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天使が生まれた世界  作者: 大泉小


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4/22

1─4 2024年 壊れた世界の境界線で

2024年

「ねぇ、そこで何してるの?」

 突然、背後からかけられた低い声に、紡はびくりと肩を跳ね上げて振り返った。

 夕暮れ時の防波堤は、いつもなら潮騒の音だけが支配する孤独で安全な聖域のはずだった。それなのに、その静寂はあまりにも唐突に、そして容赦なく破られた。

 そこに立っていたのは、一人の男子高校生だった。紡が毎日嫌々ながら身に纏っている、見慣れた灰色の制服ではない。夕陽の残光を吸い込んだような、深い濃紺のブレザー。紡の通う学校の生徒ではないことは一目で分かった。すっきりとした涼しげな目元と、どこか深い翳りを帯びた端正な顔立ちが、燃えるような茜色の光に照らされて、奇妙なほど現実味を欠いて見えた。

 紡は反射的に、自身の顔に「嘘の仮面」を貼り付けた。それは学校で、そして家庭で、傷つかないために幾度となく作り上げてきた、自衛のための歪な盾だった。頬の筋肉を無理に引き上げ、口角を釣り上げる。何でもない風を装って、喉の奥から乾いた声をひねり出した。

「あはは、別に……何もしてないよ。ただ、海を眺めてただけ」

 男子高校生は、紡のその痛々しいほどに不自然な笑顔を、拒絶も同情もしない冷徹な眼差しで見つめていた。その沈黙が、紡の肌を刺す。彼はゆっくりと、一段ずつ防波堤のコンクリート階段を降りてきた。波打ち際の手前、濡れた砂が靴底を汚す一歩手前。紡とわずか数歩の距離を残した位置でピタリと足を止めると、彼は紡から視線を外し、遠く水平線の彼方へと目を向けた。

 そして、ぽつりと、しかし確実に空気を震わせて言った。

「天使でも、探してる?」

 紡の心臓が、ドクリと大きく跳ね上がった。全身の血が急激に逆流するような、激しい悪寒と衝撃が駆け巡る。

『天使』──その単語は、この寂れた海辺で、紡と「あの子」だけが共有していた、絶対に他人が知るはずのない、世界で一番甘やかで秘密の言葉だった。言葉を交わせないあの子を、紡が心の中で、そして二人だけの秘密の記号としてそう呼んでいたのだ。

「……どうして、その名前を? 天使ちゃんのこと知ってるの?」

 掴みかかるような勢いで一歩踏み出し、紡は彼の胸元を睨みつけるように問い詰めた。必死だった。その秘密を知っているということは、彼女の行方を知っているということだ。ずっと連絡が途絶え、この海に現れなくなってしまったあの子の居場所を、この少年は握っている。

 しかし、紡の剥き出しの期待を受け止めた男子高校生は、酷く苦しそうに、今にも泣き出しそうなほど歪に引きつった微笑みを浮かべた。その表情を見た瞬間、紡の胸に冷たい不穏な予感が走る。

「知ってるよ」

「今、あの子はどこにいるの? 会えるの!? お願い、教えて!」

 縋り付くような、縋り付くことしかできない紡の潤んだ瞳を、彼は逃げることなく真っ直ぐに見つめ返した。そして、彼の唇から、静かに、しかし世界のすべてを決定的に破壊する言葉が零れ落ちた。


「死んだよ」


 その瞬間、世界からすべての音が消えた。

 ざばんと押し寄せていた波の音も、遠くを走る車のエンジン音も、潮風が耳を掠める音さえも、突如として遮断された。まるで分厚い水の中に頭まで沈められたかのような、完全な真空。

「え……?」

 紡の口から漏れたのは、声にもならない掠れた呼気だった。何を言われたのか、脳が理解することを拒絶している。

「もう、この世界にはいない」

 頭を重い鉄塊で激しく殴られたような、凄まじい衝撃が紡を襲った。視界が急激にぐにゃりと歪み、天と地がひっくり返るような錯覚に陥る。全身の細胞から一瞬にして力が抜けていくのが分かった。足の骨が消えてしまったかのように崩れ落ち、紡は砂浜に膝をついた。

