明の章 追憶の陽炎 ~身命~
那美は1ヶ月も経つと起き上がれるほどになり、食事も流動食から固形食へ変わった。
大戸野は娘の回復力に驚いていたが、日が経つにつれて口数が少なくなり、ふさぎがちになる娘を心配していた。
いつものように娘との時間を楽しもうと部屋を訪れた父親に、唐突に那美は話し始めた。
「ナル叔母様は私のお母様ですね。私をお父様の元へ連れて行くために命を掛けてくれた人。
私さえいなければ、命を落とすこともなかった。あの日漠然とですが、わが身に起きていることにあがらえないと気付きました。
ですから今となっては、母の死も、我が子との別れも、そしてこれから私に起こるすべてのことを定めと受け入れています。
私は死を受け入れた時、一瞬で生きていた時間を振り返り、自分の罪深さに気づかされました。私はドロドロとした空気を感じる洞窟の前(三重県熊野市有馬町花窟神社)に立っていました。
入り口は人間の業で覆われ、入ることができないのに、私の身体はいつの間にか洞窟の中に入り、死の国への旅が始まりました。
この美しい星で、太古より全ての生き物が新たな命を授かり、そして死の訪れを受け入れ、無理のないバランスを保ってきました。そしてバランスの崩壊は、繰り返される自然淘汰によりリセットされ、それでも人々は手を取り合い、励ましあって困難に立ち向い命を繋いで来ました。容赦ない自然災害という脅威に打ちのめされても、立ち上がってきました。人類の営みはその時代を受け入れ、様々な困難を乗り越え、次の時代へと続いてきました」
一気に話すと、痛む胸を摩るように両手を重ね、再び話し始めた。
「しかし地球という星に生かされていることを忘れ、知恵の使い方を間違えた生き物は滅亡へと向かいます。知力に溺れた人類が自然の猛威にさらされ、限界を悟った時にはなす術もなく座り込むしかないのです。人間は罪深い生き物なのですね。人間の文明は多くの生き物の領域を食料のために侵し、自然の恵みの連鎖を断ち切り、罪のない生き物の屍の上に反映してきたのですね」
大戸野は、娘の話を身動ぎもせずに聴いていた。そんな父親に向き直ると、那美は突きつけるように言い放った。
「そうです。人間の傲慢さは我が子にさえ容赦ない。貴方がそうであったように私も我が子を手放しました。何があろうと放してはならない手を放しました。授かり下ろすことなく腕の中で確かめるはずの我が子の成長を放棄したのです。その時間は戻せません。取り返せないのです」
那美は人間としての人生を否定したが、後悔しながらも20年経った今を少しずつ受け入れようとしていた。
大戸野は、そんな娘に父親として掛ける言葉を探せなかった。
桜の便りが届く季節になり、山桜が山の緑に映える頃、看護師の和久霧子が大戸野を尋ねてきた。
大戸野は、那美が回復し始めた頃から彼女の様子を和久には知らせていた。
那美の回復を知り、喜び勇んでの来訪だったが、和久霧子は大戸野の困惑に気づいた。
「先生、那美さんに何か問題があるのですか?それともご迷惑でしたか?」
「いやいや、和久さん、迷惑なはずがない。大歓迎ですよ」
そう言いながら、大戸野は那美の部屋に向かわず診察室に和久を通した。
「通いのお手伝いさんが今日はお休みでお茶も出ないが、申し訳ない」
和久はいえいえ気になさらないでとばかりに、手を胸元で軽く振るとにこやかに尋ねた。
「お手伝いさんがお休みでしたらお食事はどうされているのですか?」
「今は食べることには不自由はありませんよ。便利なものです」
「那美さんのお世話はどなたがされているのですか?」
「お手伝いにお願いしています」
和久は少し間を置き、真顔になると切り出した。
「那美さんに会わせていただけませんか?」
大戸野は一瞬和久の顔を見たが目をそらし、ゆっくりと立ち上がり、机の引き出しから那美の看護の記録を出して和久に渡した。和久は静かに受け取ると
「読ませていただきます」
と、何年もの記録に目を落とした。
「今、那美に鬱の症状が出ています」
「そうでしたか」
和久は記録から目を離さずに返事をした。
そして2時間もの間、和久は一度も顔を上げずに記録を読んでいた。
大戸野はそんな和久を看護師として、そして母親が愛した娘を託した人として、信頼し始めていた。
読み終えた和久は記録をひざの上に置くと
「先生、有難うございました。那美さんを守っていただいて、ナル先生も喜んでいらっしゃいます」
「和久さんこそ、20年間よく耐えてくれましたね」
「あの日、震災がなければ違っていたのかもしれません」
冷静だった和久が涙ぐんだ。
「それは仕方のなかったことです。今を生きなければいけませんよ。なにせ、僕には時間がありませんから」
その言葉が和久霧子を決心させた。
「今日は帰ります。先生、私に那美さんのお世話をさせてください。ここで働かせてもらえませんか?」
突然の申し出に、大戸野は戸惑った。そんな大戸野に和久は笑いながら付け足した。
「もちろん先生のお世話もしますよ。よろしいですね」
そして軽やかに和久は帰っていった。
日の暮れ始めた山際に、上限の月が昇り始めていた。
「ナルちゃん、有難う。有難う」
大戸野は、意志の強いナルを思い出していた。そして、その遺志を貫こうとしている和久に那美の今後を託そうと決心した。
2年ぶりの投稿になります。
この物語を最後まで紡ぐことができるよう、見守っていただけますと幸いです。




