第六十話 灰色の瓦礫 〜悪魔の修繕針〜
令和8年7月28日遺漏につき拾四字追加(「お渡ししたいものがあるので、」)
時間は少し前に遡る──レベル4に到達した吉田博士は、黒崎副所長の指示に従い……と言っても、半ば志願したようなものであるが……レッドハウスにいる『アザゼルとの接触』に向かっていた。南方のアザゼルは、レベル5の悪魔の解放に最も重要な鍵である。吉田はメインシャフトのエレベーターを降りて、実験アリーナを一人横断しながら、被検体たちの闘いの痕跡に目をひかれていた。
「このありさま……爆発によるもの……オゾンの断熱圧縮で引き起こされたものか?凄まじい規模で起きている……」
黒焦げの煤が、あちこちに飛散している。このアリーナは野球場ほどの規模がありながら、中心から西側にかけての大半が、爆破に巻き込まれているように見受けられる。そして西側のある一角に、集中して落ちている瓦礫のような何かに目を留めた。
「……何だ?煤がついてはいるが、コンクリートのような細いものが混じっている……」
彼は慎重に歩を進める。そして近づくにつれ、無機質な灰色の正体に気がついた。
「被検体の骨……それにしても多過ぎる。一体何人が巻き込まれたのだ?」
再度辺りを見回して、散乱する骨らしきものをしゃがみ込んで観察する。
「違う……爆発で酸化したものもあるが、超高速のアポトーシスで切り離した骨……残存する血液が酸化して、石のように燻んでコンクリートのように見えている……だとすれば……」
そして何かを探すように、この骨の残骸の中心部と思しき場所に目を向ける。ポッカリと小さな隙間──扇子を広げたように散らばる瓦礫の、ちょうど持ち手の部分にあたる箇所──そこには、倒れているヒトのような姿。その身体の大きさには見覚えがある。吉田は「やはり」と短く叫び、慌てて駆け寄った。それはアレーシュマと命名された被検体『大野』であった。吉田は通信器のログ・パル──通称ロザリオを取り出そうとするが、すぐに思いとどまる。少し離れた場所で急いで白衣を脱ぎ、なぜか骨の残骸の山に無造作に放り投げた。
「大野、おい大野、しっかりしろ、目を覚ませ。」
吉田は、大野の身体に直接触れて揺さぶっている。彼は通常、被検体をあくまで『実験動物』と呼称し、自ら触れることを嫌っていた。また研究員の中にあっても、彼が直接話をする者も皆無であり気味悪がられ、他人との接触は周囲からも避けられ、自らも避けていた。しかし同じ黒崎信者ということだからか、吉田が珍しく気を許していた人物が、この大野である。そして被検体となった大野に影響を与えぬように、気遣って白衣ごとロザリオを少し遠ざけたのだ。
「ヨシ……ダさん……か?」
「気がついたか!Zタイプの迎えを呼ぶ。完全に回復しきれてないようだが、レベル2で……」
細った大野の腕が、吉田の袖を掴んだ。
「吉田さん、……よく聞いてくれ……」
「もういい、喋るな。今は……」
「いや、今伝えねば、黒崎さんのために……」
「どういうことだ?」
──大野は掠れ掠れに声を搾り出して、吉田に何かを必死に伝えていた。かなりの長い時間──吉田博士は聞き終えると力強く「分かった」と言い、真っ先にレッドハウスに向かった。大野は僅かな力を使い果たしたのか、再び深い眠りに落ちていた。
吉田博士がレッドハウスに到着した時点では、アザゼルはすでにいなかった。部屋内を隈なく確認して、レベル5に向かったのは間違いないと確信する。踵を返してアリーナに戻り、元々彼らを待機させていた放送室や、管理室をひととおり訪れる。そのいずれにもアザゼルはもちろん、誰の姿もなかった。監視ルームで外のフィールドから気配を悟られぬよう、細心の注意を払って直近のカメラ映像をチェックしていく。共命鳥セメルがフィールドを駆け抜けていく瞬間を、カメラが捉えていた。
(TL613-1の動き……確かに変だ……その先が……ん?これは?……これが大野の言っていた?……本当に奴なのか?そうだとしても到達が早過ぎる。どうやって……)
