第一章 遠く香る初恋
第一章 遠く香る初恋
レオン・アルヴェインの初恋のお話です。
静かな霧雨が、石畳を濡らす夜。僕はレミナンスのカウンターで、ミルラが調合した香油の瓶にラベルを貼っていた。夜更けを過ぎた店内には、乾いた薬草と、甘い花の香りが薄く漂っている。すると、不意に入口のベルが小さく鳴った。
「……夜分遅くに失礼する。ここが、レミナンスで間違いないだろうか」
少し身構えた様子で入ってきたのは、黒に近い濃紺の外套を纏った男性だった。霧雨に濡れた裾から、雫が音を立てずに床へ落ちている。年齢は、三十前後だろうか。派手さは無いが、仕立ての良い服と、丁寧に磨かれた革靴を見れば、身分の高い人間だと分かった。僕は少し緊張しつつも答える。
「はい、間違いありません。店の者を呼んできますので、こちらに掛けてお待ちください」
男性は無言で頷き、濡れた外套を静かに脱ぐと、背もたれへ丁寧に掛けた。そして僕は、二階にいるミルラを呼びに、店の右奥にある階段へ向かった。――が、気づくと、彼女は目の前に立っていた。
「……っ!?」
「なに? 依頼人……?」
ミルラは驚いた僕を不思議そうに見上げ、小さく首をかしげた。小動物のようで、ちょっとだけ可愛い。
「うん、依頼人だよ。ねぇ、もう少し音を立てて階段を下りてきてくれない……?」
「転移魔法使ったから、無理」
……それは、無理そうだなぁ。僕はそれ以上何も言えず、大人しく、彼女にカウンターまでの道を譲った。
レミナンスでは、依頼の前に必ず契約書を交わすことになっている。記載されているルールは三つ。
一、依頼の際は『最も想いの強い品』を持参すること。
二、完成した香りは、本人が必ず持ち帰ること。
三、香りは苦しみそのものを消すものではない。
この契約書にサインをしなかった者には、ミルラは決して調香を行わない。実際、何も言わずに帰った人を、僕は何人も見たことがある。三つ目の「香りは苦しみそのものを消すものではない」という一文を読んで、大金を払ってまでミルラに依頼する意味があるのかを考えたのかもしれない。
けれど、今回の依頼人は違った。店のカウンターに置かれた藍色のガラスペンで、契約書に、名前を記している。――レオン・アルヴェイン。癖のない美しい字だ。レオンから契約書を受け取ったミルラは、彼を一瞥し、静かに口を開いた。
「……では、ご用件を」
「はい。私は、レオン・アルヴェインと申します。依頼を受けてくださり、感謝致します」
「そういう堅苦しいの、いらない……」
「……失礼しました。では、本題に入りましょう。――私は貴女に、婚約者への想いを調香して頂きたいのです」
レオンは一瞬だけ目を伏せると、ジャケットの内ポケットへ静かに手を入れた。取り出したのは、両掌に収まる大きさの、雨避けの革袋だ。彼はゆっくりと袋の口を開き、中から数通の手紙を覗かせ、壊れ物を扱うように、そっと封蝋をなぞりながら話し始めた。
「私の婚約者は、リゼット・クラウディアと言います。……控えめな女性でした。けれど、穏やかによく笑う方で、今年の春には、王都で式を挙げる予定だったのです。ですが――」
レオンはゆっくりと一度瞬きをし、低い声で呟いた。
「……彼女は、春を迎える前に、病で……」
「……そう、だったんですね」
本来、依頼人の事情に僕が口を挟むべきではない。けれど、レオンの沈んだ声を聞いていると、どうしても黙っていられなかった。今も、レオンの左手には、艶消し加工が施された銀の指輪が光っているのだ。簡単に気持ちの整理がつかないことくらいは、僕にも想像がついた。しかしミルラは、レオンの言葉には何の反応も示さず、彼の手元にある手紙へ視線を落とした。
「それ、見せて? 中は読まない」
ミルラが見ているのは、レオン自身ではなく、その手紙に残る感情なのだろう。淡い紫色の封蝋には、スミレを模した繊細な刻印が押されている。彼女は手紙を受け取ると、封を開くことなく、指先でそっと紙の端を撫でた。手紙から、かすかに花のような香りがした気がした。
ミルラはしばらく何も言わなかったが、少し眉をひそめると、口を開いた。
「……残り香が、揺れてる」
「え?」
「これ……愛情だけじゃない。……リゼットのこと、本当に愛してた?」
レオンは虚を突かれたように目を見開き、息を呑んだ。感覚で物を言うことが多いミルラは、必要な言葉を省略してしまう癖があり、誤解を与えやすい。ここは僕の出番だろう。
「ごめん、ミルラ。もう少し、具体的に説明してもらってもいいかな? どういう時に残り香は揺れるの? 僕には、レオンさんがリゼットさんを愛していないようには見えないんだけど……」
