第五十六話 悪魔の数字 〜アショロトル〜
2026/6/24誤記「驚異的能力に〜」→「驚異的能力を」につき壱字修正
昨日届いた自衛隊の訓練に関する物資を確認するためとして、貸切にしているレベル2の会議室に、副所長の黒崎が姿を見せた。応じた白鳥所長にとっても意外な来客である。さきほどのショッキングな報告を聞いた直後とは言え、白鳥はいつもの調子で訪ねてきた者を労う。
「おお、すまんね、黒崎くん。ずっと昨日からここに籠りっきりで。荷物も広げっぱなしで申し訳ないが、空いてる席にどうぞ。お茶でよければすぐ用意するよ。」
そう言いながら、壁際に置かれた電気ポットに手を伸ばす。
「昨日夕方に、事務室を訪ねて魔法瓶(本当は「電気ポット」)をひとつもらってきてね。便利になったもんだね。これでお湯が沸くんだから。」
いつもの黒崎なら「お構いなく」と言って端的に用件を述べ、そそくさと立ち去りそうなものであるが、言われたとおり手前の椅子に腰掛ける。今回は白鳥の労いに合わせている印象である。一方の白鳥は本当に変わらない。急須からお茶を注ぎながら黒崎に声をかけた。
「お茶っ葉はあまり譲ってもらっていないから、出涸らしなんだがね。……さ、どうぞ。」
「では、いただきます。」
互いの顔を見ることなく、二人ともお茶をすすっている。まるで部屋の奥に窓でもあって、二人とも同じ窓から遠くを眺めているような光景であった。どちらも相手が切り出すのを待っているようにも思える。最終的には、黒崎から先に話を切り出した。
「所長……単刀直入にお伺いします。職員を全員施設外に避難させる、これを目指して動いてらっしゃる、その認識でよろしいでしょうか?」
一旦お茶をすすりなおしてから白鳥が答える。
「そう。ビンガくんに頼まれてね。まずは職員、それと研究員や医療従事者、警備員……もちろん、収容している子どもたちも全員外に避難してもらう。」
「そのあとは?」
「そのあとは、ビンガくんの意思を尊重して、この施設の封鎖を行う。」
「……封鎖とは、どのように?」
「ビンガくんに教えてもらった方法があってね。この施設の機能を全て停止させる。そのために中にいる全員を避難させたい。黒崎くんはどうしようと考えているんだね?」
「封鎖……その点では合致しているのでしょう。ただ……私の場合は、その先にある目的のために、ここで留まるわけにはいかないのですよ。」
「目的……?」
「成就するまでは口外できかねる、まあ私的な問題です。」
「ビンガくんも同じようなことを……。君たちは似ているのか、いやビンガくんが君に影響を受けたのだろうね。」
「……ビンガ……滝口剛は、父親への復讐が目的なのでしょう?」
白鳥のお茶を飲む手が止まった。ここで初めて彼は黒崎の横顔に目を向ける。黒崎は相変わらず部屋の奥に視線を向けたまま、話を続けた。
「安心してください。私以外は気づいていないことです。まあ私も最近になってようやく気づいたのですが。恐らくは上野ですら知らないことでしょう。」
「そうか……ツヨシくんのことは知っていたのだね。私は驚いたよ。幼いころの彼しか知らなかったからね。滝口くんとは本当に長いこと会うことがなかった。まさか、この施設にずっと籠っていたとは……」
「どうなんです?私は一切お会いしたことはありませんが、滝口博士というのは?所長の目から見てどういう人物だったのでしょう?ああ、ただの個人的な興味です。」
「……そうだな……私の知っていたころの彼はウイットに富んだ、西洋のものに造詣の深い、よく喋る男だった。ツヨシくんに会ったのもまだ十歳くらいだったか……明るい小学生で父親を自慢していた、そんな子だった……。」
「では、父親はこのエリシオンに来てから急変したと?」
「滝口くんの奥さんがご病気で亡くなっていることは、黒崎くんは知っているのかね?」
「いいえ。……初耳です。」
「多分そのときからなのだろう。彼が変わったのは。もうあのときには、この施設に所属していたということになるのか……ツヨシくんにも、滝口くんにも会ったのは、奥さんの葬儀のときが最後だ。ツヨシくんは学ラン姿の中学生だったか。二人とも口をつぐんでいたから、私も無理強いしてはいけないと思い、詳しくは聞いていないが……まさかそれが彼らを見る最後になるとは思っていなかったよ。」
ここで白鳥はポットのお湯を急須に入れ直し、黒崎に差し出す仕草を見せるが、彼は手で遮る動きで「もう結構」と応じている。自分のお茶だけ入れなおしてから、続きを話し出す。
