第五十九話 予兆 〜タキサイキア〜
気づくと、オサムは倒れ込んだ安川のもとで跪いていた。「クニヨシの勝ちだったよ。」囁くようなオサムの微かな声は、誰の耳にも届かない。彼はその華奢な身体でフワリと安川を抱え上げると、次の瞬間には少年たちの元へと舞い戻っていた。
「お疲れ、クニヨシ。」
大田が安川に向かって健闘を讃える。
「無茶しやがって……バカだな、普通じゃねえぞ、クニヨシ。やっぱプロだったろ?あの動き。」
気を失っている安川には当然聞こえていない。松野は言葉とは裏腹に、安川に触れる手が細かく震えていた。一方のオサムは神妙な顔のまま無言である。山本がすぐに安川の容態を確認した。
「驚いたな……顔の腫れは酷いが、歯も骨も折れていない。見た目では分からなかったが、あれでも相手は手加減していた……ということなのか。最後の顎へのフックは強烈だったが、顎も砕けていない。……神格化されてるとは言え、よくこの程度で済んだものだ。……大丈夫、気を失っているだけで命に別状はないよ。」
山本のセリフは周囲の者たちに、というよりはオサムに向けて発しているように聞こえた。だが、オサムは眠っている安川を見ているだけで相変わらず黙ったままだった。
「大丈夫か?サクマ?」
皆の目が安川に注がれるなか香野が、うずくまって首の後ろを抑えている佐久間に声をかけた。これを見てオサムと山本がさっと駆け寄る。下を向いたまま、右手を前に出して応える。
「悪い。せっかく一勝もぎ取ったってのに……大丈夫だ。ちょっと痛みが……そいつがノックアウト取ったの見てて、熱くなっちまったからかな……」
山本が急いで佐久間の左手で抑えている首の後ろを診る。今までと違い、親指大に膨れ上がっている。皮膚の下から透けて、青紫の筋が細かく動いているように見える。
「いつからだい?」
山本の驚きの混じった声に、全員が佐久間の首の症状を確認するべく覗き込む。
「本当にさっき急に痛み出した……平気だ……」
大量の脂汗──明らかに無理をしている。だが、この状態になったのが「さっき」というのは本当であろう。この場の全員がSタイプの細胞のことを知っている。佐久間も皆を信用している様子であることから、嘘は言っていないのだろう。だが「平気」というのは嘘、あるいは彼なりの意地と思われる。
「……時間がない。」
そう口にしたオサムは、サマエルとマハザエルの二人の目の前に高速移動した。彼らの肩が一瞬ビクついた。
(またこの動き……俺たちは磁力の利用と、コイツらの死角に潜んで気配を消していただけ……だがコイツのは本当に迦陵頻伽と同じだ。)
改めて驚くサマエルに対して、オサムは名乗り始めた。
「高山と言います。お名前を教えてください。」
「……サマエルだ。」
「サマエルさん、なぜ戦わなくてはいけないんですか?さっき黒崎さんに報いるため、みたいなことおっしゃってましたけど?」
(何だ、コイツは?本気で訊いているのか?)
ほんの僅かにもかかわらず不思議と目を合わせていると、嘘を言ったり、誤魔化したりすることは、この少年には通じない、そんなふうに思えてきた。その真っ直ぐな目に抗えず、サマエルは少年の疑問に応じることにした。
「少年……今は何年だ?」
脈絡のない質問に思えたオサムが問い返すよりも早く、サマエルが言葉を続ける。
「昭和四十七年……それが俺たち七人がこの場所に来た年だ。あの忌まわしき柱に囚われ続けながらも暫くは、ここを訪れる研究員たちに同じ質問を繰り返していた。だが十年以上経過してから、最早無意味と思い、誰も尋ねることはしなくなった。」
「……今は、昭和六十二年です。」
「ろくじゅう……に……そんなに経つのか。……十五年ということか……」
天井を見上げ感傷に浸るような顔のサマエルを遮るように、オサムは続ける。
「長い拘束時間と、ウチらを攻撃することに因果関係はありません。そんなくだらない憂さ晴らしで戦ってるんですか?」
オサムの怒りは明らかに上昇した。いや抑えていたものを隠さず見せたというべきか。幼い顔立ちの華奢な少年の印象とは裏腹に、彼には大人と交渉する確固たる意志を感じる。