「……あぁ、そうね。手紙には、送った人と、受け取った人、両方の感情が残るの。……でも、お互いの気持ちが重ならない時、残り香は揺れる。だから、聞いた」
んー……何となく、分かるような、分からないような……? 心配になり、レオンへ視線を向けると、彼は考え込むように目を閉じていた。だが少しして、意を決したように口を開いた。
「…………愛して、いました。私は彼女のことを、心から、今だって愛しています……! 政略結婚ではありましたが、舞踏会で初めてお会いした時に、笑顔が素敵だと思ったのです。……一目惚れ、とはこういうことを言うのだと、後になって気づきました。手紙のやり取りを始めたのも、私からでした。隣領に住むリゼットが、日頃何を考え、何に傷つき、何を愛しているのかを知りたかった。……なかなか会うことはできませんでしたが、林檎の香りがする紅茶を朝に飲むと心が落ち着くことも、雪の日に咲く白薔薇は触れた体温で淡く香ることも、手紙は、返事を待つ時間すら幸せなのだということも――勉学にばかり打ち込んで生きてきた私に教えてくれたのは、彼女だったのです。それとも貴女は、彼女が私を愛していなかったと、そう言いたいのですか……?」
レオンは縋りつくように、ミルラを正面から見つめた。ミルラは顎に手を当て、眉間に皺を寄せている。
「…………ごめん。聞き方、良くなかった。リゼットは、貴方を愛している。この手紙、愛の香りで溢れているもの。でも、貴方の残り香が揺れているの。貴方は私に『婚約者への想い』の調香を依頼したけれど、リゼットに対する愛情を調香するのは、多分、違う」
「何が、違うのでしょうか……?」
レオンは首を傾げた。ミルラが何を言いたいのか、全く分かっていないようだ。彼女はまた手紙に視線を落とし、呟いた。
「……愛している。でも、貴方の香りは、愛情より、苦くて重い」
「苦い……?」
「そうね。これは――後悔の香り」
ミルラは、おもむろに空き瓶を手に取ると、音を立てずにカウンターに置き、その上で両手を重ねた。彼女の白く細い指から、光の粒がいくつか零れ、硝子瓶の中に落ちてゆく。やがて粒は、一瞬強く光った後、弾けるように青みがかった靄へと姿を変えた。――何度見ても、彼女の調香は美しい。思わず呼吸も忘れて見惚れていると、ミルラはその瓶をレオンに差し出した。
「これが、後悔」
レオンは、黙ったまま、恐る恐る瓶に顔を近づけ、その香りを吸い込んだ。――ゆっくりと息を吐いた彼の目には、涙が浮かんでいる。レオンは、胸ポケットから銀糸入りのポケットチーフを取り出し、目元を押さえながら静かに口を開いた。
「……ようやく、貴女の仰っている意味が分かりました。私は、リゼットを愛している。しかし、いくら愛していても、『記憶』は私の手から零れ落ちてゆくのです。私はもう、彼女がどんな声で笑っていたのかも、思い出せない……。だから、彼女への愛情を、もう何一つ忘れないために、調香を依頼したつもりでした」
レオンは、カウンターに置かれた手紙に目をやり、沈んだ声で続けた。
「だが、私は――彼女を失う前に、もっとできたことがあったのではないかと、ずっと悔やんでいたようです。……仕事を理由に、返事を書くのを後回しにしたことも、何度かありました。また、すぐに会えると思っていた。……春になれば、隣で笑っていてくれるものだと信じて、疑いすらしなかった。私は、彼女が居なくなる未来を、一度も想像していなかったんです。…………滑稽ですね、私は」
レオンは力なく笑って、空になったガラス瓶をミルラに返した。――僕はもう、彼に声を掛けることはできなかった。慰めの言葉を探したが、彼の深い後悔を前に、僕の言葉などきっと意味を成さない。せめて何かできないかと思い、僕は階段横の棚から、いつも使っている白い陶器のカップを取り出し、保温魔術がかけられたポットから紅茶を注いだ。ゆったりと揺蕩う湯気とともに、ベルガモットの上品な香りが広がってゆく。僕はカップと、持ってきていたショコラを1つトレイに載せ、レオンの元へ向かった。
「あの……どうぞ」
「あぁ、ありがとう…………気を遣わせてすまないね」
「いえ……」
レオンは目をつぶり、深呼吸をしてからカップに口を付けた。あまり見られても居心地が悪いかなと思い、ミルラに目を向けると、レオンを特に気にする様子もなく、カウンターの後ろにある棚から、乳鉢と乳棒を取り出し、横にある作業台に置いた。そして、店内に沢山吊るされている薬草の束から数本を抜き取り、乳鉢の中で細かく砕いて、空瓶に移し入れてゆく。薬草も、調香した香りも、時間とともに劣化してしまうようで、全部の瓶に状態保存の魔法をかけているらしい。……状態保存か。僕の店にも欲しい。今度頼んでみようかなぁ。