「ツヨシくんの話からも、奥さんが亡くなったことを境に狂っていったようだ。かくいう自分自身もかなり荒れていった、そう嘆いていたよ。……ところで黒崎くん。先に私から尋ねておきたい、確かめたいことがあるのだが、よろしいかな?」
「どうぞ。」
「少年たちは生きているのかね?すでに亡くなってしまった、なんてことはあるのだろうか?」
湯呑みを見回しながら、黒崎は応じた。
「なぜ、そのようなご質問を?何か気掛かりなものでもご覧になったのですか?」
「検案書……少年の分を見た者がいてね。」
微妙な笑みを浮かべて、黒崎は白鳥の顔を改めて見る。
「アレは言い訳ですよ。ここを封鎖して彼らを連れて行く口実です。私の目的のために協力してもらいたいのでね。」
「黒崎くん……君も本当は分かっているのだろう?どんな事情にしろ、大人が子どもを巻き込んではいけない。ツヨシくんの例が繰り返されるだけだ。遅くはない。まだ引き返せる。」
「……確かに、おっしゃるとおりです。ですが私も残された時間がないんです。私は三年前に上野と吉田に頼んで、無理やりにウミウシの細胞を埋め込んでいるんです。」
そう言いながら自身の右耳の下、リンパ節があるあたりを指差す。
「まだ世間にも知られていない、ウミウシの驚異的な再生力を活かしたものです。既存の被検体への強化のための試作だったものを、私で試すように二人にお願いしたんです。最初はバーティゴが完全に消えて、ようやく自由になれた、そう思いました。しかし……結局服薬を継続しなければ安定しなかった。そして私自身の生命も……間もなく潰えるでしょう。上野や吉田は必死に隠そうとしていますが……」
白鳥は珍しく眉間を寄せて、テーブルの一点をじっと見つめながら問いかけた。
「……黒崎くん。君の今日の訪問の目的を聞いていなかったね。」
「そうでした。ここは互いに施設を封鎖するという共通の目的に対しては、『協力する』という提案をしに参りました。いかがでしょう?」
この提案に白鳥が応じるより早く、二人の会話を遮る出来事が発生した。耳慣れない空気を切り裂くようなサイレンが、エリシオン内に鳴り響いたのだ。一瞬だが、黒崎は耳を抑えてよろめいた。部屋の放送スピーカーは切ってあったため、部屋の中では鳴っていないものの、扉の外側で大きな音がこだましている。
「黒崎くん、大丈夫か?」
「ええ。私は平気です。それより……これは避難訓練の一環ではないのですか?」
「少なくとも私は聞いていない。……本当に火事でも起きたのだろうか?」
黒崎は、ポケットから素早く取り出したログ・パルで、時間を確認する。午前11時23分……彼は扉を開けて通路の様子を窺った。少なくとも煙が蔓延してもいないし、何かが焼き焦げる匂いなどもない。ただ通路を慌ただしく駆けていくセキュリティガードたちの足音や、職員たちのどよめきのようなものが遠くから聞こえてくる。彼も白鳥も、自分たちが話題にしていた『施設封鎖システム』のことが頭をよぎった。そして彼らの不安に答えるかのように、自動音声が流れ始める。
「システムコード:NERO。ヤヌス神殿の門を閉じよ。――『全門閉鎖』48時間後に同期が完了いたします。」
二人にとっても不測の事態である。黒崎が忌々しそうに口走る。
「なぜこのタイミングで、『ナンバー・オブ・ザ・ビースト』が?!」
「閉鎖システムに、そんな大層な名前が付けられているのかね?」
「それもご存知ないのに、起動されるおつもりだったのですか?……これが何を意味するのか、分かっておられるんですか?」
「ツヨシくんたちへのエネルギー供給が止まり、無力化されると……私は職員避難完了後に、ツヨシくんに教わったシステムを、管理室に行って起動するつもりだった。手順を知る者は上野くんしかいないと聞いている。あとは黒崎くん、君も知っているかもしれないと……。」
「上野は今、レベル5の最深層にいます。」
「では誰が?48時間の猶予があるから、深層に向かったツヨシくんも脱出できると言っていたが……。我々以外で知っている者がいるのかね?」
「分かりません。……PA本部と通じる人間が入り込んでいたのかもしれない。私はメインラボの管理室に急ぎます。アレを起動させた奴がまだいるかもしれない。所長は早く避難を。」
「いや、私も一緒に行こう。」
