無の章 消失の形象 ~絶命~
東京の墨田区にある隅田川神社
早朝、白い砂利の敷かれた駐車場に、一台のツアラーバイクが止まった。
黒いフルフェイスのヘルメットをとり、降り立ったのは秋津都。さらりとした髪を手ですくい上げ、真っ黒なライダースーツの身だしなみを整え、ゆっくりと鳥居に向かって歩き出した。
都はこの神社が気に入っていた。社殿は高速道路を担ぐような形で位置しているが、境内は手入れの行き届いた四季折々の木々が丁寧に植えられていて心が和むのだった。
秋津総合病院長の妻で、外科医の都は、病院では主に緊急搬送された患者を担当していた。都の患者は、時を選ばず死神を伴って現れる。都はその死神を切って祓い流すことが仕事だと、尽き果てる命の限界に挑んできた。
しかし、救おうとした命が都の手からこぼれ落ちた時、その無念さがこの神社に向かわせた。そして都は助けることができなかった命の冥福を願い祈った。
昨夜、都は自宅のカウンターバーで弔いのワインを飲みながら、手の施しようがなかった死亡患者のカルテを見ていた。川瀬沙織。今一番売れているアイドルの摩帆瑠だった。
摩帆瑠は午後3時過ぎに搬送されて来た。都が診察したのだが、その症状は稀なものだった。搬送時は意識はなかったがレベルの低い熱傷の状態だった。熱傷による死亡だったが、熱傷を起こす原因がつかめなかった。撮影中の事故だというが、レフ版でこのような火傷になることはありえなかった。それは火傷の症状を起こすぎりぎりの温度の熱波が、四方から瞬間的に被った状態だった。衣服を着ていたにもかかわらず、全身隈なく足先まで赤くなっていた。
都が納得いかないのは、軽度の熱傷のはずが、応急の処置をしているうちに、深部まで到達した熱傷に変化したのだ。
そして、もう1例、極度の摂食障害で搬送された男性、若狭礼。彼の場合も回復の過程での突然の死だった。都は異常にやせ細り、緊急搬送されてきた若狭礼の症状にも疑問を持っていた。回復を図る点滴治療の途中に、原因不明のアナフィラキシーショックを起こし死亡した。死因は心不全だった。
医学上、助かるはずの命がぷっつりと事切れる2事例だった。都は死亡に至る原因は他にあるように思えてならなかった。
ワインのボトルが空になったとき、帰宅した夫の秋津が新しいワインを開けて、横に腰かけカルテを覗き込んだ。
「何が、疑問?」
「死亡原因がね・・・」
「熱傷に心不全、はっきりしてるじゃない」
「簡単すぎるの。なにか見落としてるのよ」
「川瀬沙織?ちょっと待って」
カルテを見た秋津は花の郷の一件を思い出した。
「摩帆瑠ってあの子だったのか」
「あの子って?」
「花の郷の入所者の娘だよ。この前、稲木と会ったとき、その母親が錯乱してね、この子が必死でなだめてた。親より先に逝ったのか」
そう聞くと都はワインを一気に飲んだ。
「何が引っかかるんだ?」
「何って、さっぱりわからない。でも不自然な自然死ってないよね」
「自然死自体が怪しいもんだ。命のスイッチON、OFだれがする?」
「思い上がった医者よ」
「厳しいな。明日行くのか?神社」
「ええ、すっきりしないからお参りしてくるわ」
「医療の最前線を走ってらっしゃる都先生なのに、神頼みですか、信心深いですね」
「自然死の正体が知りたいの」
強く答えた都を持て余し気味に笑うと、秋津はグラスのワインを少し残して寝室へと消えた。
都は鳥居をくぐり、正面の手水台に近づき、手を洗いながら、夫、秋津との会話を思い出していた。
秋津の言うように、単純な事故死なのかも知れない。搬送時間は10分。現場で倒れた時は意識を失っただけだったらしい。そして救急車に収容された時の報告では軽度の全身熱傷が確認されていた。病院に到着し手当てを始めてしばらくして、意識が回復しないまま死亡した。最後には、水泡ができているところもあるような重度の熱傷になっていた。熱傷の原因も分からない。短時間に軽度から重度に変化した経緯が分かっていない。まるで全身に熱源が張り付いて熱傷が進んだようだった。