「すまない。きちんと質問の答えになっていなかったな。つい先日、上野という研究員がやって来て、我らのうち堕天使の名を持つ者だけが解放されるという手紙を見せられた。上野というのは我々がここに来たときからいる古い研究員だ。カラクリは全く分からんが、アザゼルと名乗る被検体が今朝やって来て、アイツがあの柱に囚われると同時に、我ら三人が解放された。」
オサムはずっと謎だったパープル・ダンサーの言葉を思い出した。
「囲んだ磁石が三つ弾けて四つになる……」
「……何だ?……何かの予言か?それとも誰かがそう言っていたのか?」
「パープル・ダンサーというのをご存知ですか?」
「いや、聞いたことがないな。」
サマエルは隣のマハザエルに一旦目配せするが、彼も知らないといった様子で首を傾げる。
「四門システムが、ヒトの姿で目の前に現れる現象なんだそうです。それで『そのヒト』から聞いた言葉です。」
「……四門システムがヒトの姿……随分と突飛な話だが、君が言うのであれば、そういうことがあるのだろう。しかし、なぜ四門システムは予測し得たんだ?我らの解放を?」
「それは分かりません。研究者たちの動向や、データを見て判断しているのかもしれません。」
「なるほど……科学者どもの動向を……か。……あり得ん話ではないな。」
「すみません。結局、先生を襲う理由は何だったんでしょう?」
「こちらこそ、すまない。肝心の答えを伝えていなかったな。……渡された封筒には、アザゼルという俺たち以外の堕天使の存在や、柱からの解放について、機械で印字したような資料になっていた。渡すシリコン製の回路の図面や写真、アザゼルの写真も付いていた。もっとも顔を見ても奴だと分からなかったが……。『欠けた南の悪魔アザゼルが現れるとき、柱を囲む悪魔が三体弾けて四体になる。弾かれる三体は堕天使の名を冠する者たち。解放後、自由を満喫するといい。』というのが手紙の内容だ。最後に飼育員……いや上野のサインらしきものが添えてあった。そしてこれとは別に、『香澄という研究員に耳を貸すな。お前たちの解放を邪魔する存在だ。四門システムでお前たちを支配しようとしている。』という手書きのメモも入っていた。」
「手書きのメモ……」
「ああ、多分手書きの方が読み飛ばさずに見るだろう、という意味かと思うが……。正直我々の力であれば、ヒトごときに屈することなどあり得ない……。科学者一人が脅威になどなろうはずがない。だが、現に科学者の知恵により我らは解放されている。パラジウムを使われても厄介だしな。お前たちの先生とやらの口上は、メモの内容を裏付けるものと解釈して、牽制した次第だ。」
オサムはサマエルの話を聞き終えて、静かに目を閉じた。何かを探っているのだろうか。少し咳き込んで、右手で口を覆い、何か独り言を呟き出した。サマエル、マハザエルはもちろんだが、柱に繋がった天使四柱も、彼の様子を窺っているようだ。
(ラファエル?あの少年は今、何をしている?目視できるのはお前だけだろう?)
東のミカエルは、オサムの動きに奇妙な違和感を覚えていた。
(分かりません。今はサマエルたちにも、何かを伝えているように見えます。)
北のガブリエル、南のウリエルが続いて報告を入れる。
(今、少年が一人地面に伏せて移動を始めました。私の視界に入って来ましたが、手慣れた動きです。匍匐前進なんて、今どきの中学生は習うんでしょうか?かなり速いです。)
(所長、南も同じです。こっちは少し小柄な少年。そんなに手慣れてるようには……)
ここでサマエルが、彼らの念話に割って入ってきた。
(聞こえるか?皆?目の前の少年は侵入者を感知している。仲間には『糸電話の要領』とやらで伝えたらしい。それで少年の仲間が、二手に分かれて東へ向かっている。こちらはマハザエルを上から向かわせる。被検体ではなくヒトということだ。パラジウム・ジャミングで我らの感知を拡散しているらしい。)
(東にいる俺にも見えていない……そのジャミングのせいなのか?被検体同士でない場合は、そんな方法でこちらに気づかれないようにできるのか……だが、そこまで把握できるとは恐ろしい少年だな?)
