1─8 2024年 青の世界と、溢れた涙
2024年
日曜日。紡は朝から何度もクローゼットを開け閉めし、鏡の前で行ったり来たりを繰り返していた。引き出しの奥から引っ張り出してきたのは、年の離れた従姉から譲り受けた、一番お気に入りのお下がりのお洒落なブラウスだった。柔らかな生成り色の生地に、控えめなレースが襟元にあしらわれている。少し大人びたそのデザインは、普段の制服姿や、家で着るくたびれたTシャツ姿の自分とはまるで違う人間のように思えて、少しだけ背伸びをしているような誇らしさと、それ以上の気恥ずかしさを紡に与えていた。何度も髪を梳かし、ほんの少しだけ色づくリップクリームを唇に塗る。鏡に映る自分の顔は、緊張のあまり少し強張っていた。
約束の時間より十五分も早く駅前に着いたけれど、ロータリーの隅にある大きな柱の影には、すでに理玖の姿があった。紡は思わず足を止め、遠くからその姿を見つめた。白のシンプルなカットソーにしなやかな黒のジャケットを羽織り、細身のデニムを合わせている。いつもより少しだけ大人っぽく、そしてどこか都会的に見えるその姿に、紡の心臓はうるさいほど音を立てた。ドクドクと脈打つ鼓動が耳の奥まで響き、一歩を踏み出すのが急に怖くなる。しかし、彼がふと顔を上げ、こちらに気づいたような素振りを見せた瞬間、紡の体は勝手に動いていた。
「理玖! お待たせ!」
ロータリーの雑踏をすり抜け、息を切らせて駆け寄る紡を見て、理玖は驚いたように目を瞬かせたが、すぐにふっと柔らかく笑った。その表情の変化があまりにも自然で、そして優しかったから、紡の緊張は少しだけ解けていく。
「本当によかった。来ないんじゃないかって、ちょっと怖かった」
紡は胸に手を当てて、大袈裟に息を吐き出してみせた。本音だった。前日に交わした短い連絡のあと、彼は本当は気が進まないのではないか、やっぱり断りの連絡が来るのではないかと、夜も深く眠れなかったのだ。
「約束したんだから。で、今日はどこに行くの? 紡の行きたい場所でいいって言ったけど」
理玖が少し首を傾げて尋ねると、紡は心の奥に隠していた小さな緊張を吹き飛ばすように、悪戯っぽく微笑んでみせた。そして、通学カバンのポケットに忍ばせておいた、色鮮やかな一枚のパンフレットを勢いよく取り出した。
「ふふん、ここだよ。じゃーん!」
二人がやってきたのは、街の中心部にある、古くからあるけれど最近リニューアルされたばかりの水族館だった。
一歩足を踏み入れると、そこは屋外の強い日差しとは完全に遮断された、頭上から足元まで深い群青色の光で満たされた神秘的な空間だった。まるで深い海の底にそのまま沈んでいくかのような錯覚を覚える。通路の両壁、そして天井までを埋め尽くす巨大なアクリルパネルの向こう側を、無数の小さな魚たちが光の尾を引くように泳いでいた。外の世界の喧騒が嘘のように消え去り、聞こえるのはかすかな水のせせらぎと、クジラの鳴き声を模したような低い環境音だけ。あの、二人が初めて言葉を交わした、あの日暮れの海をそのまま切り取って閉じ込めたかのような世界が、そこには広がっていた。
「綺麗……」
紡は息を呑み、視線をあちこちに彷徨わせた。青い光が彼女の白いブラウスを染め、瞳の奥に小さな星のような反射を作っている。
「本当だ。綺麗だな」
理玖の声がすぐ近くで聞こえた。紡が驚いて隣を見ると、理玖は水槽の中を泳ぐ魚たちよりも、その青い光に照らされている紡の横顔をじっと見つめていた。彼の強い視線とまっすぐにぶつかり、紡は一瞬、息の仕方を忘れてしまう。水槽の底から湧き上がる泡が、二人の間の空気をゆっくりと揺らしているようだった。紡は慌てて視線を正面の水槽へと戻し、照れ隠しのために、昨日図書館で必死になって調べた知識を早口で繰り出した。
「ねえ、理玖。これ、望ちゃんから聞いたんだけどさ。魚って、ちゃんと顔で仲間を見分けるんだって。毎日同じ水槽にいる仲間の顔を、一匹ずつちゃんと覚えてるんだよ」
