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立命 ~諾~ 立命

備え持つ・・・レトロウイルス

由宇子は、伊豆野が運転する車で母が暮らす広島へ向かっていた。

高速道路の流れる景色に、卯月を思い出した。


広島で暮らすことを決めた日、病院からの帰り際に卯月が1粒の薬を由宇子に渡した。

「これは菜穂さんがいた教団の信者が飲んでいたものなの」

「どこで手に入れたん?」

「お金で買った・・・棚伏雷樹さんと連絡が取れなくなったから・・・」

「連絡が取れへんの?」

「うん、ちょっと心配・・・」

「卯月は大丈夫なん?」

「うん、私のことはばれてない。私は大丈夫だから、由宇子は自分の体のことだけ考えて、無理はしないで。この薬は伊豆野さんに頼んで調べてもらえるかな・・・これではっきりするでしょ、菜穂さんの薬と教団の薬と・・・若狭さんの薬の関係・・・」

「ありがとう。危ないことさせたんやね・・・」

「私なら・・・本当に大丈夫だから心配しないで」

「卯月、若狭のことはもうええよ、私は諦めたんやから。これ以上は危ないことはせえへんと約束して」

「由宇子は諦めたの?若狭さんの薬のこと」

「うん、伊江谷が若狭を利用してたことがはっきりしたし、伊江谷もね・・・」

「そうね。今更どうしようもないか」

「だから、卯月はこの1粒の薬で終わりにしてな」

「分かった、由宇子が諦めるんなら、そうするね」


何か寂しげな表情を浮かべた卯月が、流れる景色の中に消えた。


過ぎる景色に心を預けてぼんやりとしていると、運転している伊豆野が珍しく声をかけてきた。


「預かった薬だが、若狭さんの薬の成分に微量な合成麻薬の成分が加えてあった。このことは天野さんに伝えるのか?」


「え?・・・合成麻薬って、馬鹿な・・・」


由宇子の脳裏に、若狭や流浪の賢者、伊江谷そして卯月が、薬に絡む出来事とともに現れた。

目を強く閉じても幻覚は消えない。


吐き気がしてきた。


しばらく我慢をしていると、車のスピードが落ちてパーキングエリアの駐車場に止まった。

由宇子はトイレに駆け込んだ。

腹の底に溜まっていた毒が上がってきたような感じがした。

吐き切った由宇子はその場にしゃがみ込んだ。


若狭の薬ではない薬が実在した。それも若狭が一番嫌っていたはずの薬。


めまいが止まらなかった。

「若狭・・・」

閉じた目をゆっくりと開き、由宇子は立ち上がり呟いた。

「諦めたらあかんわ。まだ若狭の薬に問題がないことが証明できてへん」


由宇子はふらつきながら車に戻った。

「ごめんなさい」

由宇子の言葉に伊豆野は軽く頷いた。

「吐き気は止まりましたか?」

「大丈夫・・・」

「それなら・・・出発します・・・」


助手席で目を閉じて動かない由宇子を気にしながらも、伊豆野はそのあとも声をかけることなく運転を続け、由宇子を母のもとに無事送り届けた。


到着は夕方になり、伊豆野は用意された食事をいただいて帰ることになった。


伊豆野が由宇子を探して洗面所に行くと、薬を飲もうとしている由宇子がいた。

伊豆野に気づいた由宇子は飲もうとした薬を握り隠した。


それは若狭の薬だった。


「今の和久さんには害のない薬でも、のちに毒になる可能性がある。和久さんの目的が何であろうと、薬は使いようによっては毒になる。それを百も承知の和久さんが服用してはいけない。若狭さんの二の舞になることを若狭さんが望んではいるはずがない。若狭さんの薬はすでに治験も済んで認可を待つばかりと聞いた。それで終わりにしていいでしょう」


由宇子は唇を嚙んで黙って聞いていた。

「和久さん・・・」

「・・・若狭の思いの詰まった薬んなの。安全だと証明してあげたい。若狭の薬を飲んでも何ともないと証明したいの。若狭の薬は毒ではないって」

「それはあなたの役目ではない」

「役目?」

「自分の役目は体を守り繋ぐことだとあなたは言っていた」

「分かっている、でもね、若狭が最後に言ってたの。とんでもないものを作ったって」

「そうですか。和久さん、とんでもないものとはどんなもので、どこにあるのですか?若狭さんは今あなたが持っている薬を作りました。その薬の成分はとんでもないものではありません」

「・・・・・」

由宇子はしょんぼりと肩を落とした。

そんな由宇子に伊豆野がぼそりと言い足した。

「あり得ないことを承知で仮定するなら、特定の遺伝子に対してその薬が反応して体が変化する。その変化、反応はその個体差、遺伝子によって異なり、場合によっては死に至る。受容体質の反応時期、反応速度、持っているもの・・」