二人は揃って部屋を出ようとする。一瞬白鳥は、部屋の中を振り返る。潜んでいた隊員は見えないが、話は伝わったと解釈して、彼は黒崎とともにメインラボへと急いだ。
── 昨日のレベル3……
自衛隊の潜入組と遭遇し、無事白鳥に二名の衰弱した被検体を預けた迦陵頻伽は、『最深層に向かう』と言い残してレベル2から立ち去っていたが、実際にはまだレベル3に留まっていた。
改めて避難できていない被検体や研究員が取り残されていないかを確認して回ったが、ミーズで米田を発見したときから状況は変わっていないようだ。セキュリティガードも含めて、誰一人として姿を見ることはなかった。病室で療養していた少年……D87-03……鹿島がいたはずの病室も、もぬけのカラであった。不思議なことにセキュリティシステムも、レベル3だけが復旧していない様子である。意図的に切られているとしか考えられないが、果たして黒崎たちにとって何の利点があるのだろうか。彼はセキュリティ・カメラが作動していないことに気がついて、透明術を解いて先を急いだ。
探索の最中時折立ち止まっては、手で鼻を覆う仕草をする。あちこちに漂う独特の金属臭が、気分を悪くさせるのだ。そしてレベル3の南側の通路まで来たときに、ある異常を目の当たりにする。実験アリーナに続く非常階段の扉がある手前まで、膨張を続けながら蠢く謎の生命体が通路全体を塞いでいたのだ。ビンガは吉田たちの手によって、Sタイプと融合させられた被検体のことを思い出す。彼が知っているのは眠らされていた大野くらいであるが、爬虫類を彷彿とさせる皮膚の感じから、融合体に間違いないと考えた。
(幸い襲いかかってくる感じではない。だが厄介だな……質量が大き過ぎる。それとこの匂い……)
距離を置いて様子を観察する。床にはほのかに青いガスが溜まっているように見える。また不規則だが小さな放電が起きている。気のせいか、ビンガには少し空気が茶色みがかったように見える箇所がある。
(剥き出しの岩盤のせいか?粉塵が舞っているのか?……錯覚ではない。やはり何かのガスが充満しているのか?)
彼はさらに距離をとり、8メートルくらい離れて何やらパントマイムのように手を動かす。彼の動きに呼応するように、融合体の身体の一部が切断された。鋭い刃で切り裂いたような断面を晒し、大きな音を立てて床に転がった。もう一度同じような動きを行おうとした刹那、本体の切り口から、ブヨブヨと切り落とされた部位が再生していく。いくら再生能力に特化していても、ビンガから見てこの再生の速さは異常であった。
(いくら個体差があろうと、ゲート再生術ではここまで速くはできない。……サラマンダー・キャンセラーとやらが施されているのか?)
吉田博士ご自慢のサラマンダー・キャンセラー……2020年に驚異的再生能力が知られる『オポッサム』や、2021年に判明する『ウミウシ』といった心臓をも再生する驚異的能力を、彼は3年前(1984年)の時点で把握していて、これらを被検体の強化に流用しようと試みていた。だが、これらよりも遥か昔……250年以上前から発見されていた超再生力をもつ生き物がいる。『メキシコサンショウウオ』──「アホロートル」あるいは「アショロトル」といった呼び方もされる種のひとつである。2年前(1985年)にはニッポンでもテレビCMの影響で、エリマキトカゲに続いて人気の出た不思議生き物である。
ビンガはかつての自分へ繰り返された実験を思い出していた。そして自分の父以外の研究員についても、その顔が浮かんできた。
現在被検体に採用されている『P53ゲート・アクティベイト』、通称『ゲート再生術』はまだ10年足らずの歴史で、エリシオン内では比較的新しい技術である。Tマターによる超強力増殖を、同じくTマターで強化されたP53遺伝子が『超高性能ブレーキ』となって監視を続けている。これにより増殖細胞を一つずつチェックして、即座に不良品(細胞)を修復、排除を行う。結果、無秩序な暴走を防ぎ続けている。P53の発見は8年前の昭和54年(1979年)であり、昭和62年現在でもまだ「ただのがん遺伝子」という認識で、それが覆るのはさらに2年後(1989年)である。この発見当時まもなくこの遺伝子本来の「がん抑制遺伝子」──生命維持に欠かせないブレーキの役割を持っていることを、エリシオンの研究では把握していた。そしてTマターを使った実験で、現状の高性能遺伝子にまで昇華させたのだ。この研究に携わって中心にいたのが、戦前に満州への派遣も経験していた、とある老博士と吉田博士である。前者の博士はすでにこのエリシオンを高齢を理由に立ち去っているため、吉田がこれを引き継いで現在に至っている。
