無の章 放たれし無常の風 ~露命~
成彦は秋津総合介護施設花の里に入所している阿波島秀を見舞った。
駐車場に車を止めると手入れの行き届いた外庭を通り、施設の敷地に入っていった。
少し歩くと柵に囲まれた中庭が見えてきた。その向こうには青い海が広がっている。
柵に沿って小道を歩いていくと施設の玄関が見えてきた。
玄関前に立った時、自動扉が開き、中から清楚な身なりの若い女性が出てきた。
すれ違う時見たことのある顔だと思ったが、はっきりと思いだせなかった。
閉まりかけた自動扉が開き、成彦は中に入った。
待合室になっているホールの壁掛けのテレビに、今人気の摩帆瑠が映っていたが
興味はなかった。
通り過ぎようとする成彦をホールを掃除していた清掃員が引き止めて話し出した。
「今出て行ったのがこの子だよ。テレビじゃ派手そうにしてるけど立派だよ。認知症の
親を看てんだから。1ヶ月に一回は見舞いに来てさ、私たちにもちゃんと挨拶するよ」
摩帆瑠の特集をしているテレビを改めてみた。
司会者に甘えるしぐさをする摩帆瑠の姿が映っていた。
摩帆瑠がテラを引退に追い込んだと週刊誌が報じたこともあったが成彦にとって
作られた摩帆瑠の、本当の姿など、どうでもよかった。
まだ話たげな清掃員を残し、秀の部屋へ向かった。
一番奥の海の見える秀の部屋の入り口で立ち止った。
成彦は一応ノックして部屋に入った。
秀はうつろな目でベッドに座っていた。
テーブルに力の入っていない左手がスケッチブックと鉛筆をもっていた。
「よう秀、・・・元気か?」
返事はないことは分かっていた。
「忙しくってな、悪かったな、見舞い来れなくってな」
独り言になるのは承知で言い訳をした。
成彦はベッドの横に椅子を出し、座り込み、机にある秀の左手に触れた。
「動くのか?」
顔を見て尋ねた。
「また絵が描けるのか?」
変化のない表情に耐えられず、動かない手に視線を戻した。
「だったら海の絵完成させなきゃな」
静かな時間が流れた。秀はこの時間を、俺との時間をどう思っているのだろう。
この疑問が心に浮かぶと、秀と向き合う時間の終わりと決めていた。
「そろそろ帰るよ、秀」そう声を掛けたとき、看護婦が7枚の絵を持ってきた。
4月に入った頃から書き始めたらしい。しかし絵を描いているところは誰も目撃して
おらず、本当に秀が書いたものかは不明だった。
いつか再び絵を描こうと秀が思えばと、入所した時に紙と鉛筆を傍らにおいて欲しい
と頼んだのは成彦だった。
一番上の絵を見た。
公園らしき場所で一人の男がホームレスの人々に手を差し伸べていた。
まるで写真のように細かく描いてある絵は今の秀が描いたとは思えなかった。
次を見ようとしたときマナーモードの携帯が鳴った。
「秀、この絵貰っていくぞ。ゆっくり見させてもらうよ。」
成彦は秀の描いた7枚の絵を持ち〈花の郷〉を後にした。
成彦は秀の見舞いの帰りに品川に立ち寄った。
週末の駅は混雑していた。駅を出た所で、駆け上がって来た女性に当たり、その女性
のかばんから手帳が落ちた。
拾い上げ、去っていく後姿を見たが声を掛けるまもなくその姿は人ごみに消えた。
成彦は、手帳にある天野卯月という名前に聴き覚えがあった。
手帳を内ポッケットにしまい、成彦は市ヶ谷の事務所に向かった。
しばらく出入りしていない事務所はかび臭かったが、成彦は気にせずソファーに座り、
ぱらぱらと拾った手帳を見てみた。まだ新しい手帳にはメモ書き程度だったが、
成彦はその内容に興味を持った。
「失踪した製薬会社の研究員」
「ホームレスに手を差し伸べる流浪の賢者・・・流浪の賢者?」
思わず繰り返して言葉にした成彦は、持ち帰った秀の絵を取り出した。
まさか・・そこに描かれている男を流浪の賢者ではないかと思ったのだ。
だが、あの部屋から出ることのない秀は流浪の賢者など知る由もなく、書くことは
できないのだ。
成彦はとっぴ過ぎる思いつきに苦笑いをした。
そして手帳にはある宗教団体の名前があった。
「真禍津教・・・トラの教祖」
成彦は奥にあるパソコンの部屋に行くと天野卯月という名前で検索した。
フリーの記者で、最近テレビでレポーターの仕事をしているとあった。
記憶をたどり、しばらくしてライフシェアータウンのレポーターだと思い出した。
メモされたものは成彦にとって重要とは思えないものだったが、秀の描いた絵との
関係が気になった。成彦は周りをざっと整理するとパソコンに向かい、それぞれの
関連あるものを調べ始めた。
卯月は毎日夜遅くまで賢者と呼ばれるホームレスと、由宇子の同僚の若狭礼を追って
いた。
その夜は、繁華街の公園を諦め、川沿いの公園で取材をしていると、この公園で