「へぇ、魚なのに頭いいんだな。みんな同じように見えるけど」
理玖は少し感心したように、目の前を横切る大きな魚の群れを目で追った。紡はその横顔を見つめながら、胸の奥から湧き上がってくる熱い感情を、もう抑えることができなかった。
「だからね……私は理玖の顔、一生忘れない。どんなに離れても、何があっても、絶対に忘れない」
不意打ちの、あまりにもストレートな言葉に、理玖は今度こそ完全に言葉を失った。目を見開いたまま、紡の顔を凝視している。紡は自分で言っておきながら、その言葉の重みと大胆さに急激に恥ずかしくなり、耳まで熱くなっていくのを感じた。真っ赤になって、あからさまにそっぽを向き、意味もなく目の前のイワシの群れを凝視する。心臓がうるさすぎて、水族館のBGMすら聞こえなくなっていた。
すると、頭の上に、そっと大きな掌が置かれた。驚きで身体を硬くした紡の頭を、理玖は優しく、ぽんぽんと髪を叩くようにして撫でた。
「……紡って、なんでそんなに真っ直ぐなの」
理玖の呆れたような、だけどどこか愛おしさを堪えきれないような声。驚いて紡が理玖を見上げると、彼の耳の付け根から首筋にかけて、隠しきれないほどの赤みが広がっていた。お互いに顔を真っ赤にしたまま、二人はそれ以上言葉を交わすことができなくなった。ただ、どちらからともなく歩調を合わせ、並んで次の水槽へと歩き出した。触れ合いそうなほど近い距離にある二人の手は、何度もかすり合いながら、それでも繋がれることはなく、ただもどかしい距離を保ち続けていた。
館内をゆっくりと巡り、最後にたどり着いたお土産コーナーの片隅で、紡はある一点に目を留めた。派手なぬいぐるみやキーホルダーが並ぶ棚の中で、そこだけ少し落ち着いた雰囲気を纏ったガラス細工のコーナーがあった。その中に、小さなイルカのキーホルダーを見つけたのだ。光の加減でピンクや青、あるいは紫へと繊細に色を変える、職人の手で作られたような美しいガラスのイルカ。紡は思わず足を止め、そのきらめきに見入ってしまった。
「それ、欲しいの?」
後ろからすっと覗き込んできた理玖の気配に、紡は少し跳ねるように驚いたが、すぐに小さく首を振って、寂しそうに微笑んだ。
「ううん、ただね。昔、まだ私がすごく小さかった頃、お母さんに買ってもらったおもちゃに、すごく似てて……。プラスチックの安いおもちゃだったんだけど、光に透かすとこんな風に綺麗に色が変わるの。なんだか、すごく懐かしいなって思って」
紡の言葉に、理玖は何かを測るようにそのガラス細工を見つめていたが、迷いのない声で言った。
「じゃあ、買ってあげるよ」
「えっ!? いいよいいよ、そんなの悪いもん! ただ思い出しただけだから!」
紡は慌てて両手を振って拒絶した。彼に余計な気を遣わせたくなかったし、お金を使わせるのも申し訳なかった。しかし、理玖は一歩も引かなかった。
「僕が、紡にプレゼントしたい。今日のお礼と……その、これからの、お守り代わりに。いいでしょ?」
理玖の真剣な、まっすぐな眼差しが紡を射すくめる。その強い瞳に見つめられると、紡はそれ以上頑なに固辞することができなくなってしまった。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、小さく「ありがとう」と呟いた。理玖は満足そうに微笑むと、そのキーホルダーを手に取ってレジへと向かった。お会計を済ませ、手渡された小さな白い紙袋を、紡はまるで世界に一つしかない宝物のようにつなぎ目のない両手のひらでギュッと握りしめた。その紙袋の角が手のひらに食い込む痛みが、これが現実であることを教えてくれていた。
水族館の重い自動ドアを出ると、すでに外は燃えるような夕暮れ時を迎えていた。昼間の青い世界から一転して、視界が一面の茜色と紫色のグラデーションに染まる。
