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無の章 放たれし無常の風 ~露命~

  そのころ、卯月は若狭の発見された場所に来ていた。流浪に賢者の情報を掴みたかったのだ。

 川沿いに葦の生えた公園に着いた時は、川に沿って夕方の散歩をする人々がいたが、日が暮れると明かりの少ない公園を歩く人もいなくなった。

 卯月は、昨夜いた人々を探して川沿いを歩いた。足元が見えなくなると、さすがの卯月も心細くなっていた。人の気配は全くなく、川原に生えている葦だけがさわさわと風に揺れていた。

 卯月は生い茂っている葦の方を見た。葦の向こうには川があるはずだった。その時、葦の中からごそりと音がした。卯月は2、3歩後ずさりすると、一目散に車に向かって走り出した。車に乗り込むとロックをして川のほうを見た。

「なんだったんだろう」

 走ってきた後には何もいなかった。卯月は車を出すのをためらった。あの葦の中には何かがあると感じた卯月は、確かめなければ成らないように思えたのだ。もう一度確かめるためにドアを開けようとした時、由宇子からメールが届いた。

「若狭さんの話を聞いてからでも遅くないか」

メールを見てそう決めると、公園を後にした。


 翌日、出勤の準備をしている由宇子に、若狭の容態が急変したと、家族から連絡があった。由宇子が病院に駆けつけた時には若狭は静かに横たわっていた。死因は心不全、原因不明のアナフラキシーショックを起こしたらしい。痛々しくやせ細った身体は、人の骨格を顕わにしていた。その姿に命を保持することは難しかったのが見て取れた。由宇子は若狭が保護されて病院にいることに安心していた。昨日の会話が思い出された。何の問題もなかったはずだった。ゆっくりと回復すると思ってた。

「若狭、どうしたんだよ。まだ仕残したこといっぱいあるやん」

由宇子は生前の若狭の姿を思い出しながら呟いた。


 8月になって、成彦は早めの夏季休暇を利用して秀を見舞った。

 柵に沿って、夏の花の咲く道は、花の小道と呼ばれ、四季の花々で訪問者を出迎えた。夕方になり日差しも弱まり、暑さも落ち着いた中庭で、花の歌姫と呼ばれる稲木瑠瑚が日課になっている花々に 水をかけ始めていた。

 成彦は垣根越しに見え隠れする女性の姿を、気にしながら施設の中に入った。秀の部屋に向かう途中、静かな歌声が流れてきた。

 瑠瑚という名前のその女性は障害を持って生まれ、自らの意思を持たないため、会話をすることがなかった。しかし特殊な才能を持つ瑠瑚は、1度聴いた歌をすべて覚えていた。そしてその歌は、彼女の中の何らかの理由により突然再現され、その歌声は、花に遊ぶ虫でさえ魅了し、安らぎを与えた。

 数日経ってから、その歌が疲れた看護師のためだったり、スタッフの誕生日のお祝いの歌だったと分かることもあった。瑠瑚の歌には、必ずなにかしら意味があり、しばらくすると、繋がるものが見えてくるのだった。


 同じ時間、庭に面した母の居室で、摩帆瑠は母の手を擦りながら、歌う瑠瑚の様子を見ていた。瑠瑚の歌声は摩帆瑠に今までのことを思い出させていた。

 摩帆瑠は本名を川瀬沙織という。滋賀県の大津市に生まれた。

 家は瀬田川の河畔にあり、近くの高台には佐久奈度神社があった。罪、穢れを消し去る、払戸四神が祀られている神社で、50年ほど前、ダムの建設で今の場所に移転された。

 父と母、親子3人で幸せだった時、家族でよく参拝した。だが沙織が小学校1年の時父親が他界してからは、佐久奈度神社に足を運ぶこともなくなった。母親は再婚もせず介護の仕事をしながら、沙織を育ててくれた。質素な暮らしだったが、明るくやさしい母との2人暮らしに沙織は不満はなかった。