――そんなことを考えながら、レオンに視線を移すと、ちょうど僕の方を見ていたようで、目が合った。先程よりは表情が柔らかくなった気がする。どう声を掛けようか迷っていると、レオンの方から話しかけてくれた。
「……少し落ち着きました。ありがとう。その……依頼とは何の関係もないのだが、このチョコレートはどこで売られているものだろうか……?」
「あ、それ僕が作ったものです。『クレール』という店でショコラティエをしています。もしよかったら、今度いらしてください」
そう言って僕は、店の場所が記されている小さなカードをレオンに手渡した。レオンは微笑んで静かに頷き、それを胸ポケットに仕舞う。僕が紅茶に添えたショコラは、ブランデーを効かせたガナッシュを、ビターチョコレートで包んだものだ。気に入ってもらえたようだ。そしてレオンはミルラの方を見て、ゆっくりと、自分にも言い聞かせるように言った。
「ミルラ殿。お時間を頂き、ありがとうございました。おかげで、自分が本当は何を恐れていたのか、分かった気がします。もう、私からお話しできることはありません。……どうか、貴女の思う通りに調香してください。――では、私はこれで」
レオンは、椅子から立ち上がり、美しい所作で一礼した。ミルラは、薬草の入った瓶を棚に戻しながら、受け取りの日程と代金について、手短に伝える。
「一週間後、必ず自分で取りに来て。代金はその時に――」
レオンが店を去った後、普段、あまり僕に声を掛けてこないミルラが、珍しく僕の名を呼んだ。今まで、彼女は僕を「ねぇ」としか呼んだことが無い。鼓動が高鳴り、思わず彼女の方を向いた僕に対し、ミルラの眉間には、何故か深い皺が刻まれていた。
「……え、えっと…………僕、何かしちゃいましたか……??」
「そうね。とても……」
どうしよう。全く心当たりが無い……。でも、ミルラはカウンターを見つめて目を伏せてしまっている。気づかない内に、何かをしてしまったのだろうか……。なんだか申し訳なくなり、自然と謝ってしまう。
「……ごめんなさい」
「……私、あのチョコレート、食べたことない」
「!?」
え!? そこ……!? と思ったが、まぁ、無理もない……。彼女には、アルコールの耐性が絶望的に無いのだ。常人より香りに敏感な彼女は、アルコールの香りも、アルコール自体も、体に強く吸収されるようで、チョコレートのガナッシュに入っている少量のブランデーだけでも、完全に酔ってしまう。そして、困ったことに彼女は『記憶をなくすタイプ』の酔っ払いだ。以前、何の気もなしに洋酒入りのチョコレートを渡してしまったときは、色んな意味で大変だった……。そこで、今回の僕は、ミルラ用に包んできた、ヘーゼルナッツのプラリネを使ったチョコレートが三つ入った小箱を鞄から取り出す。
「これで、勘弁してくれない……?」
「……ナッツ好き……ありがと」
――危なかった。今後は持ってくるチョコレートに気を付けないと……。
気づくと、時刻は午後十時を回っていた。明日は王宮への配達があるので、いつもより早めに帰り支度をしていると、ドアベルがかすかに鳴り、一匹の黒猫が優雅に扉をすり抜けて入ってきた。
この黒猫は、ミルラの使い魔で、僕は『ノア』と呼んでいる。――ちなみに、ミルラは、自分の使い魔に名前を付けない。だが僕は、僕の足元できらきらとした黄金の瞳を輝かせ、撫でられるのを待っているこの黒猫と、どうしても仲良くなりたかったので、勝手に付けた名前で呼んでいるのだ。今日は、どうやら手紙を運んできたらしい。咥えていた手紙を受け取りながら、ノアの頭を軽く撫で、手紙に目を移すと、差出人のところに『アベル・ローレンス』と書かれていた。いつの間にか隣に来ていたミルラは、僕の手元を覗き込み、その名を見た瞬間――珍しく動きが止まった。僕は何となく気になってしまい、ミルラに尋ねた。
「知り合い?」
「知らない……もう寝る……」
ミルラは手紙をさっと僕の手から引き抜き、欠伸をしながら階段を上った。僕も「おやすみ」と声を掛けて、帰宅することにする。
外に出ると、もう霧雨は止んでいて、夜空には、少し残った灰色の雲に輪郭を溶かされた月が浮かんでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ミルラとリュネに少しでもご興味を持っていただけましたら、
★評価やご感想を頂けますと、私が泣いて喜びます。
改めて、ありがとうございました!
今後ともよろしくお願い致します。




