第四十九話 濡れた頬 〜hush〜
セメルに気圧される吉田は、この場を逃れたいという一心で冷静さを失っている。
「私にはお前の質問の主旨が全く分からん。もう失礼する。」
「おいおい、そんなに俺が怖いのか?皆からその風貌で気色悪がられて、気味の悪い笑い方をするお前が、こんな子どもに怯えるのか?」
険しい顔で吉田はセメルの質問を反芻し始める。自分に言い聞かせるように、ぶつぶつと小声で呟くのを繰り返し、最後は大声でセメルに向かって答えた。
「さっきの質問……Sタイプ融合型が1.1倍濃度のTマター環境で生命活動に著しい問題が生じないか、ということであれば問題ない。Tマター濃度も供給も影響は受けない。さあ、用は済んだ。そこを通せ。」
「何だ?随分と淡白すぎるじゃないか?アザゼルとやらを、レベル5まで連れて行ってやる、とまで言っているのに。」
「うるさい。何の話だ。そこをどけ。お前に構っている暇などないんだ。」
吉田がセメルの脇を通り抜けようとすると、すでに行く手にセメルが立っている。左に行けば立ち塞がれて、右に行けばやはり立ち塞がれる。
「なあ、吉田。そんなに怖がったら……面白くて俺もやめられないじゃないか?」
大量の汗が滝のように流れている。たった1分足らずのやり取りが、恐怖のあまり吉田には何時間も続く拷問のように感じられる。めくれあがった唇が小さく窄み、蒼白くなっている。唇も口の中もカサカサに乾き切り、完全なパニック状態に陥っている。その場で頭を抱えてしゃがみ込み、子どものように泣きじゃくり始めた。
「お願いだぁぁぁ、もう勘弁してくれ、くれぇぇぇ……ッ!」
異常なまでの悲痛な叫びが響き渡り、セキュリティガードたちが押し寄せて来た。
「どうされました?吉田博士?吉田博士?」
Zタイプ3名と大野直属の部下が1名駆け寄る。見たことのない激しい錯乱状態にある吉田を目の当たりにして、彼らも困惑する。そして吉田のもとに、後ろから駆け寄って来た者がいた。黒崎である。
吉田の動揺による慟哭がレベル2中の冷たい空気を切り裂いて、黒崎のいる執務室内にまでも伝わっていたのだ。ただ事ではないと察知した黒崎は、急いで通路に出て吉田の後を追って来ていた。平静さを常に保っている黒崎も、この惨状を見て狼狽する。
「どうした?吉田!しっかりしろ!何があった?……至急医療班を呼べ!今すぐだ!」
黒崎は吉田の脈を確認してみる。
(何だ?過呼吸か?心臓がこんなに激しく脈打っている……俺のことも分からないのか?)
「吉田!吉田!」
吉田は泡を吹きだした。涎も糸の如く垂れ下がり、白目をむいている。
「吉田!吉田!お願いだ。戻って来い。」
後ろの通路の影から音もなく黒崎の背中に近づいてくる者がいた。
「……何だ?ガッカリだよ。お前も結局はただのヒトか?」
突然の声に黒崎は驚いて振り返る。誰もいない。再度前を見るが、相変わらずもの言えぬZタイプたちだけがいる。
(俺まで混乱して、今のは幻聴だったか?)
そう思い、抱えている吉田に目線を落とすと、その視界には『小さなつま先』があった。顔を上げればそこには、冷ややかな人形のような顔をした、共命鳥セメルが立っていた。
「グミョー兄……なのか?」
突然セメルが黒崎の抱える吉田の脇腹に、右足のつま先で強い蹴りを入れた。ほとんど卒倒状態の彼はこれにも全く反応を示さない。驚く黒崎が憤りを交えてセメルに詰問する。
「何をする?!共命鳥!」
侮蔑の目をもって見下ろすセメルがこう答える。
「コイツもただの道具ではなかったのか?お前にとっては?」
「何を言っている?どういう意味だ?吉田に何かしたのか?」
「……もういい。用は済んだ。お前にも用はない。興醒めだ……」
そのまま通路の影に消えていく。
「何なのだ?アイツは?」
……
タンカで運ばれていく吉田を見送る。駆けつけた当直の医療班によれば、パニックになって気を失っただけ、命に別状はないと言うことであった。
(吉田がこれほど怯えるとは……銃や刃物を突きつけて脅しても、奴はこんなに怯えることはないだろう。一体アイツは何をしたんだ?共命鳥……厄介ごとを運ぶだけの鳥だった……そういうことなのか……?)
