第五十四話 堕天使の邂逅 〜 Eruption 〜
縁側ではオサムと香澄が八咫烏の話に耳を傾けていた。厨房にいる握り飯班はもちろん、座敷で寝転んでいる者たちも、屋敷の周りを走っている圓崎と大田も、程よく各々の距離を置いて散らばっていた。このためオサムたちが小声でなくとも、彼らの会話を聞いている者も、気にしている者も特にいなかった。三人は大分長いこと話し込んでいた。
……
八咫烏の話がひととおり終わった段階で、オサムは縁側の外に目を向けたまま黙って考えに耽っていた。香澄が八咫烏に向き直り問いかける。
「……このことを知っているのは?」
「貴方たち以外には誰も……」
「では共命鳥の二人も知らない、気づいていないのですね?」
「いや、彼らは私がどこから来たのか、誰なのかは知っている。だが今伝えた話については彼らも知らない。マモルの能力の発動も無自覚なもの……刻が止まったのはほんの一瞬で……すぐに動き始めていた。セメルはもちろん、結局は誰にも影響はなかったのだろう。」
「三つの風は、なぜ……?」
「恐らくはペイモンの指示……エデンではそうだった。このエリシオンに彼は存在していないようだが……バビロニアの魔王が孔雀であると知って消そうとしたのだろう。」
「仰っていることは分かったのですが、私には何の力も……」
「彼こそが全ての鍵……第五元素にして四番目の聖遺物……元凶を封じるための不可欠な存在……」
レベル2の医務室ではベッドに寝かされていた吉田博士が目を覚ましていた。ノックとともに入室してきたのは黒崎副所長であった。
「どうだ?具合は?」
「すみません、わざわざ。もう大丈夫です。なぜ突然気を失ったのかも、実はよく覚えておりません……。ところで、その額の傷はどうされたのです?私が倒れたときに、まさか……」
「いや。気にするな。医療班がお前を連れて行くときにちょうど地震があってな、そのときに少しぶつけただけだ。実はその後の記憶は俺も曖昧だ。昨日は自分で思う以上に疲れていたのかもしれん。お前も気にするな、吉田。」
そう言いながら黒崎は彼のベッドの脇の椅子に腰掛けた。
「今朝、上野から連絡があった。プロメテウス起動のための隠された鍵がどこかにあるはずだが、ひょっとしたらレベル5ではない場所にあるかもしれない、とのことだ。」
「……なるほど。しかしアレを起動できずとも問題はないでしょう。柱の解放さえできれば……」
「そのことだが……昨日お前がアザゼルの信号が消えたと言っていたが、驚いたことにレッドハウスに身を潜めていたらしい。よくアイツにあの通路が探せたものだ……。そして今、上野は柱の周りに設置する道具を用意している最中だ。」
「道具?シリコン回路はすでにサマエルに預けたのでは?」
「ふ……傷つけず回収するためのセキュリティ・ネットさ。」
「確かに射出時の力は……承知いたしました。では私も……」
「無理はするな。休んでいろ。」
「いえ。もう全く問題ありません。自衛隊の突入の前に少年たちを回収いたしましょう。書類もすでに用意させていて……」
「これか?」
「おお、すでにお持ちでしたか?」
医務室に昨晩から当直でいた立川医師は、かつて黒崎に拾われた者の一人である。彼もまた黒崎の協力者として動いており、作成した少年たちに関する検案書を黒崎に渡していたのだ。
「ああ、立川が全て十五人分……お前が直接連れて来たあの少年の分も含んで作成してある。『未知のウイルス感染の疑いでエリシオンにて検査したが特に異常は見つからず、土砂の粉塵で肺炎を発症』と明示させたうえで、『腹膜炎』を原因とした『敗血症』を直接死因ということで統一してある。」
黒崎は自身の指示ではあるものの、「よくももっともらしく偽造したものだ」と自嘲にも思える笑みを見せる。