 だが高校2年の夏休み、母の異変に気付いた。仕事の愚痴を言う母ではなかったが、妙に落ち込んでいる日が多くなり、仕事を休みがちになった。

 ある朝、沙織が朝食の支度をしようと冷蔵庫を開けると、昨夜遅く帰ってきた母の靴が入っていた。母に聞くと知らないと答え、くどく尋ねたら近くにあった本が、叫び声とともに飛んできた。沙織ははじめて見る母の激しい行動に、漠然とした恐怖を感じた。ふすま越しの会話で、母の顔を見ずに家を飛び出した。

 学校に行って気持ちを落ち着かせると、何かいやなことがあったのだろうと、大きくなる不安を心の奥にしまい込んだ。

 その日は部活も休み、早めに帰宅すると、暑い中部屋の隅で毛布に包まり、動かずにいる異様な母の姿があった。

沙織は身体が強張り動けなかった。何とか呼吸をして、母に声を掛けた。

「おかあさん大丈夫?仕事は休み?」

顔を上げた母は弱々しく笑った。

「何か食べる?」

そう尋ねながら沙織は冷蔵庫を開けた。冷蔵庫を覗いた途端、沙織は母が壊れたと感じた。朝、玄関に戻したはずの母の靴がきちんと揃えて入っていた。沙織は靴を玄関にもっていくと溢れる涙が冷えた靴に落ちた。

 それからの母は問題行動が多くなり、仕事も退職した。

 病院に行くと、若年性アルツハイマー症と診断された。日常生活にも支障が出始め、目が離せなくなり沙織は学校を休学した。

 母は夜寝なくなり、半年も経つと沙織がわからなくなっていた。蓄えも底をつき、面倒を見ながら沙織はバイトを始めた。そしてバイト中に、今の事務所にスカウトされ、母から逃げるように東京へきた。思い出したくない惨めな日々が続いたが、あの宮崎の夜から生活は一変した。今、穏やかな母の顔を見ると辛い思い出はどうでもよかった。今は残された母との時間を大切にしようと思っていた。

 打ち水のされた庭は、生気を取り戻し、生き生きと見えた。

その向こうに見える大海原を見ていて、摩帆瑠は佐久奈度神社に母とお参りしようと思い立った。

 川の瀬にいて、人々の罪、穢れを大海原に持ち出してしまう瀬織津せおりつヒメの神、海に流れ出た罪や穢れを、勢いよく呑み込んでしまう速秋津はやあきつヒメの神、海原に強風を生み出し罪穢れを吹き払う気吹戸主いぶきどぬしの神、そして、根の国といわれる死の世界で、その罪穢れは勢いよく流浪する女神、速佐須良はやさすらヒメの神によって失われてしまうという役割を持つ四柱の神様が祀ってある古里の神社を、瑠瑚の歌は摩帆瑠に思い出させた。

「ひまわりがきれいよ。お母さん外に出ようね」

摩帆瑠は母を乗せた車椅子を押して、ひまわりの咲く、庭の見えるベランダに出た。かすかに吹く、まだ熱を含んだ風が、誘うように摩帆瑠の髪をなでた。摩帆瑠は、ひまわりの花の妖精に話しかけるように歌っている瑠瑚に、引き寄せられていた。

 摩帆瑠の方に瑠瑚がゆっくりと振り向いた。瑠瑚と目が合ったように思った途端、明らかに曲調が変わり伸びのある声は何かを告げているように聞こえた。

 しかしその言葉は理解できるものではなかった。風のささやきのように、光のつぶやきのように、そして大地の叫びのように摩帆瑠の心に伝わった。

 秀の部屋の成彦の耳に、庭先から届いていた澄み切った歌声が、唐突に変化したように聞こえた。

 椅子から立ち上がり窓辺に向かいかけた成彦は、突然、なにかに憑かれたように、さらさらと白い紙を埋めていく秀の左手の動きに驚いた。凝視する成彦をよそに、半眼の秀の手は動いていく。