黒崎は立ち上がり、自分の袖が濡れていることに気づく。
(ふ……アイツのヨダレか?)
そう思ったとき、ぽつんと頬を伝って雫がこぼれる。汗かと思い、左手で顔に触れたとき黒崎は自分自身に驚いた。急にさっきのセメルのセリフが頭をよぎる。『お前も結局はただのヒトか?』……あの言葉はこれを指していたのか?自分がよりによって吉田のために涙を流していたというのか。
(どうしたんだ?俺は……)
汗とともに目にしみる涙を拭いながら、無自覚な自身の変化に戸惑いを覚えていた。黒崎にとって『今日ほど長い一日はない』、そんな風に思えた瞬間だった。
セメルはレベル2の搬入路付近の監視カメラの場所まで歩いて来た。何かに気づき壁際のすみっこで身を屈める。それから床の上の『緑の何か』に手を伸ばす。
「おかしいな……さっきここに来たとき落ちたのか?気にせずあっちに向かってしまったからな。それとも昼間のとき自分でズラしてしまったか?急いでいたしな……」
器用に壁を伝ってカメラの設置された天井近くにまで登り詰め、カメラの上に手を伸ばして緑の何かを置いた。
そして手を伸ばした姿を最後にレベル2から彼は陽炎のようにいなくなっていた。
ほぼ同時刻に、セメルはレベル4の実験アリーナの医務室に近い扉の脇で膝をついていた。
「……何だ?立ちくらみ?……妙に膝が震える。連続で跳び過ぎたか……?」
そう言いながら頭を左右に振り、膝を軽く叩く。
「……それにしても、一気に興が削がれたな。……アイツらを招待すると言った手前……やめるのは簡単だが、このままだと奴らは全快しないだろう。それではこの檻を壊せる奴らがいなくなる。……やっと掴めた千載一遇の機会……一度帰って頭を冷やすか。」
セメルはその場にしゃがみ込んだと思ったら次の瞬間には再び消えていた。
セメルの消えた場所のすぐ後ろ……ほんの3メートル足らずのところで、オサムと香野はお互いの口を抑え合って気づかれないように、ずっと棒立ちのままであった。彼が消えて5秒くらい二人は固まったまま動かず、目だけはキョロキョロと周りを警戒していた。
「ぷはぁぁあ、はあ、はあ……」
二人ともその場に四つ這いになって息を切らしている。
「ビックリしたぁ……」
オサムはそう言いながら、まだ呼吸が乱れたままである。先に香野が立ち上がり、セメルの消えた扉付近まで行って彼を真似て座り込んだ。
「マジ、ビビった。アイツ突然出て来たぞ。どこに消えちまったんだ?」と、香野は声を潜めて呟く。
「本当に運が良かった……もしアイツの目の前だったら……心臓止まるかと思ったよ。」
少し落ち着いたのか、それでも高まったままの鼓動を確認するように、右手で胸を抑えながらオサムも香野の後ろまで歩いて来た。
「なんか見つかった?」
「いや、なんも……なあオサム、あれって何だろう?カマキリか?緑の虫みてえに見えっけど、死骸かな?全然動かねぇ。ほら、アレ。ちょっと手伸ばせば触れられそうだけど。」
香野が指差した虫のような何かは、新しい死骸なのか埃も被っておらず、瑞々しい緑色のまま微動だにしない。そこだけ時間が止まってしまっているかのようだ。
「え?……ああ、本当だ。でも触んない方がいいじゃない?こんなとこでも虫がいるんだね。可哀想に。迷い込んだのかな。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
オサムは両手を擦り合わせながら、適当なお経の文句を口にしている。香野もとりあえずオサムに倣って、両手を合わせてみる。
「でも、これでひとつハッキリした。アイツ……『ワープ』できるんだね。」
自分やビンガとは異なる方法で移動できるのは脅威と思いつつも、オサムは訓練次第で自分にもワープができないのだろうか、と密かに考えてみたが、仕組みはさっぱり見当もつかなかった。
(超スピードの先にある能力かな?)
