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立命 ~諾~ 立命

慧眼の士と八十やその術 

(思兼智と八十郷医師悪神の研究所)

この世の中は、繰り返し押し寄せる波に煽られた船が漂う洗脳の海。


メディアを通して作られるトレンド。繰り返し流れる音への依存。占いが誘う思い込み。

現れては消え、流れ去る幻を、人々は果てなく追い求める。


八十郷元治は、そんな世の中で完璧な洗脳教育を追求し、学問として研究していた。


夜半過ぎ、飾り気のないビルから初老の男が出てきた。その男、八十郷元治は街灯が照らす歩道を、壁沿いに歩いて行く。


しばらくして八十郷は、行く先のビル陰に立っている人影に気付き、立ち止まった。


するとその人影は、まっすぐ八十郷に向かって歩いてきた。


「芳志総合病院院長、八十郷元治さんですね。少しお話を伺いたいのですが、これからお付き合い願えますか?」


淡々とした話しぶりだが、有無を言わせぬ圧力があった。

「・・・・」

小柄な八十郷は手を後ろ手に組むと、無言のまま目の前の上背の高い男を見上げた。


穏やかに、静かに向かいあった2人の探り合いを、周りのすべてが邪魔立てしないように息をひそめた。


ひたすらに長く感じる数分が過ぎた。


「・・・それでは私の研究所に参りましょう。すぐ近くですから」

八十郷は抑揚のない声で言うと、相手の返事も聞かずに歩き始めた。

その男は無言のまま、少し離れて八十郷に付いていく。


閑静な住宅街に入り5分ほど歩くと、その一角に八十郷の研究所があった。


八十郷が中に入ると、ドアは男を待つこともなく閉められた。

男はそんな八十郷の行動を気にもとめずに、閉まったドアを自ら開けて中に入った。


その建物はいかにも研究所らしく、玄関をはじめ、生活感のない部屋が並んでいる。


一番奥の部屋へ入る八十郷に付いてその男も入った。


その部屋はカウンセリングルームらしく、患者が集中できるように暖色系のオレンジ色で統一されていた。壁にはアートセラピーの類の絵画が何点か飾られている。気に障らない程よい音量の癒し系のBGMが流れていて、座り心地のよさそうなひとり掛けの椅子が角のないテーブルを挟み、対面で置いてある。


八十郷はその椅子を指して、その男にかけるように勧めた。


男は勧められるままに座った。


テーブルには口どけのよさそうな菓子が、皿に数個並べてある。

八十郷は、良ければどうぞと男にそれを勧めた。


男は軽く断り、その代わりに名刺をテーブルに置いた。

事前有事対策室 思兼智とあった。

八十郷は興味無さそうに名刺を見た。


そして思兼に口を開く間も与えず、唐突に話し始めた。

「私の家は農家で、無農薬の野菜を作っていました。幼い頃、よく虫取りを手伝ったものです。野菜についた青虫を1匹1匹取っては潰しました。それが仕事でした。そうです、虫を殺すのが仕事でした。夢中になって潰していくと優越感が生まれ、そんな作業が心地よくなっていました。そのうちに1匹1匹の始末が面倒になって、袋に入れてまとめて潰しました。潰すと虫たちの命の音がしました。虫も悲鳴を上げるのだと思いました。そのときに初めて罪の意識を感じました。そして、私は命を尊ぶために医者になりました。しかし患者が逝くたびに無力だと感じて、罪の意識に悩みました。命を助けようと必死に手を尽くしても力及ばないとき、どうしても自責の念に駆られました。苦しみました」


八十郷はふうと一息つき、話を続けた。


「ある日、気づきました。この手で救えなかった目の前に横たわる命に罪の意識を覚えても、その息絶えるところさえ見なければ、罪悪感は残らないのです。私は罪悪感を感ぜずに命を救う仕事を探しました。そして少しでも楽にしてあげようと、人々の心を助けるこの仕事に就いたのです。人間は呼吸をしていても、心が息苦しければ死んでいることと等しいのです。私は催眠療法で人の心の叫びを聞きたいと思いました。何人ものクライアントが私に心開き、すべてを預けてくれました。そして誰もが自我に気付き、本当の自分のあるべき姿を受け入れ、救われました。しかし何かが足りないのです。何度試しても意識の底が見えなかったのです。潜在意識を顕在意識の領域に誘い出せなかった。」


