#23 殺せなかった理由
決戦の日の朝。
空は、嫌になるくらい晴れていた。
ダズリンの城壁に立つ兵士は、地平線の向こうに広がる黒い影を見つめていた。
最初は雲かと思った。しかし、影は地面を這うように広がり、その上空には無数の翼が見える。
「……魔族軍だ」
兵士の叫びと同時に、警鐘が鳴り響いた。
街の門が閉ざされ、住民たちは避難所へ走る。城壁には弓兵が並び、魔術部隊が障壁を展開し始めた。
黒い鎧の軍勢、巨大な獣、空を覆う魔物の群れ。その数は、城壁の上からでは数えきれない。
五年前の悪夢が、再びダズリンへ迫っていた。
*
魔族軍の本陣では、魔大臣が遠くの城壁を眺めていた。
「始まったか」
その少し後ろに、深緑のフードをかぶったクロエが立っている。
「随分と静かだな。怖じ気づいたか?」
「まさか。ほんとに戦争始めるんだなって思っただけ」
「今さら何を言う。人間どもには、五年前の続きを思い知らせてやらねばならん」
クロエは答えなかった。
そのとき、腰の魔導具が短く震えた。
合図だ。
「大臣」
「何だ?」
「ミラが動いた」
魔大臣が振り返る。
「どこだ?」
「ちょっと待って」
クロエは魔導具を手に取り、しばらく黙った。やがて地図を広げ、ダズリンから西へ離れた荒野を指す。
「ここ。途中で進路を変えたみたい」
「ダズリンへ向かうのではなかったのか?」
「今朝まではね。でも、仲間と別れて一人で西へ向かった」
魔大臣は地図を覗き込んだ。
「なぜ、こんな何もない場所へ?」
「知らない。逃げたんじゃない?」
「罠ではないのか?」
「かもね」
あっさり答えると、魔大臣が眉をひそめた。
「否定しないのか」
「できないから。私が絶対に罠じゃないなんて言ったら、そっちの方が怪しいでしょ」
クロエは地図を指先で叩いた。
「ただ、ミラがそこにいるのは確か。どうするかは大臣が決めて」
魔大臣はしばらく考え込んだ。
ダズリンにはすでに十分な戦力を投入している。王女一人を討つために軍全体を動かす必要はない。
「……鉄の魔女を呼べ」
側近の魔族が顔を上げた。
「よろしいのですか? ダズリンの攻略は――」
「鉄の魔女がいなくとも落とせる。それより、王女を逃がすわけにはいかん」
魔大臣は地図から顔を上げた。
「必ず仕留めろと伝えろ」
「はっ!」
側近が駆け出していく。
クロエはフードの奥で、小さく息を吐いた。
かかった。
*
ダズリンから遠く離れた荒野には、強い風が吹いていた。
草木もほとんど生えていない平地。その中央に、黒いローブをまとったミラが一人で立っている。
足元には、何枚ものタロットカードが円を描くように並べられていた。
ミラは空を見上げた。
五年前、燃える王宮の中で自分の手を引いて走ってくれた人。
逃げろと言われ、振り返ることもできずに走った。
あの日から、ずっと会いたかった。
「……レオナ」
胸元に手を置く。鼓動が速い。
怖くないわけではない。それでも、今度は逃げるつもりはなかった。
少し離れた岩場には、残る七人が身を隠していた。
「魔大臣は完全に信じたよ」
先に戻っていたクロエが報告する。
「レオナをこっちに向かわせた。もうすぐ来るはず」
「本当に一人で来るの?」
ジェマが尋ねる。
「命令を出したところまでは確認した。でも、絶対とは言い切れない」
「分かった。周囲の警戒も続けよう」
デイジーが全員を見た。
「予定どおり、まずはミラに任せます。ただし、危なくなったらすぐに入ってください。無理に倒そうとしないこと」
ニーナが腰の剣を確かめた。
「分かってる」
「特にニーナ」
「なんで私だけ?」