(ああ、ミカエル。おまえでもコイツには勝てんかもしれんぞ。俺とマハザエルでは恐らく負ける……。迦陵頻伽以上かもしれん。)
東側の通路付近にヒトがいる……。オサムはサマエルたちに歩み寄っていくときに、以前食堂でビンガを把握したときのように、トラップを密かに忍ばせていた。彼の射程距離は時間を追うごとに伸びてきているようだ。そして自分たち以外の侵入者を見つけ、咳払いのフリをしながら大田と香野に斥候役をお願いしていた。目の前のサマエルたちにも同じ方法で言葉を伝えて、協力を仰いだのだ。
マハザエルは東の通路から悟られぬように、西のラファエルの頭上を越えて、柱と距離をとりながら、螺旋状に空中を旋回していく。彼らは生きる電磁石として設計された被検体である。今まで苦しめてきたこの見えない鎖である「磁力」を逆に利用して、宙に浮いているのだ。近過ぎると再び柱に取り込まれる危険があるが、適度な距離であれば、むしろ磁場を発生させる柱がある限り、この空間では自由に空中を動けるのだ。
(おい、見つけたぞ。確かにヒトがいる。ジャミングはこの高さまで、あるいは縦方向には効果がないのだろう。はっきり目視できた。全身銀色の防護服のような装備……パラジウムを散りばめたものかもしれない。まるでアポロ11号の連中みたいな格好だ。……柱越しに真上から見られていることに気づいてる様子はない。どうする?俺がやって構わないか?)
(待て、マハザエル……)
サマエルは、オサムの言うとおりの侵入者がいた旨を小声で報告した。
「生捕りにしたいのだろう?我らに任せろ。」
オサムは黙って頷いた。これを見てサマエルが合図を送る。マハザエルは合図と同時に宇宙服の頭上に向かって急降下していく。最初にオサムたちを待ち伏せて、突然姿を現したときのように……
ところが、宇宙服もこれを待っていたかのように突然反応し動き出す。マハザエルの降下してくる軌道上──真上に向けて、持っていたボウガンを素早く構えたのだ。まさに宇宙飛行士のようにフルフェイスのヘルメットのため、顔は全く見えない。マハザエルは考える。
ボウガンの矢……鉄製であれば磁力で弾ける。
だが磁力の干渉しない木製のようなものであったなら……
それでも連射はあり得ない武器。
パラジウムが塗布されていたらマズいだろうが、全く回避不可ではない。
(……このまま降下を続けて、矢が放たれる瞬間に軌道をずらす。)
マハザエルは止まらずに加速する。相手は頭部に狙いを定めて矢を放ってきた。溢れんばかりのアドレナリンとノルアドレナリンが、この瞬間をスローモーションのように捉える。
矢の切先に視線を向ける。
右頬から拳ひとつ分ズレた先で矢とすれ違う。
その風切り音のみが、右耳を掠めた。
それだけでは終わらない。
視線を真下の宇宙服に戻した瞬間──マハザエルは驚愕する。
宇宙服は、先程のボウガンは左手で雑に携えたまま、右手に別の小型ボウガンを構えている。
「しまっ……」
シュゥゥッ……
新たな風切り音を聞くと同時に態勢をずらすも、時すでに遅し。二本目の矢はマハザエルの右肩を貫いていた。制御を失って降下と言うよりは落下──マハザエルが墜落していく。毒でも塗られていたのか、地面が近づき、意識が遠のいていく。
だが、マハザエルの身体は地面に衝突することはなかった。片膝をついている大田の両腕の中には、キャッチされたマハザエルがいた。一方の宇宙服は、なぜか地面から40センチほど浮いている。そして首に手をかけるようにして、苦しそうに足をばたつかせている。宇宙服の右手──南側では、右腕を伸ばしたまま、息を切らしている香野がいた。さらに柱の北側からゆっくりと歩を進めて来るのは──オサムであった。冷ややかな顔で、もがく宇宙服を侮蔑するような目をしている。
「手書きのメモの人ですよね?きっと。」
オサムが尋ねて逡巡する間もなく、大きな金切り声が響き渡る。大田に抱えられていたマハザエルの悲鳴であった。彼は声を上げ続けたかと思うと、力尽きたかのようにその場でバッタリと卒倒してしまった。この場の誰もが予想していなかったこの悲鳴に、オサムも咄嗟に視線を移していた。宇宙服はこの瞬間を逃さなかった。通路の奥に向かって全力で走り出す。これに伴い香野の右手が引っ張られた。
「クソッ」
彼の呻き声で宇宙服が逃走し始めたことを悟ったオサムは、急に青白い光を帯び始めた。
「マハザエルのためにも頼む。」