 ザリ、と乾いた砂が制服のスカートを汚し、皮膚に擦れる感触さえ、遥か遠い世界の出来事のように思えた。

 どうして。どうしてそんなことが起きるの。

 学校での息が詰まるような孤独も、クラスメイトたちの悪意に満ちた視線も。そして、家に帰れば待ち受けている、日に日に衰弱していく母親の病気への拭いきれない不安も、すべては一つの希望があるから耐えられた。

 いつか、あの海に行けば、またあの優しい天使ちゃんに再会できる。彼女だけは私を無条件で受け入れてくれる。だから、それまではきっと救われる。

 そう自分に言い聞かせ、張り詰めた糸のような毎日を繋ぎ止めていたのだ。

 その、紡の全存在を支えていた最後の心の支えが、今、目の前の少年の言葉によって、音を立てて完全に粉砕された。粉々に砕け散ったガラスの破片が、紡の胸の奥をズタズタに突き刺していく。

「悲しまないでって、言ってた」

 男子高校生は、砂浜に力なくへたり込み、絶望に身を震わせる紡を見下ろしながら、淡々と、だけどどこか祈るような微かな震えを帯びた声で、言葉を紡いだ。

「人は誰だっていつか死ぬ。それが少し早かっただけだって」

「……天使ちゃんと、どういう関係だったの? どうして、そんなことまで……」

 紡は溢れそうになる涙を必死に堪え、砂を握り締めながら、掠れた声で尋ねた。喉の奥が熱く焼けるように痛い。

「姉だった」

 紡は、震える手で地面の砂を強く押し、なんとか頼りない足取りで立ち上がった。これ以上、彼の前で醜く泣き崩れるわけにはいかなかった。自分だってこれほど苦しいのだ。ならば、血の繋がった「たった一人の姉」を失った彼の喪失感と絶望は、きっと自分のそれなど遥かに凌駕するもののはずだから。これ以上、彼に自分の我が儘な感情をぶつけるわけにはいかない。

「教えてくれて、ありがとう……」

 それだけをどうにか口にすると、紡はふらつく足取りで、砂浜を歩き始めた。理玖に背を向け、逃げるように。視界はすでに涙で激しく歪み、自分が今、どこに向かって歩いているのかさえ定かではなかった。ただ、この場所から離れなければいけない、それだけの衝動が彼女の身体を動かしていた。


 海辺を離れ、夕闇が急激に帳を広げていく河川敷を、紡は宛てもなく歩き続けた。

 太陽はすでに山の端に沈み、空は紫と黒が混ざり合う不気味なグラデーションに染まっている。昼間の温もりを完全に失った冷たい風が、紡の薄い制服を通り抜けて肌を刺したが、今の彼女にはその寒さすら心地よかった。感覚が麻痺していく。

 コンクリートの無機質な堤防を抜け、街の境界線を跨ぐように架かる、大きな鉄橋の上へと差し掛かった。時折、背後を凄まじい風圧とともにトラックが通り過ぎていくが、その音すら今の紡の耳には届かない。

 橋のちょうど真ん中あたりで、紡はふと足を止めた。

 冷たい鉄の欄干に手をかけ、遥か下を流れる黒い川面を見つめる。

 街灯の光すら吸い込んでしまうような、深く、暗い水の流れ。

 あの子がいない。

 私を否定せず、ただそこにいるだけで肯定してくれた、あの優しい世界は、もうこの地球上のどこにも存在しない。明日からもまた、あの地獄のような教室へ行き、息を潜めて他人の顔色を窺い、病魔に蝕まれていく母親の姿をただ見守るだけの日々が続く。

 これから先、私は一体何を目標に、何を楽しみに、どうやって生きればいいのだろう。誰も教えてくれない。生きている意味が見つからない。

 不思議と、涙はもう出なかった。

 さっきまであんなに胸を締め付けていた激情は消え去り、心の中が完全にぽっかりと中空の空洞になってしまったかのようだった。ただ冷たい風が、その空っぽの空洞をヒューヒューと虚しく通り抜けていくだけ。

(もう、いいかな)

