女神様の祝福
アベル・ローレンスとの出会いは最悪だった。
私の店、レミナンスには、時折教会からの使者が訪れる。主な依頼内容は、王都にある大聖堂の吊り香炉の調整や、その香炉に使用する乳香の納品だ。作業自体はすぐに終わるし、報酬がとても良いので、調香の仕事が忙しくない時には依頼を受けているのだが……どうしても大聖堂の前まで来ると、溜息がこぼれてしまう。
――教会や、それに準ずる場所には、人の感情が集まり過ぎる。人々の祈りや懺悔は、それぞれの願いや後悔が『香り』となり、建物全体に蓄積され、残り続けるのだ。香水でも、沢山の香りを混ぜると喧嘩してしまうように、感情の残り香も、多くが集まれば喧嘩する。こういった場所にはあまり来たくないのだが……仕方がない、報酬のためだ。私は、一度大きく深呼吸をして、レースの付いた布で口元を覆い、通用口から中に入った。
しばらく、蠟燭で照らされた、やけに音が反響する通路を歩くと、ところどころ色は剥げているが、つやつやとした飴色の木製扉が見えてくる。――礼拝堂だ。重量のある扉を、体を使って押し開けると、淀んだ香りが一気に押し寄せてきて、少しむせてしまった。涙目でちらりと天井を見ると、高いドーム型の窓から夕日が差し込み、礼拝堂全体を赤く染めている。肝心の香炉は、天窓の脇にある滑車から伸びるロープで、空間の中央に吊るされているため、私は転移魔法を使い、中にある炭と香だけを取り出し、空中に浮かべて調整を進めてゆく。
――すると突然、礼拝堂の空気が変わった。
後ろに気配を感じて振り返ると、扉の前には、皺一つない黒の司祭服に身を包んだ、背の高い男性が立っていた。夕日に照らされて分かり辛いが、暗い紫色の瞳でこちらを見ていて、大変居心地が悪い。幸い、その後の作業はすぐに終わり、男性をちらりと見ると、男は靴音を立てずに私に近づき、穏やかながら良く通る声で話しかけてきた。
「どなたかと思えば、王宮内で噂の絶えない、調香の魔女様ではありませんか。お会いできるとは光栄です。西区の教会で司祭をしております、アベル・ローレンスと申します」
握手を求めてきたアベルからは、何の香りもしなかった――。
ほとんどの聖職者からは『敬虔さ』の持つ、セージのような、爽やかでほろ苦い香りがする。だが……この人間からは、敬虔さも、その他の感情も、まるで感じ取ることができない。本能が「逃げろ。関わってはいけない」と警鐘を鳴らしている。私は、少し浅くなった呼吸を悟られぬよう、ゆったりとした仕草でアベルの手を取った。そして、最大限の警戒を込め、可能な限りの礼を取って答える。
「お初にお目にかかります、アベル・ローレンス司祭様。調香の魔女、ミルラ・ノクティスと申します」
私は自身の名を名乗りながら、以前、教会の使者から聞いた噂を思い出していた。アベルは、西区で最も広い領地を治めるローレンス伯爵家の三男で、幼い頃から、人や物に、女神の祝福を与えることができたそうだ。爵位は長男が継ぐことが決まっており、近年、司祭になったらしい。
アベルは、さらりと私の手を離した後、美しく整った笑みを浮かべて口を開いた。
「……女神様の祝福があれば、不安になることなど何もないのに。貴女に仕事が舞い込むこと自体が、不思議でなりませんね」
その女神の祝福とやらは、私の仕事に何の関係あるのだろうか……。聞きたくもないが、話を続けない訳にもいかないので、静かに問い返す。
「女神様の祝福? とは、そこまで万能なのでしょうか……?」
「ええ。それはもちろん」
……目が笑っていない。香りも分からなければ、会話の意図も読み取れない。一刻も早く家に帰りたい私は、少々強引だが、話を切り上げる方向に舵を切った。
「……そうなのですね。不躾な質問にお答え頂きありがとうございます。勉強になりました。仕事も終わりましたので、こちらで失礼致します」
私は、裾に草花模様の刺繍が入った黒いスカートを軽く持ち上げ、優雅にお辞儀をし、足早にアベルの横を通り過ぎた。まだ何か言いたげな顔をしていたが、追いかけてくる気配はなく、ほっと息をつく。
ようやく外に出た頃には、空は薄く紫がかっていた。私は、きらきらと瞬く一番星に「もう二度とあいつと会いませんように」などと、らしくない願いを掛けてしまい、眉間に皺を寄せたまま帰路についた。
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