散歩をしている人が情報をくれた。ここ何日か、月が昇ると座禅を組む男を見かけたと
いうのだ。
9時を過ぎていたが月はまだ出ていなかった。車の中で月を待った。
調べると月が昇るのは夜中らしい。後3時間卯月は待つことにした。
確かな情報は何一つない中、卯月は何週間も闇雲に探し回った。今回も情報とはいえないものだったが、確かめようと思った。
川原には何人かのホームレスがいた。
なぜか話を聞こうと思わなかった。疲れていた。そんな男は知らないと言われ、気落ちする自分を見たくなかった。今夜はじっと待つことにした。空には星が出ていた。
由宇子に今の状況をメールした。
「久しぶりに上を向いてる私。ずっと地面ばっかり見てたから夜空が新鮮だよ」
メールが帰ってきた。
「ひとりでたいじょうぶ?何時までいるの?」
「月が出るまで。車から出ないから心配要らない」
「待機してるから何かあったら連絡してね」
「了解」
たまにメールをしながら月を待った。
夜中に下弦の月が姿を現した。卯月は車から出て月に向かって歩き出した。
川沿いの茅の茂る場所に出た時、下弦の月の下、座禅を組むやせた男が卯月の
視界に浮かび上がった。卯月は迷いなく駆け寄った。
「あなた、若狭さん?若狭礼さん?」
男は目を閉じたままで、返事は返ってこなかった。男の身体が小刻みに震えている
ように見えた。
その異様にやせた姿は素人の卯月でさえ命の危険を感じた。
救急車の手配をして、待機している由宇子に連絡をした。到着を待ちながら、集まってきた4,5人の人々に尋ねた。
「この人の名前を知っていますか?」
一同が横に首を振った。
「いつからこうしているのか知っていますか?」
「3日前にはいたよ。それからずっと夜はこのままで動いてない」
「食事はしていましたか?」
「いいや、歩いてるとこ見たことないから摂ってないだろう」
救急車の到着と同時に由宇子が着いた。
卯月は救急車に運ばれる男を由宇子に確認した。
「由宇子、この人若狭さん?」
「そう若狭・・・なんて姿になってるの?」
それ以上言葉の出ない由宇子に代わり、若狭の情報を救急隊員に伝えると、救急車に
由宇子が同乗し、卯月は車でその後を追った。
若狭は秋津総合病院に搬送され、ICUで検査と治療を受けた。
摂食障害による体力低下が原因で状態は非常に危険でありながら、命に別状はないと
いう検査結果が出た。
由宇子と卯月はしばらく付き添っていたが、容態が落ち着くと駆けつけた家族に
代わり、朝方近くに帰宅した。
2日後、意識が戻り個室に移った若狭を由宇子は見舞った。
病室に入ると看護師が点滴の交換をしていた。
「若狭礼さん点滴の交換をしました。意識も戻られたので栄養剤の内容が変りました。
すぐに元気になられますよ。」
看護師は若狭に声をかけ、由宇子に会釈して部屋を出た。
由宇子はまじまじと若狭の顔を見て安堵のため息をついた。
「若狭、なに馬鹿やってんのよ。心配したよ」
「和久、悪かった。あれだけ頑張ってきたのに本当は何もできないって分かったん
だよ。親にもいえなし、今さら和久にも相談できないし、自分がわからなくなった。」
若狭は続けて話すのはまだ辛いらしく一息ついた。
「夜部屋で寝ていたら、息苦しくなって外に出たんだ。ぶらぶら歩いてたのは覚えてるけど何日、どこを歩いてたかは分からない。」
「帰ろうとはおもわなかったの?」
「考えもしなかった。とにかくじっとしていられなかった。動いていないと落ち着か
ないんだ。そんな時行き場なくて公園にいたら妙なおっさんが声掛けてきたんだ。
両手のひらを差し出して、触れって言うんだ。触ると空腹を感じなくなるってね。
飯のことはどうでもよかったけど触ってみた。大きな暖かい手だった。だったら試し
てみようって思ったんだ。食わずに生きていけるかどうか」
「へえ、本当に居たんだ、流浪の賢者」
「そう呼ばれているのか、あのおっさん。ごほごほ」
若狭は苦しそうに咳き込んだ。
「でもよかったよ、生きていて。若狭、苦しそうだね。またゆっくり話そうね」
若狭はうなづいたが、帰ろうとする由宇子を引き止めるように話を続けた。
「和久、俺とんでもない物つくちまった。」
「とんでもないって、なんなのそれ?」
「薬だよ」
「分かるように話して」
「ああ・・・今度な、疲れた」
若狭は 薬という言葉を口にしたことを後悔したように話をきった。
「そうね、また聞くね」
由宇子は、続けて聞きたい衝動を抑えて、病院を後にした。
病院の玄関を出る時、卯月にメールを入れた。
「卯月、若狭大丈夫だよ。流浪の賢者のことも知ってる。次面会する時は誘うよ」
「了解、とにかくよかったね。連絡待ってるね」