 輪郭を描くわけでもなく、線に強弱があるわけでもなく、機械的に描かれていく。その絵は描かれるというより、写し絵のようにひたすら静かに現れていく。眼を見張る成彦が、秀が瑠瑚の歌を絵にしていることに気づいた時には、歌が終わりその絵は完成していた。

 そこにはビルの谷間に横たわる女性の姿が描かれていた。その姿はやけどのような皮膚で覆われていた。書き終えると左手は力が抜け、下がり落ちた。

 思わず成彦はその手に触れた。脱力した左手は、成彦の目の当たりにしたことをはっきりと否定していた。

 秀の姿を見れば現実離れした出来事で、受け入れがたいものであり、信じられることではなかったが、そこには確かに秀が描いた一枚の絵が存在していた。秀の回復に繋がることであればと願い、その絵を掴み、施設長室に向かった。

 成彦が部屋から出ると何事かあったらしく、医師や看護師があわただしく動いていた。尋常なことではないと察した成彦はしかたなく病室に戻り、秀の描いた一枚の絵を持ち帰った。


 瑠瑚の歌声が施設に流れる中、設長室では水分施設長を囲み、瑠瑚の様子を見に来所していた稲木賢一と施設の母体の秋津総合病院長の秋津が話をしていた。

「今日は、ドボルザークですね」

水分が改めて感心した様子で、稲木に話しかけた。

「いつ覚えたのかわかりませんが、専門家によるとほとんど正確なようです」

「サバン症候群なのか・・・」

呟くように秋津が尋ねた。稲木は頷きながらテーブルの上に一通の手紙を置いた。

「神戸の病院で見つかったそうだ」

秋津が手に取り読み始めた。


  稲木ナミ様

 私は、10年前、縁あってあなたの大切な赤ちゃんを授かり受けた者です。今になって縁がなかったこととしてほしいなんてとんでもないことだと分かっています。ただあの時病院の玄関の片隅でなみだながらの見送りをされていたあなたは決して別れを望んでいなかったと信じ、瑠瑚をつれてきました。

 生後1ヶ月の瑠瑚を抱きしめるたび、幸せであなたに感謝しました。半年を過ぎたころ、普通の成長をしていない事に気づきました。瑠瑚はだきしめていても、とても遠くにいるようでした。あなたとの別れを望まない瑠瑚の心は私の腕の中にはないのだと思いました。

 出産したという実感のない私は母にはなれないのだと、泣きました。1歳になっても握り締めて開かない手のひらに、頑なに閉ざされた瑠瑚の心を見ました。それでも可愛くて、いとおしくて主人と精一杯愛してきました。心が通じたのか少しずつ笑顔を見せてくれるようになり、可愛い声で 歌うようになりました。言葉は話せないのに1度聞いた歌は必ず覚えて歌うのです。幸せでした。 でも去年の夏、疲れたというメモと離婚届を残して主人が突然いなくなりました。半年瑠瑚と2人で暮らしました。私は自分が恐ろしい。瑠瑚の未来を思うと不安で心が張り裂けそうで、瑠瑚が不幸になるならいっそ・・・

 いつか自分を見失って瑠瑚と楽になりたいと思うのではないかと震えて 生きてきました。 限界です。瑠瑚をお返しします。これで思い残すことはありません。どうぞ瑠瑚を幸せにしてください。