(そう言えば『スズオ』だったか?あの爺さん……吉田が先生と言って慕っていた……。嫌な奴のことを思い出したもんだ……)
かつての魔人Sタイプに使用されていたのが、『ショロトル』と呼ばれる再生能力であった。アホロートルの由来ともされる神の名である。だがこちらの技術は、被検体に対して不安定であり、徐々に現行のゲート再生術に切り替えられていった。この技術での成功体は、初期のTシリーズ──つまり迦陵頻伽や共命鳥たちとVクラスの被検体──レベル5の悪魔こと七柱の天使たちまでである。吉田はこの技術をさらなる高みに引き上げるため、マクロファージをTマターで強化した。我々人類は、即効性のある止血と瘡蓋によって、バイ菌の侵入を防ぐ力を有する。一方でアホロートルは万能芽基細胞による超再生を選択して進化した生物である。高度な免疫機能と高度な再生術……相入れないはずの異なる能力──Sタイプ『ショロトル』とヒトとの融合──それが『サラマンダー・キャンセラー』である。しかし残念ながら未完成の技術──まだ発展途上の段階にもかかわらず実戦投入しているのは、それだけの焦りがある、という裏返しでもある。
(いくら再生しようとも、切り裂き続ければ……)
ビンガの見えざる刃の攻撃は止むことがなく、融合体の身体をどんどん削げ落としていく。さすがにビンガの矢継ぎ早の攻撃の速度に合わせるほど、再生速度は速くはない。少しずつ彼が押している状況にも思えた。しかし「レベル5への到達」という焦燥感からか、僅かな油断があったのか……切り落とされた部位が、まるで意思を持つようにビンガの足元まで這ってきていたことに、彼は気づかなかった。部位の一部が減っていると認識したときには、すでに右足を絡みとられていた。
(切り取られた方も動けたのか?マズイ……攻撃に力を注ぎすぎて、足元がガラ空きになっていたのを狙ってきていたのか?)
ビンガが思ったように、切断された肉片たちは巨大なヒルのように、足元を目指して群がり始めていた。しかも足に巻きついた肉片は、思っている以上に強く足首を絞め始めた。
(数を自ら増やしてしまったか。細かく刻むことで動かなくなるようだが……これ以上は危険だ。一旦引くか。)
ビンガが引き返そうと考えたその一瞬の隙に、彼の首に巻きつく肉片があった。右足に巻きついているのと同様に締め上げる力が急に強くなる。
(呼吸を止めに来ているのか?そうか……気体の動きに反応して……)
気づくのが遅かったため、肉片と自分の首との接触面に隙間がなく、力任せに肉片を引き剥がすのは困難を極めた。
(ここで動きを封じられるのはマズイ。あの充満したガスを吸引する羽目になる。なんとか離脱しなければ……)
朦朧とするなかでも、ビンガは集中し始める。高速移動時に用いる方法──オサムと同じ方法で離脱をはかる。移動中も肉片の締め上げは緩むことはない。かなりの距離を移動して、レベル3の北側へ退避することを考えていたが、ついには床にうつ伏せに倒れ込み、その意識は遠のいていった……。
──ようやくビンガが意識を取り戻したとき、すでに翌日の昼近く──全門閉鎖の起動がされたときであった。首や足に巻きついていた肉片は炭のように黒く酸化していた。結局彼は気を失って、レベル3で一晩過ごしていたのだ。たった今起動された封鎖システムの警告音も、セキュリティ・システムが作動していないレベル3では、スピーカーは沈黙しているため、ビンガには届いていなかった。だが幸運なことに、彼が倒れていた場所はFクラスの居住区画のすぐ近くだった。通路のスピーカーは切られていても、独立した彼らの居住スペースのスピーカーまでは遮断されていなかったらしい。その奥の方から封鎖システムのアナウンスが、微かではあるが漏れ聞こえてきた。そして……音もなくビンガに近づいてくる影があった。
(今のは……所長が避難を完了させたのか?どれくらい気を失っていたかも分からない。まだ少し痺れが……ん?……この気配……何だ?)
その小さな影はビンガが倒れている場所まで来て、ピタリと動きを止めた。
「ツヨシ……なのか?大丈夫か?」
ビンガは顔をゆっくり上げて、差し出された小さな手と声の主を見上げた。そこにいたのは……共命鳥の兄、セメルであった。
(第五十六話 終わり)




