初授業
アテナイの街で私とイノは、一軒家を与えられている。病院からほど近い場所で、一般家庭で使われている家と同じ物である。
夕食後はその家に帰って眠るだけ。元住む屋敷と違って、魔法で明かりを灯す訳にも行かない。一般家庭では日が沈めば眠るのが当然の為、私とイノは共に並んでベッドで眠る。
玄関付近ではアストレウスさんが椅子に座って夜を明かす。彼は護衛として夜も私達を守ってくれる。朝が来ればペウロスさんと交代し、彼は自宅へと返る事になっていた。
そんなこんなで二日目の朝。私とイノは朝食を食べた後、びゅぎょう場所の病院へと向かった。
「おはよう御座います、ケンジ殿! お待ちしておりました!」
「おはよう御座います、ケンジ様。本日も宜しくお願いします」
出迎えてくれたのはマカーオーンさんとパナケイアさん。兄妹と共に看護師さん達も、笑顔で私達に頭を下げている。
「おはよう御座います、皆さん。今日から本格的に授業と行きましょう」
私の挨拶に皆さんからの、期待の眼差しが返って来る。しかし、マカーオーンさんは顔色を窺う様に、私に対して問い掛けて来た。
「ですが、ケンジ殿。本当に宜しいのですか? こんな場所で、ご教授頂くだなんて……」
マカーオーンさんの視線は病院内に向けられる。そこには多数の患者さんが横たわっており、彼等も興味深そうに私達の様子を見ていた。
昨日、パナケイアさんと相談して、授業場所をここに決めた。その際には彼女にも、本当に良いのかと確認されてしまった。
本来、知識とは秘匿されるもの。弟子でも無い者達の前で、ペラペラと語る事では無いそうなのだ。
けれど、私が行う授業はそんな小難しいものでは無い。誰かに聞かれ困る物では無いのだからね。
「今日は手始めですしね。人体の作りについて、簡単にお話をしましょう。患者の皆さんも質問があれば、いつでも手を上げて貰って構いませんからね?」
私が声を掛けると、患者の皆さんは驚いた表情を浮かべる。けれどその顔は嬉しそうで、前向きに耳を傾け始めている。
ここの患者さんは傷が塞がっておらず、基本は絶対安静の身である。その為、暇を持て余している人達が多い。少しでも彼等の気分転換になると良いのだけどね。
「それでは始めましょうか。イノ、準備を頼めるかい?」
「はい、お父様! 資料は全て、ご用意してあります!」
イノは私の助手らしく、トートバッグから資料を取り出す。それは人体の内側を描いた一枚絵で、資材はパピルスで出来ている。羊皮紙も存在するけど、まだ一般的には普及していないらしいのだ。
私は資料を広げて見せながら、その場の全員に向けて語り始める。
「普段、当たり前に使っている自分の体ですが、その役割を明確に意識した事はありませんよね? 筋肉や血液がどういう働きをして、骨がどの様にして体を支えているか等です」
私はアスクの協力の元に医学書を書いた。けれどそれらは、ハッキリ言えば入門書に過ぎない。
医者では無い私では、学校の授業で習うレベルしか理解出来ないからだ。けれど、それこそが今の世に必要なのだとアスクは言った。
私は医学書を書く為に、ライオス君の仕留めた獲物を捌いた。動物の体を解剖しながら、体の作りを改めて知る事から始めた。
それらもハッキリ言って、学校で行う理科の授業レベル。蛙の解剖等の延長戦にある物なのだろう。
しかし、本気で知ろうと取り組めば、そこから得られる知識は段違いだった。私はこの年になって初めて、学ぶ事の楽しさを知ったのである。
「骨がなければ体はグニャグニャになり、立つ事すらも困難になるでしょう。更には脳や心臓等、大切な臓器を守る役割も果たしています」
それに、その解剖実験はライオス君だけではない。イノも一緒に立ち会った。互いに意見し合って研究を進めていた。
皆でワイワイやるのするのも楽しかったけど、それ以上にそれぞれの視点を取り込む事が出来た。ライオス君は元軍人らしく、戦闘にフォーカスした意見が多かったしね。
その知識の集大成が、私の書いた医学書であり、この授業という訳だ。誰でもわかる様に優しくかみ砕いた知識は、聴衆の興味を大いに刺激したらしい。
「昨日に食べた肉は、そのまま筋肉を作る素材になります。魚を小骨ごと食べれば、骨を作る素材になる訳です。その食べて消化した栄養を、体中に運ぶのが血液の役割となります」
見ればマカーオーンさんとパナケイアさんは、手に木の板を持っていた。それは表面に蝋が塗られた蝋板で、木の枝で表面を削る様に使う物らしい。
気になった事を書き留めて、後で質問する気なのだろう。私はそんな彼等を横目に、人体の働きについて説明を続ける。
「そして、筋肉は収縮する事で体を動かしています。骨と連動する事で、走ったり掴んだりできる訳です。更には熱を生み出す役目も持ち、寒い時に体が震えるのも、熱を生み出す為となります」
馬車での道中にイノと相談し、この絵はイノが描いた物だ。私に絵心は無かったけれど、イノには芸術の才能もあるみたいなんだよね。
その絵を皆が注目している。イノも嬉しそうに笑顔だけれど、私も親として鼻が高い。自分の娘が優秀である事を、喜ばない親はいないよね?
そんな風に授業を続け、一通りの説明を終える。静聴の中で終えた後、私は皆さんに向かって問い掛けた。
「それでは、最後に質問がある方はいますか?」
「はい、ケンジ先生! 筋肉の働きについて質問があります!」
「私は消化の仕組みについて! もっと詳しく教えて下さい!」
真っ先に手を上げたのはマカーオーンさんとパナケイアさんの兄妹だった。他の皆さんも手を上げかけたが、その熱量に押されて手を引っ込めてしまった。
私は苦笑を浮かべて兄妹に向き直る。そして、マカーオーンさんに手を向け、発言を促した。
「全員の質問を受け付けますからね? まずはマカーオーンさんからお願いします」
マカーオーンさんは嬉しそうに笑い、怒涛の勢いで質問を始める。余りにも質問の数が多いので、彼に関しては途中で質問を止めざるを得なかった。
その後のパナケイアさんも、沢山の質問をしたい雰囲気だった。けれど、兄の姿を見た後だからか、一つだけ質問に答えると静かに頭を下げた。
そして、午前中一杯の時間を使い、参加者からの質問に私は答える。全て完璧に答えられた訳ではないけど、第一回目の授業は盛況の形で終える事が出来た。