──その後も吉田は、レベル4の各施設内を慎重に見て回っていた。しばらくするとアリーナ内の通路から、油圧式の扉が開くような音が一瞬聞こえたように思えた。続いて複数の話し声が聞こえてくる。間違いない。
(声の感じから先頭にいるのは……AXL2-01……マズイ。見つかる。)
吉田がいたのは黄金の丘に繋がる通路であった。慌てて近くの倉庫の扉の中に身を潜め息を殺す。徐々に話し声が遠ざかって行く。
(やり過ごしたか……特にFRG-004は厄介と思ったのだが……)
恐るおそる扉を開けるが、通路には人影も気配も消えていた。今なら、黄金の丘で少年たちと鉢合わせにはならないと思いつつも、何か嫌な予感も残っていた。
(出て行った人数が分からない以上、まだ残っている被検体がいるのかもしれない。やはりアリーナの中で待機して様子を見極めるべきか……)
吉田は安全な場所として、アリーナの監視ルームに戻ることを思いついた。
(誰もいないことは確認済み。あそこなら施錠すれば、被検体単独では入れない。)
──それから自分が倉庫に隠れていたときの映像を確認し、さっきの少年たちが全員ではないことを確かめた。
(やはり残っていたか……)
辛抱強く待ち続けていると、突然鳴り響く緊急放送の音に肝を冷やす。
(何だ?今は11時23分……全門閉鎖の起動にしては早過ぎる……)
だが放送内容を耳にして、その全門閉鎖であると知らされる。
(黒崎様の迅速な対応だったということか……?)
考えながらフィールドを覗き込んでいると、レッドハウスの方向に横切っていくオサムたちを直接目視することができた。これで全員が出て行ったはずである。急いでフィールドに向かって駆け降りていく。
彼らを見送って戻って来た八咫烏とマモルの姿を捉え、彼らの後を追う。息を切らせながら走って来た吉田に気付き、二人とも振り向いた。
「はぁ、はぁ、お前たちに確認したいことがあって来たのだが……はぁ、はぁ……」
「大丈夫ですか?」
首を傾げてマモルが訊ねる。そして吉田の姿をまじまじと見つめながら、八咫烏が声をかける。
「……着いて来るといい。話は屋敷の中で。」
「あれ……?おじいさん?」
「悪いがマモル、先に戻っていてもらえるか?」
「えっと……じゃあ、ボク先に行ってウチの中でお茶淹れて待ってるね。」
マモルは二人より先に通路を早足に抜けていく。吉田は八咫烏の言葉に素直に従い、彼と一緒に横に並んで歩いていた。二人の足音と八咫烏の杖の音のみで、会話もなく進んで行く。八咫烏はそのまま吉田に顔を向けることもなく、足を止めずに指示を与え始めた。
「いいか?一度しか言わない。この後、敵が屋敷に何食わぬ顔でやって来る。ただし、どの姿で来るかは分からない。三人のうちの誰かだ。お前はすぐに屋敷の奥に身を潜めていろ。いいな?ロザリオを念のため使え。距離があれば我々には害は出ない。ジャミングで被検体の感知から外れて気づかれないはずだ。まあ、お前の方がよく知ってることだろうが……」
足を止めて吉田は驚愕の色を隠せない。
「……あなたは……一体……?」
八咫烏の口元が緩む。そしてこれを見て吉田は震え始めた。
「そんなことが……まさか……いや、あり得ない……」
──
黄金の丘に侵入した上野博士は、庭園の北西側にある四角い灯籠を覗き込んでいる。
「最近まで何かあった形跡がある。取り出したばかりか……?ここでなければ、もう一つの方か……珍しいな、共命鳥どころか八咫烏の気配もない。施設封鎖の放送を聞いて、慌てて逃げ出すような連中ではないが、アリーナの様子でも見に行ったのか……」
上野は池のほとりに沿って、東側に向かう。だがその途中で水面に映る『賽銭箱』が開いているのを見て立ち止まった。
「これを開けたのか?なるほど……グミョー兄が夜中に言っていたのはこういうことか……んん……?」