「お前が調達に行っている例の医療機関に搬送させる準備も調えた。元々このプランだったものを先延ばしにしていただけだ。自衛隊が来たとしても、提携医療機関への緊急搬送だと言って突破する。人命優先……そもそも訓練なら手を出せまい。」
黒崎は遠くを見るように話を続ける。
「……吉田、お前はどうする?奴らの搬送に便乗してここを先に出ても構わんぞ。そうしてくれるなら、上野も連れて行ってもらいたいんだがな?」
「何をおっしゃっているんです?私や上野が残ってお見送りするのはまだしも、黒崎様に一人お残りいただくなどあり得ません。我々の代えなどいくらでもおりますが、黒崎様の代わりなどおりません。」
今日の吉田の真剣な顔は、不思議と『普通の顔』に見えていた。
「……大野に代わり、上野がレベル5に案内すると言っていたが……お前がレベル4に行ってアザゼルを柱まで案内できるか?」
「お任せください。」
「白鳥のジジイは職員をこの施設外に避難させようと目論んでいる。こちらとしては却って都合が良いのではないかと上野とも話をした。直接ジジイと話して、敢えて全員をエリシオンの中から退場させることにする。地下施設から職員が一斉退去しても問題は生じない。地上部の電力と下水さえ稼働していれば機能としては充分だ。ん?……」
再びノックが響き白衣の男が一人入室してきた。黒崎を見て男は無言で深く一礼する。その彼に黒崎が声をかけた。
「珍しいな?立川と打ち合わせか?お前が吉田の見舞いということはあるまい?」
吉田はベッドから出て、ハンガーにかけられた白衣を纏いながらその男に視線を向ける。
「私はこれからレベル4に向かい、上野とともに『柱解放』を実践する。『子どもの生命優先』の考えは当然分かってはいるし、私もそこは同意見だ。だが……今回は例え彼らが屍となろうとも、我らアエラスの目的が最優先だ。分かっているな、モトイ?一番若いお前が黒崎様を守るんだ。……では先に失礼いたします。」
吉田は言い終えると同時に扉を開けて出て行った。
「吉田はああ言っているが、別にお前は今までどおりで、ほかの研究員と接していろ。俺のことを構う必要はない。立川と連携して上手くやってくれ。頼んだぞ。」
黒崎はその白衣の男の肩を軽く叩いて、彼もまた医務室から去って行った。医師の立川とモトイと呼ばれた男は、ともに深々と頭を下げていた。
ちょうど同じ頃、レベル5では柱の周りから少し離れた場所に、上野博士が台車で運んできたものをおろしていた。柱の悪魔たちは特に干渉することもなく瞑想を続けている。
(……サマエルよ、飼育員がお前に宛てた書簡と関係あるのか?)
北に座するマハザエルは念話で尋ねる。
(さあな。正直アレが何かは分からない。この書簡の内容と結びつくようには思えないが……?)
(大きなマット……消防の連中が使う救助用マットのようだが?ボンベもあるな。)
ミカエルの見立てに北のガブリエルも頷く。
(確かに……所長のおっしゃるようにそういう形状のものです。しかし、ここから飛び降りる場所など……。まさか上層からここまで、誰かが飛び降りてくるとでも言うのでしょうか?)
(ふふふ……なるほど。メインシャフトのエレベーターが止まれば、あの縦坑を飛び降りてやって来る奴がいてもおかしくはないかもな。)
ガブリエルの真面目な推測を聞いて、マハザエルは半分からかうつもりで言っているのであろう。だが西に座するアザエルがこれに真面目に応じる。
(西の通路の先にある穴……どこと通じているかまでは知らんが、以前もあそこからレベル5に入ってきた奴はいる。今日も落ちて来た変な奴がいたしな。)
(あの衰弱した被検体か?)
マハザエルも気づいていたようだ。アザエルと同じ西にいるラファエルが補足する。
(少しずつ、こっちに近づいて来ているようですが?)
