1─3 2024年 呼び声は群青に溶けて
2024年
ローファーがアスファルトを叩く硬い音が、夕暮れの手前の、まだ明るい空気の中に吸い込まれていく。
息が苦しい。肺が冷たい空気を求めて悲鳴を上げている。それでも、紡は足を止めなかった。スカートを激しくなびかせ、前髪が視界を遮るのも構わずに、ただひたすらに前へと進む。
そして辿り着いたのは、街外れにある、緩やかなカーブを描く砂浜だった。
そこは、母が入院している病院のすぐ下に広がる海辺。見上げれば病院の白い建物が見え、その足元には、見捨てられたような静寂が横たわっていた。
周囲には遮るものもなく、ただ弧を描く海岸線と、押し寄せる波だけが存在している。平日のこの時間、人影は当然のようにまばらで、ほとんど誰もいない。
世界を支配しているのは、ただ一定のリズムで繰り返される、寄せては返す波の音だけだった。
ゼーゼーと荒い息を吐きながら、紡は砂に足を取られつつも、波打ち際の手前でようやく立ち止まった。
視界いっぱいに広がる、どこまでも深く、どこまでも透明な真っ青な海。水平線はかすかに霞み、空の青と海の青が溶け合うようにして境界線を曖昧にしている。
いつもなら心を落ち着かせてくれるはずのその美しさが、今の紡にとっては、酷く残酷なものに思えてならなかった。
「……天使ちゃん」
乾いた唇から、掠れた声が漏れ出た。
「天使ちゃん……今、どこにいるの?」
もう何度も、心の中で、そして誰もいない海に向かって繰り返してきた問いかけ。
寄せては返す波の音に向かって、紡は届くはずのない名前を呟いた。その声は、潮風にかき消され、あっという間に広い海原へと吸い込まれて消えていく。当然、返事などあるはずがなかった。それでも、ここに立てば、あの懐かしい温もりに少しだけ触れられるような気がして、紡は溢れそうになる涙を堪えながら、じっと海を見つめ続けた。
それは、紡がまだ六歳だった頃の、遠い記憶。
当時の紡は、今以上に内向的で、極端に人見知りが激しい子供だった。周囲の大人たちや、同年代の子供たちが何を考えているのかが分からず、誰かに声をかけられるだけで身体を硬く硬直させてしまうような、そんな不器用な少女だった。
幼稚園でもいつも一人、教室の隅で絵本を読んでいるか、園庭の隅でアリの行列を眺めているだけ。周囲に心を開くことができず、友達と呼べる存在は一人もいなかった。両親はそんな紡を心配していたが、無理に他人と関わらせようとすればするほど、紡は自分の殻へと閉じこもっていった。
そんな紡にとって、街外れの静かな砂浜は、唯一息ができる「避難所」だった。
ある日の午後、家を抜け出してその場所へとやってきた紡は、生まれて初めて、自分だけの秘密の光景に出会うことになる。
その場所で出会った「彼女」は、紡にとって、生まれて初めてできた本当の友達だった。
天使ちゃんは、とても不思議な子だった。
彼女は、一切の言葉を発しなかった。声を出そうとすらしない。ただ、言葉を持たない代わりに、彼女はいつも全身の仕草や、めまぐるしく変わる豊かな表情で、その時々の感情を驚くほど正確に伝えてくれた。
何より目を引いたのは、その格好だった。まるでおとぎ話に出てくるお姫様のような、可愛いピンク色のフリフリのスカートを穿いていたのだ。潮風に吹かれながら、彼女がくるりと一回転すると、そのスカートが花が開くようにふわりと広がった。
そして、陽の光をいっぱいに浴びて、まるで純金のようにキラキラと輝くサラサラの髪。その髪が潮風になびく様子は、子供心に見惚れてしまうほどに美しかった。
その子はいつも、まるで最初から紡がここへ来るのを知っていて、それを待っていたかのように、一人でその砂浜にぽつんと佇んでいた。
最初に声をかけたのは、意外にも、普段は誰に対しても言葉を発することのできない紡の方からだった。
「……ねぇ」
おずおずと近づき、声をかけた紡に対し、彼女は驚いたように目を見開いた後、満面の笑みを浮かべて激しく首を縦に振った。それが、全ての始まりだった。
言葉の通じない二人の交流は、客観的に見れば奇妙なものだったかもしれない。しかし、幼い二人にとって、そんなことは些細な問題でしかなかった。
二人は毎日のようにその砂浜で遊び、言葉の壁を軽々と飛び越えていった。
ある日は、二人で波打ち際の湿った砂を集め、何時間もかけて大きな砂の城を作った。天使ちゃんは器用に手先を動かし、城のてっぺんに小さな貝殻の旗を立てて、満足そうに胸を張った。
またある日は、波に洗われて丸くなった色とりどりの貝殻や、透き通ったシーグラスを夢中になって集めた。天使ちゃんは珍しい形の貝殻を見つけるたびに、それを両手で大事そうに包み込み、宝物を見せた子供のように目を輝かせて紡に差し出してきた。
