1─16 2024年 別れ
2024年
数日後の放課後。私はいつものように軽い足取りで、売店で買った理玖の好きなゼリーを手に、病室のドアを開けた。
「理玖、お待たせ!」
けれど、その声に応える者は誰もいなかった。
そこに、理玖の姿はなかった。
いつも彼が座っていた場所には、シーツがシワ一つなく綺麗に整えられた、誰もいない、冷たいベッドだけがぽつんと佇んでいた。医療機器の電源は落とされ、静まり返っている。
心臓がドクンと、嫌な音を立てて激しく脈打った。手元のアイスゼリーが、袋の中でカサリと音を立てる。
「もしかして、紡さん?」
背後からの声に、心臓が跳ね上がる。
振り返ると、そこには一人の大人の女性が立っていた。理玖の面影をどこかに残した、上品な、けれど酷くやつれた女性。その目には、今にも溢れそうなほどの涙が溜まっていた。
「はい、そう……です。紡、です……」
声を震わせる私に、女性は小さく頷いた。そして、行き場のない声を喉に詰まらせ、苦しそうに、ポロポロと大粒の涙を流しながら、残酷な現実を告げた。
「理玖は……息を引き取ったの。本当に、苦しまずに、眠るように……」
頭の中が、一瞬で真っ白になった。
世界からすべての音が消え去り、白黒の景色へと変わっていく。
何も言えなかった。お悔やみの言葉も、嘘でしょうという否定の言葉も、何一つ喉を通らなかった。
ただ、行き場を失った激しい感情の波をぶつけるように、私は両手を強く、白くなるまで握りしめることしかできなかった。爪が手のひらに食い込んで痛むはずなのに、何も感じなかった。
別れはあまりにも唐突で、あまりにも早すぎた。
私の心は、この残酷な現実にまったくついていけなかった。だって、まだ私の頬には、あの日の午後に触れられた理玖の手の暖かさが、あんなにも鮮明に、生々しく残っているというのに。彼はもう、この世界のどこにもいないなんて、信じられるはずがなかった。
「これね、理玖からあなたに渡してって、ずっと頼まれてたの。もしもの時は、必ずすぐに渡してねって」
女性が震える手で差し出してきたのは、一通の白い手紙だった。少し不器用な文字で、私の名前が書かれている。
私はそれを、壊れ物を扱うように両手で受け取った。
ザザー、ザザーと、規則正しく寄せては返す波の音が響く。
夕暮れの海辺は、すべてをオレンジ色と紫色の混ざり合った、寂しいグラデーションで染め上げていた。太陽が水平線の向こうへ沈みかけ、世界の境界線が曖昧になっていく。
「紡!」
後ろから、息を切らして私を呼ぶ声がした。
懐かしい、私をいつも守ってくれる声。
「望ちゃん……!」
振り返ると、そこには血相を変えて私を探し回っていたであろう望が立っていた。
彼の姿を見た瞬間、堰を切ったように、今まで堪えていた涙があふれ出た。
私は引き寄せられるようにして、駆け寄ってきた望の大きな体に抱きついた。
「う、あ……あぁぁ……!」
もう、言葉にならなかった。私はまるで小さな子供のように、大声を上げて、しゃくり上げながら激しく泣いた。胸が張り裂けそうで、息がうまくできなかった。
望は何も言わなかった。ただ、しっかりと、私の震える体をその腕で受け止め、壊れないように抱きしめてくれた。変わらないぬくもりだけが、私を現実の世界に引き留めてくれていた。
私の右の手の中には、理玖が最期に遺した一通の手紙が、くしゃくしゃにならないように、けれど手放さないように強く握りしめられている。
この手紙を、真っ直ぐな気持ちで読める日が、いつか来るのだろうか。
理玖が遺してくれた想いと、ちゃんと向き合える強さを、私は持てるのだろうか。
それから数日が経っても、世界の解像度は低いままだった。
朝が来れば太陽は無情に昇り、学校のチャイムはいつもと同じ規則正しさで鳴り響く。廊下を行き交う生徒たちのくだらない雑談も、弾けるような笑い声も、何事もなかったかのように私の横を通り過ぎていく。
それが酷く不条理に思えて仕方がなかった。世界ごと置いてけぼりにされたような強い孤独感が、常に私の足元に、濃い影のように張り付いていた。
教室の窓から見える青空が、やけに眩しい。それがかえって、私の目にはひどく虚しく映った。
――世界はこんなにも簡単に、大切な人を過去にしていく。
自分の部屋に戻ると、机の上にぽつんと置かれた一通の白い封筒に、嫌でも視線が吸い寄せられた。
宛名に書かれた、理玖の、少し癖のある不器用な文字。
あの日から、私は一度もその手紙に触れていない。開くのが、どうしても怖かった。そこに並ぶ理玖の言葉を頭の中で再生してしまったら、彼がもう本当にこの世にいないのだと、心ではなく「事実」として脳に完全に刻み込まれてしまう気がしたからだ。
「ねえ、理玖。私はまだ、ここにいるよ」
ぽつりと言葉にしてみても、声は狭い部屋の壁に跳ね返って虚しく消えるだけだった。
買い置きしたままの、理玖の好きだったゼリーを冷蔵庫で見かけるたび、胸の奥がキリキリと、刃物で抉られるように痛む。あの日、強く握りしめて爪を立てた手のひらの傷はもう癒えかけているのに、心にぽっかりと空いた穴からは、今も冷たい隙間風が吹き抜け続けていた。
そんな私の、抜け殻のような日々に静かに寄り添い続けてくれたのは、望ちゃんだった。
望ちゃんはあの日から、無理に私を励まそうとはしなかった。「元気出せよ」とも「前を向こう」とも言わない。ただ、放課後になると当たり前のように私の隣を歩き、私が何も話さずに沈黙していても、その歩幅をぴったりと合わせてくれた。
「……紡」
ある日の放課後、帰り道にある小さな公園のベンチで、望ちゃんが私の前に温かいココアの缶を差し出した。
受け取ると、じんわりとした熱が手のひらから伝わってくる。あの日、病室で触れた理玖の最後の暖かさとは違う、今ここに生きている望ちゃんの、確かで力強いぬくもりだった。
「焦らなくていいから」
望ちゃんはベンチの背もたれに体を預け、遠くの夕焼けを見つめたまま、静かに言葉を紡いだ。
「紡がその手紙を開けられるようになるまで、ずっと横にいるからさ」
そう言って、ぶっきらぼうに、でも心底愛おしそうに私の頭をぽんと叩いた。彼の大きな手のひらの重みに、視界がじわリと熱くなる。でも、それはあの日、夕暮れの海辺で流した、胸が張り裂けそうな号泣とは少し違っていた。
手紙はまだ、机の上で眠っている。
けれど、隣にいる望ちゃんの優しい横顔を見つめながら、私は冷え切っていた自分の指先をそっと動かした。
理玖が遺してくれた想いは、きっと私を苦しめるためのものじゃない。彼が命の灯火を消すその瞬間まで、私に「生きてほしい」と願って遺してくれた、最後の光のはずだ。
すぐには無理かもしれない。明日も明後日も、まだ泣いているかもしれない。
だけど、今の私には、まだ、その白い封筒を開く覚悟がどうしても持てそうになかった。
ただ、悲しみをすべて吸い込むような激しい波の音だけが、私たちの長い沈黙を、どこまでも優しく、包み込んでいた。