上野の顔からは、見る見る血の気が引いていく。尋常ではない動揺で取り乱し始めた。蒼白になった顔で仰け反るように後退して二歩目で躓き、そのまま尻をついていた。
「こんな……こんな場所に……まさか……十五年もの間、ずっとここに?……ヴォルト内ではないというのは、ミカエルの言うとおりだった……」
──しばらくは放心状態が続く。時間がどれくらい経過したのかも分からなかった。左にふと目を移すと、彼の視界に小さな子どもの足と、白木の杖が飛び込んでくる。顔を上げると同時に、声をかけられた。随分と長いこと腰を抜かしていたのだろうか。全く彼らの気配に気づいていなかった。
「あ、やっと反応した。大丈夫?飼育員さん。何度呼んでも反応しないから心配してたんだよ。ねえ、じいちゃん、飼育員さん気づいたみたい。良かった。」
「何やら驚いてショック状態のようでしたが、どうなさいました?」
「……ツクモ……それとグミョー弟か……二人とも戻っていたのか?」
「ええ、ほんのニ、三分前に。マモルがあなたに気づいたときから、ずっとその状態で、何度お声をかけても何も反応なさらず……」
「そうでしたか……。失礼しました。グミョー兄に昼頃来いと言われていたのでお伺いしたのですが、どなたもいらっしゃらないようでしたので……庭を拝見しておりました。そうしたら賽銭箱が開いていて……」
「へえ?飼育員さんでも驚くことなんだね?じいちゃん、やっぱりあの子たち凄いんだね?」
「あの子たち……とは?」
「中学生の子どもたちです。と言っても実は私もマモルも、ちょうど眠っているときに開けたらしいので、肝心の瞬間は見ていないのですが。」
「これをあの子たちが……卒塔婆を挿して、こうして開くようになっていたのか……」
「何でも何かの曲に合わせて挿し込むことで、開いたんだそうです。」
「曲……アーロンの考えそうなことだ……。中身は何だったのですか?」
「それが、その『おにぎり』みたいなゴムの塊だそうです。三つ並んで……おや、二つしかない。どういうことだろう?」
盲目の八咫烏は、杖を動かしてその辺を調べている。マモルも懸命に池のほとりや、賽銭箱の周辺を覗き込んで探しているが見つからない。二人に合わせて上野も周囲を探してみる。
「おかしいね、じいちゃん?ボクたちが出て行くときは、確かに三つあったのに……」
「三つ……あったのですか?」
「ええ、子どもたちの説明によれば、その玉から光が飛び出ていったとか……おや……お客様がまたいらしたようだ。」
八咫烏の言葉どおり、門扉を抜けて誰かが入って来た。セメルである。続いて少し遅れて迦陵頻伽が入って来る。
「兄ちゃん!どこ行っちゃったか心配してたんだよ?」
「んん?おお!ジャリガキの弟の方か?!あんま、変わってねえな?」
「おい、本人に向かってジャリガキはないだろ?きちんと詫びろ。」
盲いた八咫烏の眼光が一瞬鋭くなる。マモルの肩が同時にびくついた。
「セメルに、何が起こったんでしょうか?」
「ん?なんだこの爺さん?こんな爺さんいたっけか?」
セメルは振り返ってビンガに尋ねている。これに応じた彼が、八咫烏たちに説明を始めた。
「すみません、ツクモさん。ご無沙汰しております。迦陵頻伽です。実はここの賽銭箱に入っていた玉から光が飛び出て、セメルにその一本が憑依したらしいんです。彼は乃沢一平という昔の被検体で、光の正体は彼の魂だったという話のようです。」
「ほう……それは何とも興味深い。マモル、どうやらセメルは眠っていて、別の人がセメルの代わりをやっているのだそうです。」
「眠っているだけであればいいのですが、果たしてマモルくんに戻れるかどうか……」
「ええ?!……おじいさん?兄ちゃんに戻れないってどういう意味?」
「マモル、大丈夫、心配ない。……すみません、昨日からお客様がたくさんいらっしゃって……こんな賑やかなのはいつ以来か……」
そう言って彼らの方を向きながら、手を翳している。目が見えない代わりに、気配で確認をしているようだ。
