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天使が生まれた世界  作者: 大泉小


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22/22

2─6 2026年 呼ぶ声は夜風に溶けて

「手紙、読んでくれた?」

 理玖は、いつものように穏やかな声でそう尋ねた。

 耳に馴染んだはずの、優しく、どこか懐かしいその声音。けれど今の紡には、それが何十メートルも先の、遠い霧の向こうから響いてくるように感じられてならなかった。

 紡は唇をきゅっと結んだまま、ゆっくりと首を横に振る。

 手の中には、何度も握り締めたせいで無数の不格好な皺が寄った封筒があった。

 読まなければいけない。そんなことは分かっていた。

 そこにはきっと、理玖の本当の想いが、誤魔化しのない言葉で綴られているはずだから。

 けれど、読むことがどうしても怖かった。文字として白日の下に晒された言葉は、いつだって残酷なほど明確で、人が縋ろうとする曖昧な希望を容赦なく奪い去ってしまう。

 もし、もう二度と会えないのだと、はっきりと突きつけられたら。

 想像するだけで胸の奥が鋭く痛み、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。紡はただ、引き絞られるような恐怖に身をすくませ、封を切ることができずにいた。

 理玖はそんな彼女を責めることはしなかった。ただ、困ったような、それでいてすべてを見通しているかのような笑みを浮かべて、小さく微笑んだだけだった。

 冷ややかな夜風が、彼の柔らかな髪を揺らす。

 青白い月明かりに照らされたその横顔は、息をのむほど綺麗だった。けれど同時に、背景の闇に溶けてしまいそうなほど透き通っていて、あまりにも儚い。

 今にもこの世界から消えてしまいそうな理玖の姿に、紡の胸の奥で、底知れない、圧倒的な喪失感が静かに、けれど確実に広がっていく。──ああ、彼はもう、私の手の届かない場所へ行ってしまうのだ。

「そっか」

 理玖は少しだけ寂しそうに睫毛を伏せた。

 しかし、それもほんの一瞬のこと。すぐに顔を上げると、慈しむような柔らかな眼差しを紡へと向けた。

「でもね、紡」

 不意に名前を呼ばれ、紡は弾かれたように顔を上げる。

 理玖は愛おしむように目を細めていた。それはまるで、壊れやすくて、何よりも大切な宝物を見つめるような表情だった。

「紡は天使のようだった。いつも、僕を救ってくれたんだよ」

 ドクン、と紡の心臓が大きく跳ねた。

 自分はそんな立派な人間ではない。誰かの救いになれるほど、強くも気高くもない。ただ、大好きな理玖が苦しそうにしている姿を、どうしても見ていられなかっただけ。自分のエゴに過ぎないのだと。

 それなのに今、理玖はまるで揺るぎない世界の真実であるかのように告げた。

 紡がそこにいてくれたから、自分は救われたのだ、と。

 その微笑みがあまりにも優しく、あまりにも幸福に満ちていたからこそ──紡のなかの恐怖は極限に達した。彼がいなくなるという事実が、形を持った絶望となって胸を支配する。

 胸の奥が、ぎゅうぎゅうと音を立てて締め付けられる。

 理玖のその言葉が、まるでこの世界に残す「最後の足跡」のように思えてならなかった。

「そんなこと……っ」

 言葉が、あとに続かない。

 視界が急激に滲み、理玖の輪郭がゆらゆらと、陽炎のように曖昧になっていく。

 紡は衝動に突き動かされるように手を伸ばした。そして、彼の細い手首を、縋るようにぎゅっと握り締める。

 冷たくなっているだろうと思い込んでいたその肌は、不思議なほど、痛いほどに温かかった。

 その温もりが、あの日の記憶を鮮烈に呼び起こす。

「思い出した?あの日、寝てる紡に僕がキスしたこと」

「……えっ?」

「僕、あれがファーストキスだった。初恋の人と想いあえて、僕はずっと幸せだったよ」

「理玖……」

 紡の震える声が、夜の静寂に零れ落ちる。ポロポロと、大粒の涙が頬を伝った。

「行かないでよ……お願いだから……!」

 理玖は何も答えなかった。

 ただ、静かに紡を見つめ返している。その深い瞳の奥には、変わらない優しさと、そして言葉にならない微かな悲しみが沈んでいた。それは、どうしても覆すことのできない残酷な運命を、すべて受け入れてしまった者の瞳だった。

 紡は狂ったように首を振る。

 そんな、すべてを諦めたような顔をしないでほしかった。もっと生にしがみついてほしかった。子供のようにわがままを言って、「死にたくない」「ここにいたい」と、声を大にして叫んでほしかった。

 けれど、理玖はただ穏やかに微笑み続けるだけだった。

 その時だった。

「紡ー! 何してるの、紡ーっ!」

 遠くから、静まり返った夜の帳を切り裂くような大声が響いた。

 聞き慣れた、望の声だった。

 同時に、どこからともなく突風が吹き抜ける。周囲の木々が激しく身をよじり、ザワザワと騒がしい葉擦れの音が世界を満たした。

 あまりの風の冷たさに、紡は思わず目を閉じる。

 ほんの一瞬、光を失っただけの刹那だった。けれど、再び目を開けた時には、世界のすべてが変貌していた。

 握り締めていたはずの手の感触が、みるみるうちに薄れていく。

 指の間から、乾いた砂がさらさらと零れ落ちていくように、確実な喪失がそこにあった。あの日交わしたキスの温もりさえも、すべてこの夜の闇へと奪い去られていく。

「理玖……?」

 掠れた声で呼びかける。

 理玖の身体は、淡い、蛍のような光を帯び始めていた。月明かりの青白さに溶け込むように、その存在自体がかすかに揺らめいている。

 紡は慌てて、もう一度両手を伸ばした。けれど、その指先が掴んだのは、冷たい夜の空気だけだった。

「嫌……っ! 理玖!!」

 涙で視界は完全に塞がれていた。

 理玖は、最後の瞬間まで微笑んでいた。残される彼女を悲しませないように、安心させるように。だが、その底なしの優しさが、今の紡にはどうしようもなく残酷で、苦しかった。

