第五十八話 詠唱 〜執念〜
レベル5のヴォルト内に一旦戻った上野博士はミカエルの進言を聞いて、レベル4の黄金の丘にプロメテウス起動の鍵がある可能性が高いと考えていた。実は被検体も知らない、このヴォルトと黄金の丘を結ぶ秘密の通路が存在している。図面には掲載されていない湧水ピットがレベル4にはあるのだ。エリシオンの巨大な湧水ピットは、レベル5の南東に外周プラントとして建設されている。しかし工事施工途中における急場凌ぎの湧水ピットがレベル4の北側にあり、それがあの黄金の丘の空隙の裏側なのだ。
また黄金の丘の敷地内には大きな池があるが、あれは和風空間の演出のために作ったものではない。裏手ピットからのオーバーフローの受け皿が、当初の役割だったのだ。池の奥には、岩盤から引き込まれた湧水が常に流れ落ちる滝がある。滝を演出しているように装って給水しているのが裏手にあるピットであり、さらに池の水はレベル5の湧水ピットに流入する仕組みになっている。
その滝の裏には巨大な換気口があり、そこから施設全体の空気が吹き出している。最終的にレベル5のピットが完成した後、庭園の池はエアワッシャーとして活用され、その水面は施設の『肺』として常に細かく波立っているのだ。
ヴォルト内のある部屋の中の無骨な非常階段──隠されたレベル4の巨大ダクトと湧水ピットに続いている。この秘密の通路を経由して、上野は黄金の丘に向かっていた。
これとは逆に、香澄たち一行はレッドハウスを経由して、レベル5に到達していた。八咫烏とマモルから伝えられた抜け穴──アザゼルが使った道を通ってきたのだ。九人は到着時から異様なプレッシャーを感じていて、それは柱に繋がれた悪魔たちから放たれているのだろうと考えていた。レベル5への出入りの常習者である香澄にとっても、メインシャフトのエレベーターを使わない特殊な侵入は、いつも以上の緊張感を伴っていた。
「私と藤原は付き添いで来たことがあるだけで、ここがどこなのか、さっぱりです。……博士、ここはどの辺りか分かりますか?」
「……西側の通路のようだ。ここを真っ直ぐ進めばウォーデンクリフ・タワー、中央の柱に辿り着く。この通路自体は私にも分かる。」
「息苦しいな。……向こうから誰かに睨まれてんな。」
そう言って佐久間は目指す柱の方向に目を向ける。
「この妙なプレッシャー……悪魔の監視の目ってことか?」
松野が周りを見渡しながら尋ねる。
「なんか異様だね。ほかの場所とは違う。」
添田はそう言って、通路の壁を不思議そうに眺めている。ほぼ剥き出しの岩肌は、最早洞窟である。大田、香野は一言も発することなく、周囲の観察に徹している。オサムと安川は時折目を閉じて、何かの気配を探っているようだ。
「大丈夫でしょうか?」
山本は少年たちほど敏感ではないが、悪魔たちに敵意を向けられているのではないかと、大きく不安を抱いているようだ。香澄は改めてオサムの横顔を見た。強い決意が窺える。これを察したオサムが提案をする。
「自分とクニヨシが先頭に立ちます。カズキとエダくんで最後尾をお願い。サクマくん、オータくん、コウノは先生たちをお願い。」
お互いあまり距離をあけることなく、二列になって進んでいく。中心の柱に到達して、急に開けた近代的な空間になっていることに少年たちは驚いた。通路を出てすぐ右手に何か大きな潰れたマットのようなものが壁に立てかけてある。巨大な柱の右側からは青白い放電が起きていて、バチバチと音を立てているのが聞こえる。正面には比較的若い印象の修行僧のような男が、坐禅でも組んでるようにこちらを向いて座っていた。そしてこの空間に冷ややかな声が響き渡る。
「そこで止まれ。お前たちは何者だ?被検体のようだが?白衣の者もいるな?」
どこから聞こえているのか、全く分からない。素早く香澄を囲んで扇状に少年たちは展開して警戒する。
「喋ってる奴の姿が見つからない……先生、これって七人の誰かですか?」
「分からない。……ただ上野博士と話しているリーダーの声は、もっと太い感じの、大きい声だったと記憶しているが……」
オサムの耳打ちの質問に香澄も小声で応答した。強力な磁場に巻き込まれれぬように、香澄は柱と距離をとるように命令されていた。ゆえに彼らとは挨拶も直接の会話もしたことがなく、彼らの声はもちろん、顔も殆ど分かっていなかった。声の主がどこにいるかを、少年たちが探ろうとしている間に、即答しないことへの苛立ちのような声が再度響いた。
「どうした?答えられないのか?」
声の変化に素早く反応して、山本が前に出て対処する。
