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明の章 是非は無し ~懸命~

20年前の震災後、稲木賢一は勤務していた病院の体制が整うと親友の秋津がお勤めている千葉市の病院へと移り、引き取ることになった幼い少女、瑠瑚と共に千葉の四街道市亀崎に居を構えた。


当時、稲木は消えた妻、那美の夢を見ることが多かった。

夢の中で、那美はいつも傍らに小さな祠のある洞窟の前に立っていた。

そして稲木が声を掛けると、那美は洞窟の中に引きずり込まれ、黒い濁った川を流されて行く。血管腫に覆い隠された美しい那美の身体は、川を漂い洞窟に消えた。稲木が追って入ると、奥の暗闇に那美が横たわって浮かんでいた。賢一の足元には深い溝があり、前には進めなかった。

 稲木の目の前で、那美の全身が赤く膨れ始めた。不自然な形で身体中の関節が折れ曲がると、両手足や頭、胸、腹から、最後には陰部から影がゆらゆらと湧き上がってきた。

それぞれが奇妙な形から人の形に変わると、那美の身体は蛆が湧き、どろどろと腐り始めた。


稲木は見るに耐えられず目を閉じるが、その姿はまぶたの裏で蠢き続けた。

恐怖に慄き、逃げ出した稲木を8体の影が追ってきた。

「貴方、置いて行かないで、助けて、た・す・け・て」

影と共に追ってくる那美の声は、地の底から轟く地鳴りに変わり、稲木の足元を揺さぶってきた。

稲木の足元の地は割れ、大きく上下に揺れていた。空は暗くなり、雷鳴が轟き始めた。目の前の逃げ道は茨の木が生茂り、行く手を阻んでいる。振り向くと8体の影がくもに姿を変え、稲木に迫ってきた。

 稲木は手に触れたものを、影に向かい投げていたが、何かに躓き転んだ。起き上がれずに這ったまま振り返ると、首をかしげた血だらけの那美が目の前にいた。

稲木が吾を忘れて恐怖の叫び声をあげた時、その声をかき消すような轟音を立てて大きな岩が稲木と那美の間を塞いだ。

一息つく稲木の耳に、優しく穏やかな声が聞こえてきた。歌うような語りかけるような声に、稲木は落ち着きを取り戻し、夢から目覚めた。

話すことのない少女が、稲木の傍らで静かに歌っていた。その歌は己を責める稲木の心を慰める歌だった。

「瑠瑚ちゃんありがとう」

そんな繰り返しが何年も続いたが、しばらくすると夢を見る回数も少なくなっていた。



そして10年ほど経った頃、秋津は墨田区にある病院の娘の都と結婚すると、病院を継ぎ経営に乗り出した。

それを機に、稲木は蒲田に心療内科の診療所を開業し、今では町医者として人々に慕われいた。

蒲田駅から池上線の線路沿いを5分ほど歩いた4階建てのビルの1階に、稲木の診療所はあった。

ある日、最後の診療を終わったところに、秋津が現れた。

看護師の伊豆野に手土産を渡すと、了解も得ずに診察室へ入った。

「よう」

そう声掛けながら、立て掛けてあったパイプ椅子を持ち出し座った。

「どうした?」

「今度、ライフシェアータウンに病院を造ろうと思ってな」

「そうか、もちろん計算済みなんだろ?」

「ああ、そこは大丈夫だ」

「何が問題だ?」

「入札の相手が芳志総合病院だ」

「おお、手広く事業展開しているらしいな」

「手段を選ばないやり方だそうだ」

「面倒だな」

「筒賀武史、覚えているか」

「ああ、西宮の病院の事務長だったな」

「今、芳志の事務長だ」

稲木は我が子を失ってしまった日のことを思い出していた。

筒賀の計算高く邪悪な目を思い出し、秋津の懸念を肯定した。

「手段を選ばない、そうだな」

「お前もそう思うんだな」

稲木と秋津は話をやめ、突然騒々しくなった診察室入り口の方を同時に見た。

ノックをした伊豆野看護師を押しのけて、近所で情報通と言われている道俣信子が興奮して入ってきた。

「先生、知ってるかい?この前自殺した高校生って、あの誠二君なんだよ。何てことだい。死んじまうなんて。いい子だったのに何があったんだい。先生、なんか知っているかい?」