サマエルがオサムの背後に立っていた。彼の両腕から放電される稲妻のような光が、オサムに供給されていく。更に後ろから来た添田と松野もこれに加勢して、彼らの腕から放たれるその光も混ざり合い、オサムの身体を包み込む。
「行け、オサム!」
松野の声とともにオサムが宙に浮いた状態から、猛スピードで宇宙服の背後に迫る。追いつかれる寸前に、宇宙服は足を急に止めて振り返った。白い粉……いや、白銀の粉が振り撒かれた。通路一面を霧のように、パラジウム・パウダーがたち込める。被検体を文字通り煙にまくつもりだったのだろうが、オサムは構わず、そのまま霧の中に突っ込んで行く。自殺行為──仮に生命を落とすに至らずとも、致命傷とも言える大打撃に相違ない。宇宙服もそう考えたのだろう。……ところが、オサムが突っ切った後の粉末の霧が、そのまま空中で微動だにせず停止している。
これを見た宇宙服は何か言葉を発したが、重装備で声がこもっていて、なんと言ったのかは分からない。頭上に浮かぶ少年が腕を翳すと同時に、周囲が全て白と化す強力な光が放たれた。周囲を青白い光が渦を巻いて立ち昇っていく。目の前に立ちはだかるオサムの朧げな姿を最後に、宇宙服の意識は薄れていった。通路入口付近でオサムをバックアップしていた松野と添田は、腕を痙攣させながら、オサムに向けて手を翳し続けている。そこから伸びる青白い電撃のような光は、オサムの身体にまで到達し、その先には渦巻く縦に伸びた光の柱が徐々に輝きを失っていく。彼の勝利が確認できたサマエルは、倒れたマハザエルの元に急いだ。香野と大田は、松野たちの傍でこの光景を見ながら、言葉を失っていた。光の柱が消え去ると、オサムが超高速で松野たちの元に戻ってきた。そして犬のリードでも引っ張るような仕草をすると、宇宙服がドカッとオサムの右下の地面まで手繰り寄せられた。不可視の紐でもあるかのようなこの技は、さっき香野を経由して使っていたものと同じなのだろう。
痛みの残る佐久間と気を失っている安川は、一行が最初にいた西側通路付近で香澄博士と一緒に待機している。山本はこちらに来て、大田から託されたマハザエルの容態を診ており、サマエルがこの様子を後ろから見守っていた。宇宙服を引き摺りながら戻ってきたオサムたちが合流したとき、山本が珍しく眉間を寄せて、処置に窮していた。
「そんなに重傷なんですか?山本さん?」
不安になってオサムが声をかける。山本はオサムと引き摺られている謎の刺客を一瞥すると、すぐにマハザエルに視線を戻した。
「……分からない。右肩に刺さった矢は、筋肉の収縮と骨に引っかかって抜けなくなっているようだ。身体を硬直させて意識まで失っているのは、傷自体というより……毒性のあるものが鏃に塗られていたか……?」
山本は改めて、マハザエルの左手首に手を当てる。
「脈は若干早くなってるが、呼吸は浅いわけではない。毒ではなく、被験者にのみ効力がある鎮静剤や、無力化するような薬品が注入されているのか……?」
オサムが博士を呼んでこようと思ったときには、すでに彼は山本の傍らまで来ていた。気を利かした香野が、香澄博士と交代して佐久間と安川たちの側についていた。大田も彼らの方に戻っている。
「博士。硬直の仕方が奇妙に思えて……パラジウムであれば、もっと激しい拒絶反応が起きているはずです。昔使われていた、暴走する彼らを制圧するための薬なのでしょうか?」
「……この感じ……L.M.P.が過剰反応している……?」
話を聞いていたサマエルが、香澄の口にした言葉について尋ねる。
「何だ?そのエル・エム・ピーとは?」
サマエルに振り向きつつ、この場の皆に伝えるつもりで、香澄が説明を始めた。
「皆さんはFボーンについてはご存知ですか?」
「いや。我々は自分たちの肉体改造がどのようなものか、というのは特に聞かされていない。ミカエル?お前は知っているか?」
東側に座しているミカエルは、ちょうどこちらから姿が直接確認できる位置にいる。また、彼がリーダーということもあって、サマエルは打診したのだろう。
「いいや。サマエルの言うとおりだ。我らに説明はされていない。最近ではきちんと説明をするように方針が変わっているのか?」
「……申し訳ない。確かに……。今の私たちは、この少年たちを脱出させようとしています。それで自分の状況を知ってもらうために、説明し得る情報を聞いてもらっておりましたが、通常は説明を行いません。失礼いたしました。」
七柱の天使たち──うち二柱は気を失っているので今は五柱だが、彼ら全員が一斉に声を上げた。