 疲れ果てていた。すべてを投げ出してしまえば、この苦しみから解放されるのだろうか。

 欄干に両手をかけ、足元を少しだけ浮かせるようにして、身体をゆっくりと前へと傾けた。冷たい川面が、まるで自分を招いているかのように近づいてくる。その、まさに一歩を踏み出そうとした、その時。

「何してんだよ!」

 鼓膜を破らんばかりの怒号とともに、凄まじい力で、右腕を後ろへと強く引っ張られた。

「あ……っ!」

 完全にバランスを崩した紡の身体は、宙を舞うようにして引き戻され、背後の硬いコンクリートの歩道へと激しく打ち付けられた。鈍い痛みが背中に走る。

 痛みに顔を顰めながら見上げると、そこには、肩を激しく上下させ、息を荒く切らせた、先ほどの男子高校生が立っていた。濃紺のブレザーは乱れ、額には大粒の汗が浮かんでいる。彼は紡の腕を、骨が軋むほどの痛い力で掴んだまま、絶対に離そうとしない。

「放して……! お願いだから放してよ!」

 紡は暴れた。必死に彼の手を振り払おうとしたが、彼の指先は驚くほどの力で紡の肉に食い込んでいた。

「放すわけないだろ! 今、自分が何しようとしてるか分かってんのかよ!?」

 理玖の声は怒りに震えていたが、それ以上に、恐怖で裏返っていた。

「分かってるよ! あの子がいない世界なんて、もう私には生きてる意味がないの! 誰も私を見てくれない! 誰も私を必要としてくれない! あの子だけが私の光だったのに……どうして!」

 感情が決壊し、紡は喉が千切れるほどの声で叫んだ。その絶望の叫びに、少年は一瞬だけ、気圧されたように身を引いた。しかし、すぐにそれを上回るほどの、強く、射抜くような眼差しで紡を真っ直ぐに睨みつけた。

「大事な人が死んだからって、どうして自分が死のうとするんだよ!」

「私の勝手でしょ! 君には関係ない!」

「関係あるよ!」

 彼はさらに声を張り上げ、紡の目を真っ向から見据えた。

「紡にとって天使が大切だったように、天使にとっても、紡はかけがえのない大切な存在だったんだよ!」

 初めて他人の口から呼ばれた自分の名前に、紡は大きく息を呑んだ。

 心臓の鼓動が急に早くなる。なぜ、今日初めて会ったはずの彼が、私の名前を知っているのか。

「何があっても、紡には生きててほしい」

 彼の強い声が、ここで初めて、微かに震え始めた。見上げると、彼の大きな瞳には、街灯の光を反射してきらめく涙が溜まっていた。彼は泣くのを必死に堪えながら、言葉を絞り出していた。

「残酷なことだと思う。たくさん傷ついて、心がボロボロになってる紡に、これからもこんなクソみたいな世界で、傷つきながら生きていけなんて言うのは、本当に向こう見ずで、自分勝手な願いだと思う。残される側の気持ちも知らないで、綺麗事言いやがってって」

 理玖は掴んでいた紡の腕の力を、ゆっくりと緩めた。しかし、手を離すことはしなかった。今度は、壊れやすいガラス細工を包み込むかのように、優しく、だけど確かな温もりを込めて、その冷え切った紡の掌を握り直した。

「でも……生きてさえいれば、大切な人はまた増えていく」

「大切な人、が……?」

「そうだよ。紡の心を支えてくれる人が、これから絶対に現れる。今はまだ出会っていなくても、明日、明後日、あるいはもっと未来に、すぐに出会える。だって──」

 彼は、すっかり夜の闇に包まれかけた鉄橋の上で、まるでこれから訪れる夜明けの光のような、優しく、そして切ない笑みを浮かべた。その表情は、どこかあの子の面影を宿しているように見えた。

