無の章 消失の形象 ~絶命~
翌日、高木仁宜は事務所から指示された病院へ行った。
ナースステーションで尋ねると、大柄な看護師が愛想良く病室まで案内してくれた。
特別室は二つの部屋があり、手前の部屋に常伊達の息子の端陽と秘書がいた。
「ライフシェアー介護課から参りました高木と申します。よろしくお願いいたします」
仁宜は挨拶をすると、契約書と履歴書を差し出した。秘書が取ろうとするのをはらっい端陽が履歴書に目を通し始めた。
「悪いがお引取り願おう」
「何か問題がありますか?」
秘書が慌てて履歴書を見た。
「介護福祉士の資格を持ってないじゃないか。こんな経験のない若造に任せられるか」
「資格者を頼みましたが・・・」
「だから、あんなところに頼んだからこんなことになるんだ。病院の手配に任せろと言ったろうが」
「しかし、先生が試しにとおっしゃったことですから」
「たった一週間のことにわざわざ面倒な、おい君、そういうことだから帰ってくれ」
「待ってください。先生にご相談してきます」
仁宜は、目の前の騒動が何なのかはっきりせず、黙って立っていた。奥の部屋に入った秘書が顔を出し、仁宜に入るように手招きした。
仁宜は呼ばれるまま部屋に入った。
テレビで見たことのある代議士の顔がそこにあり、仁宜の履歴書を手にしていた。
「君がライフシェアータウンの人か?」
「はい、介護課の高木仁宜と申します。よろしくおねがいします」
常伊達は黙って仁宜を見ていた。
仁宜は緊張していたが、気後れすることはなかった。
「早速仕事に入ってくれ」
常伊達は秘書に目配せをした。
「高木さん、契約をします。その後仕事に入ってください」
秘書は常伊達の前で契約を済ませ、端陽のいる部屋に戻った。仁宜も常伊達に一礼すると後に続いた。端陽は帰っていた。秘書は端陽のことは気にしない様子で内線を使い、看護師を呼んだ。
ナースステーションで案内してくれた大柄な看護師が現れた。名札に岩永とあった。秘書が仁宜を紹介すると、看護師は医療サマリーを取り出し、常伊達の入院予定や介護方針を伝えた。仁宜は一週間の予定で常伊達の介護を担当することになった。
仁宜を常伊達の元に送って一週間が経った夜、雷樹は教団から呼び出された。8人の男に囲まれた部屋で、教祖の登場を座って待っていた。
潰せといわれた仁宜に無理な仕事を押し付けたが、仁宜は無事に契約を済ませ、その上仕事は2週間の延長となった。このことは誰にも話していないから教団が知るはずもなく、呼び出された理由に見当がつかなかった。
待たされる時間が長くなると緊張が増し、不安も大きくなっていった。逃げ出したい衝動を必死に抑えた。雷樹は頭を下げたまま上目使いに周りを見た。サンズと呼ばれる8人の目が、自分に向けられていることに気づくと、目を閉じて呼吸を止め、身体を硬くした。8人の気配が変わり、御簾が上がると教祖が座っていた。
教祖は姿を現すなり、冷酷な言葉で雷樹を打ちのめした。
「役たたずの負け犬め、一生をライフタウンで終われ」
その言葉の意味を捉えられず唖然としている雷樹に、目もくれず教祖は消えた。
座り込んでいる雷樹は次の接見があると言われ、せき立てられるように部屋を出た。
「あなたは、芳士様のご意向に沿うどころか、致命的なミスを犯しました。そうです。あなたは宿命を変えるチャンスを失いました」
どこからともなく現れた先日の男が、雷樹の疑問に答えるように声を掛けた。
「犬のままということか。おれは」
その夜、やり切れなさに雷樹は一人で飲み歩いた。いくら飲んでも気は紛れなかった。気がつくとビールを手に持ち、小さな公園のベンチに座っていた。子供用の遊具が寂しげにぽつんと置いてあった。
今夜は新月、闇夜の中で雷樹のからっぽの心が行き場をなくしていた。焦点の定まらない視野の中にやせた男が入ってきたが、雷樹は動かなかった。その男はぶつぶつと何か言いながら、近づいてきた。