「一番先に飛び出しそうなので」
「失礼ね。ちゃんと考えて動くわよ」
そのとき、タリアが顔を上げた。
「……来ます」
全員の視線が北へ向く。
地平線に、黒い人影が現れていた。
*
黒い鎧。長い髪。顔を覆う鉄の仮面。
一人の女が、荒野を歩いてくる。
その足元では薄い霜が広がり、周囲の空気が冷たくなっていった。
ミラは正面を見つめたまま動かなかった。
やがて女は二十メートルほど手前で立ち止まる。
仮面の奥から、赤い瞳がミラを捉えた。
「お前がミラ王女」
ミラはゆっくりとフードを外した。続いて占い師の仮面に手をかける。
顔を隠していた仮面が外れ、黒い髪が風に揺れた。
「久しぶり、レオナ」
鉄の魔女は黙っていた。
「……その呼び方、やめろ」
「嫌」
ミラは即答した。
「話を聞かない女ね」
「それ、レオナに言われたくないな」
「何?」
「昔から人の話を聞かなかったでしょ」
「……知らない」
「そっか」
ミラは少し笑った。
「でも、怒り方は変わってないね」
鉄の魔女の周囲に冷気が集まり始める。
「くだらない。私はお前の知っている人間じゃない」
「今はね」
「随分と自信があるのね」
「五年間、占い師をやってたから。少しは強くなったんだよ」
ミラは足元のカードを一枚拾った。
「なら、占ってみれば?」
鉄の魔女が片手を上げる。
「今日、自分がどこで死ぬのか」
ミラはカードを見た。
「それは出てないよ」
「そう」
「代わりにね」
カードを正面へ向ける。
「帰ってくる人がいるみたい」
次の瞬間、鉄の魔女の魔力が爆発した。
*
冷気が荒野を走り、大地が白く凍りつく。
地面から無数の氷柱が突き出し、ミラへ迫った。
「星!」
カードが光り、ミラの姿がその場から消える。直後、氷柱が地面を貫いた。
数メートル離れた場所に現れたミラへ、今度は空から氷の槍が降り注ぐ。
「戦車!」
半透明の盾が現れ、槍を受け止めた。
激しい衝撃に盾が揺れる。ミラはその陰から次のカードを投げた。
「太陽!」
まばゆい光が氷を包み、白い蒸気が広がる。
その中をミラは走った。
「魔術師!」
炎、風、雷、光。異なる魔法が次々と鉄の魔女へ放たれ、荒野に爆発が起きた。
岩陰から見ていたニーナが目を見開く。
「ミラ、あんなに戦えるようになったんだ」
「五年もあれば変わるよね」
ジェマが答える。
ソフィは杖を握ったまま、煙の向こうを見つめていた。
「……まだや」
煙が晴れる。
鉄の魔女は立っていた。鎧の一部が焼け、腕には傷ができている。
だが、その足取りは揺らがない。
「少しはやるようになったのね」
ミラが息を整えながら笑う。
「褒めてくれた?」
「褒めてない」
鉄の魔女が地面を踏み込んだ。
その足元に巨大な魔法陣が広がる。
「……塔!」
ミラの前に石壁がせり上がった。直後、大地が爆発する。
石壁は砕け、ミラの身体が吹き飛ばされた。
地面を転がったミラが顔を上げたとき、すでに鉄の魔女が目の前にいた。
速い。
振り下ろされる腕を防ごうと、ミラがカードを抜く。
しかし、間に合わない。
甲高い金属音が響いた。
鉄の魔女の攻撃を、横から差し込まれた剣が受け止めていた。
「王女様いじめるの、そこまで」
ニーナだった。
鉄の魔女の赤い瞳が動く。
「……お前」
「久しぶり、レオナ」
ニーナが剣を押し返す。
「五年ぶりに会ったんだから、もう少し歓迎してくれてもいいんじゃない?」
反対側から鞭が飛んだ。
鉄の魔女が身を引くと、鞭は地面を叩き、岩を砕いた。
「一対一は終わり」
ジェマが歩いてくる。
「今度は私たちが相手」
鉄の魔女は二人を見た。
