命の章 ~ 霊命 ~ 信じがたく・・苦悩する
おおかたの仕事を片付けて帰宅し、マンションのドアを開けた成彦を大きなスーツケースが出迎えた。
「今度はなんだ?」
リビングへ行くと、秀の絵がテーブルに整然と並んでいる。
書斎へ向かう途中の寝室に、出かける準備をしている卯月が目に留まった。
「成さん、お帰りなさい。私、今から広島に、由宇子のところに行ってくる。由宇子が目を覚ましたらしいの。もう新幹線の予約したから・・・」
さすがの成彦もこの展開に声を荒立てた。
「卯月、何考えてるんだ。命拾いしてまだ2週間だぞ」
成彦の剣幕に卯月は手を止め、ぽかんとした顔で振り向いた。
「だって・・・由宇子が目を・・・」
「それは分かった、だが新幹線はキャンセルだ」
「でも・・・」
部屋を出て行く成彦の背中がやけに大きく見えて、卯月は口をとがらせて黙った。
シャワーを浴びてビールを片手に出てきた成彦を、卯月はリビングで待っていた。
「新幹線はキャンセルした・・・」
「相談する約束だろう・・・」
「うん・・・」
「どういうことか分かりやすく、簡単に説明してくれ」
「秀さんの絵を見てたの。そしたら横たわる人の全身が黒く光って、その直後に由宇子が目を覚ましたって連絡があったから・・・この人は由宇子だって・・・」
「それで、新幹線で行くことにしたのか?それもひとりで」
「だって、教団も諦めただろうし・・・」
「・・・あの教団には全国に信者がいる。一旦目をつけられたら、どこに行っても監視されていると思ったほうがいい」
「えっ?私一生監視されるの?」
「そうだ、奴らがお前さんを無害と判断するか、忘れるか、それまで監視は続く」
「怖いね、盲信って・・・」
「お前さんも・・・」
「うるさい、私が何を盲信してるって言いたいの?」
成彦がうんうんと頷くと、卯月は思い出したように立ち上がって、秀の絵の前に立った。
「成さん、ここよ、ここが光っているの、これは絶対に由宇子よ」
「そうか・・・」
「前よりも光が強くなっている・・・」
「・・・」
成彦にしてみれば、微動だにしない秀の絵。
それを指差して、真剣に説明する卯月の言葉は時として成彦の中で空回りする。
信じようとすればするほど、ふと現れる疑念を成彦は払えないでいた。
そんな成彦に卯月は、追い打ちを掛けるように1枚の絵の前に引っ張っていった。
「あ、それからこの絵なの。この絵のこの子は教団のネット、SASURAの女の子だと思う。それでね、輪郭の線が薄くなって消えていくように思える。それに比べてこっちの絵のオロチは、線が消えかかっていたのに濃くなって復活したように見えるし、何かよくないことが起こるかもしれない・・・」
「・・・」
「・・・だから、由宇子に会わなくちゃいけないの・・・」
反応のない成彦に卯月の語気は弱くなり、会話は途絶えた。
秀の絵がすべての始まり。
成彦は一冊の手帳を拾い届けたことで出会った卯月に、何らかの縁というものを信じて、秀の絵の解読の手伝いを依頼したが、それは成彦の想像をはるかに超えたものになった。
卯月・・・お前さんの言葉はあまりにも現実離れしている。受け入れようとすれば俺の理性はそれを否定する現実を探そうとする。
秀が動かない手でこの絵を描くところを俺は確かに見た。だが衝撃的な場面で鮮明だった記憶も、時が経てば薄れていく。
あのとき、秀は動かない手で本当に絵を描いていたのか?描いてほしいと願うあまり見間違ったのではないのか?稲木医師をはじめとする絵の繋がりも偶然かもしれない。テラに現れたという血管腫も単なる疾患だったのではないか?なぜなら今は完治して再発もしていないのだ。
何ひとつ事実として自分の目で実感できない葛藤の中で、秀の絵にまつわるすべてを信じきれない成彦は、自分自身の体験さえも疑い始めていた。
己さえも疑う・・・イレーザーにとって必要なことだ。
なのに、なぜ俺はこのことを非現実的だと冷静に済ませられないのだ?
そんな俺が卯月の言葉を信じて、ことを進めてもいいのか?