「こちらの、右にいらっしゃるのが上野さん、真ん中がセメル、いや今は一平さんでしたか。それで左に……迦陵頻伽さんでよろしいでしょうか?」
三人とも「はい」と短く答えて頷いた。
「……昔は見えずとも容易く把握できておりましたが、最近ではすぐに分からなくなってしまいます。困ったものです……。マモル、悪いが縁側まで手を引いていってもらえるかな?マモルを落ち着かせてすぐに戻ります。お渡ししたいものがあるので、皆さん少しお待ちいただけますか?」
マモルは縁側に向かいながら、不安そうに尋ねた。
「本当に大丈夫だよね?おじいさん?」
「ああ、大丈夫。」
縁側にマモルを座らせ、彼にだけ聞こえるよう小声で続ける。
「あとは香澄たちに任せよう。マモル、お前はここで待っていなさい。奥にはまだ行ってはダメだ。」
マモルは「うん」と頷く。そして八咫烏は一人で縁側から三人のもとに戻って来た。
「皆さんはレッドハウスをご存知でしょうか?お渡ししたいものというのは、あそこに置いてあったものなのです。」
八咫烏がレッドハウスを知っていることに戸惑いながらも、上野博士が聞き返す。
「レッドハウスの存在をなぜ、あなたが……?」
「お忘れでしょうか?ここにいる我々三人の被検体は、未来が見えているということを。」
「ああ!」
急にセメルが声を上げる。
「そうか!あの記憶喪失の爺さんか?顔はよく覚えてなかったけど。……ところでレッドハウスって何だ?」
「……そうですか、一平さんでしたね?私のことを覚えていてくださって、光栄です。それから……お三方、申し訳ない。レッドハウスに置いてあった鍵ですが、香澄さんたちにさっきお渡ししたことを失念しておりました。」
鍵という言葉に三人は鋭く反応した。鍵とは一体何のことであろうか。
「もし皆さんがレッドハウスにこれから向かって、彼らにお会いできないようでしたら、あの部屋からレベル5に抜けて行けば、追いつけるかもしれません。『柱』に行くとおっしゃっていましたから。香澄さんたちにお会いしたら、カラスのジジイからの伝言だと言って、こうお伝えください。お預けした執行人の膝を三人に見せてあげてくださいと。」
「ハングマンズ・ニー?!」
三人が同時に声を上げる。どうやら全員が『それ』を何であるか理解しているような反応だ。
──
それから三人はレッドハウスに向かって、黄金の丘を去って行く。上野博士が場所を把握しているので、特に案内は不要ということだった。完全にこの場から三人の気配が消えたのを確認して、八咫烏は屋敷の縁側に戻って来た。
「もう大丈夫だ、出て来ても。」
彼の言葉で座敷の奥から姿を現したのは、吉田博士であった。縁側で座っているマモルと八咫烏の前まで来ると、彼に尋ねた。
「さっきのアレは一体?……指示どおりジャミングしていたお陰なのか?……」
「アレは姫踊子と対になる頽馬……私は視覚情報がないがゆえに実体を捉えていたが……」
「このまま行かせて、本当に良かったのでしょうか?」
「最深層の方は強力な味方がいますので、任せて問題ないでしょう。それより上が心配です。一刻も早く地上に向かいましょう。そのために今度は吉田さんのお力をお借りしたい。座敷でお休みいただいて大分落ち着きを取り戻されたのでは?」
「ええ、私にできる協力は惜しみません。……ところで、今は、その……」
吉田が尋ねたいことを察して、八咫烏が答える。
「心配無用です。私たちは運命共同体……互いに協力し合える状態です。今は私の番……休憩をとりながら交替で監視を続けている、そう思ってくだされば。それぞれの途切れた記憶も共有して繋がっています。不条理に抗うために。」
「……承知しました。それと……この薬は本当に私が持っていてよろしいのですか?」
「ええ。引き続きお願いします。お任せするのに、あなたほど相応しい人もいらっしゃらないでしょう。執行人の膝は、元々は山椒魚の格子の副産物。縛鎖の檻なのですから。」
(第六十話 終わり)