帰り道、駅へと続く遊歩道を歩きながら、紡はカバンの紐に取り付けたばかりのイルカのキーホルダーを、何度も指先で揺らしていた。夕暮れの光を受けて、ガラスのイルカはピンク色に怪しく、そして美しく輝いている。
「理玖、今日は本当にありがとう。すごく楽しかった。私、こんなに笑ったの、久しぶりかもしれない」
「うん。僕も楽しかったよ。誘ってくれて、ありがとな」
理玖はポケットに両手を突っ込んだまま、紡の歩調に合わせてゆっくりと歩いている。その影が、地面に長く伸びていた。紡はキーホルダーから手を離し、前を向いたまま、ずっと胸の奥に沈めていた重い錨を、今なら引き上げられるような気がした。理玖の優しさに触れたからこそ、一番大切な秘密を、彼にだけは共有しておきたかった。
「あのね……私の、お母さんね。余命一年なんだって」
ぽつりと、まるで明日の天気の話でもするかのように、紡は言った。
その言葉が空気に溶けた瞬間、隣を歩いていた理玖の足が完全に止まった。背後で、彼が息を呑む気配がはっきりと伝わってきた。周囲を走る車の音や、遠くの子供たちの声が、急に遠ざかっていく。
「え……?」
理玖の声は、掠れていた。信じられないもの、あるいは聞いてはいけないものを聞いてしまったかのような、狼狽が混ざっている。
「癌なんだ。今年の春に見つかった時には、もうあちこちに転移してて。最近はどんどん痩せていっちゃって、もう病院のベッドから起き上がることも難しいの。だから、もう病院からは出られないんだって」
紡は歩くのを止めなかった。理玖の少し前を歩きながら、振り返ることもせず、努めて平気な、明るい声を装った。ここで立ち止まったら、自分の声が震えてしまうことを知っていたから。
「でもね、私、お母さんのことが大好きだから、全然寂しくないんだ。毎日学校が終わったらすぐに会いに行ってるし、お喋りもたくさんするの。最近はね、嘘もすごく上手につけるようになったんだよ。『学校でこんな面白いことがあったよ』とか『友達と今度遊びに行くんだ』とか。お母さんは私の話を聞いて、私のこと、毎日楽しそうだなって安心してくれてるの。だから、これでいいんだ」
紡は笑っていた。顔は見えなくても、その声は確かに笑っているように作られていた。それが、紡がこの数ヶ月間、毎日必死に作り上げてきた、自分を守り、母親を守るための完璧な防壁だった。
「紡……!」
突然、後ろから強い力で手首を掴まれた。強引に身体を引っ張られ、紡はバランスを崩しながら振り返る形になった。
視線の先にいた理玖は、紡がこれまで見たこともないような表情をしていた。端正な顔が激しく歪み、瞳の奥には燃えるような怒りと、それ以上の、引き裂かれるような悲痛さが湛えられていた。理玖は言葉を失った紡の腕を掴んだまま、有無を言わせぬ足取りで歩き出した。駅へと続く大通りから外れ、薄暗い住宅街の路地を抜け、彼が向かったのは、人影のない小さな海岸だった。打ち寄せる波の音が、夕闇の中で低く響いている。
「何するの、理玖……! 痛いよ!」
砂浜に足を踏み入れたところで、ようやく理玖は手を離した。紡は赤くなった手首をさすりながら、困惑と恐怖の混ざった目で彼をにらみつけた。しかし、理玖はそれ以上の熱量で、紡の言葉を遮った。
「悲しかったら泣けばいい!」
理玖の声が、轟く波の音を鋭く突き破って響いた。彼の肩が、激しく上下している。
「これ以上、我慢したら心が壊れる! なんでそんな、何でもないみたいな顔して嘘つくんだよ!」
理玖の叫びは、冷たい風に乗って紡の全身を打ち据えた。その言葉は、紡がこれまで誰にも言われず、そして自分自身でも決して認めようとはしなかった、心の最も深い場所にある傷口を、容赦なく、だけど正確に抉り出していた。毎日、病院の白い部屋で「大丈夫だよ」と笑うたびに、心の奥に溜まっていった澱が、一気に表面へと押し上げられる。
