第六十一話 流路形状 〜 Sound of White Noise 〜
令和8年8月18日誤記につき壱字修正(「ボーガン」→「ボウガン」)
施設を封鎖するという警報は、レベル2内のスタッフ全員を混乱に陥れていた。会議室を飛び出した黒崎と白鳥は、地上に向かって逃げようとする多くのスタッフたちの波に阻まれながらも、メインラボへと急いでいた。大した距離でないはずのラボの入口まで、ごった返していて時間がかかったが、ようやく辿り着いたラボ内は、通路とは対照的に閑散としていた。ごく少数のラボ内に残る者たちは……冷静なスタッフは状況を見極めるために、敢えて混沌に身を投じるのを控えて、また楽観的な者は避難訓練の一環だろうと解釈して、騒ぎ立てることではないと一笑に付していた。
「黒崎くん、本当にまだいるのだろうか?この人混みに紛れて外に出てしまった可能性も……」
「確かに可能性はあります。ですが猶予が四十八時間であることを考えれば、すぐにこの場を立ち去る必要もないはずです。悪意をもってアレを起動させた者であれば、相当に狡猾な人間のはず。所長は特にお気をつけください。あなたのお人好しにつけ込んで騙すことなど、そういう人間であれば造作もないでしょう。」
「……私の心配をしてくれるのかね?」
「……計画を邪魔をされたくないだけです。まあ結果的に今回の件は、我々の利害に一致する『スタッフ全員を施設外に避難させる』ことにつながってはいますが……」
黒崎は管理室の扉前で人差し指を口に当てる。白鳥も黙って頷いた。解錠しようとすると、扉が僅かに開きっ放しになっていることに気づく。黒崎は携帯していた拳銃を取り出し念のため構えた。
迦陵頻伽や白鳥が遭遇した自衛隊の潜入隊員が持っていた拳銃は、自衛隊の正規装備ではなかった。撃鉄が露出していない構造……衣服に引っかかることもない小型で白衣のポケットにも入る重さ・大きさのものであった。38口径弾を使用できるため弾薬の調達が容易であり、万一のときにも身元が割れぬよう、非正規ルートの入手品を特殊任務用に使用していたのだ。
対して今、黒崎の携帯しているものは、同じ38口径弾を使用するニッポン企業で開発された拳銃……当時警察で採用されていたものと同一のものである。
黒崎が銃を構えて先に入る。誰もいない。普段覆われて誰の手にも触れられないようになっているはずの操作盤が、剥き出しになったままである。さっと天井に目を向ける。カメラは壊されてはいない。
「レベル2の監視ルームに行ってみましょう。用意周到な犯人がカメラに映っている……そんなミスはしないかもしれませんが、何か手がかりがあるかもしれません。」
「君はさっき『PAの本部の人間』が入り込んだのでは、と言っていたが、彼らにとって何の得があるというのだろうか?」
「恐らく、得というより『見切り』でしょう。必要な研究データを取得できたことで、エリシオンへの固執は不要という結論なのではと。私が『あちらの息のかかった者を一掃して淘汰を図ろう』としたように、向こうは向こうで一気に潰しに来たのでしょう。不穏分子の一切を。」
「私はまだよく分かっておらんが、君が『PAに仇為す者』と捉えられているのかね?」
「どういう捉え方をされているのか……実は私にも分かっておりません。ただ私の場合、厚生省に長くいたことで、向こうは私に関するあらゆる情報を掌握しているはずです。少なくとも重宝すべき人材とは見做されてはいないのでしょう。もしそうなら、こんな手荒な歓迎などあり得ないでしょうから……。」
黒崎は銃を素早く懐に仕舞い込み、白鳥とともに再びメインラボから通路に出る。まだ人混みは当然解消されていない。かき分けながら進むが、先ほど以上に時間がかかる。二人とも同じことを考えたのか、逃げ惑うスタッフに向かって、同時に「皆落ち着いて」と大きな声で呼びかける。
一部のスタッフたちがこれに気づいた。所長の白鳥は178センチ、副所長の黒崎は181センチ。彼らは周囲の平均よりも高身長であったため、意外に目立つ。その上二人の声は質は違えど、いずれもよく通る声である。気づいた者たちが二人を見て「所長」あるいは「副所長」と口にし始めた。
「皆さん、落ち着いて。パニックにならないように。所長の白鳥です。今、副所長と一緒に原因究明のため施設内を廻って確認しております。」
どよめきが少しずつ収まり始める。