南のウリエルも侵入者について言及する。
(知らぬ気配だ。……微かだが、電流を放っている。)
(ああ、まるで雷神のようだな……。もうアイツらはこの施設内にはいないのだろうが……)
ミカエルの言葉にサマエルが反応する。
(『雷神』とは、随分懐かしい奴の名を……。発電機として柱に繋がれた俺たちも、放電をしている点では同じようなものだな。)
念話の内容は上野には聞こえていない。だがちょうど、荷物を下ろし終えてサマエルたちに目を向ける。そして離れた場所からサマエルに向かって声をかける。
「サマエル?気は変わらないか?」
サマエルは座したまま応える。
「手紙は読ませてもらった。非常に興味深い内容だった。」
「……そうか。私は再びヴォルトに戻る。その前にミカエル……いや全員に告げておこう。エリシオンの崩壊が始まる。自衛隊がここに乗り込んでくるそうだ。この最深層まで到達できるかは分からないが……」
ミカエルは今回は立ち上がることもなく、目を閉ざしたまま上野に向かって返答する。
「その救助用マットは、その自衛隊のためのものか?」
「いいや。これは指示を受けた者がいずれ設置に来るだろう。何に使うかはそれで分かる。」
上野はこのまま立ち去ろうとしたが、一旦足を止めて悪魔もとい天使たちに質問をした。
「君たちの中で、プロメテウスの鍵を知る者はいるか?」
「お前でも見つけられぬ物があるのか?『ログハウス』にもなかったのか?」
ミカエルのこの言葉で上野は息をのんだ。
「……そうか……確かに……。あとで探してみよう。ありがとう、ミカエル。……いや……本当にすまない、ミカエル。」
上野はミカエルに背を向けたままこう言うと、宣言どおりヴォルトに足早に戻って行った。
「……すまない……か。」
上野の言葉をつぶやいて、ミカエルは閉ざしていた瞼をゆっくりと開けた。横目でサマエルを一瞥する。彼の言葉の意味するものが何かを考えながら……
彼らの話題にあがっていた衰弱した被検体……昨日まではただの墨のように黒く焦げた一匹のヘビの姿になりながらも、生きながらえていたアザゼル……宮里であった。共命鳥セメルに拾われてレベル4のレッドハウスに放り込まれていた彼は、一晩でヒトの姿にまで回復していた。だが相当に疲弊しており朦朧とするなか、レッドハウスで彼が目を覚ましたのは、誰かがスピーカー越しに呼びかけてきたからであった。聞き覚えはあるが、あまり自分にとって馴染みのないその声は、自分のことを把握していた。アレーシュマこと大野とともに、FRG-04とC57-03の二名の少年を回収して、ほかはレベル4に足止めしたままレベル5に向かう指示を知っていることから、「吉田さんではない方の白衣の男か」と理解した。大野と吉田は馴染みのある施設側の人間であったが、宮里にとっては副所長と同じように長身の男……というのが上野博士に対する認識であった。彼は動けるまでに回復したあとの指示を、新たに伝えられていた。本来なら大野の指示に従い、柱に繋がれた悪魔に謁見することは分かっていた。しかし大野が動けなくなった今、自分一人で重大な任務を完遂させなくてはならない、とのことであった。この部屋からレベル5に通じる秘密の通路……と言うよりは曲がりくねったヒト一人が抜けられる程度の穴を抜けてレベル5に到達後は、柱の西、北、東に置かれたマットを設置して、東のサマエルを訪ねることが救いとなる……そんな内容であった。あと奇妙な指示もあった。準備を調えるまでは自分の命名された『アザゼル』を名乗るな、というものである。一体どういう意味があるのだろうか。
「はあはあ、やっと辿り着いた……」
ヒトの形には戻ったものの、ほとんど体力の残っていないアザゼル……宮里は、何も考えずただすがるしかなかった。
見知らぬ訪問者に七柱全ての天使がその不穏さに違和感を覚える。
「あっしはG101-3……宮里と申します。レベル5中心にある柱の東に向かえ、そう言われてここまで来ました。」
目の前に座している二人に向かってかすれ気味の声で懸命に訴える。これに対して宮里から見て左に座していた男の方が、閉ざしていた瞼を開いた。
「宮里……だと?」
青白い光が柱に向かって小さく放電されている。
「ひいぃいっ!もう体力はねえんです。逆らう気も一切ございません。ご勘弁を。」
ひれ伏して容赦を願うその姿を見て、さらに放電が強くなる。
「ふうわっ!本当に抵抗しません。」
今度は両手を合わせ始めた。少し放電が弱まっていく。ようやく微弱になってきてその男が口を開いた。
「俺はアザエル。ここは西……柱の裏が東だ。サマエルのもとを訪ねて来た、ということか?」
「そうです、そうです。サマエル様でございます。本当でしたらここには大野さん……いえ、アレーシュマ様と一緒に来る予定だったのですが……」
「アレーシュマ?聞かぬ名だな。アエーシュマの間違いなのでは?」
「何でも軍神アレスさんとその今おっしゃったアエーシュマさんが合体した名前だと伺っています。あっしもよく分かってねえんです。」
(おい、サマエル?聞こえていたな?こいつ……これは書簡にあったことに繋がるものか?)