「さあ空腹と言う呪縛から開放してあげよう。生きていることを実感しなさい。深く息をして宇宙の気を取り込み、ここに生きていることに感謝をするのです」
言葉が聞き取れるほどの距離に近づくと男は両手を雷樹の前に差し出してきた。
「さあ、手を取りなさい」
横を向き、残りのビールを飲む雷樹に、男は手を取れと執拗に迫った。
「私の手を取りなさい。すべてのひもじさを感じなくなります。さあ」
雷樹は酔った目でその男を見て、片方の手をその手に重ねた。その手は熱を発しているように熱かった。雷樹は思わず手を払いのけた。
「気持ち悪。ああ、お前か、腹いっぱい食わしてくれるというのは。噂で聞いたことがある。思い出した。流浪の何たらだ。おじさん、残念ながら何にも変わりませんけど。腹いっぱいの実感もありませんけど」
酔っている雷樹は支離滅裂なことを言いながら、ふらふらと立ち上がった。
「心地よくなりましたか?」
その男が立ち上がった雷樹に聞いた。
「ご愁傷様、あんたよ、人間は腹が満たされたらそれでいいのかよ」
その男は雷樹に再び手を差し伸べた。
雷樹はビールの缶を投げ捨てるとその男の顔を見た。ぼんやりとした男の顔がなぜか教祖の顔と重なった。雷樹の空っぽの心に怒りが芽生え、その怒りまま、いきなりその男を突き飛ばした。
「俺は犬じゃねえ、物乞いするくらいだったら、野垂れ死にを選ぶ。俺は、俺はこの手に力が欲しい」
よろめき、遊具に倒れこんだ男につばを吐きかけ、雷樹は立ち去った。
残された男は座り込んだまま、しばらく自分の両手を見ていた。暴力を受けたことよりもその手を払われ、熱を帯びていた両手が役目を果たしたように力が抜けていったことにショックを受けていた。
かつて、死を覚悟した日死に場所を求め、川岸に立ち、静かに足を川に踏み入れた。生きていることより死ぬことは然程辛くないと感じながら目を閉じ川の渦に沈んだ。
葦の中で目覚めたが死んでいなかった。夢を見ていたようだ。人々に手を差し伸べ生きることを説いていた。身体の中に命のエネルギーが溢れてくるのが分かった。寒さも、空腹も感じなかった。突然両手が熱くなった。手のひらの血管が膨張し浮き出てきた。なすすべも無く手のひらを見ていた。
じわりじわりとグローブのように腫れた後、猛烈な痛痒さが襲ってきた。しかし腫れて薄くなった皮膚は少しでも爪を立てようなら裂けて血だらけになるのは目に見えていた。その手の中に生まれたばかり神の子を見ていた。赤黒い塊だった神の子はこの痒みと戦っていたのだろうか。泣きもせず、我慢していたのだろうか。残してきたものを思って時が過ぎた。若くして入信した。我が人生を歩けと言った教祖の言葉は強烈だった。神の定めし我が人生を探していた。神の子に尽くすことに生きがいを見い出し、苦行に近い毎日に身も心も疲れ果てても、使命だと迷いはなかった。だがそこに生きる道はなかった。
生きる支えを、生きる証しを失い、一度死を覚悟したことで何の欲も無く生きることにたどり着いた。寿命尽きる時、再び葦の根元に帰り露と消えようと決めた。
果てのない旅の始まりだった。
「ひもじさは人のすべてにあります。悲しみや寂しさも同じです。しかし怒りは時として生きる力になります・・・私に出来ることはここまでです」
流浪の賢者と言われる男は、独り言をいいながら静かに闇に消えた。
フリーライターの天野卯月は流浪の賢者という男の正体に迫っていた。その男の名前は芦屋彦治、有名大学を主席で卒業し、医者の道を志したが24歳の時にある宗教団体に入信した。そこでは教育係として教祖の息子の世話をしていたという。
温和な性格と豊富な知識は他の信者からも慕われ、賢者様と呼ばれていたらしい。そんな芦屋がなぜ脱退し、流浪の身になったのかは謎だった。
卯月は今、若狭礼を発見した場所に来ていた。葦の茂るその川岸は若狭の一件以来、気になって何度か足を運んでいた。しかしいつも葦の中に入ることには、躊躇いがあった。