「今、所長がおっしゃったように、まずは落ち着いて行動してください。施設封鎖が完了するのは放送にあったように四十八時間後です。二日の猶予があります。ゆっくりと地上のレベル1の施設、あるいは駐車場に避難してください。これは訓練ではありません。所長から、待機していた自衛隊の応援要請をすでに行っています。救助は必ず来ます。隊員の到着後は彼らの指示に従ってください。」
二人の声を聞いて、群衆は嘘のように規律を取り戻し、ゆっくりと地上部への出口に向かって規則正しく動き出した。人の密着状態がなくなり、すんなりと二人は行列を横断することができた。
「あとは逃げ遅れた者、動かずにいる者に徐々に声をかけて移動してもらいましょう。」
「まずは皆の安全が第一。自衛隊本隊もすぐに動いてくれるといいのだが。」
「ええ。信じましょう。我々は監視ルームへ……」
監視ルームに二人が到着すると、数名のセキュリティガードとスタッフ数人が各自モニターを見て話をしていた。この中には少年たちを被検体としたクラスリーダーの研究員たち、それから医師の立川の姿もあった。
「副所長?それに所長も?」
セキュリティガードたちは一斉に敬礼する。立川がすっと黒崎に近づき、耳打ちをする。
「例の薬品ですが、全てレベル1の偽装ラボの中に運んでおきました。」
「分かった。最悪のときはアレを持って単独で離脱しろ。」
「承知しました。」
白鳥にも微かに聞こえたが、今の事態収拾には因果のないことと考え、敢えて看過することにした。それよりも、白衣の研究員二人が妙に震えている。Aクラスのチームリーダーである安藤と、Cクラスのチームリーダーの岡本である。二人が同時に「所長たちにご報告が……」と切り出して、黒崎と白鳥に話を始めた。眼鏡をかけて小柄な安藤は、しきりに首を傾げながら話をする。これは彼の癖であり、普段から何もないところでさえ首を傾げて歩いているほどだ。一方の岡本は肩まで髪を伸ばし中性的な顔立ちで、声だけ聞くとおばちゃんかと勘違いされる。この『実は個性的な二人』が興奮気味に語るので、残念ながら話が上手く頭に入ってこない、というのが黒崎と白鳥の本音であったが、辛抱強く聞き取ることで、ようやく何に怯えているかが判明した。
彼らは施設封鎖の警報前に、昨日から見ていない被検体の生徒たちをレベル3まで捜索に行っていたらしい。レベル3だけが未だに監視カメラが作動していないため、不在のチームリーダーの上野、香澄を除く五人で直接見に行こうということになった。治療中だったD87-03こと鹿島については、昨晩のうちにDクラスのチームリーダーである原が迎えに行き、レベル1の医務室に連れて行ったらしい。安藤たちも今朝、彼の無事を確認したそうだ。だが、ほかの生徒も大人の被検体も、姿が一切見当たらず、原も含んだ三人組と、Bクラスリーダーの佐東、Eクラスリーダーの小日向の二人組とで、二手に分かれてレベル3内の捜索を続けた。そしてレベル3の南側に向かった安藤たちは、爬虫類のような皮膚の、謎の物体が通路を塞いでいるのを目の当たりにし、そこから宇宙飛行士のような格好をした謎の人物に、突然襲われたらしい。彼らの説明では背中から伸びるホースのようなものを翳すと、そのホースの先端に巨大なコウモリの羽が突然生えて、原をさらってから通路内を飛んでいった……というのだ。結局腰を抜かして二人はガクガク震えて動けなかったが、騒ぎに気づいて駆けつけた佐東と小日向に担がれて、ここまで戻って来たらしい。監視ルームでほかの階層を含めて宇宙服が見当たらないか、ほかのスタッフたちとずっと今まで確認をしていたら、例の警報にさらに驚いてしまったとのことだ。白鳥にとっては、ビンガこと滝口剛からの告白以降、奇天烈過ぎて最早ついて行けない話である。大抵のことを把握済みの黒崎にさえ『爬虫類のようなもの』は吉田博士による被検体のことと理解できたが、それ以外は全く何が起きているか分からなかった。小日向が言いづらそうにしながらも、黒崎の顔色を見ながら補足する。
「あの……恐らく通路を塞いでいたものの正体は、吉田博士が実験していた細胞の暴走した結果なのではと……」
「ああ。報告を聞いている限り、その可能性が高いだろう。私と上野も報告を聞いていた吉田の実験に酷似している。ショロトルの技術を向上させるため、かつてSタイプにも使用された実績のある、爬虫類や両生類の細胞を組み合わせて行っていたからな。すまないな、言いにくいことを報告する羽目になってしまって。」
「いえ、お気遣い、ありがとうございます。」
小日向は黒崎からお咎めなしであることに、心底安堵した表情で胸を撫でおろしていた。
(本当に一連のことは、PAの仕業なのだろうか?)
