2─2 2026年 そばにいてくれた
2026年
西日に照らされた墓地は、まるで世界の果てに取り残されてしまったかのように、ただひたすらに静まり返っていた。
午後も遅い、傾きかけた太陽が、濃い赤黒い光をあたり一面に惜しみなく投げかけている。その血のような残光を浴びた墓地には、冷徹なまでの秩序が保たれていた。整然と並ぶ墓石の群れは、夕闇の訪れをじっと待つだけの、長い影を引いて地にへばりつく無口な住人たちのようだった。彼らは何も語らず、ただそこに存在し、生者の侵入を拒むような独特の重圧を放っている。
つい最近建てられたばかりの、新しく刻まれた墓碑の文字を、冷たい風がそっとなぞっていく。まだ角の取れていない、ざらざらとした真新しい石の溝に風が迷い込み、かすかな、それでいてどこか物悲しい口笛のような音を立てて通り抜けた。それは、まるで見えない誰かが、世界の不条理を嘆いて小さくため息を漏らしたかのようにも聞こえた。
その張り詰めた静寂を破ったのは、紡の淡々とした、けれどどこかガラス細工のように脆く、今にも崩れ去ってしまいそうな声だった。
「お母さん、3月に死んだんだ」
その言葉が耳に届いた瞬間、隣に立つ理玖は、自分の身体からすべての大気が奪われたかのように息を詰めた。
肺の奥深くに冷たい空気が流れ込んだまま、強制的に凍りついたように一歩も動けなくなる。全身の血液が急激に冷えていくような錯覚さえ覚えた。耳の奥の、ずっと深いところで、カチリ、と世界の歯車が不自然に止まるような音がした。
目の前にいる紡の姿が、急に遠くの存在のように感じられる。理玖の喉の奥が激しく震え、何かを言おうとしても、まともな言葉の形になって出てこない。視界がかすかに歪み、胸の奥がじりじりと焼けるように熱くなっていく。
何かを言わなければいけない。彼女の痛みに寄り添うための言葉を、今すぐに見つけ出さなければならない。そう頭では激しく理解しているのに、自分の頭の中に浮かぶどんな言葉を選んでも、彼女の抱えるあまりにも深すぎる傷を、土足で汚してしまうような気がしてならなかった。沈黙が鉛のように重く二人の間にのしかかる中、理玖が喉の渇きを堪え、絞り出すようにしてようやく言えたのは、あまりにも無力で、あまりにも身勝手な、一言だけだった。
「ごめん」
その声は自分でも嫌悪感を覚えるほどに情けないほどにかすれ、冷たい夕暮れの風にいとも簡単にきかき消されそうだった。
「なんで、理玖が謝るの」
紡は、理玖のその様子を見て、ふっと困ったように小さく微笑んだ。
その笑顔には、理玖を責めるような色彩など、微塵も、ひとかけらも混ざっていなかった。理玖が自分の無知を恥じることを望むような怒りも、自分の境遇を嘆く恨みも、誰かに縋ろうとする哀願もない。ただ、ただ穏やかで、嵐が去った後の、恐ろしいほどに凪いだ海のような笑みだった。
だが、そのあまりにも純粋で無垢な笑顔が、かえって理玖の胸を鋭い刃物で突き刺すように激しく締め付ける。責められた方が、どれほど救われただろうか。なじられた方が、どれほど自分の罪悪感を免罪されただろうか。彼女の優しさが、理玖にとっては最大の罰のように感じられた。
「誰も悪くないんだよ」
紡は静かにそう言って、墓碑の前に静かに供えられた、白い百合の花に視線を落とした。
まだ瑞々しさを保っている花びらについた小さな水滴が、傾いた西日を浴びて、まるで血のように赤く、不気味なほどに妖しく光っている。その鮮烈な赤は、ここが死を悼む場所であることを嫌応なしに突きつけていた。
「……あれから、どう過ごしてたの」
理玖は、張り裂けそうな胸の痛みを堪えながら、必死に声を繋いだ。ここで言葉を途切れさせてしまえば、二人の間に流れる空気が完全に凍りつき、二度と彼女の閉ざされた心に触れることができなくなるのではないかという、底知れない恐怖が彼を突き動かしていた。
「どう、って……普通だよ。学校に行って、帰ってきて、ご飯を食べて。最初の頃は、なんだか変な感じがしたけどね。でも、人間って意外とすぐにそういう環境に慣れちゃうものみたい」
淡々と、まるで他人の身に起きた出来事を報告するかのように語る紡の横顔は、以前よりも少し痩せて、顎のラインがシャープになっているように見えた。
彼女が何でもないことのように言う「普通」という言葉の裏側に、どれほどの孤独が隠されていたのだろうか。誰もいない暗い部屋で、涙を流すことさえ忘れて、ただ夜が明けるのをじっと待っていた時間がどれほどあったのだろうか。それを想像するだけで、理玖は自分の無知と、何も気づけなかった自分の圧倒的な無力さに、激しい吐き気を覚えた。なぜ自分は、彼女がこんなにも苦しんでいる間、何も知らずに暢気に生きていたのだろうか。
「望がそばにいてくれた」
紡は、過去の記憶を愛おしむように思い出したように、ぽつりと言った。
「望はね、ずっと一緒にいてくれたの。お通夜の時も、葬儀の時も、私がショックで泣けなくてぼんやりしてたら、黙って手を握ってくれたりして。だから、私、なんとかここまでやってこれたんだと思う」
紡はそこまで言うと、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って視線を動かし、理玖をまっすぐに見つめた。
その瞳は、すべてを透き通すかのように澄み切っている。夕暮れの、燃えるような光を反射して、まるで琥珀色に輝く美しい硝子玉のようだった。だが、その美しい瞳の奥には、今この瞬間も、歪んだ自己嫌悪と後悔に塗れている理玖自身の姿が、醜いほど鮮明に、残酷なまでに映り込んでいた。
「でも、理玖もずっと私のそばにいたってこと、私、知ってるよ」
紡の口から紡がれたその予想外の言葉に、理玖は、思わず自身の唇をきつく噛み締めた。
その言葉は、理玖の胸の奥深くに眠っていた、言葉にならない複雑な感情を激しく揺さぶった。
そして、理玖の心に重く、じんわりと染み込んでいく。
風は、先ほどよりも少しだけ冷たさを増し、二人の間を通り抜けた。
理玖の胸の中にあった凍てつくような冷たさは、紡のその一言によって、静かに、しかし確実に溶かされ始めていた。