紡が何かつまらなそうな顔をしていれば、天使ちゃんは心配そうに顔を覗き込んできた。逆に、紡が楽しそうに笑えば、彼女はまるで自分のことのように嬉しそうに飛び跳ねた。
そんな時間を積み重ねるうちに、二人の間には、不思議なほど深い信頼関係が結ばれていった。言葉がなくても、お互いが何を望み、何を考えているのかが、空気を通じて自然と伝わってきた。紡にとって天使ちゃんは、世界の誰よりも自分を理解してくれる、かけがえのない存在になっていったのだ。
何度目かの逢瀬のとき、紡はふと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「ねえ、あなたのお名前はなんていうの?」
しかし、彼女はやはり言葉を返さなかった。ただ、質問の意味を測りかねるように、小さな頭をこくりと小首を傾げて、ただ優しく微笑むだけだった。
陽光をまとった彼女の髪には、まるで天使の輪のような光が宿っていた。その眩しさに触れた瞬間、紡の脳裏には、母親に読み聞かせてもらった古い絵本の一ページが静かによみがえった。
「ふふ、じゃあ、あなたのことは『天使ちゃん』って呼ぶね」
そう言うと、彼女は最初、何が起きたのか分からないというように瞬きを繰り返していたが、やがて自分の新しい名前を理解したらしく、嬉しそうに何度も、何度も大きく頷いた。その笑顔は、本当に天から舞い降りてきた本物の天使のようで、紡の胸を温かい光で満たした。
すっかり嬉しくなった紡は、自分の胸に手を当てて、元気よく名乗りを上げた。
「私、古山紡っていうの! よろしくね、天使ちゃん!」
その瞬間、天使ちゃんはそれまで見たこともないような、一番の笑顔を咲かせた。あまりの嬉しさに耐えかねたように、その場でピンク色のフリフリのスカートを揺らしながら、何度も何度も頷いてくれた。
あの時、目の前で少女が嬉しそうに何度も頷いた光景。背景にあるどこまでも青い海と、彼女の黄金色の髪、そして波の音。
そのすべてが、今でも紡の心の最も深い場所に、誰にも触れられたくない、そして決して色褪せることのない大切な「宝物」として仕舞われている。
嫌なことがあっても、孤独に押しつぶされそうになっても、あの思い出の箱を開ければ、いつでも温かい気持ちになれた。天使ちゃんとの記憶こそが、紡が今日まで生きていくための、密かな心の支えだった。
しかし、そんな美しく幸せな時間は、長くは続かなかった。
あまりにも突然に、そしてあまりにも呆気なく、終わりの時は訪れた。
紡が六歳になった年の、ある秋の日の午後だった。
その日は、いつもの抜けるような青空とは異なり、空一面を重苦しい灰色の雲が覆い尽くしている、今にも雨が降り出しそうな曇った天気だった。海もまた、その空を映し出したかのように、暗く濁った鉛色に変色していた。
不穏な空気を感じながらも、紡はいつものように約束の砂浜へと向かった。遠くからでも、彼女のピンク色のスカートはよく目立つはずだった。
しかし、その日に見た光景は、いつもとは決定的に違っていた。
天使ちゃんは、波打ち際から少し離れた砂の上に、ぽつんと座り込んでいた。
いつもなら、紡の姿を見つけるとすぐに立ち上がり、手を振って駆け寄ってくるはずの彼女が、その日はピクリとも動かなかった。それどころか、その小さな背中、小さな肩を、激しく震わせていた。
「……天使ちゃん?」
胸を突くような嫌な予感がして、紡は駆け出した。砂に足を取られながらも、必死に彼女の元へと急いだ。
近づくにつれて、風の音に混じって、小さな、しかし痛切な嗚咽が聞こえてきた。天使ちゃんは泣いていた。声を殺し、胸を締め付けられるような悲痛さで、激しく身体を震わせながら涙を流していたのだ。
「天使ちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
慌てて彼女の前に回り込み、その小さな肩を掴んで問いかけた。紡の声は不安で震えていた。転んで怪我でもしたのだろうか、それとも誰かに意地悪をされたのだろうか。幼い紡の頭の中に、いくつもの最悪な想像が駆け巡る。
しかし、駆け寄った紡の必死の問いかけに対して、彼女は何も答えなかった。いや、答えることができなかった。
彼女はただ、涙で溢れ、真っ赤に腫らした瞳で、紡の顔をじっと見つめるだけだった。その瞳には、深い深い、底なしの悲しみと、何かを諦めたような絶望、そして強い愛惜の念が混ざり合っていた。
言葉を持たない彼女の、そのあまりにも深い悲しみの理由を、当時の幼い紡が知る由もなかった。
何を尋ねても、天使ちゃんはただ泣き続けるだけ。声を上げて泣くことすらしないその姿が、余計に彼女の痛みを際立たせていた。
どうすればいいのか分からなかった。何かを伝えたがっているのは分かるのに、そのメッセージを受け取ることができない。自分の無力さに、紡の胸も締め付けられるように痛んだ。