「……ニーナ・ベル。ジェマ・ハート」
「覚えてるじゃん」
ニーナが笑う。
「だったら話が早いね」
「邪魔をするなら、お前たちから殺す」
ジェマは鞭を構えた。
「そう簡単にはいかないよ」
二人が同時に地面を蹴った。
*
ニーナが正面から斬り込む。
鉄の魔女は氷の刃を作り、剣を受け止めた。横から迫ったジェマの鞭を避けると、そのままニーナへ反撃する。
だが、ニーナはすでに横へ回っていた。
二人はレオナの戦い方を知っている。
踏み込みの速さ。攻撃を避ける方向。次に狙う場所。
五年前まで、何度も見てきた動きだった。
ニーナが低い姿勢で懐へ入る。
鉄の魔女が剣を受け止めた瞬間、ジェマの鞭が足首に絡んだ。
「取った!」
「甘い!」
鉄の魔女が鞭を掴み、ジェマを引き寄せる。
空いた手に黒い魔力が集まった。
「ジェマ!」
ニーナが叫んだ瞬間、横から炎が飛んできた。
鉄の魔女が腕を上げて防ぐ。
その隙にジェマが鞭を引き戻し、後ろへ跳んだ。
大地を揺らしながら、マチルダが降り立つ。
腕には真紅の鱗が浮かんでいた。
「レオナ」
マチルダが拳を握る。
「帰ったら、ご飯食べよう」
「……竜人か」
「うん。自分のこと、覚えてなくてもいいよ」
マチルダは少し笑った。
「自分が覚えてるから」
炎をまとった拳が、鉄の魔女へ叩き込まれた。
その身体が後方へ押し飛ばされる。
だが、鉄の魔女はすぐに立ち上がり、空中へ無数の氷塊を生み出した。
「鬱陶しい……!」
氷塊が三人へ降り注ぐ。
逃げ場はない。
その前に、巨大な炎の壁が立ち上がった。
「ほんま、すぐ怒るんやから」
白い蒸気の向こうから、ソフィが歩いてくる。
鉄の魔女の動きが止まった。
「……お前」
「また会ったなぁ」
ソフィが杖を構える。
「今度は、ちゃんと最後まで付き合ってもらうで」
「生意気な魔女」
「知ってる。昔から言われてたもん」
鉄の魔女の赤い瞳が揺れた。
「……黙れ!」
黒い魔力が広がり、ソフィの炎を押し返す。
ソフィはすぐに障壁を張った。しかし、魔力の波は想像以上に重い。
「っ……!」
横から複数の魔石が飛び、障壁へ吸い込まれる。
「一人で頑張らないでよ」
クロエだった。
「……またお前か」
鉄の魔女が睨む。
「うん。また私」
クロエは腰から武器を抜いた。
「今日は逃げに来たんじゃないよ」
「何をしに来た?」
「直しに来た」
クロエはまっすぐに鉄の魔女を見た。
「壊れたもの、直すの得意だから」
障壁が大きく軋んだ。
そのとき、一本の矢が鉄の魔女の足元へ突き刺さる。
光の陣が広がり、黒い魔力を押し返した。
「レオナ」
タリアが弓を下ろす。
「今日は、あなた自身を治しに来ました」
「くだらない」
「帰るまで諦めません」
鉄の魔女が地面を蹴った。
一瞬でタリアとの距離が縮まる。
「タリア!」
ニーナが叫ぶ。
鉄の魔女の腕が振り下ろされる直前、光の壁が二人の間に現れた。
攻撃が弾かれる。
「危なかったですね!」
デイジーが駆け込んできた。
「怪我は?」
「大丈夫です」
「よかった」
デイジーは鉄の魔女へ向き直る。
「レオナ先輩」
「……お前は?」
「昔、訓練場でよく怒られていた後輩です」
「知らない」
「でしょうね」
デイジーは杖を握り直した。
「でも、私は覚えてます。あの日、助けてもらったことも」
その声から、いつもの軽さが消える。
「だから、今日は私が連れて帰ります」
鉄の魔女が八人を見渡した。
いつの間にか、全員がその前に立っていた。
「八人で来れば、私を倒せるとでも?」
ニーナが剣を構える。
「違うよ」
ジェマも鞭を持ち上げた。
「連れて帰りに来たの」