空を見上げ、今にも雨が落ちてくるような空模様に、卯月はため息混じりに帰宅を決めた。目の前の葦の群れが大きく揺れた。思わず後ずさりした卯月だったが、次の瞬間、川岸に向かって走り出していた。卯月の記者の勘が叫んでいた。
「何かある。あの時と同じ。あの時は逃げた。絶対、何かある」
卯月は導かれるように葦の中に分け入った。雨が落ちてきた。阻むように風が強くなった。葦の葉がしなりながら顔を打った。それでも卯月は先に進んだ。
卯月の目の前の葦が開けた。一畳ほどに男が一人横たわっていた。異様にやせた姿は若狭を思い出させた。卯月は駆け寄り、脈を確かめた。
「生きてる」
そして流浪の賢者、芦屋彦治は秋津総合病院に救急搬送された。
秋津都はまたもや不自然な死に直面した。
死因は老衰。搬送された時その患者は辛うじて脈があった。衰弱しきった患者は身元不明で、年齢の設定が身体状況から80歳前後とされていた。
「前の例があるからICU対応ね」
秋津都は看護師に目を離さないように指示を出した。
外傷もなく、内臓もすべて正常に機能していたが、胃や腸にはまったく内容物がなく、食事をした形跡が認められなかった。医療的な治療の必要はなかった。あの患者と同じなのか、これは摂食障害の結果なのか、秋津都は点滴の内容を体液に近いものとし、アレルギー反応を回避した。
外来受付から、患者について話したいことがあると面会の申し出の連絡があった。ナースステーションに現れたのは卯月だった。
卯月は名刺を出して、自分が通報者であることを伝えた。
「先生、あの患者は、芦屋彦治さん、45歳の可能性があります。問い合わせてください。流浪の賢者と言われるホームレスです。私、彼を追っていたんです。探してたんです」
秋津都は名刺にあるフリーライターという肩書きに口を閉ざした。
「お帰りください」
「先生、助けてください。お願いします」
卯月は必死で秋津都に食下がったが、秋津都の表情は変わらなかった。
「あなたの取材には協力できません。お引き取りください」
去り行く背中に卯月の呟きが届いた。
「先生、若狭さんみたいにしないで」
秋津都は足を止め、振り返ると足早に卯月のもとに帰ってきた。
「あなたは若狭さんを知っているの?」
「はい、私が彼を見つけました。そして流浪の賢者と言われる人も探しました。先生私、話がしたいのです。どうして食べずに生きていられるのか、知りたいんです」
「食べずに生きてきたの?彼は・・・分かったわ。あなたは待合室で待っていて。守秘義務は承知しているわよね」
卯月は大きく頷き、秋津都にすべてを委ねた。
秋津都は警察に連絡をして、身元の確認を依頼した。警察が到着し、本人の確認が取れると家族に連絡をした。
点滴を始めて2時間が過ぎるころ、母親と兄が到着した。その姿に家族の驚きは顕わだった。しばらくして秋津都は看護師から呼び出された。
「先生、心拍数が徐々に落ちています」
秋津都は患者の顔をまじまじと見た。穏やかで苦痛のない表情だった。
家族には、治療の必要はなく、本人の回復を見守ることしかないという今の状況を説明していた。家族はその姿に説明を納得した。
「どうされますか?」
母親が涙をこらえ答えた。
「このままで、このままで、逝かせてください」
秋津都は延命措置をせず、その時まで病室で家族に付き添った。
そのやせた身体は肉という肉は削ぎ落ちていた。この状態で動いていたとは考えられなかった。家族の泣き声を後に、秋津都は卯月の待つ待合室に向かった。
「天野さん、手遅れでした。彼はすでに人の生きる限界を超えていました」
「先生、ひとつだけ教えてください。死因は?」
「老衰よ」
「老衰ですか。なにか他にないのですか。人をあんなになるまで追い詰めるなんて」
「人間の身体とは分からないものね。45歳なのに80歳の身体になっている。何をしたらそうなるのだろうか。私も知りたいわ」
