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天使が生まれた世界  作者: 大泉小


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6/22

1─5 2024年 世界はそんな奴らばかりじゃない

2024年

 放課後。教室の空気は相変わらず冷たかった。

 秋の気配を孕んだ冷たい風が、開いた窓から容赦なく吹き込み、カーテンを大きく波立たせる。それに伴って、カサカサと乾いた音を立てるプリントの束。机の上の教科書を片付ける級友たちの手元はどれもせわしなく、誰一人として紡の方を向こうとはしなかった。

 終礼のチャイムが校舎裏の山に木霊するように鳴り響くと同時に、クラスメイトたちはまるで蜘蛛の子を散らすように、それぞれの行き先へと向かって動き出す。部活動へ向かう者、塾の自習室の席を確保するために急ぐ者、あるいは単に友達と買い食いを楽しむために駅へと向かう者。彼らの賑やかな声や笑い声が教室中に充満していくが、そのどれもが、紡の周りだけを避けるようにして通り過ぎていく。

 紡の席の周囲には、まるで目に見えない不可視の境界線が引かれているかのようだった。誰も紡の存在など視界に入っていないかのように、綺麗に避けて通り過ぎていく。その徹底された無関心は、直接的な罵倒や悪意よりも、時に冷酷に人の心を削っていく。

 「あ、古山。今日のゴミ箱掃除とモップ掛け、あとはやっといてね。私ら塾あるからさ」

 静まり返りかけた空間に、甲高い声が響いた。自分の分の雑巾を、紡の机にパサリと放り投げたのは、先日、病院で紡を遠巻きに見ながら楽しそうに笑っていた女子生徒の一人だった。彼女の瞳には、申し訳なさなど微塵も浮かんでいない。あるのは、ただ面倒な役割を都合のいい人間に押し付けることができたという、当然のような居丈高な態度だけだった。

 彼女たちは紡の返事も待たずに、「今日の小テスト、マジで最悪だったよねー」「それな、後でマック寄ってモチベ上げよ」と楽しそうに笑い合いながら、足早に教室を出て行った。

 引き戸がガラガラと閉まる音が、異様に大きく耳に届く。


 一人残された広い教室。西に傾きかけた夕陽が大きな窓から容赦なく差し込み、机や椅子の長い影を床に引き延ばしている。オレンジ色の光の帯の中で、静まり返った空気の中を、目に見えないほど細かな埃が光の粒のようにキラキラと宙を舞っていた。その美しさが、かえってこの空間の孤独を際立たせる。

 紡は胸の奥を重く満たす空気を吐き出すように、深く、深い不いため息をついた。そして、机の上に投げ捨てられた、少し生乾きの臭いがする雑巾をそっと拾い上げた。

 もし、昨日までの自分だったら、この理不尽な押し付けに対して、また世界のすべてに絶望し、静かに涙をこぼしていただろう。自分の存在そのものが他者にとって都合のいい道具でしかないのだと、暗い底へと沈んでいったはずだ。

 けれど、今の紡の胸の奥には、昨日とは違う小さな灯火が灯っていた。

 理玖のあの静かで、どこか切なげな、けれど確かな温もりを伴った言葉が、耳の奥に残っている。あの言葉があったから、昨日ほど絶望してはいなかった。自分を肯定してくれる人が、この世界のどこかにたった一人でもいるという事実は、凍てついた心を内側からじんわりと温めてくれる。

 けれど、やはり胸の奥がチクリと痛むのは止められなかった。理不尽に対する怒りよりも、どうして自分がこんな風に扱われなければならないのかという、割り切れない寂しさが澱のように積もっていく。

 「あれっ、一人?」

 静まり返った教室に、場違いなほど明るい声が響いた。それはまるで、重苦しい空気を一瞬で切り裂くような、弾んだテノールの響きを持っていた。

 紡がびくりとして肩を揺らし、顔を上げると、前方の引き戸から一人の女子生徒がひょっこりと顔を覗かせていた。

 夕陽の光を浴びて輝く、健康的で揺れるポニーテールの髪。制服の上には、指定のものではない、少し大きめの紺色のカーディガンを羽織っている。緑のチェックのスカートを着ているから同じ学年だろう。しかし、紡の記憶のどこを探っても、彼女の顔は見つからなかった。見覚えがない。おそらく、隣のクラスか、あるいは別の階のクラスの生徒だろう。

 「うん……みんな、帰っちゃって」

 紡は驚きを隠せないまま、気まずそうに、そして少し警戒するように言葉を濁して答えた。今の自分が学校内でどのような扱いを受けているか、他クラスの生徒が知っていてもおかしくはない。関われば、彼女まで変な目で見られるかもしれないという、無意識の自衛の本能が働いたのだ。