ミラの周囲に、タロットカードが浮かび上がる。
鉄の魔女はしばらく八人を見ていた。
やがて、仮面の下で口元を歪める。
「……やってみなさい」
荒野を揺るがす魔力が放たれた。
*
そのとき、遠くから地響きが聞こえた。
タリアが振り返る。
「……魔物が来ます」
岩山の向こうから、獣型の魔物と黒い鎧の兵士たちが現れた。上空には翼を持つ魔物もいる。
クロエが舌打ちする。
「やっぱり、完全には切り離せなかったか」
「こっちはレオナだけで精一杯なのに!」
ジェマが叫ぶ。
マチルダが一歩前へ出た。
「じゃあ、そっちは自分がやる」
「マチルダ?」
ニーナが振り返る。
「みんなはレオナをお願い」
マチルダの身体から炎が噴き出した。
その背中から大きな翼が伸び、全身を真紅の鱗が覆っていく。
炎が消えたとき、そこには巨大な竜が立っていた。
「……でっか」
ジェマが呟く。
マチルダが首を向けた。
「かわいい?」
「今それ聞く!?」
ニーナの声を背に、マチルダは魔物の群れへ飛び出した。
巨大な尾が魔物たちを薙ぎ払い、口から吐かれた炎が地面を走る。
空から迫る魔物には、タリアの矢が飛んだ。
「マチルダ、右です!」
「ありがと!」
「こちらは任せてください!」
マチルダとタリアが増援を食い止める間に、残る六人は再び鉄の魔女へ向き直った。
*
戦いは、簡単には終わらなかった。
ニーナとジェマが前へ出るたび、鉄の魔女は二人の動きを読み、氷の刃で迎え撃った。
ソフィとミラの魔法は確実に傷を増やしていたが、魔族の身体は人間よりも頑丈だった。
クロエの仕掛けも、同じ手は二度と通じない。
そして、鉄の魔女は八人の中で誰を先に倒すべきか、すぐに見抜いていた。
「デイジー!」
ニーナが叫ぶ。
黒い魔力が、後方で治療を続けるデイジーへ伸びた。
障壁を張る暇はない。
ジェマの鞭がデイジーの腰へ絡み、横へ引き寄せた。
魔力の塊が、二人のすぐ横を通り抜けて地面を砕く。
「助かりました!」
「あとでお礼よろしく!」
「何が欲しいですか!」
「無事に帰れたら考える!」
デイジーはすぐにニーナへ治癒魔法をかけた。
先ほど受けた打撃で、ニーナは脇腹を押さえていた。
「肋骨が折れてます。しばらく動かないでください」
「無理!」
「ですよね!」
傷が塞がりきる前に、ニーナは再び剣を構えた。
だが、デイジーの顔色は明らかに悪くなっていた。
治療を続けるほど、魔力が減っていく。
ソフィも額から汗を流し、ミラのカードは残り少ない。
このまま長引けば、先に倒れるのは自分たちだ。
「……次で決めたい」
ミラが言った。
ソフィが頷く。
「せやな。せめて動きを止められたら……」
その言葉が終わる前に、鉄の魔女が動いた。
狙いは、ミラだった。
「まずは、お前からよ」
鉄の魔女の手に、長い氷の槍が生まれた。
「ミラ!」
ニーナが叫ぶ。
ミラはカードを引いた。
「正義!」
薄い光の膜が身体の前に現れる。
しかし、氷の槍はその膜を突き破った。
「っ――!」
腹に鋭い痛みが走る。
防御膜が槍の軌道をずらしたため、急所は外れた。それでも深く傷ついたミラは、その場に膝をついた。
鉄の魔女が槍を引き抜く。
ニーナが駆け寄ろうとした瞬間、衝撃波が放たれた。
「くっ!」
ニーナとジェマが吹き飛ばされる。
ソフィもデイジーも、すぐには近づけない。
鉄の魔女はミラの胸元を掴み、そのまま地面へ押し倒した。
「……終わりよ」
片手でミラの両手首を押さえ、空いた手に細い氷の刃を作る。
ミラは必死に腕を動かした。
しかし、びくともしない。
目の前には、鉄の仮面。
その奥に、赤い瞳が見える。
