囲まれた場所に診療所を構え、実感の湧かぬまま、娘と告げられた那美の看病に専念した。

 那美の身体は低体温でゆっくりとした呼吸と脈拍ではあったが、辛うじて命を保っていた。生きているというには、あまりにも哀れな娘の姿だった。

帝王切開の術後の経過は問題なく回復していったが、腹部から広がり始めた血管腫は徐々に那美の身体全体を蝕むように覆っていった。大戸野にとって、微かな呼吸と娘を飲み込む血管腫の広がりのみが、動かぬ那美の生きている唯一の証しだった。

生活感のない病室のような空間。白衣を着た大戸野が定期的に訪れる以外、その部屋に触れるものはなかった。

時の積み重ねを感じる物のない部屋に那美は存在していたが、時は見えぬ姿をゆっくりと確実に、その身体に刻んでいった。


 2年ほど経つと血管腫は那美の全身を覆い尽くした。那美の身体は肉も骨も血液に溶けたかのように、触れるとぶよぶよとめり込んでいった。ベッドの上には人の形を失くした赤黒い塊が横たわっていた。

 那美の身体はさらに変化した。薄皮に覆われた身体はおぼろげに人の形を取り戻したが、手も足も象の足のように腫れ、顔といえば、眼は潰れ、鼻や口は頬の中に埋もれていた。

大戸野はその肌に触れることを躊躇った。

 触れたとたん、その水風船のような薄皮は破裂し、那美の身体のすべてが流れ去ってしまうのではと恐れた。

 突然現れた我が娘だという患者に、初めは研究者としての興味が先行していた。時の重なりは大戸野の感情にも変化をもたらした。娘がどうなるのか、どこに行くのか見当が付かないけれど、父親として変わり果てて行く娘に寄り添うしかない現実を受け入れた。

「那美さん、何もできない父を許しておくれ」

父親は物言わぬ娘に話しかけずにはいられなかった。


 さらに3年が経ったころから浮腫が退いていった。ゆっくりと、変化とは見て取れない変化が、再び那美の身体に起こっていた。それでも生きている那美に、大戸野は医者として脅威を感じた。


 7回目の正月を迎えた。血管腫で覆われた那美の全身は、徐々に人の形を取り戻しつつあった。その変化に大戸野は目を見張った。皮膚に覆われたその下で起こっている生命の活動に、神業を信じずにはいられなかった。

父親の心の中で、那美の回復が期待されるようになった。


 しかし10年目の夏には、那美の身体にあった多量の血液はどこに消えたのか、その透明な皮膚は毛細血管に覆われ、紫色になっていた。

しわのように見えるその血管は、細かく全身に浮き出ていた。

回復を期待していた大戸野は、再びの絶望に目を閉じた。

那美は痩せていた。当たり前のことなのだ。この10年間何ひとつ口にしていないのだ。

生きていけるはずがないのだ。

その姿は、死期の近づいた人の姿だった。

肉がそぎ落ち、骨格のはっきりと分かる体に皮膚が薄く張り付いているだけの状態を、父親は直視できなかった。

それでも毎日、大戸野は祈るように記録をした。

これだけが那美の生きた軌跡。記録が続く限り、那美は生きていることなのだから。


 18年目の桜の季節、開け放った窓から春の風が桜の花びらを運んできた。

庭に咲く桜は、毎年春の便りを花びらにのせて、那美に送ってくれた。

だが最近の那美の肌は、その花びらにさえ傷を負うのではと思うほど、乾燥しきっていた。

1枚の花びらが那美の頬に触れた。そしてその頬にやさしく止まった。

大戸野は静かに窓を閉めた。

 那美の顔には何の変化もなかったが、すべてを拒否し、なす術のない中で桜の花びらを頬につけている姿を見て、なぜか心が震えた。

痩せた娘を愛おしく思った。18年間娘の変化を診てきた。身体の変化はすさまじく、父親である前に医者でなければ診る事はできなかっただろう。

大戸野は父親として娘の痩せた手に触れた。

摩ることさえ躊躇われる、痩せて、かさついた那美の手を、ただ包み込むようにそっと触れていた。

「那美さん、生きていてくれてありがとう。明日またね」

声を掛けながらそっと花びらを摘まみ採ると、自分の手のひらにのせ部屋を出た。


そして1年が経つころには、意識はなかったが那美は血管腫を患い始めたころの姿に戻っていた。それからは今までの変化とは比べられないスピードで、20年後の実年齢に向かい、那美の身体は加齢していった。



80歳を過ぎた大戸野は、夜になると娘の傍らで書物を読むことが日課になっていた。

たまに、独り言のように話しかけたり、問いかけたり、大切な娘との時を過ごしていた。

冴え冴えとした2月の夜、いつものように時は流れていた。

新聞を見ていた博士はゆっくりと立ち上がり、明かりを消してカーテンを開けた。

「那美さん、見てごらん。今夜は満月だよ。きれいだね」

月の光が那美を照らした。

「貴方がお父様なのですね」

ゆっくりと開いた那美の目が大戸野を捉えたとき、那美の口から確信を持った言葉が出た。

那美からの突然の、そしてありえない問いかけに、大戸野は否定も肯定もできず、月明かりの中、静かに立っていた。

それから3日間、那美は目を閉じたままだった。

大戸野は、那美の声が空耳だったと思い始めていた。

それでも夜になると、那美の傍らで過ごした。

3日目の夜、大戸野博士は白湯を用意した。いつもなら自室で飲む白湯を那美の傍で飲もうと那美の部屋に持ち込んだのだ。

ベッド脇のテーブルにポットを置き、読みかけの本を開いたが読み始めずに、那美を見た。

「那美さん」

大戸野は、那美の体温を感じて呼びかけた。

那美は無言だった。

「また、那美さんの声が聞きたいね」

微笑みながら声掛けて、本に目を落とした。

いつものようにゆっくりと優しい時間が流れていた。

大戸野はふと、本から顔を上げ、娘の方を見た。

その視線の先には、父親を見ている娘の穏やかな顔があった。

「お水をいただけますか?」

大戸野はウンウンと頷き、言葉にならない返事を、涙を流しながら伝えた。

大戸野は娘を抱き起こすと、用意した白湯をスポンジに含ませ娘の口に運んだ。

「那美さん、ゆっくりね」

那美はこっくりと頷いた。

父親は取り戻した娘の命を、20年の思いを込めて抱きしめていた。


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2020年6月14日 一部編集を行いました 

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