黒崎が考え込んでいると、モニターを見つめていた白鳥が声を上げた。
「これは一体何だね。突然画像が映し出されたが?」
セキュリティガードの一人が同様に驚いた。
「レベル5の東の通路のカメラだ。急に電源が戻ったのか?」
「それは『レベル5もカメラが作動していなかった』ということか?」
「いえ。あそこは中央の柱のエリア以外は、メインシャフトや外周プラントへの動線といったカメラは常時作動しています。しかし今朝、東の通路のカメラが断線でもしたかのように急に映らなくなったんです。ですが侵入路となるエレベーターには、異常は見られませんでした。昨日からレベル5の巡回は外しておりましたので、直接確認できるスタッフはおりませんが……」
「……そうか。巡回を外させたのは私だしな。……その間隙をぬって侵入者を許したのかもしれないな。だがレベル5にまで到達するのは、既知のスタッフでも至難のこと……ん?コイツは?!」
ちょうど黒崎が目にしたのは、安藤と岡本の両名からの報告にあった宇宙服そのものであった。
「ああ、コイツです!……でも背中にでっかいタンクがないな?」
「では、コイツはお前たちが見た宇宙服と別の奴、もしくはそのタンクをどこかに置いて来たということだな?」
「ええ、恐らく……あ、でも待ってください。これ……やっぱり銀色ですよね?消防服みたいに。私たちが見たのは白でした。」
「……少なくとも二人の宇宙飛行士がいる、ということかな?」
白鳥は相変わらず、こういう切迫したときでも悠長な調子である。却って黒崎にはそういう物言いが自分を冷静にさせるからか、一瞬表情が和らいだように見えた。
「やはり下層に直接行って確かめるしかないな。……私が行こう。」
「そんな、副所長自ら危険を冒すなんて。おやめ下さい。我々で対処します。」
「いや。侵入者を許した責任の一端は私にあるのだ。」
「しかし……」
「こういうときの管理職なのだよ。君たちは引き続き監視ルームでの業務をお願いする。立川、宿直で引き続き申し訳ないが、緊急事態だ。お前は他の医療スタッフとともにレベル1に向かえ。避難した職員や被検体でも治療が必要になるときはレベル1の施設でも、応急措置なら可能なはずだ。下で回収できた被検体がいたら随時メインエレベーターで地上に送る。安藤、岡本。お前たちも落ち着いたらすぐにレベル1へ行け。被検体やZタイプ、Yタイプの処置が必要なときは二人が中心になってスタッフたちを動かせ。リーダーなのだからできるな?」
「は……はい。」不安そうに安藤、岡本が返事をする。
「小日向、それに佐東。悪いがお前たち二人は私と一緒に下層に来てもらえるか?さっきの報告にあった細胞や、被検体の回収に手を貸してくれ。事後報告ですまないが、大野がレベル4でケガを負って動けない状態にあるという連絡があった。セキュリティガードも二名同行してもらえるか?テーザー銃以外の武器も、使えるものは何でも携帯を許可する。さっきの連中に遭遇した場合に備える。」
「黒崎くん、私も行こう。」
「いえ、所長。この混乱をまとめ上げる人間が必要です。所長もレベル1で待機していてください。……ここは私にお任せを……。それと被検体も地上部に脱出させるため、地上の警備にも連絡しろ。パラジウム・ジャミングも全て即刻遮断するように、セキュリティガード全員に通達。」
黒崎の指示に従って全員が機敏に動き出す。セキュリティガードは搬入口付近の控室にいた人間二名が合流した。Zタイプではないため、言葉での意思疎通も普通に可能である。テーザー銃以外ということで、パラジウム製の武器を携帯していた。未知の敵が被検体でなければ意味がないようにも思えるが、近接戦の武器としての効果はそれなりに期待できる。一見警棒のようになっていながら、中央で分離して鎖で連結している謂わばヌンチャクのような仕込み杖となっている。この鎖部分にパラジウムを塗りこんであるのだ。
