明の章 是非は無し ~懸命~
秋津総合病院副院長室
仕事を終えた都を卯月が訪ねて来た。
流浪の賢者の死から1ヶ月が経ち、卯月は流浪の賢者と言われた男、芦屋彦治の過去を調べていた。
副院長室に入り、卯月は都に促されてソファーに腰を下ろした。
「久しぶりだね、元気そうだね」
「はい、元気です。先生、芦屋彦治さんのこと分かりました」
「そう、なんか飲もう」
と言いながら都は卯月の前にグラスを置き、「これは何」と尋ね顔の卯月に答えた。
「炭酸よ」
卯月は一口飲むと横を向き、少し顔をしかめた。
「不味い?甘いと思ってた?」
都はそんな卯月を見て軽やかに笑った。
「大丈夫です」
卯月は咳払いをして、都と真顔で向かいあった。
「芦屋彦治さんはある教団の幹部信者でした。教祖の息子の世話がかりで、その時から賢者様と呼ばれ始めたそうです。その息子というのが神掛かりというか、特異体質らしく、芦屋さんだけが触れることが許されていたそうです」
「特異体質?」
「詳しくは分かりませんが、信者は誰も幼児期の息子を見たことはなく、5歳ぐらいから芦屋さんが面倒を見ているところが目撃されています」
「母親が面倒を見ていたのかな?」
「いえ、母親の存在はありません。息子は不死ただと言われています。芦屋さん以外の人は彼に触れたことはないそうです。噂ですが、触れたら死ぬと実しやかにささやかれています」
「へぇ、触ると死ぬの。どんな体質だというの?」
「とにかく触れることは死ぬことなのだそうです」
「なのに芦屋さんは触れることができていた。じゃあ、触れても死なないのね」
「そうですね。そうですよね」
卯月はふうーと息を吐いた。
「息子の名前はわかっているの?」
「それが分からないんです。息子とは直接の接触はなかったのですが、芦屋さんの世話をしていた信者が話をしてくれました。彼女は入団直後に芦屋さんの身の回りの世話係りになったのですが、息子の成長は異常だったそうです。読み書きを習うこともなかったのに、小学校に入る年になると学業の全てを習得していて、その上身体能力はずば抜けて高かったと言っていました。ただ気分屋で自分から話すことも無く、返事をすることも無い。縛られることを嫌い、癇に障ると、突然所かまわず暴れだし、その怒りは全て芦屋さんに向けられたそうです。
それでも芦屋さんは我慢強く息子の世話をしていましたが、思春期になって身体の大きさも芦屋さんを超えると、触れらる唯一の人間だった芦屋さんでさえ、一旦暴れだすと止めることができなくなったそうです。そして成長した息子は、怒りを自分でコントロールできるようになり、教祖の息子という権力を使い、怒りやストレスを修行という名目で信者に向けた始めました」
卯月はいったん都の顔を見て、話を続けた。
「芦屋さんは必死で止めたそうです。でも芦屋さんが止めれば止めるほど、息子の行動はエスカレートしました。死んだ人もいるという噂もあります。そして芦屋さんを疎ましく思った息子は、育ての親の芦屋さんを冷たく切り捨てたそうです。それが5年前です。それから教団を出た芦屋さんは流浪の賢者と呼ばれ、伝説になったと言われています」
「そんなに身近かに世話をしてても、名前を知らないの?」
「・・・恐ろしくて口に出せないそうです。教祖と息子の名前を外に漏らせば、格下がりになるって言ってました」
「格下がりって何?」
「分かりません。まあ格が下がるってことですよね」
「その通りだね」
「何人かの脱退信者に聞きましたが、知っているはずなのに硬く口を閉ざしました」
「脱退しているのに、監視されているの?」
「それはないと思います。あれはきっと自分の意志で言わないのだと思います」
「息子の行動はサイコパスそのものだね」
都は断言するように言った。
「サイコパシーは自分の損得に関して、異様な集中力を見せる。何があっても気にならないし、必要なくなれば即座に切り捨てる。不安を感じないから引き際が分からない。欲深く罪悪感を感じない。でしたよね」
「その性格があたえる恐怖から、神とされたのか、本当に特異体質なのか?」
「都先生は、神は存在すると思いますか?」
「もちろん。この内側にね」
都は自分の胸にそっと手を置いて応えた。
「でもね、若狭さんや摩帆瑠、そして流浪の賢者の芦屋さん。この人達の身に起こったことは理解できないことばかり。見過ごせば済む事だけど、見逃してはいけないと思う。計り知れない大いなる力を感じるのよ」
卯月はうなずきながら、少し落ち着いた炭酸水を口に含んだ。
「違うもの入れてあげる」
都はなにかしら機嫌がよく、甘めのジュースを卯月に用意した。
「天野ちゃん、ご飯食べに行こうか」
「行きます。連れて行ってください」
「よーし、行こう」
その時、卯月の携帯のバイブ音が着信を伝えた。
「えー、先生ちょっと失礼します」
事務所からの電話だった。
「卯月ちゃん、帰って来て、お客さんです」
「どなたですか?」
「佐多成彦さんという人です。帰るまで待っているそうです」
卯月は都に断りを入れ、聞いたことのない名前の人物、佐多成彦に会うために待ち合わせの場所に向かった。