西のアザエルが念話でサマエルに確認をする。若干の放電がサマエルから発せられるが、すぐに自分を諫めた。サマエルにとっても柱の西側に到達した男の話が、上野の手紙に書かれた内容の進行に繋がるかは半信半疑というところであった。
(通してやってくれ……。確かめてみよう。)
西のアザエルは改めて訪問者に指示を与える。
「許可が出た。柱を回ってサマエルに会ってこい。」
「あ、ありがとうございます。失礼しました……」
柱を回り込み東の二柱の天使と対峙した宮里は、少し離れてひざまづく。柱に寄り過ぎぬように注意を受けていたからだ。
「すみません。どちらがサマエル様でしょうか?」
「俺がサマエルだ。何の用がある?」
「まず柱の周りの準備をしろ、と言われております。すぐに終わらせますので、終わったあとに改めてお声をおかけします。」
緊張と恐怖からか宮里は急に手際良く動き始めて、三方向に置かれた救助用マットをボンベで膨らませ、なぜかマットを壁に立てかけるようにして設置していく。時折首を傾げるその姿は、どうも準備している本人もよく分からずに指示に従っているようだ。
(一体何の準備だ?あいつマットを立てているぞ?)
北のマハザエルは若干呆れたように、念話で全員に呼びかける。南のウリエルも冷めたように言う。
(南にはマットの設置もありやしない。せっかくの小心者のスタントショーも直に観ることができず残念だよ。)
宮里は先程までの疲弊し切った様子と打って変わり、短時間で準備を終わらせた。
「お待たせいたしました。……改めてサマエル様。あっしは……アザゼルと命名された被検体です。お預けしてある『封筒』をいただけますでしょうか?」
この瞬間サマエルの放電が激しくなった。だが先日の失態もあってか、すぐに自身を戒めてこれを抑えた。そして残りの六柱の天使は確信した。サマエルが言っていた『馬鹿げたこと』が今起ころうとしているのだと……
激しい放電を免れたとは言え、ほかの六柱の天使たちに負荷がまだかかっている。珍しく動揺を完全には払拭しきれぬサマエルが、震える手で上野から預かった封筒を、アザゼルと名乗った宮里に向かって、地面を滑らせるように放ってみせた。これを受け取ったアザゼルは、改めて中身を確認する。ブヨブヨとした小さな黒光りする何かを取り出して手にする。レコード盤の付録のソノシートのようにも見えるが、これは塩ビ製ではなくシリコン製のものである。何か回路のようなものが印刷されている。この『黒いシリコン回路』とは別に同封された手紙を真剣な顔で読み進める。何度も柱に目を向けたり、足元を確かめたりしている。
ミカエルがゆっくりと立ち上がった。固唾を飲んで見守るサマエルの様子からも、ただならぬ事態に備える必要があると考えたのか、万一の臨戦体制への移行を考慮したようだ。この意識がほかの六柱に流れ込みでもしたかのように、呼応して全員がゆっくりとその場で腰を上げ始めた。
宮里……アザゼルなりに真剣なつもりだろうが、残念ながら間抜けな顔の印象は拭えない。慎重に南側に向かって柱を遠巻きに歩いていき、黒いシリコン回路を大事そうに手に持って一歩ずつ柱に向かって近づいていく。なぜ南に来たか分からないウリエルは、怪訝そうな顔でアザゼルを見つめている。そしてウリエルの隣……手を伸ばしてシリコン回路が柱に触れた刹那……その場の全員が突然の結果に驚天動地の思いを噛み締める。
ドーン……けたたましい大きな四つの衝撃音が一斉にレベル5に響き渡る。
まるで決壊したダムのごとく、均衡を保っていた柱の磁気回路が、アザゼルに向かって一気に流れ込んだのだ。アザゼルは宙に浮いて急激に柱に向かってぶつかった……と言うよりは、まるで引き寄せられたように柱に吸着した。
左頬が柱にめり込まんばかりにメキメキと潰れていく。まるで誰かに強大な力で横面を柱に押しつけられているように、分厚い唇も顎もひしゃげ、口が自然と縦に開かれて、呻き声すら上げることも許されない。
同時に三方に繋がれていた堕天使……東のサマエル、北のマハザエル、そして西のアザエルが、アザゼルとは全く真逆に柱の磁力から放出され、大砲の弾のごとく勢いよく打ち出された。そして事前の準備のマットの意味がようやく明らかにされる。そう、放出時の堕天使の衝撃を緩和するためのクッションだったのだ。
東のミカエル、北のガブリエル、西のラファエル、南のウリエルに変化はない。相変わらず柱の磁力の枷は外れていない。皆茫然としている。声なき絶叫をあげ続けるアザゼルは、再び黒焦げになりながらもその頬をつたって涙を流しているようだった。
(第五十四話 終わり)