「全員揃ったな。ここから改めて私が指揮を執る。レベル3の異常細胞の駆除のため、我々は最初にレベル4のホワイトルームに向かう。駆除に必要となる強力な薬品が保管されているので、これを最優先で入手する。大野ほかも見つけ次第、随時回収する。最終的には最深層で足留めされている上野と合流して帰還する。各自、自身の安全を常に優先するように。よろしく頼む。」
メインシャフトのエレベーターで、黒崎たちはレベル4を目指して降りていく。白鳥は黒崎の進言に従って地上部に残っていたが、どうにも胸騒ぎがして落ち着けずに、搬入口付近を一人右往左往していた。一人の白衣の男が近づいて来て、彼にそっと囁いた。例の自衛隊の潜入員である。
「所長、一体どういう状況なのです?」
「おお、君か?あの人混みに遮られて、どうなってるか心配だったのだが。実は……」
──白鳥は正直に黒崎とともに聞いた話、彼が数名とともに下層に向かったことを報告した。
「現状を把握いたしました。早急に待機している隊員たちに状況を報告します。暫くお待ちください。本隊もすぐそこまで来ております。」
「そうか。よろしく頼みます。ところでもう一人の方は、どこにいらっしゃるのですか?」
「彼もレベル1の施設内で、避難しているスタッフたちに紛れて待機中です。彼に話があるのでしたら、現状違和感なくここでも……」
「いや。さっきの本隊への通信が終わったら、ちょっと相談ごとにのってもらえるだろうか?」
──
「……くん、……やまくん、……かやまくん、……高山くん、しっかりしろ。起きてくれ。」
気がつくと必死に呼びかける香澄の顔が、被さるようにぼんやりと見えていた。視界はぼやけていても、不思議と頭はスッキリしている。中央の柱の天使たちからは最初に見たときよりも、多くの青白い光が放たれているように見えた。周りを見渡すと、西の通路で休ませていた佐久間が、松野の肩を借りてこちらに歩いてくる。大分落ち着きを取り戻しているように思える。
「良かった。気がついたんだね。」
声をかけてきたのは添田であった。それほどダメージを受けていないのだろうか。香野も一緒に後ろから覗き込んでいて、彼も無事のようだ。顔の腫れ上がった安川は、オサムの隣で寝息を微かに立てている。東のミカエルの座っている場所の前には、片膝を立てて座り込んでいるサマエルの背中が見えた。彼の前には安川と相打ちになったアザエルと、ボウガンの矢が右肩に刺さったままのマハザエルが横になっていた。
「……そうだ、宇宙服は?」
「結局逃げられてしまった。どこに行ったのか、通路を探したが痕跡が一切見つからなかったよ。」
オサムの質問に答えたのは、東の通路から大田とともに戻ってきた山本だった。
「何者なんだ、一体……?」
サマエルは仲間のマハザエルに刺さっている矢を、忌々しそうに見ながら唇を噛む。改めてオサムは香澄に状況を確認した。香澄博士以外のこの場の全員がパラジウム・ジャミングでオサムのように気を失ったか、苦しみ悶えて動けなくなってしまったらしい。宇宙服は最初に逃走しようとしていた東側の通路に消えて行ったのを、香澄が目撃しているが全員が苦しむなかで一人で追跡することはしなかった。それは賢明な判断だろう。そして彼は比較的ダメージの少なかった、中央の柱に繋がれたミカエルたちに協力を仰いだ。彼らとてジャミングの影響は少なからず受けていたものの、柱と天使たちを繋ぐ強力な電磁波が、マスキング効果によって直接無防備にジャミングを受けたオサムたちよりも、大きく緩和されていたのだ。彼らの研ぎ澄ました感覚はレベル5の侵入者を捉えることは可能であるが、宇宙服にとっては逆も然りで、ジャミングを続けながら逃亡することで、正確な位置は掴ませなかった。そもそもが東のミカエルが目の前にいるのにもかかわらず、ちょっとした死角になる角度で潜んでいた侵入者に気づけなかったのだから、追跡するのも困難であろう。このため香澄にできることと言えば、充満するTマターの恩恵で、皆が一刻も早く回復することを祈るくらいしかなかったのだ。
