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天使が生まれた世界  作者: 大泉小


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20/22

1─15 2024年 幸せだった

2024年

 病院から一歩外へ出ると、張り詰めた冬の空気が容赦なく肌を刺した。冷たい大気を肺いっぱいに吸い込んでも、胸の奥に渦巻く得体の知れない恐怖と焦燥感は消えてくれない。視界が急速ににじみ、世界が歪んでいく。

「紡? どうした?」

 不意に、聞き慣れた温かい声が鼓膜を震わせた。

 顔を上げると、白く濁る息の向こうに望が立っていた。こちらの異変に気づき、大きな歩幅で駆け寄ってくる。その顔には、隠しようのない心配の色が浮かんでいた。

 いつもと変わらない、実直で優しい望の姿。それを見た瞬間、私の心の中で限界まで張り詰めていた一本の糸が、音を立ててぷつりと切れた。

「望、ちゃん……」

 声にならぬ声を漏らしながら、私は望の肩に頭を乗せ、崩れ落ちるようにしてその体に寄りかかった。自分の足で立っていることさえ、もう限界だった。

「なんで? なんでなの……?」

 問いかけた言葉は、誰に向けられたものかも分からなかった。理玖の残酷な運命に対してなのか、それとも自分の無力さに対してなのか。

 溢れ出す涙は止まることを知らず、視界をぐしゃぐしゃに濡らしていく。冷たい風に吹かれて、頬を伝う涙が痛いほど冷えていく。

 望は、何があったのかを一切尋ねなかった。「どうしたの」とも「何があったの」とも言わず、ただ大きな両手で、私の頼りない背中を何度も、何度も、静かに撫で続けてくれた。

 トントンと規則的に刻まれるその手の温もりだけが、今にも消えてしまいそうな私を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。


 翌日。冬の柔らかな木漏れ日が行き交う白い廊下を歩き、私はその病室の前で立ち止まった。深く息を吸い込み、乱れそうになる呼吸を整える。昨日、泣き腫らした目はまだ少し重かったけれど、もう迷っている時間はなかった。

 意を決して、静かにスライド式のドアを開ける。

「うわっ、来るなら言ってよ」

 ベッドの上に上半身を起こしていた理玖が、驚いたように目を丸くした。手元にあった本を慌ててシーツの上に置き、こちらを見つめている。

 私は努めて平静を装いながら、フッと小さく息を漏らして見せた。わざと呆れたような口調を作る。

「連絡先も知らないのに、どうやって言うの」

「あはは、それもそうだね。僕、スマホ持ってないし」

 理玖は悪びれる様子もなく、いつものように無邪気に笑った。その笑顔は、彼が重い病を抱えていることなど忘れさせてしまうほど、透明で、あまりにも綺麗だった。

 私はベッドの脇に用意されている、無機質なスチール製のパイプ椅子を引き寄せ、腰をかけた。そして、腰を落ち着けると同時に、ベッドに横たわる理玖の瞳を、まっすぐに見つめた。

 彼の白い肌、少し細くなった肩、そしてすべてを見透かすような澄んだ目。

 もう、躊躇している暇はない。明日が来るなんて保証は、どこにもないのだから。

「理玖、好きだよ」

 飾らない、私の直球な言葉。

 理玖は一瞬、何を言われたのか理解できないというように呆然としたが、次の瞬間にはあからさまに私から視線を逸らした。

 病人特有の白い肌に反して、彼の耳がみるみるうちに真っ赤に染まっていくのが分かった。理玖は布団の端をぎゅっと握りしめ、消え入りそうな声を出した。

「それは……僕が『天使ちゃん』だから?」

 冗談めかして、からかうような言い方。けれどその声のトーンには、どこか壊れやすい硝子のような、自信なさげな響きが混ざっていた。

 私は優しく微笑んで、ゆっくりと首を振った。

「理玖だからだよ」

 一呼吸置いて、胸の奥底に固く沈殿していた、本当の本音を言葉に乗せる。

「あの日の私はね、理玖を失うのが怖くて、あなたをこの世界に引き止めるために告白した。けど、今は違う。理玖の優しさを知って、理玖の弱さを知って、心の底から理玖という一人の人間が好きだから……だからこうして、もう一度告白してるんだよ」