五年前、自分を守るために残った人。
今、その人が自分を殺そうとしている。
「……レオナ」
ミラが小さく呼んだ。
氷の刃が振り下ろされる。
……はずだった。
「……?」
刃が止まった。
ミラの胸の、ほんの少し上で。
鉄の魔女が眉を寄せる。
もう一度、腕に力を込めた。
……だが、動かない。
「……何?」
ミラも異変に気づいた。
鉄の魔女の腕は震えている。
まるで、自分の身体と争っているようだった。
「レオナ……?」
「黙れ!」
鉄の魔女が怒鳴る。
それでも、刃は下りなかった。
「何なのよ……!」
その声には、明らかな狼狽が混じっていた。
「いい加減にしぃや!!」
ソフィが駆け込んできた。
杖を投げ捨て、そのまま鉄の魔女へ体当たりする。
二人が地面を転がった。
ソフィはすぐに起き上がり、鉄の魔女の胸ぐらを掴んだ。
「何してんねん!」
「離せ!」
「離すか!」
ソフィの目には涙が浮かんでいた。
「五年前、命かけてミラを逃がしたんやろ!」
「……」
「ニーナも助けた! みんなのこと、ずっと守ってたやん!」
「黙れ」
「黙らへん!」
ソフィは鉄の魔女の顔を見据えた。
「何が鉄の魔女や! 自分でミラを殺されへんくせに!」
赤い瞳が大きく揺れた。
「……生意気ね」
鉄の魔女がソフィを突き飛ばす。
ソフィは地面を転がったが、すぐに顔を上げた。
鉄の魔女は、まだ動かなかった。
自分の腕が止まった理由も、ソフィの言葉に心が乱れた理由も、理解できない。
「……鬱陶しい」
その声とともに、周囲の魔力が膨れ上がった。
空が暗くなる。
「まずい!」
デイジーが叫んだ。
鉄の魔女の頭上に、巨大な魔法陣が幾重にも重なっていく。
無数の氷と黒い魔力の塊が生まれ、荒野の上空を覆った。
「全員、集まって!」
デイジーが障壁を張る。
ソフィも立ち上がり、残った魔力を流し込んだ。
ミラがカードを投げる。
「世界!」
三人の魔力が重なり、大きな防御壁が現れた。
しかし、あまりにも薄い。
「……持たない!」
ソフィが歯を食いしばる。
鉄の魔女が手を振り下ろした。
無数の氷が一斉に降り注ぐ。
その瞬間、巨大な影が仲間たちの前へ飛び込んだ。
マチルダだった。
「みんな、下がって!」
真紅の竜が翼を広げ、八人を覆うように背中を向ける。
氷が鱗へ突き刺さり、黒い魔力が身体を焼いた。
「マチルダ!!」
ニーナが叫ぶ。
それでも、マチルダは動かなかった。
最後の一撃が背中へ直撃し、巨体が大きく沈む。
やがて攻撃が止んだ。
マチルダの背中には無数の傷が走り、片方の翼は力なく垂れていた。
「……みんな、無事?」
「マチルダ!」
タリアが駆け寄り、すぐに治癒魔法をかける。
しかし、傷が多すぎる。
「全部は治せません。もう動かないでください」
「まだだよ……」
マチルダは苦しそうに息を吐いた。
「まだ終わってないから」
ニーナはその姿を見て、剣を握り直した。
もう、誰にも傷ついてほしくなかった。
*
鉄の魔女も、無傷ではなかった。
全身に傷を負い、鎧は割れ、呼吸が荒くなっている。
だが、まだ倒れない。
クロエは工具袋を開いた。
魔石はほとんど残っていなかった。
「……しょうがない」
腰から短い武器を抜き、地面を蹴る。
鉄の魔女が腕を振った。
クロエは身を低くして避け、懐へ飛び込んだ。
肘、膝、短い連撃。
鉄の魔女が一歩下がる。
「お前……!」
「道具だけじゃないよ」
クロエは相手の腕を受け流し、そのまま身体をひねった。
狙いは一つ。鉄の仮面。
「これ、邪魔なんだよね!」
指が仮面の縁へかかる。
鉄の魔女が振り払おうとする。