「・・・成さん・・・絵はころころ変わるし、私の言うことも不確かだし、信じろというほうが無理あるよね」
そんな成彦の迷いを見透かしたように、卯月はしょんぼりと肩を落とした。
「そういうわけじゃない」
「・・・成さん・・・」
「とにかく明日仕事の段取りをつけてから、俺も一緒に車で広島に行こう」
取り繕うように渋々と広島行きに同意した成彦に、卯月はありがとうと叫び、飛びついた。
「ほんとう?やっぱり成さんよ」
「やめろ、離れろ・・じゃれつくな。もう一度絵の説明をしてくれ」
そして翌々日、卯月と成彦は由宇子が療養している軌跡診療所へと向かった。
成彦が広島へと向かった日の夜半過ぎ、紗羅の別荘に思兼をはじめとするイレーザーの面々が集まっていた。
紗羅の部屋では、深い眠りについている紗羅の額から、倉岡がゆっくりと手を放した。傍らで紗羅の叔母と名乗り、別荘に入り込んだ技荻が無表情で成り行きを傍観している。
「イントルージョン終了。おかしいな・・・新しく記憶が刷り込まれている」
倉岡の言葉に技荻が反応した。
「彼女はこのVRゴーグル型のリラクゼーション機器を毎日使用しています」
倉岡は首をかしげた。
「ヒーリング用のゴーグル?原因はそれだな・・・だが・・・」
倉岡は技荻を紗羅の部屋に残し、リビングで待っていた思兼と武美に結果を報告した。
「これを30分間毎日使用しているそうです。紗羅の中で1人の男性の存在が大きくなっています。実際にはここ半月、小戸山以外の男性との接触はないので、この機器による影響だと思われます。しかし単なるヒーリング、ここまで洗脳できるものでしょうか?」
思兼は倉岡からゴーグルを受け取ると迷わず装着した。
だが、数秒も経たずにそれを外すと黙り込んだ。
「思兼、何か気になるのか?」
武美の問いに思兼は軽く頷いた。
「倉岡、これを持ち込んだのはサンズの小戸山なのか?」
「技荻は小戸山が持って来たと言っていましたが・・・」
「これはサンズの進め方ではないな」
「と言うと?」
「紗羅を・・・道具にしている」
「まさか・・・サンズが大切な紗羅お嬢様を道具にするか?」
武美はふざけた言い方をしたが、思兼はあくまで真剣に答えた。
「エゴの塊のように見えるサンズだが、信者としての誇りや絆を蔑ろにはしない。ましてや崇められている紗羅を躊躇なく道具として利用するなど考えられないことだ。だが、この進め方は紗羅を人だと思っていない・・・錯乱、いや破壊を目的としている。命にかかわるかもしれない」
その言葉に倉岡が同意を示すと、武美は眉間にしわを寄せた。
「ということは、サンズの中に教団を裏切って行動している奴がいるというのか?」
「もしくは・・・」
思兼は途中で言葉を切った。
「どうあれ、佐田が言うように用心したほうがいいということだな」
広島に立つ前の成彦の言葉を思い出した武美は、カーテンの隙間から気配を探るように外を覗いた。
その別荘の外では、満月間近の明かりが包む木立の中に、2つの影が潜んでいた。
ラーテルとヴァイパーは気配を消して、遠目に別荘の様子を窺っていた。
するとヴァイパーの姿が木々を伝い、音もなく消えた。
そしてラーテルもヴァイパーのあとを追って、木立の中に姿を消した。
その2人が向かった場所は、別荘から少し離れた何台かの車が止まっている駐車場。
その中の1台に、サンズの小戸山が鳴りを潜めて周りを窺っていた。
SASURAというサイトを閉じたあと、教祖に言われ別荘に身を隠した紗羅は、入り江に続く散歩道で姪を捜しているという女性と出会った。
そして紗羅の母方の姓を名乗るその女性は、身元や紗羅との関係を示す書類を持参して、紗羅を引き取ると教団に申し出た。
紗羅も何度か話をするうちに、その女性を母のように慕うようになった。
紗羅の母親が紗羅の養育を託した神盛奈穂はすでに死亡していたため、教団は紗羅を養育する権利を主張できず、教団との関係を絶たないことを条件に、しばらくの間紗羅はその女性と別荘で寝食を共にすることを認めた。