「申し訳ない。無断で立ち入ってしまって。私は技術員の山本と言います。ここには研究員と被験者の少年たちと一緒に来ました。敵対するつもりはありません。人探しをしております。共命鳥と呼ばれる少年……見た目が小学生くらいの少年がこちらに来なかったでしょうか?」
「……共命鳥?あの兄弟か……いいや、こちらには来ていないな。」
山本のおかげで難を逃れたと感じた香澄は、匿っていた被検体二人と一緒に、ビンガが無事上層に向かったかも確認しようと考えた。
「では、迦陵頻伽をお見かけしませんでしたか?」
「……なぜ奴のことを尋ねる?それに……お前は名乗らないのか?」
「申し訳ありませんでした。私は研究員の香澄と申します。四門システムの解析を任されております。迦陵……」
ドォオン……
突然香澄の足元の地面が抉られて、石片が飛び散る。攻撃されたのか、全く予兆を見ることなくその拳撃が飛んできた。周囲を改めて確認する間もなく、三体の被検体は音もなく現れた。その格好は柱の前に座している者と同じ──修行僧のそれである。明らかにこちらに敵意を向けている。そして何より驚くべきは、三体とも宙に浮いていることだった。
「次は外さんぞ、外道め。」
三体のなかで最も上背がある右の男が腕を組み、顔を顰めて吐き捨てる。先程までの声の主のようだが、今は完全に憤りに支配されて香澄たちを睨みつけている。
「サマエル、こいつが我らの邪魔を企てている主で間違いないのか?」
左手に浮かぶ、血の気の多そうな表情の男が尋ねる。
「ああ、飼育員の手紙にあった名に違いない。この気配……確かに、ここ最近出入りの多かった研究員だな。」
中央に浮かぶ三体の中では一番小柄な男が、少年たちを舐め回すように見ている。
「なあサマエル。このガキどもは新たな人身御供なのか?それともコイツの護衛か?」
いきなりの態度に怒りを覚えた佐久間が前に出る。
「はあ?何だ?孫悟空だか、なんだか知らねえが、今のはそっちから吹っかけてきたんだろうが?このオッサンが何したってんだ?」
すぐに援護するように松野と大田も前に出て佐久間に並ぶ。
「威勢がいいな、少年。確かに力は強いのかもしれないが、我らには勝てぬぞ。」
サマエルはそう言ってほくそ笑んだ。
「サマエル!!!」
突然野太い大きな声が遠くから響いて、目の前の三体をも射すくめた。同時に柱から放たれる青白い光が一層大きくなり、バチバチする音も大きくなったが、次第に光は縮小していく。
「何だ、ミカエル?!」
呼ばれたサマエルは忌々しそうに返事をする。今度の声は柱の裏側から聞こえてきた。こちらからは視認できない位置にいる被検体たちにも、オサムたちの気配や動きが把握できているようであった。
「本当にそいつらは敵なのか?俺にはお前たちを陥れようとしているようには思えんが?」
「……まあ、実際には俺たちにではなく、黒崎たちにとって都合の悪い存在なのだろう。解放された礼くらいは、しておかなくてはな。」
改めて九人は息を呑んだ。この会話からすると、目の前の三人は、柱に縛られているはずの七人──つまりは悪魔と呼ばれる被検体である。しかも三体を解放したのは黒崎副所長ということなのか。あわよくば、柱の機能停止をして解放できればと思っていた七人のうち、すでに三人が自由になっていた。どういう意図なのかは不明だが、サマエルと呼ばれる連中が抗戦状態にあるのは、どうやら避けられない。そう踏んだオサムは素早く陣形を整える。
「みんなは先生たちを守って。四人で応戦する。エダくん、また後方を頼める?」
「任せて。あの柱がエネルギー供給元だからなのか、力は上のときより安定してる気がする。」
添田の言うとおり、確かにTマターが豊富ということなのか。七人の少年たちは、あの黄金の丘にいるときのような身体の軽さを感じていた。
中央に松野、左手に安川、右手にオサム、後方が添田の布陣。サマエルたちも増大していく四人の少年たちの気魄に身構える。
「朱雀開きて層霄に臨み」
「玄武嶔として地軸を隠す」
「蒼龍左驂に蚴虬し」
「白虎騁せて右騑となる」
そしてオサムが叫ぶ。
「──迅!」
号令とともに前方の三人が、浮遊している三柱の堕天使に向かって跳ね上がった。左側の『西のアザエル』に安川が、中央の『北のマハザエル』に松野が、そして右側の『東のサマエル』にオサムがそれぞれ襲いかかる。この動きに対して堕天使たちも、柱から離れられない天使たちも同時に驚愕した。そして彼らの脳裏には遠い昔に見た迦陵頻伽が浮かんでいた。堕天使たちは打ち合いに応じながら、かつての迦陵頻伽と目の前の少年たちを重ね合わせ、不思議に思っていた。
(アイツと同じ動きができるのか?)