八十郷は詩でも朗読するように朗々と続けた。


思兼はテ-ブルの上に、八十郷が気づくくらいの音を立てて両手を置き、その手を組んだ。


八十郷の視線がその組まれた左手の人差し指の指輪を捉えた。


「無抵抗は服従に等しき。あなたは大きな勘違いのもとで、催眠療法で無抵抗にした患者を研究材料にしました。そして行き詰まったあなたは神から見放された」


指輪から目を離さず考え込む八十郷に、思兼はその心を読み取ったように結論付け、告げた。


八十郷はゆっくりと顔を上げた。


そこには穏やかな表情の教祖がいた。そして側近の声が静かな空間に重々しく響き渡った。

「八十郷様には十分に貢献していただきました。八十神様の掛け軸をご返還いただきます」


神と崇められた何年もの間、現世で足搔く人々を来世のために救ってきた。それが終わりだと告げられた。八十郷は八十神の掛け軸を前に、目を閉じた。


八十郷は教団のために術を使ったのではなかった。研究のためだった。研究半ばでやめることは、託された幾人もの貴い命が無駄になる。


心に芽生える苦しみから人々を解放するためのこの研究を続けなければならない。八十郷はそれを使命と掲げてきた。


混濁する意識の中の教祖が、目の前の穏やかな表情の男と重なる。


その男の唇が動く。


遅れて声が届く。


「神盛菜穂・・・さん。あなたの初めてのクライアント」


「神盛・・・菜穂・・・」


「あらぬ前世を告げられた女性・・・ですね」


「托卵・・・」


「その女性に追い打ちをかけ、償いという鎖で縛った」


「前世からの解放が・・・必・・・」


「結果・・・彼女は命を絶った」


「苦悩の心に・・・潜在に届かなかった・・・」


「あなたは無力だ・・・」


会話が途切れ、一瞬の間が八十郷を変えた。


八十郷は突然怒りを爆発させ、その矛先を部屋の装飾品に向けた。

壁掛けのすべての絵が飛んだ。

水の入ったピッチャーやカップも壁に当たって割れた。


思兼はその姿を目で追うこともなく、平然と座っていた。


八十郷の怒りに満ちた視線が、冷静な思兼に向いた。


テーブルを挟み、思兼の前に仁王立ちになると、八十郷自身が座っていた椅子を倒し、テーブルの上の菓子皿を床にはらい落とした。


それでも思兼は微動だにしなかった。


菓子皿に向けた視線はそのまま思兼の指輪に吸い寄せられ、途端に破壊行動が止まった。


しばらくすると、八十郷の怒りは不安に変わった。


思兼は動きが止まった八十郷の全身に漂う空虚感を感じ取った。


「あなたを必要としている研究所があります。ぜひ参加していただきたいとのことです」

「研究所・・・」


「その研究では名の通った権威のあるところです」


「名の通った・・権威・・」


「立場を変えて、この研究のために貢献してください」


「貢献・・・」


男の声が教祖の側近の声とダブって聞こえた。


朦朧とする中で、瞬きするごとに指輪の文様がシャッターを切るように八十郷の意識に刻まれていった。

「さて、心は決まりましたね」


男の断言的な発言に、八十郷の意識は更に混乱した。

心が決まる・・・何を決める?・・・

逃れたい。だが何から逃れたいのか分からない。


八十郷の深く沈む潜在が、顕在をねじ伏せた。


「新しい人生の旅立ちです。3日後にお迎えに参ります」


誰の声だ?旅立ち?何を言っている?やめろ・・・やめてくれ。

八十郷の肩ががくりと落ちた。


無抵抗は服従に等しき・・・顕在の叫びがかすかに聞こえて消えた。


思兼は、精気を失い座り込んだ老人を残し、カウンセリングルームのドアを静かに閉めた。



研究所をあとにして数分後、薄明かりの中を歩く思兼の横に、黒塗りのワゴン車が滑るように止まった。

車のドアが音もなく開き、思兼が乗り込むとすぐさまその場から立ち去った。


車内には運転手と同乗者がいた。                         

