1─7 2024年 届かない小指の約束
2024年
バス停の古びたプラスチック製の小さな屋根の下で、理玖はゆっくりと、手慣れた動作で傘を畳んだ。
ビニール傘の表面に弾かれていた雨粒が、まとまってアスファルトへと滴り落ち、小さな水たまりを作っていく。ほんの三十分前までは、バケツをひっくり返したかのような激しさで世界を白く染め上げていた雨だったが、今はもう、ほんの少しずつ小降りになり始めていた。世界を支配していた鋭いノイズのような雨音は息を潜め、アスファルトを優しく叩く、どこか規則正しい静かなリズムへと変わっていく。
世界が静寂を取り戻していくにつれて、それまで雨音に掻き消されていた二人の間の沈黙が、急に重みを増したように感じられた。紡は自分の胸の鼓動が、静まり返った空気の中で不自然に大きく響いているような錯覚に囚われる。何か話さなければ、このままこの沈黙に押し潰されてしまう。そんな焦燥感に背中を押されるようにして、紡は胸の奥に大切に仕舞い込んでいた喜びの種を、言葉にして差し出すことにした。
「あのね、理玖。望ちゃんはすごく、優しくて……すごく、良い子なの」
紡の弾んだ声が、湿った空気の中に溶けていく。
それは紡にとって、暗闇の底からようやく見つけた一筋の光のような、誇らしくて、それでいてまだ少し信じられないような奇跡の報告だった。今までずっと、学校という狭い檻の中で息を潜め、誰とも交わらずに生きてきた自分が、初めて「友達」と呼べる存在に出会えたのだ。
紡の言葉を聞いた瞬間、理玖は動きを止めた。そして、少しだけ寂しそうな、だけど心の底から安心したような、複雑な微笑みをその端正な顔に浮かべた。その表情は、まるで大切に育ててきた小鳥が、自分の手元から大空へと羽ばたいていくのを見送る親のような、深い慈愛と、それと同じくらいの孤独を孕んでいた。
「そっか……よかったな、紡」
理玖の声は、いつも通り穏やかで、優しかった。けれど、その声の輪郭はどこか希薄で、まるで目の前の霧に溶けて消えてしまいそうなほどに儚い。
「うん! 最初はすごく緊張したんだけどね、望ちゃんの方から話しかけてくれて。趣味も合うし、一緒にいると、なんだかすごく安心するの。私、やっと普通になれた気がする」
「……紡はもう一人じゃないんだよ」
理玖はそう言って、紡の頭を優しく撫でようとするかのように一瞬だけ手を持ち上げたが、結局その手を空中で止め、ポケットの中へと滑り込ませた。
「もう大丈夫そうだね」
理玖の口から溢れ出たその言葉は、祝福の形をしていながらも、紡の耳には全く違う意味を持って響いた。
それはまるで、「もう僕の役目は終わった」とでも言うような、静かな別れの宣告のようだった。紡の心臓が、ドクリと嫌な脈動を打つ。胸の奥を、目に見えない鋭い刃で突かれたような、冷たい痛みが走った。
(どうして、そんな風に言うの……?)
このまま、彼はまたあの時の『天使ちゃん』のように、私の前から跡形もなく消えてしまうのではないか。かつて、孤独のどん底にいた自分を救い出し、眩しい光とともに消え去ってしまった、あの存在と同じように。理玖という存在が、最初から自分の都合の良い幻想だったかのように、この雨上がりの空へと溶けていってしまうのではないか。
そんな根拠のない、けれど確信に近い恐ろしい予感が、紡の背中を、強く、激しく突き動かした。
今、この手を伸ばさなければ。私は一生、彼に届かなくなってしまう。
胸の内で渦巻く恐怖が、紡の理性を綺麗に吹き飛ばしていた。
「待って、理玖」
紡の声は、自分でも驚くほど切羽詰まった響きを帯びていた。
理玖は、バス停の時刻表に落としていた視線をゆっくりと上げ、不思議そうに首を傾げた。
「ん?」
その無防備で、いつもと変わらない少年の仕草が、かえって紡の焦燥感を煽る。紡は深く息を吸い込んだ。肺いっぱいに、雨を含んだ湿った空気が入り込み、冷たく胸を満たす。それを一気に吐き出すように、彼女は叫んでいた。
「私、理玖のことが好き」
言った瞬間、時間が止まったような気がした。
言葉が、自分の思考や躊躇を完全に追い越し、制御を失って口から飛び出していた。頭で考えるよりも先に、心が悲鳴を上げてその感情を曝け出していた。
理玖は一瞬、大きく目を見開いた。いつも冷静で、どこか達観したような雰囲気を纏っている彼が、生まれて初めて見せるような、純粋な驚愕の表情。理玖は息を吸い込んだまま、まるで時間が凍りついた石像のように硬直してしまった。
バス停の屋根を叩く雨の音が、再び二人の間に割り込んでくる。