「若狭さんは、・・・」
聞き難そうに卯月はその名前を口にした。
「ここからは私の独り言、そして書いちゃだめ。いい?」
卯月はいつも手にしている手帳をバッグに入れた。
「あの人と今回の人は摂食障害という点では共通しているけれど、根本的に違っていると思う。人が死ぬというのは心臓が停止し、脳の機能が停止すること。そうするとその後は自然に筋肉が緩み、死後硬直が始まるまで表情は穏やかに見えるのかもしれない。でも今回の例は顔面の肉が落ちていて頭蓋骨が分かるほどだった。・・・けれど穏やかな顔だった。だから家族も老衰を受け入れられたのかもね。いろいろ疑問は残るけれどね」
一息ついた秋津都への質問を卯月は抑えた。そんな卯月に秋津都は頷き、話を続けた。
「前の例は外的な原因を感じるの。何かを彼はしていたか、何かを摂っていたが、身体に残るものではなかったが・・・かな?」
はっとした卯月を見逃さなかった秋津都は
「何か知ってるの?」
卯月は薬の存在を告げるのをためらった。
口を開きかけた時、看護師が秋津都を呼びに来た。
「先生、急患です。お急ぎください」
分かったと返事をした後、
「また、遊びにおいで」
秋津都はそう言って診察室へ戻って行った。
「高校生の飛び降りです」
卯月の耳に小声で話す看護師の声が残った。
成彦のマンションではいつものようにテレビが情報を流していた
川岸の葦の中で男性が発見されたがその後死亡したことや、高校生が5階ビルから飛び降り自殺をして死亡したことなどを伝えるニュースにちらりと目をやったが、成彦は秀が新しく描いたという絵に目を移した。
コーヒーを飲みながら、成彦は秀が瑠瑚の歌に合わせて描いたと思われる絵をもう1度テーブルに並べた。
手を差し伸べ誰かに伝えるように歌う瑠瑚という女性と、それに応えるように動かないはずの左手で絵を描く親友の秀。この2人の関連はまったくなく、花の郷で出会い何年か経って何かのスイッチが入ったように2人の不思議な関係が始まったようだ。
成彦は手元にある、秀の描いた8枚の絵を改めて日付けの順番に並べてみた。
横たわる全裸の女性腹部にある黒い塊
倒壊した建物の中にたたずむ全身黒い塊の男
祭壇に寝かされた黒い塊の乳児
山の中沢の窪みに胎児のように横たわる全裸の女性首筋に黒い塊
竹林の中座禅を組む男 背中に黒い塊
海に漂う全裸の女性右足に黒い塊
公園の中一人の男が群がる浮浪者に黒い手を差し伸べている
8枚目が成彦が、描く姿を目撃したビル群の中の焼け爛れた女性の絵
そして成彦はテーブルの上の8枚の絵に新しい絵を加えた。
その絵は多くの人が労働している絵で、苦悩の表情の人々と無表情の人々が描かれ、重苦しい絵となっていた。その中に手は鎖に繋がれ、虚ろに上を向く若者がおり、その左胸は血で染まったようになっていた。
昔、言い伝える手段として誦習という方法があった。経典などを繰り返し口伝することらしいが、あの女性の歌がそうだとしてそれを秀が表現しているとしたら、この絵の意味するものは・・・告知絵なのだろうか?
成彦の脳裏にライフシェアータウンの姿が浮かんだ。
明の章へ続く
後書き
第1章【無の章】が終わりました。
私たちは生を受ければ、死へと向かう道を歩くことを恐れながら、尚もひたすらに歩かなければなりません。古事記の中にも、いにしえの人々の死に対する悲しみや恐れが表現されているように感じます。
【無の章】で様々な思いを抱いて消えた人々。スサノオの化身の雄介、ツクヨミのルナ、そしてアマテラスオオミカミのテラ、稲木賢一の妻イザナミ、その子供、それぞれの定められた道を歩くべく(明の章)で再び登場します。
それぞれの神様の役割や使命、エピソードはできるだけ古事記に沿って書いています。物語に追加しているお話については、活躍の少ない神様に登場していただいていますが、古事記の内容には関係ありません。