「お疲れ様でした。監視カメラは予定通りに動いています。・・・いかがでしたか?」

同乗者の控えめな問いに、思兼は硬い表情を崩さずに応えた。

「お陰様ですべて計画通りに終わりました。あとは3日後に彼を保護すればこの件は完了するでしょう」                                 

「3日間の監視は必要ないのですか?」                      

「必要ありません。この指輪の術が彼を捉えて放しません」

思兼はそう答えて、左手の人差し指の指輪を外した。

「その指輪は何ですか?」                            

「彼がようやく辿り着いた憧れのカルト教団のエンブレム・・・に似ていて異なもの。彼はこれが本物かどうかを確かめるためにこの指輪から目を離さなかった。それにより彼は致命的なダメージを受けました」                         

「致命的・・・ですか」


思兼は時折り垣間見た八十郷の恍惚とした表情を思い出した。


八十郷は・・・もはや人ではない。八十郷の行動は人間の行動の範疇を越えている。あれは悪鬼そのもの。在ってはならない・・・もの。


思兼の様子に、同乗者はそのあとの質問を控えた。

いつも穏やかな表情を崩さない思兼が、一瞬ではあったが珍しく嫌悪の感情を顕わにした。

「本部へ」

思兼は運転手に指示をした。

そして外した指輪をスーツの内ポケットに入れると、腕を組み、思考の整理をするかのように目を閉じた。


それから1週間が過ぎたころ、芳志総合病院では掲示板に新院長の名前が貼り出されていた。


新院長 能見昌弘


それを見て院内ではさまざまな憶測が飛んでいた。                 

「急よね、何があったの。八十郷院長・・・」                     

「噂だけどアメリカの大学・・・なんか心理学で有名な・・何だっけ?」          

「スタンフォード?」                              

「それそれ。そこに迎えられたって聞いた」                    

「私はハーバード大学って聞いたけど・・・」                    

「どっちなの?」                                

「まあ・・・どっちでもすごいことでしょ」                     

「そうよね、とにかくすごいことよ、引き抜きでしょ」                

「引き抜かれたの?本当に?」                          

「先生たちが言ってたよ、八十郷先生はうまくやったって」             

「そうなんだ。じゃあこれで能見先生もようやく表舞台にってとこね」        

「事務長とは古い付き合いらしいから・・・この病院も筒賀事務長の天下ね」      

「えぇっ、事務長と八十郷先生は仲が悪かったの?」                

「八十郷先生ってよく居なくなってたじゃない。そのことを事務長が愚痴ってたの聞いたよ」   「へぇ、それじゃあ」                               

「ちょっと、新院長ご本人が・・・来た」


遠目に新院長を見つけた職員は、蜘蛛の子を散らすようにその場から離れた。


不機嫌な顔つきで掲示板の前を通り過ぎた能見新院長は、意気揚々と辞令を受けたあとの筒賀事務長の言葉が気にかかり、院長としての先行きに不安を感じていた。


「八十郷先生がアメリカの大学へ引き抜かれたと聞いたのですが、現地の知り合いに調べてもらったところ、在籍されている大学がないのですよね。先生はどこへ行かれたのか、私の忠告を聞かれなかったから・・・まったく困ったものですな、腕のある先生は自分勝手なもんですわ。能見先生はそのあたりよろしくお願いしますよ」