進行性の熱傷、あり得ない事だったが、それは複数の医師や看護師の目の前で起こったことだった。病院側の過失は認められず、事故死のまま処理されたが、摩帆瑠の死を真の当たりにした都は、到底納得できなかった。
都は社殿の前に進み、丁寧に二礼二拍手し、手を合わせた。
あの焼け爛れた皮膚には何かがある。そして静脈が皮膚の下に透けて見えた状態で死亡した事例。点滴を交換してしばらくして、アナフィラキシーショックを起こし、皮膚が変化し始めた。全身の皮膚が薄く透明になり、体中の毛細血管が浮き出てきた。そして心不全を起こし死亡した。薄く透明な皮膚にも何かある。都は立て続けに起こった死亡事故には、別にもっと大きな要因があると手を合わせながら確信していた。
迷いを収めると、ゆっくり境内を見ながら駐車場に向かった。
イチョウの大木から背丈ほど高さの多種の木々が神様に仕えるように配置されている。今は夏、が季節を告げてさいていた。
ライフシェアタウンB棟の総寮長の棚伏雷樹は、一度取材を受けた天野という記者に前世のことを話して以来、眠れない日々が続いていた。
あの日、ファミレスで気安く声を掛け、あの女記者に冗談のつもりで言葉にしたことが消せなくなっていた。女記者は雷樹を相手にせず、嘲笑の言葉を残して出て行った。不機嫌になった雷樹に気付かず、女達は前世占いの話に夢中になっていた。
雷樹の彼女を名のる帆戸柵佳奈子が面白おかしく話していた。
「だから前世の母って言う占い師に見てもらったら、私のこと、猫だっていったのよ。」
「佳奈子、当たってるじゃん」
「何で私が猫なのよ」
「猫って言うより虎じゃないの?」
「何で虎なのよ。なんか血統書つきの気位の高い猫で、飼い主が女連れてくるとヤキモチ焼きすぎて、捨てられたんだって」
「あたってるジャン」
「そうよ、血統書付きだよ、わたし」
「それより人連れて行ったら金くれんの?」
「うん、連れて行きゃいいの。だからさっき雷樹を連れて行って、私が1万円GETって訳。あんた達、誰か連れて行くんだったら、その前に雷樹に連れていってもらいなよ。ねえ雷樹、・・・」
佳奈子はその時はじめて、雷樹が機嫌を損ねたことに気付いた。
「あ、ごめん雷樹。なんか食べる?私おごるよ」
慌てる佳奈子を雷樹は睨みつけて出て行った。残された女達は雷樹の凄んだ目に息を詰め座っていた。
ファミレスを出た雷樹は人ごみの中、当てもなく歩き始めた。
雷樹は佳奈子に連れられ、前世が分かるという教団へ、金欲しさで行ってみた。教祖の前では目まいがした。頭は真っ白になり、何も考えられなかった。その頭にお前は犬、飼い主に怪我をさせ保健所で始末された秋田犬、と教祖の鋭い言葉が刻まれた。
あのやろう、俺を犬だといった。それも保健所で始末された負け犬だと言った。
俺が犬だと、ばかばかしい。たかが占いじゃないか、見たようなこと言いやがって。
雷樹は笑っていた。女達と大笑いして、教団を後にした。
だが、ファミレスで冷めた目で去っていった女記者の後姿に、笑っている自分が惨めになった。
「誰も彼も適当に言いやがって」
歩きながら雷樹は強気な悪態をついた。交差点近くで雷樹は視線を感じ、立ち止まった。周りに人の気配がなくなっていた。信号待ちで停車している車の中から一匹の犬が何か言いたげに雷樹を見ていた。幻覚に縛られたように立ち尽くす雷樹は、頭に刻まれた犬の一文字がじわりじわりと滲み、脳全体を占めていくような気持ちになっていた。
