1─6 2024年 雨の坂道と、小さな掛け違い
2024年
望という、暗闇に差し込んだ一筋の光のような存在を得てから、紡の目に見える学校の景色は少しずつ、けれど確実に変わり始めていた。
それまでの教室は、紡にとってただ息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つための、冷え切った檻のような場所だった。相変わらずクラスの連中は、紡に聞こえるか聞こえないかという絶妙なボリュームで、棘のある言葉や悪意を遠巻きに囁き合っている。クスクスという陰湿な忍び笑いや、すれ違いざまにわざとらしく向けられる冷ややかな視線。それらは以前と何も変わらずにそこにあったけれど、今の紡には、それらを跳ね返すための目に見えない盾があった。
「つーむぎっ! 突撃ーー!」
休み時間のチャイムが鳴り響くと同時に、ガラリと教室の前後ろのドアが勢いよく開く。隣のクラスから、両手にお菓子を抱えた望が、まるで嵐のように飛び込んでくるのだ。
「見て見て、購買で新作のイチゴチョコデニッシュ、最後の一個を死守してきた! 半分こしよ!」
満面の笑みでそう言って、紡の机の前に椅子を引っ張ってくる望。その堂々とした、そして底抜けに明るい太陽のような佇まいの前では、クラスに漂う陰湿な空気など、まるで陽光に晒された霧のようにあっけなく霧散していった。周囲の連中がどれだけ冷ややかな視線を送ろうとも、望はそんなものを一瞥すらしない。ただ真っ直ぐに紡だけを見て、楽しそうに笑うのだった。
お昼休みになれば、二人はお弁当を持って中庭のベンチへと向かう。
古い桜の木が大きな木陰を作るそのベンチは、今や二人だけの特別な聖域だった。
「あ、それ美味しそう!卵焼き、一個交換しよ?」
「うん、いいよ。望のその唐揚げも、すごく美味しそう」
他愛のない会話を交わし、箸を動かす。ただそれだけのことが、これほどまでに胸を温かく満たしてくれるものだとは知らなかった。
誰かが自分のそばにいてくれる。自分の存在を肯定し、名前を呼んでくれる人がいる。
ただそれだけで、これまで薄氷の上を歩くようだった脆い世界が、これほどまでに頑丈で、確かなものに変わるのだと、紡は生まれて初めて知った。足元がしっかりと地面につく感覚。呼吸が深くできる喜び。望がくれたその温もりが、紡の凍てついた心を少しずつ溶かしていた。
けれど、心が満たされ、良いことがあった日の帰り道ほど、紡の脳裏には決まってあの少年の顔が浮かぶのだった。
夕暮れの街を歩きながら、胸の奥がキュンと切なく締め付けられる。
「生きるよ」
あの日、激しい波が打ち寄せる防波堤の上で、泣きじゃくりながらそう約束した相手──奥野理玖。
絶望の淵に立たされ、自ら命を絶とうとしていた自分を、彼は乱暴に、けれど誰よりも必死にこの世界へと引き戻してくれた。彼が紡にぶつけてくれた言葉の数々は、今でも彼女の魂に深く刻まれている。
(理玖。私に、友達ができたんだよ)
そのことを、何よりも先に彼に報告したかった。私に新しい一歩を踏み出す勇気をくれたあの日のお礼を、もう一度、今度は涙で顔をぐしゃぐしゃにするのではなく、ちゃんとした笑顔で伝えたかった。
紡は放課後になると、引き寄せられるように何度もあの海辺へと足を運んだ。授業が終わると同時に鞄を抱え、早足で坂道を下り、あの日二人で言葉を交わした防波堤へと向かう。
しかし、理玖の姿はどこにもなかった。
夕日が海面をオレンジ色に染め上げる中、ただ波の音だけが虚しく響いている。防波堤の上に腰掛け、膝を抱えて何時間も待ってみたけれど、通り過ぎるのは散歩中の老人か、見知らぬ大人ばかりだった。
彼が着ていたのは、ここから少し離れた場所にある「西高校」の制服だった。
紡は通学路や駅のホームで、西高の紺色のブレザーを見かけるたびに、ハッとしてその胸元や背中を目で追ってしまう。しかし、この広い街の中で、名前と制服しか知らない一人の男子高校生を偶然見つけ出すのは、砂浜で一本の針を探すようなもので、容易なことではなかった。
「今日も、いないか……」
ぽつりと呟いた言葉は、潮風にかき消されていく。会いたいという気持ちばかりが、夕暮れの空に風船のように膨らんでいった。
そんなある日の夕方のことだった。
その日も紡は放課後のルーティンを変えず、海辺の防波堤に腰掛けていた。少し冷たくなってきた秋の風が、スカートの裾を揺らす。