能見は狡猾で冷酷な筒賀のやり方を20年以上も見てきた。

へつらいながらも深入りはしないできたが、院長を引き受けたからにはそうもいかないと覚悟をしたところだった。


だが能見は筒賀の言葉で早々に首まで泥沼に浸かった気分になった。

「八十郷先生は何をしていたのか・・・」

病院が抱えている秘密があることは薄々感じていた。その秘密を掴まなければ筒賀の言いなりのお飾りの院長になる。果てには八十郷の二の舞を演じることなる。耐えて耐えてようやく手にした院長の椅子。簡単には手放すつもりはない。能見は院長デスクの座り心地を確かめるようにふかぶかと座り、意味ありげな笑いを浮かべた。



そのころ関空からルナを見送ったあと雄介は、最後の仕事と決めて佐祐とともにタウンの闇の証拠になりうる名簿を探っていた。


そして蒸し暑い夜の9時を過ぎたころ、その佐祐はタウンの管理棟に向かっていた。


後輩の佐藤が夜勤というのを聞いて訪ねたのだが、本当のところは宇賀野の事故の加害者のことを調べるためだった。

ピザと冷たい飲み物を差し入れした。

佐藤がコップを取りに行っている間に、気になる女の子のことを知りたいといってパソコンを開いた。

その佐藤が給湯室から慌てて戻ってきた。

「主任が来た。佐祐さん隠れて」

佐祐は慌てて差し入れの袋を持って給湯室に逃げ込んだ。

              

「鴫山さん、お疲れ様です。なんかありましたか?」                  「・・・・」                                    

鴫山はうるさいとばかりに佐藤を睨みつけ、立ち止まることなく真っ直ぐに管理室長室に入った。

佐祐は息をひそめ鴫山の様子を窺っていた。

鴫山は30分ほどで部屋から出てきた。                      

「監視カメラの調子が良くないようだから調整しておいた。僕が出てからスイッチを入れてくれ」                                    

鴫山は佐藤に指示をして部屋を出ていった。


建物から出る鴫山を確認した佐藤が佐祐を呼んだ。


佐祐は差し入れの袋を持って給湯室から出てきた。                 

「あいつ何しに来たんだ?」                           

「さあ・・・でも珍しいですよ、時間外に仕事するなんて・・・」             

「まあな・・・チッ・・ピザが冷えたじゃないか」                   

「温めますか?5分か・・・な」                          

「そうだよな、それがいいやね。温めようや」


佐藤がピザを抱えて給湯室に消えると、佐祐は管理長室のパソコンに向かった。    

「あのファイル・・・」                               

佐祐は問題のファイルを探した。                         

「ない・・・あいつか?」

ファイルそのものが消されていた。

カタッと音がした。


佐祐は何食わぬ顔で管理室から出て部屋を見ているふりをした。           

「この部屋も変わんねぇな」                           

「熱ッ・・・」                                 

「うまそうじゃん、食べよう」                          

「いただきます」                               

佐藤は佐祐にぺこっと頭を下げてピザを口に入れた。                  

「ちょっとパソコンいいか?」                          

「いいすっよ、なんて子すっか?」                        

「言うかよ・・・秘密だよ・・・」 

                          

佐祐は笑いながら従業員の登録者ファイルを開いた。                 

「見つかりましたか?」                                

「うんにゃ・・・」


問題の人物は全員が退職者として処理されていた。

そのうえに個人情報は跡形もなく抹消されていた。


「なんだよ、これ・・・」                               

「分かりました?」                               

「・・・うん、・・・」

佐祐は覗きに来た佐藤にあいまいに応え、パソコンを閉じた。 

             

「俺帰るわ。見送りはいいよ、じゃあな・・・」

佐祐は鴫山にこの部署を追われ、清掃部へ移動になったことを思い出した。そのとき抑え込んだ鴫山への怒りが、部屋を出る佐祐の中で明確な敵意となった。


「また来てくださいよ、佐祐さん・・・おぅ、そうだカメラ、カメラのスイッチオン」 

   

起動し始めたパソコンの画面に、管理棟を出ていく佐祐の後ろ姿が映し出された。

「これでよし、と」

佐藤は席に戻り、残っていたピザに手を伸ばした。


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