しかし、クロエは離さなかった。
金具が砕けた。仮面が外れ、地面へ落ちる。
乾いた音が響いた。
その瞬間、ジェマの動きが止まった。
五年ぶりに見る、レオナの顔。
頬には傷があり、額から血が流れている。
瞳は赤い。
それでも、顔そのものはあの頃と変わらなかった。
「……レオナ」
クロエは鉄の魔女に振り払われ、地面を転がった。
だが、ジェマは動かなかった。
昔、山で何度も喧嘩した。
一緒に笑い、魔物から逃げ回った。
王の犬と盗賊。本来なら敵同士だったのに、いつの間にか友達になっていた。
その顔が、今、自分たちを殺そうとしている。
「……いい加減にしなよ」
ジェマが一歩前へ出た。
鉄の魔女が顔を向ける。
「何?」
「何が鉄の魔女だよ」
ジェマの手が震えていた。
「何が知らないだよ」
鞭を強く握る。
「その顔で、そんなこと言わないでよ!」
鉄の魔女の目が細くなる。
「……黙れ」
「思い出してよ!」
ジェマが地面を蹴った。
鞭が鋭く走る。
鉄の魔女は氷の刃で受け止めた。しかし、ジェマは攻撃を緩めない。
一撃、二撃。
鞭が腕に絡み、体勢を崩す。
そこへジェマが踏み込み、腹へ拳を叩き込んだ。
「っ……!」
続けて膝を入れ、鞭を引き戻す。
「私の目を見ろ!!」
全力で振り抜いた鞭が、鉄の魔女の身体を地面へ叩きつけた。
激しい衝撃に、大地が割れる。
鉄の魔女が血を吐いた。
今までとは違う。
明らかに大きな一撃だった。
「ジェマ……」
ニーナが目を見開く。
しかし、倒れた鉄の魔女の手が動いた。
「……鬱陶しい!」
黒い魔力が至近距離で弾けた。
「ジェマ、下がって!」
ニーナの声は間に合わなかった。
衝撃がジェマの左肩を直撃する。
嫌な音が響いた。
ジェマの身体が吹き飛び、地面へ転がる。
鞭が手から離れた。
「ジェマ!」
ニーナが駆け寄る。
ジェマは起き上がろうとしたが、左腕が動かなかった。
「……あーあ」
痛みに顔を歪めながら、右手で肩を押さえる。
「これは、ちょっと無理かも」
「動かないで!」
ニーナが叫ぶ。
ジェマは苦笑した。
「……レオナは?」
ニーナが振り返る。
鉄の魔女は、倒れたままだった。
荒い呼吸を繰り返し、片手を地面についたまま動かない。
「……今なら」
ニーナが呟いた。
捕らえられるかもしれない。
ニーナは剣を握り、ゆっくりと近づいた。
「レオナ」
返事はない。
もう少しで手が届く。
そのときだった。
鉄の魔女の指が、わずかに動いた。
*
「……!」
ニーナは足を止めた。
倒れたレオナの周囲に、黒い魔力が集まり始めている。
最初は小さな光だった。
しかし、それはすぐに大きく膨れ上がり、空中へ広がっていった。
「まだ、やるの……?」
ニーナが息を呑む。
魔力の塊は、離れた場所にいる仲間たちの頭上へ移動していた。
ソフィとミラは立っているのがやっとだった。
デイジーは治療を続けており、タリアもマチルダの傷に手を当てている。
ジェマは左腕を動かせない。
クロエにも、もう仕掛けに使える道具は残っていなかった。
「みんな、逃げて!」
ニーナが叫ぶ。
デイジーが顔を上げた。
頭上の魔力を見て、すぐに障壁を張ろうとする。
しかし、光は弱かった。
「……だめ、魔力が……!」
ソフィも杖を持ち上げる。
その手が震えていた。
「くそっ……!」
鉄の魔女は倒れたまま、ゆっくりと腕を上げていた。
まだ意識がある。
まだ、魔法を使おうとしている。
ニーナはレオナを見た。
このままでは、仲間が死ぬ。
魔法が放たれるまで、もう時間がない。
剣で腕を止めるか。
いや、魔族の力なら、腕を傷つけた程度では止まらないかもしれない。