さっきまで、空は燃えるような美しい茜色に染まっていたはずだった。だが、ふと気がつくと、水平線の彼方から押し寄せてきた重苦しいネズミ色の雲が、あっという間に太陽の光を飲み込んでいた。
辺りが急激に暗くなる。
「あ……」
紡の額に、ポツリ、と冷たいものが落ちてきた。
朝、家を出るときは確かに晴天だった。天気予報をまったく確認していなかったことを、紡は激しく後悔した。
雨は、前触れもなく瞬く間にその勢いを増していった。一粒一粒が大きな塊となり、激しい雨脚となって乾いた砂浜を白く叩き始める。ザーーッという激しい雨音が、波の音さえもかき消していく。
「嘘、どうしよう……傘、持ってないのに」
防波堤から飛び降りたときには、すでに制服の肩がぐっしょりと濡れ始めていた。周囲には雨をしのげるような建物も、自動販売機の薄い軒先くらいしかない。ここから駅までは、上り坂を歩いて十五分はかかる。
紡は仕方がなく、制服のブレザーの裾を両手で掴み、それを頭から深く被った。視界を狭め、前かがみになって、雨の膜が張った駅の方へと走り出そうと振り返った――その時だった。
「おい……ッ! 紡……っ!!」
激しい雨のカーテンの向こうから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
水飛沫で白く霞む視界の先、一本の大きな黒いビニール傘を差した人影が、猛烈なスピードでこちらに向かって走ってくるのが見えた。
濡れたアスファルトを蹴り、足元から激しく泥水を跳ね上げながら、その影は一直線に紡を目指して進んでくる。
「え……?」
紡の足が止まる。
心臓がトクンと大きく脈打った。見間違えるはずがない。その荒々しい走り方も、少し肩を怒らせたシルエットも。
激しい息遣いと共に、その少年は紡の目の前でスライディングするようにして滑り込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
彼は息を切らせ、肩を激しく上下させている。そして自分の右肩や身体が雨に打たれてびしょ濡れになるのも全く構わずに、持っていた大きな黒い傘を、グイッと紡の方へと大きく傾けた。
一瞬にして、紡の頭上を叩いていた激しい雨の衝撃が消え、静かな傘の内側の世界が訪れる。
紡はブレザーを頭から下ろし、呆然とその顔を見つめた。
「理玖……!?」
「はぁ、はぁ……っ。急に、降ってくるから、焦った……っ。ほら、もっと中入って、濡れるから」
濡れた前髪からポタポタと滴る水滴を、鬱陶しそうに左手で払いながら、理玖はいつも通りのぶっきらぼうな口調で言った。けれどその声はまだ激しく弾んでおり、彼がどれほどの速度でここまで駆けてきたかを物語っていた。
紡は言われるがままに、差し出された傘の下へと一歩足を踏み入れ、至近距離にいる理玖をじっと見上げた。
傘の内側は驚くほど狭く、雨の冷気とは対照的に、彼の身体から放たれる熱気が伝わってくるようだった。
理玖が着ている水色のシャツは、傘からはみ出た右半身が雨を吸って、濃い青色に色を変えている。滴る水が、彼の端正な横顔を伝って顎のラインから落ちていく。
けれど、それ以上に紡の目を釘付けにしたのは、彼の胸元だった。
「ふふ……っ」
緊張と驚きで強張っていた紡の頬が、思わず緩んだ。小さな笑い声が零れ落ちる。
「……何だよ、人がせっかく傘持ってきてやったのに、何笑ってんだよ」
理玖が眉をひそめ、少し気分を害したように口を尖らせた。
「ごめん、だって……理玖。ボタン、掛け違えてるよ」
紡は人差し指で、彼の胸元をそっと指差した。
見れば、上から二番目のボタンが、一段下の三番目のボタン穴に無理やり押し込まれている。そのせいで、シャツの生地が不自然に変なシワを作り、斜めに歪んでしまっていた。
理玖はハッとしたように、自分の胸元へと視線を落とした。
「あ……」
その瞬間、彼の耳の付け根から首筋にかけて、一気に沸騰したような鮮やかな赤みが広がっていくのが分かった。彼は大慌てで、震える指先を使ってボタンを外そうとした。しかし焦れば焦るほど、濡れた指先が滑ってうまくボタンが穴から抜けない。
「ご、ごめん! その……急いでたから、気付かなくて……!」
「どこに、そんなに急いでたの?」