「持っているものとは・・・なに?」

「レトロウイルスなら・・・あり得ることだ」

「レトロウイルス・・・」


由宇子の手から薬の束が床に落ちた。

「これは僕が預かります。これで全部ですか?」

拾い上げた伊豆野に、由宇子はこくりと頷いた。

「教団の薬が本当に違法のものなら放っておきません。しかし僕たちで何とかなることではないので、ここまでで終わりにしましょう」

喉元まで出てきた卯月の名前を、由宇子は呑み込んだ。

「分かったわ・・・」

「僕はこれで帰ります。和久さん、くれぐれも無茶をしないでください」

伊豆野はそう言い残し、薄暗くなった比婆山を後にした。

母とともに伊豆野を見送った由宇子は、しばらくの間ひとりで星が輝き始めた空を眺めていた。

何億年も前に放たれた光が今届いているという星の輝きに、大いなるものの存在をひしひしと感じた。

そして由宇子は愛おしそうに自分の腕を擦り、はっきりと言った。


「さあ、とことん私に付き合ってね、私の菌ちゃんたち」




そのころ、由宇子を見送り帰宅した卯月は、早々にベッドに潜り込んだ。

もう一度秀の絵を見なければならないと思った。

あの絵の中に由宇子らしき女性が描かれているかもしれない。

それを確かめようと勢いづく卯月を、テラの言葉がその勢いを削ぐ。

「あいつと仲良く?とんでもない。絶対無理。でも浅からぬ因縁なの?あいつと私で謎を解く・・・テラさんが言ってた」



その夜、卯月は建物に閉じ込められていた。部屋の壁には秀の絵が張り巡らされていた。その絵が卯月に向かって迫ってきた。逃げ場を失い秀の絵に縛られた卯月は、深い霧の中に放り出された。由宇子に連絡をしたが通じない。都にもかけた。思いつく相手にかけまくりながら所かまわず走った。目の前に断崖絶壁が現れた。振り返ると真琴がいて、笑いながら卯月を突き押した。叫びながら落ちていく途中で目が覚めた。



卯月は布団をはねのけ飛び起きた。

「夢?・・・何なの?・・・真琴ちゃんがいた・・・」

キッチンで水を飲んでため息をついた。

怖い夢だったが鮮明に覚えていて、なぜか頭はすっきりとしていた。


コーヒーを入れてソファーに座った。卯月は天井を見上げた。

目を閉じると眉間の少し上に、壁に貼られた絵の一部が浮かんできた。


その絵には、ベッドに横たわる女性がいた。

女性の皮膚には現れては消える黒い部分があり、転々と体を移動していた。

「この人は由宇子なの?」

目を開けるとコーヒーを持つ手が震えていた。

「もう一度・・・」


だが卯月は目を閉じることをしなかった。

絵が本当に未来を示すなら、これから由宇子の歩く道が示される。その結果を冷静に受け止める覚悟ができなかった。

これが、佐多成彦が絵の存在の公言を止めていた理由なのだろう。

卯月は秀の絵がもたらす結果に、底知れぬ恐怖を感じていた。



一方、佐多成彦は稲木賢一の診療所を訪れていた。

連絡は入れていたが、着いたとき稲木はまだ診療中だった。

待合室は4、5人ぐらい入れる広さで、飾り気はないが清潔感のある部屋だった。


しばらくすると、お礼を言いながら賑やかな女性が出てきた。名残惜しそうに出ていく女性を見送ると、稲木は成彦を診察室に招き入れた。

「お待たせしました。狭いですがこちらへ」


パーティションで仕切られたそこは、ゆっくりと話を聞くための場所になっていた。

診療所の雰囲気が稲木の人柄そのものに感じられた。

稲木が麦茶を持ってきた。

「こんな物で申し訳ないですが、どうぞ」

「ありがとうございます。お構いなく。お忙しいのにお時間作っていただいて申し訳ないです」

「お話とは・・・あの絵のことですか?」

「お察しのとおりです。私の友人の描いた絵について先生のご意見を伺いたい」

「私の意見ですか?」

「先日秋津先生と絵を見ていただいたときに、稲木先生にはいろいろと絵についての情報をいただきました」

「・・・」

「私は秋津先生と同じく、この目で見たものしか信じない性格なのですが、今回はあり得ないことをまざまざと見せつけられ、この目で見たことを実証できずにいます。現実とは、真実とは何なのかの確信が持てなくなりました。そんな中で、現実的な繋がりがかすかに見えました。あの絵で結ばれた不思議な縁の始まりが、先生で(に)あることです。先生もお気づきですね」