「天使だけが、生きている世界じゃないから」

 その言葉が、紡の心の奥底、誰にも触れさせまいと硬く閉ざされていた場所に眠っていた冷たい氷を、一瞬で溶かした。

 堰を切ったように、温かい涙が次から次へと溢れ出し、視界を覆った。頬を伝って、コンクリートの地面へとポタポタと落ちていく。

 忘れていた。あまりの絶望に、大切なことを見失っていた。

 自分がこれほどまでに天使ちゃんを想い、彼女の存在に救われていたように。言葉を交わすことはできなくても、いつも静かに自分の話を聞いて、微笑んでくれていた天使ちゃんもまた、自分のことを同じくらい、いや、それ以上に大切に想ってくれていたのだということを。

 彼女が愛し、自分に「生きて」と遺してくれたこの世界を、自ら進んでドブに捨てるような真似をしてはいけなかったのだ。それは、彼女の生きた証さえも否定することになってしまう。

「……君の名前は?」

 紡は溢れる涙を拭おうともせず、ただ目の前にいる、自分をこの世界に繋ぎ止めてくれた少年の名前を乞うた。

「奥野理玖」

 彼は繋いでいた手をゆっくりと離し、少しだけ照れくさそうに、人差し指で鼻の頭を擦った。その仕草は、先ほどまでの大人のような悲痛な表情から、年相応の少年のものへと戻っていた。

「紡の名前は、姉から聞いてた」

「そっか……。私の名前、知っててくれたんだね……」

 紡は涙の跡が残る顔で、小さく、だけど心の底から微笑んだ。

 川面を渡る夜風はまだ刺すように冷たかったけれど、理玖の手から確かに伝わってきた温もりだけは、いつまでも紡の掌の中に、消えない残り火のように灯り続けていた。


 夜の帳がすっかり降り、星すらも見えない暗い河川敷の遊歩道を、二人は一定の距離を保ちながら並んで歩いた。

 等間隔に配置された古い街灯が、路面にポツポツとオレンジ色の光の輪を落としている。その光の中を通り過ぎるたびに、二人の影は長く伸び、やがて闇に溶け、また次の光で短く復活する。それを何度も交互に繰り返していた。

 先ほどまでの、鉄橋の上での命懸けの激情が嘘のように、辺りは静まり返っていた。遠くの幹線道路を走る車の音が、どこか心地よい環境音のように響いている。紡の目元はまだほんのりと赤く腫れていて、ヒリヒリとした痛みを伴っていたけれど、不思議と胸の奥の重苦しい漬物石のような支えが取れたように、呼吸は驚くほど軽くなっていた。酸素がしっかりと肺に届く感覚を、久しぶりに味わっている気がした。

「奥野君……あ、奥野さん?」

 ふと、どう呼ぶべきか迷って、紡は隣を歩く少年に声をかけた。

「理玖でいいよ。多分タメだし、そっちの方が話しやすいでしょ」

 理玖は濃紺のブレザーのポケットに両手を突っ込んだまま、視線をまっすぐ前方に向けた状態で歩いている。横から見るその横顔には、あの腕の強さと、意志の強さが、まだ少年の肩のラインにしっかりと残っているように見えた。

「じゃあね、紡。もう変なこと考えるなよ。次やったら、本気で怒るから」

 いつの間にか、駅前の賑やかなロータリーの明かりが見えてきたところで、理玖は短くそう言って足を止めた。そして、ブレザーのポケットから手を引き抜くと、手を軽く振って、紡とは反対方向のバス乗り場へと歩き出した。

「理玖!」

 紡は無意識に、彼の背中に向かって大声を張り上げていた。雑踏の音に消されないように、精一杯の声で。

 理玖は、びくりと足を止め、ゆっくりと振り返る。

「ありがとう」

 理玖は一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。それから、少しだけ照れくさそうに口元を緩め、満足そうに、小さく小さく頷いた。

 彼は再び背を向けると、今度は迷いのない足取りで、駅前の眩い雑踏の中へと消えていった。彼の濃紺のブレザーが人混みに紛れて見えなくなるまで、紡はその場所から動けなかった。

 ロータリーを行き交う人々の波。誰もが自分の人生を必死に生きている。

 紡は、自分の掌をそっと見つめた。理玖が握ってくれた右手の感覚が、まだ熱いほどに残っている。

 世界は壊れてしまった。けれど、その壊れた世界の境界線で、彼女は確かに新しい世界の息吹に触れた。

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