「……そんな直球に言われると、さすがに照れるね」

 理玖は困ったように眉を下げ、ふにゃりと笑った。けれど、その目はすぐに少しだけ寂しそうな、遠くを見るような色を帯びる。

「でも、僕はすぐに死んじゃうよ。だから、僕なんかじゃなくて、もっと他に、君を幸せにできる別の人──」

「嫌だ」

 彼の言葉を遮るように、私の口から強い声が出た。自分でも驚くほど、毅然とした声だった。

「なんで、まだ生きてるのに、まだ返事も聞いてないのに、最初から諦めないといけないの? 私は理玖が好きなの。未来のことなんて関係ない」

 真っ直ぐに想いをぶつける私に、理玖はとうとう降参したように、優しく笑った。

「確かにそうだね」

「……で、返事は?」

 さらに一歩踏み込んで詰め寄ると、理玖は再び私から視線を逸らした。その横顔、耳の根元は、さっきよりもずっと、林檎のように赤くなっている。

 彼は小さくモゴモゴと口を動かした後、意を決したように蚊の鳴くような声で呟いた。

「……僕も……好き、だよ」

 その言葉が彼の口から零れ落ちた瞬間、胸の奥にポッと灯火が宿ったような温かさが広がった。嬉しくて、愛おしくて、私は心の底からの笑みを浮かべた。

「理玖のこと、大好きだよ」

 私がダメ押しのように重ねて言うと、理玖はとうとう耐えきれなくなったらしい。

「もう勘弁して!」とでも言うように、恥ずかしそうに布団を頭まで引っかぶり、顔を完全に伏せてしまった。ベッドの上が小さく丸まっているのを見て、私は愛おしさが止まらなかった。