二人はセメルの気配がないことを確認しながら、用心をして忍び足でほかの少年たちのもとに戻って行く。オサムは何度も立ち止まっては、ビクッと肩を動かし周囲を不思議そうに見回していた。
香野とオサムが何故か忍び足で戻ってくるその様子は、少年たちにも香澄たち大人にとっても、非常に奇異なものとして映っていた。一体何をしているのだろうか。
「アイツら何やってんだ?」
「さっきの耳鳴りでおかしくなったんじゃねえ?」
「おお、やっぱ気のせいじゃなかったんだ。ミゾもかよ?」
「何か地面も一瞬揺れたような気もするけど……」
小前と溝端がこんな会話を交わしている中、まず佐久間が二人に声をかけた。
「お前ら、何やってんだよ?急に走り出したかと思ったら、変な歩き方で戻って来て……地震にビビって漏らしちまったか?」
半笑いで問いかける佐久間を見て、オサムと香野が一緒に佐久間に駆け寄った。
「実はさ……」
小声で密談を始めた三人であったが急に佐久間が大声を上げる。
「はああ?!」
オサムと香野は必死に「しー」と言って人差し指を口に当てる。
「声大きいよ、サクマくん。」
小声でオサムは佐久間にそう言いながら、周りをキョロキョロ見始める。香野も周囲に細心の注意を払う。落ち着いてから三人は頭を寄せ合って、小声で話を続けた。
「でもよ、『ワープ』ってタカヤマ……お前がやってんのもそうだろ?」
「いや、俺がやってるのは『高速で移動』であって、アイツのはパッと出て来てパッと消えたから、地面をつたって動いてるんじゃないみたいなんだよ。」
「……まあ、分かったけどよ。なんでずっとお前ら小声なんだよ?みんなに聞かれたって別にいいじゃねえか?」
「あの『オヤジ小学生』に聞かれたらまずいと思って。どこから出てくるか分かんないし……先生が言ってたように喧嘩しても勝てるかもしれないけど、機嫌損ねたらカズキたちの治療ができなくなるからさ……」
オサムの訴えを聞いて、佐久間もそういうことかと納得する。腕組みしながら佐久間は一生懸命何かを考えているようだ。
「なあ、オータ?アイツが戻ってくるまで、あとどれくらいか、分かっか?」
声をかけられた大田はスクっとその場で立ち上がりスルメイカを咥えたまま、細い目をさらに細める。一旦天井を仰いでから、佐久間に向き直った。
「あと大体40分はあるはず。まだ20分足らずのはずだから。」
そう答えつつ、口の中にスルメがまだあるのか、モグモグしながら彼ら三人のところに寄ってきた。最終的にきちんと咀嚼して、オサムたちに訊ねる。
「コウノとオサムちゃんでアイツの消えた理由って何か分かった?抜け穴でもあったとか?」
「さすがオータだな。俺とオサムが何であっちに走って行ったか分かってたってことか。」
大田が周りに視線を向ける。
「……大丈夫。俺以外は誰も気づいてなかった。それより本当に何か分かったのか?」
「いや、結局アイツが『ワープ』できるってことしか……」
佐久間に対する説明と同じ内容を、今度は香野から大田に伝えた。
「……なるほど。俺としてはオサムちゃんの考えも尊重して、マツノとクニヨシは連れて行くでいいと思う。エダくんのことはどうする?」
「多分まだ肺が痛いんじゃないかと思う。あんまり喋るとつらそうだから聞くに聞けないけど。」
「じゃあ連れてった方が良さそうかな。サクマも大丈夫か?」
「ああ。オレは平気だけど、あとは……チョーのおやっさんか……」
オサムがこめかみに指を当てて何か考えている。この一連の動きに香野が反応する。
「どうした、オサム?なんか気になんのか?」
「う〜ん。『老人と弟』ってどんな感じなんだろうって。アイツとおんなじ感じなのかな?」
オサムの疑問に大田も頷く。
「……確かにケガ人連れてくのはいいけど、万一のときは相手が三人か……先生も一緒に連れて行く方がいいのかな?」
「ああ。確かにその『ウチ』ってのに行ったことあんのは、おっさん一人だけってことだろ?アイツのこと少しでも分かってるヤツは連れて行った方が良さそうだな。」
佐久間は、香澄も連れて行くべきと考えているようだ。そして四人は声には出さないが、その視線の先は同じ人物……そして考えていることも概ね一緒なのだろう。大田が先陣を切ってそれを言葉にした。