「いや、知らなかった。驚いたよ。最近受診してないから気にはなっていたが、自殺とは、親御さんは大丈夫なのかな?」

「それが先生、親は落ち込むどころか息子は死んでよかったんだって言ってるよ。信じられないよ。息子一番だった親が、良かったなんて言うはずがない。きっと何かあったんだ」

話を聞きながら秋津は妻、都との会話を思い出していた。

ひとしきり話をすると、道俣は命を落とした高校生の友達に話を聞いた方がいいと言い残し、帰っていった。

「威勢のいいご婦人だな」

「ああ、いい奥さんだ」

「今の話どういうことだ?」

「1年ぐらい前から通院していた不登校の高校生が2人いた。ひとりは卒業したが、今もひと月に1回通っている。もう1人は顔を見せなくなって3ヶ月かな」

「その子が飛び降りたというのか?」

「そうらしいな」

稲木の肩が力なく落ちていた。

「医者にも限界がある」

珍しく秋津が慰めの言葉をかけていた。

「ああ、そうだな。来るのを待つしかないのも現実だ。でもな、あの若さでどうして死を求めるんだ?自分でどうして飛べる?」

秋津は冷めた答えを無言に変えた。しばらくそれぞれが何かを探すように、沈黙の時が流れた。

秋津は頃合いとばかりにパイプ椅子をたたんだ。

「今度、時間作れ。飲むか?」

「そうだな、そうだな」

稲木は顔を上げて返事をした。

秋津は診察室を出ようとしたが、思い直したようにドアを閉めた。

「都が検死した高校生がいた。3日前だ。飛び降りたのは間違いないし、死因に不自然な点はなかったらしい。だが都は不自然な死だと譲らない」

稲木の表情が険しくなった。

「なぜだ?どこが不自然なんだ?」

「家族だそうだ。自殺した息子を前にした家族が不自然だと言うんだ」

稲木の顔を見て、秋津は2、3歩部屋に引き返し、腕を組み話を続けた。

「家族は連絡を受けるとすぐに到着した。身だしなみも整っていて、母親は化粧までしていたらしい。夜遅いのに・・・母親は遺体を前にして泣いていた。泣くのは当たり前だが、母親が呟いた言葉は、『良かった、これで貴方は幸せになれる』だった。都には母親の涙が嬉し涙に見えたそうだ。まあ苦しみから解放されたと捉えれば、それもありだが」

秋津は少し間を置き、続けた。

「次に、母親が『これでチンパンジーじゃなくなったね』と言ったそうだ。そこで父親が母親を息子から引き離したが、離れる時に母親は微笑んでいたと言うんだ。冷たくなった息子を前に、一切取り乱すことがなかったらしい。都がおかしいと言い張る点だ。自殺するのを知っていたのではないか。それも息子の自殺を望んでいたのではないかと推測している。家族それぞれいろいろだからな。そしてその高校生がお前の元患者なのかも分からんことだがな」

「チンパンジーってどういうことだ?」

「息子を失って母親もおかしくなったんじゃないか?」

そう言って秋津は診察室を出て行った。

稲木は何かにいつも怯えていた高校生、小野田誠二を思い出していた。

イザナギノミコトが、死んでしまったイザナミノミコトを黄泉の国まで追いかけていくのですが、黄泉の国の食べ物を食べてしまったイザナミノミコトは腐敗していました。今回登場した雷樹、佳奈子はそのイザナミノミコトから生まれた八雷神という神様です。

雷の字を持つ神様は、不正を許さないという役目がありますが、八雷神にはエピソードがないので、オリジナルの物語になっています。

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