成彦は丁重に絵を取り出し、1枚目を脇に除けて、2枚目の絵をテーブルの上に置いた。

「これは先生ですね・・・」

稲木は否定せずに絵に目を落としたまま黙っていた。

「山の中の沢の窪みに横たわる、首筋に黒い塊の女性、これはテラさんです」

断言した成彦を稲木は表情を崩さずにチラッと見たが、すぐに絵に視線を戻した。

「そしてこの2枚は私の友人です」

「・・・」

「黒い手を持つ男性は、流浪の賢者と言われていた芦屋彦治さん・・・・」

「・・・」

「このビル群の中の女性は、摩帆瑠・・・先生もご存じですね」

1枚づつ捲りながら言葉を添えた成彦は、残した2枚の絵を稲木の前に並べた。

「奥様とお子さんですね」

腹部に黒い塊のある女性。

祭壇に寝かされた黒い塊の乳児。


稲木はしばらく考え込んでいた。


稲木は那美の生存を隠したかった。

そっと静かに生きてきた那美は人との関わりを嫌っていた。そんな那美を今になって人前に出すことは、稲木にはできなかった。稲木はなぜ佐多成彦が那美や消えた我が子について知りたがるのか疑問に思った。だが佐多成彦の目的を知ることで、抜き差しならぬことになるのを恐れて、それさえも口にできなかった。


「奥様にお会いすることはできませんか?」

稲木の表情に変化はなかった。

「それでは、お子さんが行方不明になった時のことを詳しく教えていただけませんか?」

稲木は一瞬ではあったが明らかに動揺した。


成彦は稲木の返答を待った。


稲木の反応を確認した成彦は、それ以上稲木の家族についての追及をやめた。

「これだけはお答え願いたい。この複数の絵に書かれている人物は、稲木先生と何かしらの繋がりがあると思われますか?」

「分かりません・・・」

稲木が重い口を開いた。

「この女性がテラさんなのかは分かりません。しかし私との繋がりと言えば、震災の時に彼女を治療しました。彼女は覚えていました。思い当たるのはそれくらいで、流浪の賢者という人には面識はありませんし、摩帆瑠さんとは花の郷ですれ違った程度で、お話したことはありません」

「そうですか・・・」

成彦はそれ以上尋ねることなく、稲木の診療所をあとにした。


成彦はひさしぶりに自宅のマンションに戻った。


出産を控えていた稲木の妻那美に突然血管腫が発症した。当時の記録は曖昧で、出産の記録はあるが子どもは死亡とされていた。

そして那美は震災の行方不明者に記載されていた。


成彦は仮説を立てた。那美は無事に出産した。だがその子供は血管腫から何らかの影響を受けていた。そのため記録が曖昧にされていたところに地震が起きた。震災による死亡者の記録に、稲木の子供の名前はなかった。


その子供はどこに・・・稲木自身は子供の行方を知らないと言っていた。

稲木は那美の生存については反応しなかった。妻の那美は・・・どこかで生きている。

それを知りながら、知られたくない理由は何だ?


テラは稲木と接点があった。震災の時、治療を受けたと言っていた。

雄介は神戸のバスターミナルで被災している。ルナは本籍が西宮だった。

雄介やルナも稲木の治療を受けた可能性がある。接点、いや接触している。



稲木夫妻が発現もとだとすれば、そして夫妻の子供が祭壇の乳児だとして、流浪の賢者が身を置いていた教団で育ったとしたら・・・そして摩帆瑠はテラと接触している。すべては繋がる・・・だがなぜ摩帆瑠は黒く塗られていないのだ。


成彦は残りの秀の絵の中から何枚かの絵を取り出した。

そこには数え切れない人々が細かく描かれていた。

成彦はその秀の絵を見て動悸が早くなるのを感じた。

「ここに描かれている人・・・」

あえて血管腫の発現を感染症という危険なものとするなら、秀の絵に描かれている人がすべて感染しているということなのか。

この20数年もの間に感染、いや影響を受けているのだろうか?

直接命にかかわるものではないが、何かのきっかけでその命は儚く消える。

それは摩帆瑠のように・・・気が沈む・・・重い現実と恐ろしい未来・・・


成彦は壁に飾っている秀の海の絵をぼんやりと眺めた。

幾重にも塗られている深い、深い海の青に、成彦の思考が沈んで行った。


海の底に着いた。深海の闇、圧迫、息苦しい、動けない、どうしたらいい?


成彦はスマホの着信音で我に返った。


「面倒なことになるなぁ・・・」

成彦は天野卯月と表示された画面を少し眺め、プチッと消した。


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