「だって……私が泣いたら、お母さんが心配するもん……。私がお母さんの前で泣いたら、お母さん、安心して死ねなくなっちゃうもん……。私が、しっかりしなきゃ、いけないんだもん……」
紡の声は、すでに震えていた。防壁に、ピシピシと無数の亀裂が入っていく。
「大丈夫だから」
理玖は一歩踏み出し、紡の両手を、彼の大きな両手でぎゅっと包み込んだ。彼の掌は、驚くほど熱かった。その温もりが、紡が必死に維持していた冷たくて強固な仮面を、音を立てて粉々に砕いていく。
「だから……僕の前では、我慢しなくていいんだよ」
理玖の、低く、祈るような声が耳元に届いた瞬間、紡の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「あ……、あぁ……」
喉の奥から、ずっと堰き止められていた言葉にならない嗚咽が漏れた。一度溢れ出た涙は、もうどうやっても止まらなかった。
紡はその場に崩れ落ちるように膝をつき、理玖の手を強く握ったまま、まるで迷子になった子供のように大声をあげて泣き叫んだ。寂しい。お母さんがいなくなるのが怖い。死なないでほしい。ずっと私のそばにいてほしい。学校に行くのも、一人で家にいるのも、本当は全部苦しくて堪らない。そんな、誰もいない暗い部屋でさえ口にできなかった胸の奥の本音が、ドロドロとした涙と一緒に、全部全部、体の中から吐き出されていった。
理玖は何も言わなかった。気の利いた慰めの言葉も、同情の言葉も口にしなかった。ただ、砂浜に膝をつき、紡と同じ目線に立ちながら、彼女が泣き止むまで、冷たい潮風が吹き抜ける中で、その小さな手を両手でずっと、ずっと強く握り続けてくれた。彼の掌の熱さだけが、紡が一人ではないことを証明していた。
すっかり陽が落ち、周囲が完全に夜の闇に包まれた帰り道。
紡の目はウサギのように真っ赤に腫れ上がり、長い間泣き続けたせいで頭は少しぼーっとしていた。だけど、不思議なことに、胸の奥を占領していたあの冷たくて重い塊は消え去り、心の中は驚くほど軽くなっていた。呼吸をするのが、こんなに楽なことだなんて忘れていた。
「今日は、本当にありがとう」
駅の自動改札機の手前で、紡は理玖に向き直った。街灯の光に照らされた理玖は、何も言わず、ただ静かに紡を見つめていた。だが、その瞳を見た瞬間、紡の心臓が不穏な形ではねた。
先ほど海岸で見せてくれた、あの引き裂かれそうなほどの温もりや激情は、彼の瞳から綺麗に消え去っていた。そこにあったのは、どこか遠い場所を見つめるような、冷たくて、深い拒絶の光だった。まるで、これ以上は僕に踏み込んでくるなと、見えない壁を立てられているかのような感覚。
ここでさよならをしたら、次はいつ会えるのだろう。いや、もう二度と会えないのではないか。そんな激しい不安が、せっかく軽くなったはずの紡の胸に、再び黒い影を落とした。
「理玖……あの、私たち、もう会えないの?」
紡はすがるような思いで、彼のジャケットの袖を小さく掴んだ。しかし、理玖は答えない。ただ、唇を痛いほど固く結んだまま、紡の視線から逃げるように、ゆっくりと顔を伏せてしまった。掴んでいた袖が、指先からするりと滑り落ちる。
その重苦しい沈黙が、紡にとっては決定的な拒絶の意思表示に思えた。そうか、彼は優しいから。私が可哀想な境遇にいて、目の前で泣き崩れてしまったから、放っておけなくて付き合ってくれただけなんだ。私のことを、一人の女の子として見てくれたわけじゃない。
「じゃあ……さよなら」
紡はそれ以上、彼の前で惨めな姿を晒したくなくて、絞り出すような声でそう言うと、理玖に背を向けた。そして、振り返ることなく、定期券を機械にかざして改札の中へと走り出した。
階段を駆け上がりながら、また視界が涙で激しく歪んでいく。今度の涙は、先ほど海岸で流したような、温かいものではない。
胸の奥をツンと刺すような、冷たくて鋭い痛みだった。