そして後方で見守る香澄たちも、アリーナでのアレーシュマ、アザゼルとの戦闘を目の当たりにしていたとは言え、改めて堕天使たちとは別の意味で不思議に思っていた。安川、松野については柔道部で優れた格闘センスと強さがあったのは理解できる。だがオサムについては、被検体になったばかりのときの能力値も、測定時の非力さも、今展開されている状況からは信じがたいものである。実は彼には運動能力を補完する、ある特徴があった。それは関節の柔軟性である。ケンカもしない、格闘技も習得しているわけでもない彼だが、自分と同じくらいの身長であれば、相手に踵落としをすることも可能であった。そのためか、彼の放つ上段蹴りのキレの良さは佐久間あたりと比較しても見劣りがない。これに培われた被検体としての能力が加わることで、高い能力を誇るはずの堕天使たち相手でも、互角の打ち合いを演じてみせている。拳撃そのものは相変わらず弱いものの、蹴りを多用することで補っているのだ。
(オサムって、こんなに強かったのか?)
昔から彼を知る香野も驚いている。香澄もこの光景に圧倒されていた。四門システムの解析作業に集中することを理由に、ホワイトルームでの訓練以外は山本と藤原に任せきりであった。彼はアリーナでの戦いで、共振意識を戦闘に転じたのを見たときから驚嘆していたが、改めて目の前のオサムの動きには戦慄すら覚えていた。
だが山本だけは、香澄たちと異なる感覚でこれを見ていた。彼は誰よりも多く四人の戦闘訓練に直接立ち会っていた。実験アリーナのような広い場所に限らず、Fクラス専用の自由空間内でも四人は連携の訓練を積んでいたのだ。一番近くで見てきた山本には、オサムが単なる偶発的要因だけで、こうした動きを習得したわけではないことを知っているのだ。
(高山くん、君は泣きながら一人で劣等感と闘っていたからね。)
気圧される堕天使たちは、想定外の強さを見せる少年たちから距離をとるべく後方──中央の柱側に一旦退いた。
「サマエル、アイツら全員、あの死神野郎と同じじゃねえのか?」
一番苦戦していた印象のマハザエルが、息を切らしながら確認している。
「ああ。不思議なものだな。迦陵頻伽と同じ動きができる奴が現れるとはな。アザエル、お前はどうだ?あの小僧は?」
「最初は驚いたが、特段恐れる相手ではないな。……一人潰して連携を崩すか?」
「少しは手加減してやれよ。お前の本気では殺しかねない。」
「大丈夫だ。匙加減は分かっている。」
そう言うと西のアザエルは、一人で少年たちに向かって歩き出した。
「何だ?今度は一人で歩いてくんぞ。どうするオサム?俺とタイマン勝負するってことだろ?」
「カズキはどう思う?アイツは本当にクニヨシと一対一で戦いたいって思ってるのかな?」
「……分かんねえ。でも三人の中で一番アイツがヤバそうだな。なんて言うか……動きが和田っぽかった。」
「和田くんって……あのボクシングやってるっていう7組の人?」
松野の見立ては正しい。アザエルを名乗る西山は、本当に元ボクサーである。
「和田がジム行かねえ日のときに、たまにウチらの部活に顔出すときがあんだけど、遊びで組手やるときに動きがあんな感じなんだよ。クニヨシも分かんだろ?……そういや、お前『アイツのパンチを避けてみせる』って言って、嫌がってた和田に無理やり殴らせたことあったっけ?結局避けきれねえで顔腫れ上がってたけど。」
「そんな昔のこと忘れたよ。」
「昔って一年のときのことだろ?和田は良い奴だからさ……クニヨシに必死で謝ってたのを、エンちゃんが見て笑ってただろ?」
「……そうだっけ?まあ、いいや。今日はそんなヘマしねえから。行ってくんよ。」
安川は結局応じるつもりである。ゆっくりと近づいてくるアザエルと対峙して、こともあろうことか、ボクシングのような構えをとってみせる。これを見たアザエルの顔が一瞬ひきつった。