結局、その時の紡にできたことは、ただ一つだけだった。
彼女の隣に静かに座り、その小さな震える身体を抱きしめるようにして、理由も分からずに一緒に大粒の涙を流すことだけだった。
冷たい風が、二人の間を吹き抜けていった。鉛色の波が、まるで世界の終わりを告げるかのように、ゴウゴウと低い音を立てて足元に迫っていた。二人はただ、お互いの体温だけを頼りに、薄暗くなる砂浜でいつまでも泣き続けた。
そして、運命の次の日がやってきた。
昨日の涙の理由が知りたくて、そして彼女を励ましたくて、紡は朝からお気に入りの貝殻をポケットに詰め込み、走って砂浜へと向かった。昨日の曇天とは打って変わり、空はまた突き抜けるような青さを取り戻していた。
けれど、海はもぬけの殻だった。
いくら目を凝らしても、どこを探しても、あの鮮やかなピンク色のフリフリのスカートは見当たらなかった。いつも彼女が座っていた場所には、ただ風に吹かれて平らになった砂の起伏があるだけだった。
「天使ちゃん……?」
紡は声を張り上げた。何度も、何度も彼女の名前を呼んだ。しかし、返ってくるのは波の音と、ウミネコの鳴き声だけ。
きっと少し遅れているだけだ。そう自分に言い聞かせ、紡は砂浜に腰を下ろして待つことにした。
一時間が経過し、二時間が経過した。
陽が高く昇り、そしてゆっくりと西の空へと傾き始める。時間が経つにつれて、紡の心は焦燥感と恐怖で満たされていった。ポケットの中の貝殻が、自分の体温で気味が悪いほどに温まっていた。
やがて陽が沈み、辺りが急速に暗闇に包まれるまで、紡は一人で冷たくなっていく砂浜に座り続けた。
「お願い、来てよ……」
祈るような気持ちで暗くなっていく水平線を見つめていた。
けれど、あのピンク色のスカートが、夕闇の向こうから、あるいは暗闇の隙間から現れることは、二度となかった。
彼女は、忽然と姿を消してしまったのだ。まるですべてが最初から、寂しい紡が見た夢だったかのように。
それからの数日間、数ヶ月間、紡は幾度となくその砂浜へ通った。しかし、そこに天使ちゃんの姿が戻ることはなかった。彼女の存在を証明するものは、何一つとして残されていなかった。
普通なら、そんな風に突然目の前からいなくなった相手を、裏切られたと感じて恨むかもしれない。「どうして何も言わずにいなくなったの」と、怒りを覚えるのが自然かもしれない。
それでも、紡は天使ちゃんを少しも恨まなかった。
あの最後の日に見た、彼女の涙。あの身を切られるような悲しそうな表情を、紡は一瞬たりとも忘れたことはなかった。
言葉にできなかっただけで、彼女にはきっと、どうしても行かなければならない理由があったのだ。ここに残りたくても残れない、大切な誰かのもとへ帰らなければならない、あるいは、自分の力ではどうしようもない運命に抗えなかったのだと、子供ながらに、否、子供だからこそ純粋にそう信じていたからだ。
彼女の涙は、裏切りではなく、別れの儀式だったのだと。
──そして、十年の歳月が流れた。
十六歳になった紡は、より複雑になった孤独を抱えて生きていた。高校という狭い社会の中で、周囲の顔色を窺い、本当の自分を隠しながら、息を潜めるようにして毎日を過ごしている。
人見知りは多少改善されたものの、それは「うまく他人の合わせる」という処世術を身につけたに過ぎず、本当に心を開ける友達は一人もいなかった。
だからこそ、今日のように学校で心がすり減り、すべてを投げ出したくなった時、紡の足は決まってこの砂浜へと向かうのだった。
「天使ちゃん……」
もう一度、紡は小さく呟いた。
足元に押し寄せる白波が、ローファーの爪先を濡らす。冷たい水の感触が、現実の感覚を引き戻してくる。
あの出会いから、もう十年が経っている。天使ちゃんがもし自分と同じように年を取っていれば、もう立派な高校生になっているはずだ。あの時のピンク色のフリフリのスカートは、もう穿いていないかもしれない。あの天使の輪っかのような髪も、大人びた髪型に変わっているかもしれない。
年齢を重ねるにつれて、現実的な思考が紡の頭を過るようになる。あれは、孤独だった幼い自分が作り出した、都合のいい幻覚だったのではないか。そんな風に考えてしまう自分自身が、酷く嫌だった。
もし幻覚だったなら、どうしてあの時、彼女の肩を掴んだ手のひらに、あんなにも確かな温もりが残っていたというのだろう。どうして、今でも目を閉じれば、彼女の黄金色の髪が放っていた、お日様のような匂いを思い出すことができるというのだろう。
彼女は確かにここにいた。自分と砂の城を作り、貝殻を集め、心を通わせた。その事実だけは、たとえ世界中の誰もが否定したとしても、自分だけは絶対に疑わない。
「天使ちゃん、会いたいよ」
紡は誰に聞かせるでもなく、今にも消えてしまいそうな声で呟いた。