ライフタウンでの雷樹の仕事は勤務の調整だった。B棟全員の3交代のシフトを管理していた。ほとんどのシフトは1ヶ月ごとに決められ、病欠や休暇希望、定期契約以外の仕事の人の手配などを調整していた。
だがあの日以来、仕事でミスが続いていた。連絡漏れが続き、シフトの調整に苦労した。いらつく雷樹の行動に、周りの見方が変っていくのに気づくと、雷樹は今までにない不安を感じ始めた。
ある夜の夢で、雷樹は尾を巻き、抵抗すらしない臆病な犬になっていた。
犬は叫んでいた。
「そんなもんどうしようもねえじゃねえか。前世なんか俺にはどうしようもねえ」
犬は泣いていた。扉の前で死の順番を待つ犬は泣いていた。
堂々巡りの夢を教祖の言葉が切り裂いた。
「全てを受け入れ、今を生きよ。我が元で悪しき前世を断ち切れ」
傷を負った動物のように丸くなって寝ていた雷樹はゆっくり目を開けた。身体は水を浴びたように汗でぐっしょり濡れていた。犬の足のように握った両手を開いてみた。その人間の手で顔を覆いながら雷樹は叫んだ。
「犬じゃない。俺は犬じゃない」
教祖の言葉を思い出した雷樹は、2日後の休みの日に、仕事仲間で副寮長の高木仁宜を連れて教団へ向かっていた。
高木仁宜は雷樹に連れられて都内のあるビルに来た。飾り気のないドアから中に入ると一人の男が待っていた。雷樹はその男と正面の部屋へ入り、仁宜はひとり左に曲がりローカに面した豪華な引き戸の中に入るように言われた。
建物の概観からは想像できない作りのフロアーの受付で、丁寧な扱いを受け今度はシンプルではあるが温かみを感じる部屋に通された。
一方雷樹は、教祖の見透かしの部屋と呼ばれる部屋で教祖のうしろに控える20人ぐらいの男達の中に座るように言われ、後ろの末席に座った。
教祖の前には母親らしい女と若い男が正座していた。教祖は一段高いところの玉座に座りその親子を見下ろしていた。雷樹の体験したものとは違っていた。
「お前は、人間を憎んでいるな。怯え慄き忌み嫌っている」
教祖の鋭い眼光が若い男を貫いた。
沈黙の時間に母親が恐る恐る顔を上げたが、すぐに目を伏せた。
若い男は動かず下を向いていた。
その男に教祖は静かに告げた。
「お前の前世は、実験に使われ、脳みそをホルマリンにつけられたチンパンジーだ」
母親は短い悲鳴を上げ、息子であろう若い男を抱きしめて、泣き始めた。
親子の後ろに控えていた女性信者が母親をなだめ、教祖の話を聞くように促し、一切反応しない男にも、顔を上げ教祖を見るように言った。
男は虚ろな視線を上げた。
「その虚ろな目で実験の日々を過ごしたのだな。電極に繋がれ、身動きの取れない状態で一生を終えたのだな」
教祖の顔つきが変化した。
「前世は変えられぬが、来世は現世の生き方で変る。今を生きることを考えるのだ」
教祖の穏やかな言葉に、母親はお願いします、お願いしますと小声で繰り返しながら手を合わせたが、男の虚ろな視線は変らず、母親の様子にも興味を示さなかった。
静寂の時が雷樹の鼓動を高めた。教祖の右手がゆったりした襟のついた絹のシャツの喉もとのボタンに触れた。
部屋の空気が張り詰めたものに変った。全ての者が瞬時に姿勢を正し、構えたのだ。雷樹も察知し他の信者に合わせた。
教祖自ら、ひとつずつボタンを外していった。最後のボタンを外した時、部屋全体に緊張が走った。その緊張は無反応だった男をも取り込んでいた。
「吾の前世は皮を剥がれた虎だ」
開けたシャツから覗く肌には、喉元から腹部へ一直線に下る真っ赤な血管腫が現れた。顔を上げた男の目に驚愕の感情が表れた。
教祖は前を合わせると奥へと姿を消した。
雷樹は教祖の姿が消えるまで震えが止まらなかった。
不思議な味のお茶を飲み待つこと1時間、今度は息苦しさを感じる空間の部屋に仁宜は通された。
椅子に座っていると、奇妙な音が聞こえ、遠くに感じていた音は徐々に近づき、部屋が暗くなった。そして仁宜の前で音の進行は止まったが、音に縛られて身動きできないような錯覚にとらわれた。