ここまで追い詰めても、レオナは立ち上がろうとした。
今度こそ、確実に止めなければ。
ニーナは剣を握り直した。
狙うのは、心臓。
「……ごめん」
声が震えた。
五年前。
捕らわれた自分を助けるため、レオナは敵の前へ戻ってきた。
そのせいで、レオナは帰ってこなかった。
今度こそ連れて帰ると決めたのに。
そのレオナを、自分の手で殺そうとしている。
それでも、後ろには仲間たちがいる。
ニーナは剣を両手で握った。
目を開けていたら、できなくなる。
だから、目を閉じた。
「……っ!」
剣を突き下ろす。
鈍い手応えが、両手に伝わった。
レオナの身体が大きく跳ねる。
その瞬間、頭上に集まっていた黒い魔力が乱れた。
形を失い、風に散るように消えていく。
魔法は、放たれなかった。
*
静寂が訪れた。
ニーナは剣を握ったまま、動けなかった。
ゆっくりと目を開ける。
レオナは倒れている。
もう、動かない。
「……レオナ?」
返事はなかった。
ニーナの指先が震え始める。
「……ごめん」
剣から手を離した。
ごめん、レオナ……」
自分がやった。
自分の手で、レオナを殺した。
そう思った瞬間、足から力が抜けた。
ニーナはその場に膝をついた。
後ろから、誰かが名前を呼んでいる。
しかし、耳に入らなかった。
「……ごめん」
ニーナは震える手を伸ばし、レオナの首筋に触れた。
「……あれ?」
指先に、かすかな動きを感じた。
もう一度、確かめる。
弱い。
けれど、確かに脈がある。
「……生きてる」
ニーナが顔を上げた。
「生きてる!」
デイジーが駆け寄ってくる。
「何ですか?」
「レオナ、生きてる!」
ニーナは慌てて剣の位置を見た。
刃は心臓を貫いていなかった。
胸の中心から逸れ、肩に近い位置へ深く突き刺さっている。
「……」
目を閉じていたから、狙いがずれたのか。
それとも、最後の瞬間に自分の手が動いたのか。
ニーナには分からなかった。
ただ、レオナは生きている。
「……殺せなかった」
声が掠れた。
デイジーはすぐにレオナの状態を確かめる。
「呼吸があります。傷は深いですけど、まだ間に合います」
「……うん」
ニーナは頷いた。
「私、殺そうとしたのに……」
デイジーはニーナを見た。
「仲間を守ってくれたんですよ」
「でも……」
ニーナは倒れたレオナへ目を向けた。
「レオナも、仲間なのに……」
それ以上、言葉が続かなかった。
*
少し離れた場所で、タリアは倒れたレオナを見つめていた。
生きている。魔族の身体のまま。
そして、先ほどミラを殺そうとしたとき、レオナの腕は確かに止まった。
クロエが話していた、ソフィを攻撃しなかった理由。
今、目の前で起きたこと。
それらが、タリアの頭の中でつながっていく。
エウテルペ研究所で見つけた、古い記録。
身体には作用しない。
対象は、魂、人格、記憶。
崩れた魂の構造を、再び組み立てる魔法。
あのときは、人間の身体に戻せないから意味がないと思った。
けれど、もし。
魔族となった身体を変えられなくても。
レオナの中に、まだ彼女自身が残っているのなら。
「……あ」
タリアが小さく声を漏らした。
ソフィが振り返る。
「タリア?」
タリアは答えなかった。
倒れているレオナを、じっと見つめている。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……もしかして」
その目に、かすかな希望が宿っていた。
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