紡は少しだけ悪戯っぽく、そして胸の奥に灯った微かな期待を込めて、下から彼の顔を覗き込んだ。
「もしかして、私を探してた……?」
その問いを聞いた瞬間、理玖の動きがピタリと止まった。
彼は露骨に視線を逸らし、紡とは全く逆の、海のあさっての方向を向いた。首の骨が折れるのではないかというほどの勢いだった。
「ち、違う!」
裏返りそうな声を必死に抑え、理玖は早口でまくしたてる。
「いや、僕は、たまたま……そう、近くのコンビニにでも行って、パンか何かでも買おっかなって思ってさ! それで家を出たら、紡が傘も持たずにマヌケな面して海の方へ歩いていくのが、たまたま見えたから! だから、仕なくだよ。後味悪いだろ、目の前で風邪でもひかれたらさ!」
「ふーん……そっか」
紡は口元を袖で隠しながら、再び小さく笑った。
(嘘が下手だなあ……)
心の底から、愛おしさが込み上げてくる。
近くのコンビニに行くだけなのに、服のボタンを掛け違えるほどの猛スピードで着替えを済ませるわけがない。傘を一本しか持たずに、息を切らせて泥まみれになりながら海まで走ってくるわけがない。
彼は、自分の部屋の窓から、あるいは街のどこかから、雨が降り出した瞬間に紡の姿を思い出し、彼女が傘を持っていないことに気づいて、自分の身なりなんて気にする余裕もないほど必死に走ってきてくれたのだ。
その不器用で、真っ直ぐで、優しい嘘が、紡には嬉しくて堪らなかった。
紡はもう一歩、理玖の方へと歩み寄った。
アスファルトの上で、二人の靴のつま先が触れ合いそうになる。狭い黒い傘の内側で、二人の肩が触れ合うか触れ合わないかという距離まで縮まった。理玖の体温が、雨の寒さを完全に遮断してくれる。
「理玖」
紡は、静かだけれど、はっきりとした声で彼の名前を呼んだ。
理玖はまだあさっての方を向いたまま、身体を硬くさせている。
「私ね、あの日のこと、ずっと感謝してる」
雨音が周囲を包み込む中、紡の言葉だけが、傘の中の狭い空間に優しく響いた。
「誰も私のことなんて見てくれないって、この世界に私の味方なんて一人もいないって思ってた。だけど、理玖は違った。私の手を生温い同情じゃなくて、本気の力で掴んでくれた。私と、本気で向き合ってくれた」
理玖の持つ傘の柄が、微かに震えた。
「ありがとう、理玖。あの時、理玖が言ってくれた言葉……私、ずっと大切にするからね。今、私ね、学校で少しずつだけど、前を向けてるんだ。友達もできたんだよ。だから、どうしてもそれを早く理玖に言いたくて、毎日ここに来てたの」
理玖は完全に固まっていた。言葉を失ったように、ただ直立不動のまま、差している傘を握りしめている。
夕闇が迫り、激しい雨のせいで辺りはすっかり暗くなっていたけれど、そんな暗闇の中でもはっきりと分かるほど、彼の顔は熟した林檎のように真っ赤に染まっていった。耳の先まで、完全に熱を持っているのが見て取れる。
長い沈黙の後、理玖は胸元を弄っていた手をせわしなく動かし、ようやく掛け違えていたボタンを正しい位置にはめ直した。それから、顔を半分袖で隠すようにして、へたっぴなため息を一つ吐き出した。
「……そういうこと、急に言うなよ」
「え?」
「……心臓に悪いだろ」
理玖は蚊の鳴くような、掠れた声で呟いた。そして、紡から逃げるように、くるりと背を向けて、駅へと続く雨の降る坂道を歩き始めた。
「あ、待ってよ、理玖!」
紡は慌ててその背中を追いかけ、彼の手にある黒い傘の下へと滑り込んだ。
「名前で呼ばれるの、なんか……その、慣れないんだよ」
前を歩く理玖が、ぶつぶつと文句のように小さく溢す。
「じゃあ、なんて呼べばいい? 奥野くん?」
「……それもなんか、他人の行儀が良すぎて気持ち悪い。……もう、好きに呼べよ」
理玖の歩調は少し早かったけれど、紡が遅れそうになると、彼は無意識のうちに傘を後ろに傾け、紡が濡れないように常に気を配っていた。
紡はその不器用な優しさに甘えるように、彼の隣にぴったりと寄り添った。右肩と左肩が歩くたびに時折こつんと触れ合い、そのたびに理玖がビクッと肩を揺らすのが可笑しかった。
激しく世界を叩きつける雨の坂道。
けれど、一本の黒い傘の下にある世界は、どこよりも温かく、二人の距離を確かに縮めていた。小さな掛け違いから始まった雨の日の夕暮れは、紡の心に、消えることのない確かな足跡を刻んでいくのだった。