「バカ、アイツ……変な意地張りやがって、止めねえと……」
「待って、カズキ。あのクニヨシだよ。このまま本当にボクシングで挑むはずないよ。案外いい作戦かもよ。」
オサムのセリフを聞いていた後ろの少年たちは、密かに思っていた。
(悪気はねえんだろうけど、クニヨシ酷い言われようだな。)
バウンシングをしながら、安川は距離をとる。一方のアザエルは……
「舐められたものだ。」
そう呟いて目を閉じる。3秒後、風が吹き抜ける。アザエルの踏み込みは一瞬であった。
容赦のない左ジャブが安川の鼻先を掠め、続く右ストレートが彼の脇腹を抉る。ガードを戻す暇を与えない。骨の鳴る音が地下壕に反響している。アザエルの上から振るう安川への拳は、ボクシングの教科書そのものの軌道で、正確に安川の肉体を破壊していった。安川の身長は169センチ。対するアザエルは173センチ。両者の身長差が極端にあるわけではないが、一方的な両者の対立は、まるで大人と子どもである。
かつて昭和45年(1970年)前後──ニッポンのフェザー級選手のめざましい活躍があった時代。アザエルこと西山将平は、フェザー級の選手であった。平均身長が当時は165センチほどであったことから、173センチの西山は高身長の部類であった。しかし……同じ「西」の文字を冠する身長170センチ越えの選手が、シンデレラ・ボーイと呼ばれて輝かしい世界王者となっていくなか、西山の対戦成績は振るわなかった。十年に一人の逸材とまで言われて、そのスピード、テクニックで周囲からの期待も大きかったゆえに、舐めた辛酸は当人を一層苦しめていった。そのうちパンチに酔うのではなく、酒に酔うことが常習化されていった彼は、いつのまにか表の舞台からは姿を消してしまった。クスリに溺れるサマエルと出会ったのもこの頃である。サマエルこと品川文弘とは気が合って、よくつるむようになった。だが西山は、頑なにクスリに手を出すことだけは拒み続け、品川も強制することはなかった。それでも断つことができなくなった酒には、依存し続けていた。結局酒に溺れ傷害事件を起こし、鬼塚刑務所に収容されるに至る。決して模範囚ではなかったが、外の世界での数多の選手の活躍を耳にするたびに、拳闘への未練が捨てきれず日々鍛錬を怠ることはなかった。そして同じ刑務所に収容されていたマハザエルこと詐欺師の若林広高から、中間処遇の試験運用と称して刑務所の外に出られる話を持ちかけられる。一縷の思いを胸に、彼はこれを快諾した。ひょっとしたら現役復帰には至らずとも、あの世界に戻れるのではないかと……
安川の体が徐々に後退していき、背中の岩肌に叩きつけられる。アザエル、いや西山の勝利は確実に見えた。だが、安川には『誇り』など最初からなかった。
安川はあえて自ら顎を突き出し、西山は躊躇うことなくアッパーで仕上げにいった。安川はこの瞬間を待ち望んでいた。西山の懐に素早く潜り込む。死角に消えた安川の手が、拳ではなく、鋭い爪のように西山の喉笛を掴み、そのまま全体重をかけて岩壁の突起へとその頭部を叩きつけた。
ガツッ……
鈍い音がして西山の膝から力が抜ける。安川の「我流」が、元プロの技術を凌駕した瞬間だった。
「はぁ、はぁ、……ザマぁ見ろ……」
腫れ上がった安川の顔が、西山から逸らされたその刹那……
白目を剥き、完全に意識を失っているはずの西山の右拳が、巨大なバネのごとく跳ね上がった。それは技術ではない。暗闇で生き残った男の執念の一撃だった。
ドゴォッ……
無防備な安川の顎に、西山の拳が直撃する。安川の視界が火花を散らして黒く転じる。二人はどちらが先ともつかず、冷たい岩肌のリングに崩れ落ちた。
(第五十八話 終わり)