そんな中、緋色が主催する静岡の研修施設に寝泊まりしながら、小戸山は週に2回ほど、家庭教師として紗羅の別荘を訪ねていた。
教祖の指示ではあったが、小戸山の訪問を笑顔で受け入れてくれる紗羅と過ごす時間は、小戸山の心を喜びで満たしてくれた。
そんなある日、小戸山が紗羅の別荘から研修施設の駐車場に帰り着くと、急ぎ足で車に乗り込んだラーテルを見かけた。
ヴァイパーが運転するその車は猛スピードで走り去った。
会議でサンズとして登場したラーテルの紗羅に対する発言が気になっていた小戸山は、迷わずその後を追った。
ラーテルの行先はやはり紗羅の別荘だった。
小戸山が到着すると、すでにラーテルとヴァイパーは車から消えていた。
駐車場を見渡すとラーテルの車以外に見かけない車が数台止まっていた。
来客だろうか・・・それならばラーテルも紗羅に手を出せないだろう。
小戸山はしばらく車の中で待つことにした。
夜11時が過ぎた。叔母さんが知り合いでも招いたのだろうと思っていたが、こんな夜更けまで帰らずに居座るとは何者なのだろう。
思いをめぐらす中で、ふと小戸山はラーテルとヴァイパーは何をしているのだろうと気になった。
とたん、ドンと車が沈み、ドアが開いたと思ったときには、小戸山の首にヌメヌメとした腕が巻きついていた。
「動くな、動けばお前は毒まみれだ」
低く小刻みに震える雑音のような声で、ヴァイパーは小戸山の耳元で囁いた。
小戸山の身体は瞬時に凍り付き、その目は宙を泳ぎ、声の主を見ることを拒んだ。
そして止めを刺すように聞き覚えのある女の声が、小戸山の脳天を砕いた。
「小戸山、お前は引っ込んでなさい、顔を出そうものならお前の来世は家畜に決まり。教祖様を信じておとなしくするの。助かる道は知らぬふりが一番。小戸山・・・分かった?」
そう言い放ったラーテルは、ヴァイパーの後ろで声を殺して不気味に笑っていた。
そのころ玄関で待機していたサルとベンは、別荘の周りを警戒するように武美から指示を受け、見回りに出た。
一方、部屋の中の戸締りを確認した武美は、最後に玄関ドアに鍵をかけてリビングに戻った。
そのリビングでは、確実に近づいてくる奇妙な気配にそれぞれが言いようのない気味の悪さを感じていた。
それが緊張の極みに達したとき、音もなく玄関が開き、腐った沼地のような重い空気が流れ込んで来た。
瞬時に身構えた武美の脇をすり抜けて、その匂いは紗羅の部屋に流れ込んだ。
あとを追う武美は尋常ではない殺気に襟首を掴まれ、足を止め、振り返った。
開け放された玄関に現れた全身が薄緑に見える、青白く血の気のない顔のラーテルに一同の目が釘付けになった。
そのラーテルは物怖じすることなく、悠々とリビングに入ってきた。
「皆さん、はじめまして。私はサンズのラーテル。そしてあれは私の弟ヴァイパー」
その視線の先には、特殊な素材のボディースーツを着込んだヴァイパーが紗羅を抱きかかえていた。
にらみ合うピリピリとした沈黙の時間が流れる。
ヴァイパーがナイフのように尖った指先をソファーに下ろした紗羅に向けているために、イレーザーは身動きが取れずにいた。
ラーテルがイレーザー、1人、1人の顔を確認するように見ていく。
そして、思兼に止まったラーテルの眼光が鋭くなった。
「思兼智・・・お前だけは許さない」
言い放ったラーテルは、突如として思兼に襲い掛かった。
武美が思兼の前に立ちはだかり、ラーテルを押さえた。
同時に紗羅の部屋から飛び出したサルが、武美に襲い掛かるヴァイパーの背を蹴り上げた。
「ヌルヌル野郎、俺様が相手だ」
その挑発にヴァイパーはすかさずサルを追って外へ飛び出した。
武美に抑えられたラーテルは動きを止めた。
「分かった・・・痛いから・・・緩めてよ」
武美に右手を抑えられて床に倒されたラーテルは、諦めたとばかりに弱々しく訴えた。
リビングの緊張が一気に解け、その状況を解決したと判断したベンは、サルの援護へと向かった。
ラーテルは観念したのかぐったりと武美に身を預け、目を閉じていた。
武美はその様子を思兼に目くばせで伝え、思兼の相槌に頷き返した。
ラーテルの表情を窺い、絞めていた拘束を緩めた。