 しかし、その女の子は紡の微かな拒絶のオーラなど気にも留めない様子で、「ふーん」と短く声を漏らした。そして、迷うことなく教室の中へと入ってきた。上履きが床を鳴らす小気味よい音が、静かな教室に響く。

 彼女は真っ直ぐに教室の後方へと歩いていくと、掃除用具入れの古びたスチールの扉をガラリと勢いよく開けた。中に整然と並ぶ掃除用具の中から、迷うことなく使い込まれた一本の箒を手に取る。

 「何それ、最低だね。よし、私も手伝うよ!」

 「えっ? あ、いいよ、悪いから! 他のクラスでしょ?」

 慌てて手を横に振る紡を他所に、彼女は「気にしない、気にしない!」と笑いながら、シャッ、シャッと小気味よい音を立てて床を掃き始めた。その手つきは驚くほど迷いがなく、テキパキとしている。ポニーテールが、彼女の元気な動きに合わせてぴょこぴょこと小気味よく揺れる。その姿を見ているだけで、どんよりとしていた教室の空気が、少しずつ動き出すような錯覚さえ覚えた。

 「いいのいいの。私、こういう理不尽なの大嫌いだからさ。それにね──」

 彼女は一瞬、掃く手を止めて、窓の外の夕陽を見つめた。それから、悪戯っぽく笑いながら紡の目を真っ直ぐに見据えた。

 「そんな奴らばっかじゃないよ、この世界は」

 脳裏に、昨日の理玖の言葉が鮮烈によみがえった。

 理玖は言っていた。生きていれば、また新しい出会いがある。大切な人が増えていく、と。紡はそれを、もっとずっと先のことだと思っていた。何年も、あるいは何十年も傷つきながら生きていった果てに、ようやく巡り合える奇跡のようなものだと思っていた。

 なのに、本当に、こんなにすぐに現れるなんて。

 「私、忘れ物取りに学校戻ってきたらさ、廊下からこの教室が見えて。君が一人で、すっごく寂しそうに掃除してるのが見えたから、なんだか放っておけなくなっちゃって」

 彼女はそう言って、再び手を動かし始めた。集めた埃を教室の隅に器用にまとめると、箒に体重を預けるようにして両手で柄を握り、人懐っこい笑みを紡に向けた。

 「ねえ、名前。なんていうの? 私、君の名前、まだ知らないや」

 「古山……紡、です」

 自分の名前を口にする時、いつもならどこか萎縮してしまうはずの紡だったが、彼女の屈託のない笑顔の前では、不思議と自然に声が出た。

 「紡ちゃんか! なんか物語に出てきそうな、すごく可愛い名前だね。私は仲田望。よろしくね、紡!」

 「よろしく……望ちゃん」

 望は「よろしく!」と、もう一度満面の笑みを浮かべ、今度はモップを手に取った。

 その瞬間、紡の心の中にべったりと張り付いていた冷たい霧が、音を立てて完全に晴れていくような気がした。昨日からずっと、胸の奥を支配していた孤独感や、クラスメイトたちから向けられる無言の圧力に対する恐怖が、望の放つ圧倒的な陽のエネルギーによって、みるみるうちに溶かされていく。

 「あはは、なんで泣いてんのぉ!」

 モップを動かしていた望が、突然動きを止めて驚いたように声をあげた。

 「え……?」

 紡は困惑して、自分の頬にそっと指先を触れてみた。指先に触れたのは、驚くほど熱く、大粒の水分だった。言われて初めて、自分が涙を流していることに気づいた。慌てて手の甲で拭おうとするが、溢れ出た涙は次から次へと溢れて、止まることを知らない。

 けれど、それは悲しい涙ではなかった。胸が痛くて流す涙でも、悔しくて流す涙でもなかった。

 氷のように冷え切っていた心に、急激に温かい血が巡り始めたような、そんな感覚。世界が、ほんの少しだけ優しく色づいたような、言葉にできないほど温かい涙だった。

 「ご、ごめん……なんか、自分でもよく分かんなくて」

 「もー、泣かないでよ!」

 望は冗談めかして言いながら、制服のポケットからクシャクシャの、けれど清潔なハンカチを取り出して紡に差し出した。

 「ほら、これ使って。洗ってあるから大丈夫だよ」

 「ありがとう……」

 ハンカチを借りて目元を押さえると、ほんのりと柔軟剤の甘い香りがした。その香りがまた、紡の心を酷く安心させた。


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