 光の渦の中で、彼は静かに、けれど確かにこう言った。

「紡が、生まれた世界に生きててよかった」

 その言葉だけをこの世に残して、理玖の姿は夜空の彼方へと溶けていった。

 まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。

 きらきらとした光の粒だけが名残惜しそうに風に舞い、やがてそれさえも、完全に消えた。

 残された紡の手のひらには、もう、何の温もりもなかった。世界から彼という色彩が完全に失われ、ただぽっかりと、底の抜けたような大きな喪失感だけが紡の心に居座った。

「紡!」

 背後から激しい足音が近づき、望が駆け寄ってきた。

 肩で荒い息を繰り返しながら、望は困惑と不安の入り混じった表情で紡を見つめる。

「嘘、パジャマじゃない……それにサンダルだし。何があったの?」

 その現実的な声を耳にした瞬間、紡の中で張り詰めていた見えない糸が、音を立てて千切れた。

 紡は振り返り、望の胸へと飛び込んだ。全力でその身体に縋りつく。

「っ……、う、あ……!」

 言葉にならない。

 苦しくて、悲しくて、寂しくて、胸の中を埋め尽くす濁流のような感情が、喉の奥から嗚咽となって溢れ出す。

 もう、会えないのだ。

 あの優しい声を聞くことも、くだらないことで笑い合うことも、あの日みたいに、愛おしさに震えながら口づけを交わすことも、二度と叶わない。

 理玖がこの世界から完全に消え去ってしまったという現実が、今、猛烈な重さの喪失感となって紡の全身に突きつけられていた。

 紡は子供のように声を上げて泣いた。

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も、何度も, 心の中で理玖の名前を叫び続けた。

 望は、それ以上何も尋ねなかった。ただ、痛いほどの力で紡を抱きしめ返し、溢れる涙を受け止めるように、静かにその背中を撫で続けてくれた。その不器用な優しさが、さらに紡の涙を誘った。

 どれほどの時間が流れただろう。

 東の空がわずかに白み始め、紡の涙がようやく涸れかけた頃、望がふと視線を落とした。

「それ……もしかして、読んだの?」

 言われて、紡もつられて自分の手元を見る。

 そこには、一通の手紙が握られていた。

 理玖から託され、読むことを恐れて何度もためらった、あの手紙だ。

 封筒は涙と汗でくしゃくしゃにふやけていた。そして──いつの間にか、その封は綺麗に開かれていた。

 紡は目を見開く。

 いつ開けたのか、記憶にない。文字を追った確かな感覚も、頭の中には残っていなかった。

 けれど、不思議なほどに、理玖の「想い」だけが胸の奥に灯火のように居座っていた。

 目で文字を読まなくとも、そこに綴られていた温かい気持ちが、魂を通じて確かに伝わっていた。

『ありがとう。出会ってくれて』

『一緒に笑ってくれて』

『僕を見つけてくれて』

 耳元で、理玖の声が優しく囁いたような気がした。

 紡はそっと、その愛おしい紙片を胸へと抱きしめる。

 紙そのものに物理的な温もりなど残っていないはずなのに、不思議と、凍てついていた心がじんわりと温められていくのを感じた。

 涙で滲む視界の向こう、夜が明ける直前の深い濃紺の空には、無数の星たちが最期の輝きを放っていた。

 理玖も、あの場所から私を見ているだろうか。

 そう思うと、胸を突き刺す強烈な喪失感の隙間に、ほんの少しだけ前を向くための力が湧いてくる気がした。

「私も……」

 紡は静かに空を見上げる。

 頬を伝う涙はまだ止まらない。それでも、紡ぎ出された声は、驚くほど穏やかに響いた。

「理玖が生まれた世界に生きててよかった」

 ぽつりと呟いた言葉は、朝一番の澄んだ風に乗って、遥か高い空へと運ばれていく。

 もちろん、返事はない。もう二度と、あの声を聞くことはできない。その温もりを確かめることはできない。

 それでも、今の言葉は確かに彼のもとへ届いたのだと、確信に似た思いが胸を満たしていた。

 誰よりも優しくて、誰よりも愛しかった人。

 理玖というかけがえのない存在が確かに生きたこの世界は、彼がいなくなったあとも、残酷なほど何事もなかったかのように続いていく。

 すぐに朝が来て、また新しい季節が巡り、人々はそれぞれの日常を忙しなく生きるだろう。

 その日常の中に、もう理玖の姿はない。

 けれど、彼が残してくれた想いは、紡の心の中で永遠に消えることはない。

 この先も、彼を失った悲しみや寂しさが完全に消えてなくなることなどないだろう。ふとした瞬間に彼の笑顔を思い出して、胸をかきむしられるような喪失感に涙する日も、きっとある。

 それでも。

 それでも、紡は歩いていこうと思った。

 理玖が愛してくれたこの世界を。理玖が確かに命を燃やしたこの世界を。

 他でもない、自分の足で。しっかりと前を向いて。

 空の向こうで微笑んでいる彼に、いつか胸を張って会えるように。

 紡は胸に手紙を大切に抱きしめたまま、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 

 天使が生まれた世界で、これからも私は生き続ける。


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