手続きに必要なものを同封します。

恵比須芽衣子



「稲木那美とは、君の奥さんの那美さんのことか?」

「ああ、そうだ」

「再会の前に出産していたということか」

「そうだ」

「稲木、お前、知っていたのか?」

「いや、結婚してしばらくして打ち明けてくれたよ」

「淡路島か・・・あの時の子が瑠湖ちゃんなのか」

「那美も気にしてたんだ。養子に出したからには連れ戻せないって言ってた」

「偶然、お前が引き取ったというのか?」

「そうだ、偶然だ。だが瑠瑚の小首を傾げる姿は那美を思い出させた。いやそれは後で思ったことだ。理屈抜きだったよ、抱しめずにはいられなかった」

稲木は秋津の質問に淡々と答えた。

水分はそんな2人の会話を黙って聞いていた。

「稲木、那美さんは・・」

秋津が聞き難そうに尋ねようとしたとき、ノックと同時にドアが開き、看護師が飛び込んできた。

「施設長、川瀬さんが錯乱状態です」

「俺が行こう」

言うや否や、秋津が部屋を出て中庭に行った。水分と賢一は後を追った。


 それは瑠瑚の曲調が明らかに変わってしばらくしてのことだった。

 摩帆瑠の母が突然、摩帆瑠の本名を呼びながら興奮し始めた。呆然とする摩帆瑠は車椅子を止めたまま棒立ちになっていた。摩帆瑠の母は、力の入らないはずの足で、車椅子から立ち上がろうした。

 そんな母を2人掛かりで押さえつけようとする介護士の姿に、我に返った摩帆瑠が割って入った。

「母さん、私、ここにいるよ」

「だめ、だめよ、あああ・・沙織を連れて行かないで」

 右腕で摩帆瑠を抱きながら、母は何かを追い払うように左手を振っている。それは娘を守ろうとする母の姿だった。

 駆けつけた秋津が、安定剤の注射を打ってしばらくすると、摩帆瑠の母は落ち着いた。

 母に何が起こったのか想像もできない摩帆瑠だったが、久しぶりに母に抱きしめられたぬくもりは、変わり果てても母が母であることの証だった。

 そして、歌い終わった瑠瑚は、海と空とが溶け合う大海原の彼方を、何かを見送るように小首を傾げてみていた。

 日も暮れて、何事も無かったように、母はベットに静かに横たわっていた。ずっと母の手を擦っていた摩帆瑠は母に添い寝した。

「母さん、もう1回抱きしめてよ。お願いだから抱きしめてよ」

摩帆瑠は応えてくれない母の胸で声を立てずに泣いた。


 成彦が花の郷に行って一週間が経っていた。夏季休暇のしわ寄せの仕事もようやく落ち着き、久しぶりに家でゆっくりしていた。いつものようにテレビから一方的に情報が流れていた。

 渋谷のスクランブル交差点のスクリーンに、トップアイドル魔帆琉の事故死のニュースが流れ、人々が立ち止まり、騒然とする姿が映っていた。

 成彦はニュースが伝える景色に愕然とした。摩帆瑠の死亡した場所に見覚えがあった。成彦は書斎に行くと、秀の書いた絵を書類入れから取り出して机に並べると、1枚の絵を手に取った。

 ニュースの伝える景色は紛れもなく一週間前に秀の描いた絵の示す場所だった。

成彦は改めて秀の描いた8枚の絵を日付けの順番に並べた。

横たわる全裸の女性腹部にある黒い塊。

倒壊した建物の中たたずむ全身黒い塊の男。

祭壇に寝かされた黒い塊の乳児。

山の中沢の窪みに胎児のように横たわる全裸の女性首筋に黒い塊。

竹林の中座禅を組む男 背中に黒い塊。

海に漂う全裸の女性右足に黒い塊。

公園の中一人の男が取り巻く浮浪者に差し伸べている黒い手。

8枚目が成彦が手にしたビル群の中、焼け爛れた女性の絵。

 成彦は8枚目の絵を改めて手にした。このやけどをした女性は摩帆瑠なのか?いや摩帆瑠は焼死とは言われていなし、まず部屋から出ることのない秀は摩帆瑠の死を絵にはできない。ただ秀が偶然酷似した絵を描いただけなのか。

 成彦の脳裏に、庭先で歌う女性の歌に合わせて秀の左手が動いていたことが、現実味を帯びて思い出された。

 成彦は秀の描いた8枚の絵を前に、大きな時の輪が方向を変え、回り始めたように感じた。

 この章に登場する払戸四柱のうち速秋津日売神以外の神様は、古事記には登場しませんが、役割を持つ神様として延喜式に登場します。

 日本の神々の事典(園田稔・茂木栄先生監修)を参考にしました。

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