「先生はケガとかなく、無事なんですね?」
「ああ、幸い君たちと違って影響はなかった。だが追いかけていくこともできなかった。すまない。」
「いえ、追いかけて攻撃を受けて大ケガをされるより、みんなの回復を待っててくださったのは正解だと思います。あ、そうだ。……カズキ、サクマくんの首はどんな感じなの?」
「おお、タカヤマ。起きたのか?悪いな。迷惑かけて。でも不思議と大分落ち着いた。時間経ったからなのかどうかは、分かんねえけど。」
少しは無理してるのかもしれないが、確実に苦しみ始めた当初よりは顔色も良さそうだ。
「オサム。お前は大丈夫か?」
松野が心配そうに訊いてきた。ここは自分も素直に答えようと考えた。
「視界が最初霞んでたんだけど、今は大分良くなってきたみたい。目に影響が出たのかな?でも頭の中はスッキリしてるんだよね。矛盾してるみたいな表現だけど。」
「ああ、それ、俺も山本さんも同じだった。理由は分かんねえけど、頭があんなに痛かったはずなのに、急にスッキリした気がするって。」
「今、大田くんが言ったように、私は飲んでる丸薬の影響でパラジウムにも反応して苦しむんだが、今回は痛みが引いたあとは嘘のように痛みが消えてしまったんだ。高山くんも同じだとすると、きっと強い電波を急に受けたことで、痛みの緩和のために分泌された、脳内麻薬の余剰分が全身を巡ってるのかもしれない。電波遮断に必死で圧迫された脳の処理も、原因がすぐに立ち去って行ったおかげで、急激に解放されて効率が良くなったという感じではないかと思うよ。」
「あり得るかもしれないな。……山本の分析は正しいように思える。ただ高山くん、さっきの話だと目は大丈夫なのか?」
「今のところは。少し視力が落ちた……そんな感じです。深刻なことではないと思います。」
「万一異変を感じたときは、遠慮せずに言ってくれ。」
「分かりました。」
奇しくもこの瞬間、別の異変に被検体全員が反応した。すぐに全員が、中央の柱手前で横たわるマハザエルの元に集まった。香澄が、彼を側で診ていたサマエルに尋ねる。
「……何やら瞼が激しく痙攣しているようだが?」
「……何なんだ?さっきまではこんな症状は……痙攣、というより瞼を閉ざしたまま眼球運動が起きているのか?マハザエル?おい、マハザエル!……誰か教えてくれ。何がコイツに起きている?この矢のせいなのか?」
サマエルの叫びに呼応したかのように、矢がひとりでにマハザエルの右肩から抜けていく。抜けた矢は、そのまま彼の傍らに転げ落ちた。十秒ほどの間、皆が息をのむなか、これ以上何も起こらないようにも思えた。『ひとりでに』抜けたのではなく、実は『マハザエル自身の力で押し出した』のであろうか。そう周囲が考えようとした刹那、カッと目を開いたマハザエルが、傍らの矢を拾い上げて、目の前のサマエルに突き立てた。一瞬の出来事であった。咄嗟に避けたサマエルは、マハザエルと同じように右肩付近に矢が刺さっていた。違いはマハザエルが頭の方……つまり真上から肩を刺されたのに対して、サマエルは正面から刺されていたことである。脇の下よりやや上部の腕の付け根に近い部分だ。
「……どうした……んだ?……マハザエル?」
刺された矢を左手で引き抜いて、サマエルはゆっくりとマハザエルに近づこうとするが、彼も様子がおかしい。確かに肩を刺されて軽傷とは言えないかもしれないが、明らかに酩酊状態のようにふらついている。言葉を発することなく、獣のように威嚇し続けているマハザエルを前に、うつ伏せに倒れ込んでしまった。オサムが慌てて駆け寄ろうとしたとき、大田がすぐにオサムの右腕を掴んだ。
「ダメだ。何かヤバいのが来る!」
大田の警告直後、起き上がったサマエルとマハザエルが咆哮するような声を上げながら宙に浮き上がった。二柱の堕天使の目は赤く血走り、その場の少年たちに敵意を剥き出しにしていた。
(第六十一話 終わり)