一秒が、永遠のようにも感じられる長い沈黙。
しかし、やがて理玖の硬直が解けたとき、その瞳に宿ったのは、紡が期待したような喜びではなかった。
彼の表情は、見る見るうちに酷く切ない、そして全てを諦めたような、暗い色に染まっていった。それは、世界の終わりを見つめるかのような、救いようのない眼差しだった。
「……嘘つかないでよ」
理玖の声は、地を這うように低く、そして信じられないほど冷ややかだった。しかし、その冷たさの裏には、今にも崩れ落ちそうなほどの脆弱さが隠されていることを、紡は敏感に察知した。
「嘘じゃない」
紡は夢中で一歩踏み出し、理玖の前に詰め寄った。そして、彼の両手を、自分の両手で包み込むように強く、強く握りしめた。
触れた理玖の手は、驚くほど冷たかった。まるで、この雨の中にずっと放置されていたガラス細工のように、体温というものがまるで行き届いていない、無機質な冷たさ。紡は自分の体温をすべて彼に分け与えるつもりで、さらに力を込めてその手を握る。
「嘘なんかじゃないよ……! だから……だから、もうどこにも行かないで」
紡の瞳から、堪えきれなくなった涙が溢れ、頬を伝って落ちていく。
その真っ直ぐで、あまりにも純粋な好意の光。理玖は、その光に射すくめられたように、一瞬だけ身を震わせた。だが、彼はすぐに紡の強い瞳から逃れるように、降参したように視線を地面へと落としてしまった。
理玖の身体は、微かに震えていた。
「そんなこと言われても……」
理玖の口から、掠れた、泣き出しそうな声が漏れる。
「僕は、どうしたらいいの? 」
紡は必死に頭を回転させ、思いつく限りの「恋人らしいこと」を探した。これまで、少女漫画やドラマの中でしか見たことのなかった、自分には縁がないと諦めていた、輝かしい世界のイベント。
「で……デートとか、してほしい」
ようやく絞り出したその提案に、理玖は弾かれたように顔を上げた。
「デートね……」
理玖は、その言葉の響きを確かめるように、自嘲気味に呟いた。まるで、自分には一生関係のない、異世界の言語を聞いているかのような、奇妙な表情だった。彼は少しの間、落とした視線の先で何かを激しく葛藤しているようだったが、やがて諦めたように、さらに掠れた声で問いかけてきた。
「いつ?」
その短い問いに、紡の胸に微かな希望の灯がともる。
「日曜日とか……駅前で待ち合わせして」
「分かった」
理玖は、小さく、けれどはっきりとそう答えた。
「本当? 本当に約束してくれる? 突然いなくなったりしないでね。ちゃんと、待ち合わせ場所に来てね」
紡は、念を押すように何度も言葉を重ねた。嬉しさの反面、理玖の承諾があまりにも静かだったため、現実感が湧かなかったのだ。彼の体があまりにも冷たいせいで、今交わしている会話さえも、雨が見せる幻覚なのではないかと不安になってしまう。
「ああ。行くよ。約束する」
理玖はゆっくりと頷いた。しかし、その表情は、デートの約束を取り付けた恋人同士のそれとは程遠く、どこまでも悲しげで、深い絶望の色彩を帯びていた。まるで、守ることの叶わない契約書に、無理やりサインをさせられているかのような、そんな苦悶の表情。
紡は、その不安を完全に拭い去りたくて、自分の右手の小指を立て、理玖の前に差し出した。
「約束して。ゆびきり」
子供っぽいかもしれない。けれど、今の紡にとっては、この物理的な繋がりだけが、彼を現世に繋ぎ止める唯一の錨のように思えたのだ。
理玖は、紡の目の前に差し出された、白くて小さな小指をじっと見つめていた。まるで、それが自分を縛り付ける恐ろしい呪いの道具であるかのように、あるいは、触れてはならない神聖なものであるかのように、長い間、ただ見つめていた。
雨は完全に上がり、雲の隙間から、夕暮れ時の淡い光が差し込み始めていた。濡れたアスファルトが光を反射し、周囲を不自然なほど明るく照らし出す。その光の中で、理玖は何か重大な、そして取り返しのつかない重い決断を下すかのように、ゆっくりと、本当にゆっくりと、自分の手を持ち上げた。
彼の小指が、紡の小指へと近づいていく。
その動きは酷く慎重で、まるでガラスの破片に触れるかのようだった。
やがて、二人の小指が、静かに重なり合った。
「うん。約束、ね」
理玖は約束してくれた。嘘をつかない理玖が、日曜日、駅前で待ち合わせをすると言ってくれた。一緒に過ごしてくれると言ってくれた。
紡は、理玖の顔に浮かぶ、今にも消えてしまいそうなほど歪んだ、哀切な微笑みの意味に、気づかない振りをすることにした。
重なり合った小指は、静かに離れていく。