「脱出?」
「ええ。先程、施設封鎖の放送があったのは私たちも驚いています。ですが私たちはこの少年たちを施設の外に脱出させるために、昨日から動いているのです。」
「……そうだったのか……すまない。話の腰を折ってしまい……さっきの続きを話してもらえるか?」
サマエルに改めて促されて、香澄博士による説明が再開する。
「神格化の第一歩は、骨をFボーンに変化させることから始めます。竹のような構造にするのです。これでまず『しなる』ようになり、折れにくくなります。大きな力を得ても骨が耐えねば、自分自身が先に壊れてしまうので、これを防いでいるのです。
次に骨が折れずとも筋肉が耐えられず千切れるのを防ぐため、筋繊維を構築するタンパク質の『ミオシン』を、鉄の特性を付加した『フェロマイオシン』へと変異させているのです。これによって、大きな力を放つ瞬間だけ筋肉を鋼鉄のように硬くして、終わった後は超高速の代謝によって普段のしなやかな筋肉に戻す、ということが行われているのです。この筋繊維のことを我々研究員はL.M.P. (Liquid Metal Protein)と呼んだりしております。」
説明を聞き終えてサマエルが頷いた。
「なるほど、今は静止状態にあるマハザエルは、本当なら普段のしなやかな筋肉に戻るはずが、その鋼鉄状態が解除されずに継続しているように見える……そういうことなのだな?」
「おっしゃるとおりです。この矢に何が施されていたかは謎ですが、皆さんの身体構造を熟知した者が、その性質を逆手に取った武器を使っているのかもしれない、ということです。万一に備えて、暴走する者が現れたときのために、鎮圧を図るパラジウムをスタッフは全員携帯しておりますが………。最大の謎は、この施設の中で皆さんを狙う人間がなぜ紛れ込んでいるのか……?」
ミカエルが香澄博士に投げかける。
「黒崎が放った刺客……とは考えられないのか?」
「可能性はあると思います……しかし、こちらの三人を解放したのも彼なのですよね?先程の説明では上野博士がいらして、準備を進めていたようですが……彼は間違いなく黒崎副所長と共謀してエリシオンの被検体を『淘汰』しようとしていると、ビンガくん、迦陵頻伽から聞かされています。」
「淘汰……」
サマエルは考えこむ。
あの上野の手紙には一切「淘汰」のことなど何も書かれていなかった。
黒崎は最初、ミカエルの『プリーチャー』の能力を欲していた。
頑なに拒むミカエルに見切りをつけて、今度は俺たちを柱から解放した。
恐らくは俺たちを抱き込んで、仲間に加えたかったのだろう。
宇宙服は黒崎の一味で、俺たちを従順にするために危険を犯してまで、ここに来たのか。
……おかしい。
黒崎も、上野も用意周到だ。
ここにきて仮に俺たち三人を逆らえないようにするなら、こんな手を使うとは思えない。
クスリを使うなら、もっと楽で確実な方法を選ぶはず……
カチッ……
「何の音だ?」
山本が警戒する。全員が今スイッチが入るような音を聞き、違和感を覚えた。何か細い管を通して響いたような、小さく乾いた音。
オサムは目を見開いた。今のは拘束している宇宙服から聞こえてきた。呼吸のために開けておいた小さな隙間を通して響いた音だ。
(こいつの右手の指が動いている!)
オサムがこれに気づいた瞬間、目に映るものが全て、受信状態の悪いテレビの画像のように揺れ始めた。
そして突然、オサムだけでなく全員が苦しみ出した。香澄博士だけが唯一何も症状は出ていない。
「何だ?!何が起こった?」
慌てる香澄博士のすぐ横にいた山本も少し苦しそうである。
「どうした?山本!」
「博士……多分パラジウム・ジャミングです。私は被検体ほどではありませんが、丸薬の副作用でパラジウムに反応してしまうんです。どこから一体……?」
山本も膝をついた。オサムも遮断が間に合わなかったのか、かなりダメージを受けているようで苦しんでうずくまっている。すると拘束されていた宇宙服が、ポンっと跳ね起きた。意識を取り戻して、オサムが苦しんで力を解除するのを待っていたのだろう。宇宙服は迷わず東の通路に向かって走り出した。逃げる姿をブレる視界の中で、オサムは追おうとするが、頭の痛みが激しく平衡感覚も狂わされていく。茫然とする香澄博士以外の全員が沈黙してしまった。謎の刺客が通路を駆け抜けていく音も、次第に遠のいていった……。
(第五十九話 終わり)