この感覚はMRIの検査の感覚だ。身動きできない中で漠然とした不安が広がっていく。去年のことだった。訳の分からない血痣が左胸に広がった。3日で血は引いたが、用心のために検査をしたのだ。あの時の感覚だった。あの血痣は何だったのだろうと考え時が過ぎた。瞬間閃光を感じた。目を閉じると、まぶたの裏に人影が現れた。光の中のトンネルのような影を、仁宜の意識が通って行くようだった。
何かにたどり着く前に強い光は穏やかな光に変り、そのなかに人影は消えていった。
目を開けると、目の前に心臓を貫くような眼光の男が悠然と座っていた。
その男に、前置きなしの立て続けの宣告を受けた。
「お前の前世は虫けらのような人生だったな。そして現世もそれは変わらぬわ。・・・」
「哀れよな」
「もう会うことはない」
低い声で告げるとその男は壁の向こうに消えた。
面会は終わった。2日前仕事の終わりに雷樹から、悩みを解決してくれるすごい人がいるから行ってみないかと誘われた。悩みらしいものはなかったが、面会するだけでいいからという雷樹の誘いは断れなかった。
出口は玄関と同じく、閑散としていた。
年をとった守衛が感情のない声で告げた。
「お連れの方は残られます。先にお帰りになるようにとのことです」
帰りながら、仁宜はあの男の言葉を思い出していた。
「虫けらか・・・あの人は何だったんだろう」
仁宜は虫けらの人生を受け入れた。自分は値打ちの無い人間だと思っていたから、前世が名もない小さな虫だったとしても、今はなんら変らなかった。
残った雷樹はひとり、教祖の前に正座をしていた。
雷樹の周りには、クリーム色のフードのついたマントを着た8人の人間が、同じクリーム色の部屋と同化するように立っていた。ただ立っているだけの男達のかもし出す威圧的な雰囲気は、雷樹を圧迫していた。
ただひたすら座り続ける雷樹に教祖は一言指示し、姿を消した。
「あの男は潰しておけ」
雷樹は教わったとおり腰を折ったまま立ち上がり、より深く一礼した。
「潰すとは殺せということですか?」
8にんの男達の一人に尋ねた。
8人の男達は無言のまま、静かに部屋から立ち去った。
部屋にひとり残された雷樹に、気の良さそうな男が声をかけてきた。
「あっちの部屋でお茶でも飲みましょう」
雷樹は男について休憩室らしい別の部屋に入った。男はポットから直接湯飲みにお茶を入れながら話した。
「あの人たちはサンズといって、緋色さまの息子達です。私たちとお話はされません。別名三途の川の渡し守といわれ、恐れられています。」
そしてお茶を一口すすって続けた。
「それから人殺しはいけませんよ。でもその人の人生や人格は破壊できます。人格を殺すのです」
その男は穏やかに事も無げに口にした。
「人格殺人・・・」
雷樹は口に出したが声にならなかった。
仁宜を潰せば俺は犬じゃなくなるのか。心で思った途端、その男が見透かすように
「教祖様の言葉に従えば、あなたの思い通りになります」
そう言うと、男はまたお茶をすすった。
奥まった部屋に教祖が向井出百子と向かい合って座っていた。
「さすが芳士さま。相変わらずの迫力ね」
信者に芳士さまと呼ばれる教祖は、にやりと笑ったが応えなかった。
「この前の女の子どう?緋色ちゃんとうまくいってる?」
「本人に聞け」
「あら、いやよ。恐ろしいこと言わないで。何もなくてもはらはら物なのに、気に入ったかどうか聞くなんて、できないわ」
「メス蟷螂だろ、おまえ」
「なんてこと、おっしゃいます」
否定せず声高に笑いながら立ち上がった。
「帰るわ。後のことあるからあんまり無茶しないでって言っといてね」
教祖は返事をせず、向井出が部屋を出る前に背を向けた。