するとラーテルは動きが取れるや否や、武美を突き飛ばし身体を翻して、ソファーの背にもたれている紗羅の首を後ろから二の腕で巻いた。
咄嗟にラーテルを掴んだ武美だったが、ラーテルに手を払われた途端、首にちくりと痛みを感じた。
そしてそのまま崩れるように膝をついた。
駆け寄ろうとする思兼と倉岡を、武美が喘ぎながら止めた。
「寄るな・・・毒・・だ」
その武美を嘲るように見下ろして、ラーテルは高々と勝利を示すように手を挙げた。
ラーテルは左手の3本の指に突起のついた指輪をはめていた。
「この中には毒が仕込んであるの。この男はもうすぐ死ぬ。アハハ・・あと2つ、思兼、お前と紗羅の分・・・」
飄々とした思兼の表情が厳しく歪んだ。
そしてラーテルの顔から笑いが消え、冷酷な言葉が思兼を襲った。
「思兼・・・お前の正義が仲間を殺し、何の罪もないこの幼気な娘の命を奪う。お前が振りかざした正義のために紗羅は死ぬの。お前は正義を理由に人の人生を終わらせた人殺し。この場で命を持ってその罪汚れのみそぎをしなきゃね」
ラーテルはここぞとばかりに思兼の罪を責めたてた。
そんな中、ラーテルに生命線を握られた紗羅がゆっくりと目を覚ました。
「おや、紗羅お嬢様、お目覚めですか?・・・そうそう・・・あなたに良いこと教えてあげる」
ラーテルは、紗羅の部屋の入り口から微動だにせず成り行きを見ている技荻に、顔を向けた。
「あのおばさん・・・偽物よ」
止めて・・・立ち尽くす技荻の心が悲鳴を上げた。
静観です・・・岩堤の声がそれを抑える。
「紗羅の叔母さんなら突っ立ってないで紗羅を助けなきゃ・・・」
そのときラーテルの意識が紗羅から技荻に向いた。
ラーテルはその隙を武美に突かれ、紗羅から引き離され床に倒れた。
覆い被さる武美から逃げようとするラーテルを、武美の言葉が止める。
「お前も・・・死・ね・・・」
ラーテルの薄緑の頬に、蛇の噛みあとのような傷が付いていた。
武美は残った力でラーテルの手を掴みその顔にラーテルの毒を打ったのだ。
ラーテルはフフッと不敵な笑いを残し、武美の下で動かなくなった。
思兼は目を閉じたラーテルの首に手を当てた。
脈が弱くなっている。ラーテルの正義という言葉が思兼を揺さぶる。
このまま・・・という選択。思兼はラーテルから視線を反らした。
そこへベンとサルが入ってきた。
2人は武美の様子に一瞬たじろいだが、すぐに岩堤の指示に従い、ベンは武美を背負い別荘を出た。
玄関まで出てきていた思兼を、ベンの後を追うサルが半泣きの顔で振り返った。
「入り江にヘリが来ます。絶対に助けます」
サルはベンを追って、入り江へと走り出した。
サルの姿を見送りながら、思兼は奥歯を嚙んだ。そしてスマホを取り出し、ラーテルのために救急搬送を要請した。
静けさを取り戻したリビングで、倉岡が紗羅に声をかけていた。
「紗羅さん、大丈夫ですか?しっかりして」
「あなた・・は?」
「ううっと・・・叔母さんの知合いです」
「叔母さんは・・・どこ?」
紗羅は身を起こし、技荻を探そうとした。
まだ紗羅は覚醒しきっていないと倉岡は判断し、技荻に傍に来るように合図した。
「連れてくるから・・・待っていて」
倉岡は抜け殻のように立っている技荻を手招きした。
それでも動かない技荻を呼ぶために倉岡が立ち上がり、紗羅に背を向けた途端、倉岡はその背を蹴られ、サイドテーブルで頭を強打して意識を失った。
思兼は物音を聞きつけリビングに戻り、倉岡に駆け寄った。
その目に紗羅の横にゆったりと腰を下し笑うラーテルが映った。
「お前は・・・」
思兼は信じられない光景に息を呑んだ。
「死ぬはずないでしょ、私が作った毒なのに・・・」
さすがの思兼もめまいを感じた。
「さて、少し筋書きは変ったけど、クライマックス・・・仕上げね。ヘリが来るって言ったよね?残念ながら間に合わないわ。あの男は助からない・・・紗羅様、次はあなた・・・お待たせしました」
ラーテルは紗羅の髪を撫でながら軽やかに笑っていたが、そんなラーテルを凝視する思兼にその笑いは酷薄な笑いに変った。