「エンちゃんはもう少しここで休んでてもらおう。明日になって吹っ切れてるかもしれないし……」
「……そうだな……」
寂しそうに圓崎に目を向けたまま、佐久間が応えた。
「そう言えば地震あったの?コウノ気づいた?」
オサムの問いかけに香野は首を振る。
「あれ?俺の気のせいか?」
「いや。俺も地震には気づいた。本当に一瞬だけだったけど。」
二人が証言してるのだから間違いないのだろう。そう思いつつも自分と香野が気づかなかったのは、ちょうどセメルが突然現れて驚いていたときだったのだろうか。二人とも仰天して自分たちが後ろにいることがバレないように必死だったから、気づかなかったのかもしれない……。そんなことを考えつつ、オサムが右拳を左の掌にポンと叩く仕草をして思いついたことを口にする。
「そうだ、米田くんに来てもらおうか?チョーさんも連れてくからってことで?」
オサムのこの提案には大田も乗り気のようだ。
「確かに彼なら万一にも対処できる。ケガしてるとは言え、マツノもクニヨシもいるし。」
佐久間も大いに同意のようだ。
「じゃあ、そろそろ、みんなで話し合いって感じで行ってみようぜ。でもよ、もしかすっと……」
佐久間の話に耳を傾けていた三人が、最後は力強く頷いていた。
腹ごしらえも一段落のところで、四人を中心にセメルの提案について議論が交わされた。最終的には『全員では行かず、一部の者だけで行く』こと、『残る者の、交代で見張りは続ける』ことには皆が賛同した。そしてセメルのもとに赴くのは……
回復を優先するため、脚のケガで動けない松野と安川、肺の痛みが残る添田、痩せ細って衰弱しているチョーさんが行くことになった。またセメルの事情を少しでも知る香澄博士を引率として、万一に備える戦闘要員としてオサム、佐久間、米田が同行することになった。
ほかの者たちはアリーナに残ることになる。そして圓崎もここでの待機組に振り分けられた。終始ほとんど発言をしなかった圓崎の異変には、このとき皆が否が応でも気づくことになった。
そしてセメルが約束どおり1時間して再びこのアリーナの向こう側から歩いて来た。全員の顔を見て満足げに問いかける。
「どうやら招待に応じる、ということで良さそうだな?」
香澄が前に出て申し出る。
「すまないが、全員ではなくケガ人を中心にした我々8人でお伺いしようと決めました。」
「ん?そうなのか?なぜ残りの奴らは来ない。」
「今、我々は18人もいるんです。これだけの大人数で押し寄せるのは弟さんたちにとっても……驚かせてしまうのではと危惧しまして、最低限の人数で応じようかと皆で話し合ったのですが……」
「構わん。さっきツクモのジジイにも話をして来た。マモルもお前たちに会えるのを楽しみにしている。ここで『ごろ寝』するよりも、畳の上で寝る方が良かろう?」
ここで一旦香澄の顔色を窺い、セメルは咳払いをしてみせる。
「皆でここを脱出するのだろう?俺としても、お前らにこのエリシオンという大きな檻を壊して解放してもらえるなら都合がいい。なくなってしまう前にせっかくだ。我が浄土である黄金の丘を見ておいても損はなかろう?まあ名前ほど煌びやかではないがな。」
困惑する香澄を見て喜んでいるように見える。
「本当にいいんですか?遠慮せずにみんなでお邪魔して?」
ここで、すかさずオサムが割って入ってきた。香澄は驚いている。そんな様子がまたセメルを楽しませたのだろうか、上機嫌でこれに応えた。
「もちろん。遠慮など不要だ。君たちはまだ子どもだろう?そんな気遣いは大人になってからすれば良い。……香澄、そういうことだ。全員連れて来い。先に行くぞ。」
そう言ってセメルはゆっくりと歩き始める。
オサムは気づかれないように香澄の袖を引っ張って、少し後ろに退がった。
「先生、ごめんなさい。こうなることも予測して、機嫌を損ねないように事前にサクマくんたちと決めてたんです。そのときは全員で行こうって。」
耳打ちされた内容に少し驚きながらも、少し落ち着きを取り戻してきたのだろうか。昼間の戦闘以来、険しい顔だった香澄に笑みが溢れていた。
(第四十九話 終わり)