 それからというもの、私の生活の中心にはいつも理玖がいた。

「……あ、紡、そっち引いたら絶対崩れるって」

「大丈夫、私の計算ではあと1本はいける……っ、あ」

 カサッ、と軽い音がして、タワーがバランスを崩す。

「危ない!」という理玖の声と同時に、ガシャガシャと木片がベッドの上に散らばった。

 それと同時に、私の体は理玖の胸元に引き寄せられていた。

 崩れるジェンガから私を庇うように、理玖がとっさに私の肩を抱き寄せたのだ。

「……っ」

 私の鼻先が、理玖の鎖骨のあたりにすっぽりと埋まる。病院の寝具の匂いに混ざって、理玖自身の少し甘い体温の匂いがして、頭がクラクラした。

 理玖の胸から、トントン、と少し速いテンポの鼓動がダイレクトに響いてくる。

「……びっくりした」

 上から降ってきた理玖の声は、いつもより少し低くて、男の子の響きがした。

 耳元でその振動を感じて、私は顔を上げられなくなる。

 理玖の腕が、私の背中に回ったまま、少しだけ強くなった気がした。

「あのさ、紡。ジェンガはもういいから……もうちょっとだけ、このままでいて」

 そう言って、理玖は私の髪に、愛おしそうに顎を乗せた。


 またある日は、懐かしい絵本を二人で読んでいた。

「ねえ理玖、この絵本、どんなお話だったっけ」

 理玖が昔読んだという、お気に入りの古い絵本。

 ベッドの端に腰掛けた私の膝に、理玖は「んー」と言いながら、ごく自然に自分の頭を乗せてきた。

「ちょっと、理玖!?」

「何? 紡の読んでくれる声、落ち着くからさ。……ほら、早く読んで?」

 膝の上に、理玖のサラサラした髪の感触が伝わる。理玖は仰向けになって、下からじっと私の顔を見つめていた。

 そんな至近距離で見つめられたら、緊張して文字なんて読めるわけがない。

「……むかし、むかし、あるところに……」

 案の定、声が震えてしまう。

 それを見て、理玖は満足そうに口元を緩めると、そっと右手を伸ばしてきた。

 冷たい指先が、私の前髪を優しく耳に掛ける。その指先が、そのまま私の耳たぶに触れた。

「耳、真っ赤。紡、絵本読んでるだけなのに、なんでそんなに緊張してんの?」

 確信犯だ。私の反応を楽しんでいる。

 少し悔しくなって、「理玖のせいでしょ」と睨みつけようとした瞬間。

 理玖は私の手をベッドの上に引き寄せると、自分の大きな手で、指を一本ずつ絡めるようにして握りしめた。

「俺は、紡が隣にいるだけで、いっつも心臓が壊れそうなくらい緊張してるよ」

 悪戯っぽい笑みを消して、切なそうに目を細める理玖。ぎゅっと握られた手のひらから、彼の本気が伝わってきて、胸が苦しくなるほど締め付けられた。


 その日は外が激しい雨で、病室の中もどこか薄暗かった。

 看護師さんが「少し休んでね」と部屋の電気を消していったため、私たちは薄暗がりの中、2人きりで静かに過ごしていた。

「これ、最近クラスで流行ってる曲。理玖も聴く?」

 私がスマホと有線イヤホンを取り出すと、理玖は「聴く」と言って、ベッドの端にスペースを作った。

「おいで」と手招きされて、私は理玖の隣に並んで座る。

 一本のイヤホンを、片方ずつ耳につける。

 コードの長さのせいで、二人の肩と二の腕が、ぴったりと隙間なく密着した。

 動くたびに、理玖の肩の骨張った感触が腕に伝わって、それだけで曲のイントロが頭に入ってこなくなる。

「いい曲だね」

「……うん、そうだね」

 前方を見つめたまま答える私に、理玖がふっと笑った。

「嘘つき。紡、今、曲聴いてないでしょ」

「えっ、聴いてるよ!」

 慌てて振り向いた瞬間、理玖の顔がすぐ目の前にあった。

 理玖は私の左耳からイヤホンをそっと外すと、代わりに自分の唇を近づけて、音楽にかき消されそうな小さな声で囁いた。

「俺の心臓の音のほうが、うるさいと思って」

 イヤホンをしていない方の耳に、ダイレクトに届いた理玖の声。

 次の瞬間、理玖の唇が、私の耳たぶに掠れるように触れた。

 心臓が跳ね上がる私を見て、理玖は「あはは、照れるなよ」と嬉しそうに笑う。

 雨の日の薄暗い病室で、私たちの温度だけが、熱く跳ね上がっていた。

 理玖と過ごす時間は、冷たくて白い病院の壁を忘れさせるほど、鮮やかで、色とりどりの光に満ちていた。彼といるだけで、世界はこんなにも輝くのだと知った。


 ある日の午後。窓辺から差し込む斜陽が心地よくて、病室の中は穏やかな暖かさに包まれていた。

 理玖の体調が落ち着いているのを見届けてホッとしたせいか、私はパイプ椅子に座ったまま、ついうとうとと居眠りをしてしまった。

 どれくらい眠っていたのだろう。

 ふと肌寒さを感じて目を覚ますと、目の前に、至近距離の大好きな顔があった。

 理玖がベッドから身を乗り出すようにして、私の顔を覗き込んでいたのだ。

 驚いて声を上げそうになった瞬間、そっと頬に、理玖の掌の柔らかな暖かさが触れた。

「あ……」

 声にならない吐息が漏れる。少しカサついているけれど、愛おしい、彼の体温。

 理玖の長い睫毛が揺れ、その切れ長の瞳が、じっと私の唇から目元へと、愛おしそうに移動していくのが分かった。逃げ出したいほどの沈黙の中、理玖の親指が、私の頬をゆっくりと優しく撫でる。

 心臓がドクン、と大きな音を立てた。あまりの距離の近さに、理玖の甘い香りと、お互いの吐息が混ざり合う。

「紡」

 鼓膜に直接響くような、低くて、少し掠れた声。

 理玖は私を捕らえて離さない視線のまま、さらに顔を近づけ、耳元でぽつりと囁いた。

「好きだよ」

 悪戯っぽく、だけど心の奥を全部曝け出すような、優しく熱い響き。

 今度は私の顔が、沸騰したように真っ赤に染まる番だった。一瞬、本当にキスをされるのかと思ってギュッと目を瞑ってしまい、そんな自分への恥ずかしさを隠すために、私はわざとジト目で彼を睨みつけた。

「……っ、何かした!?」

「いびきかいてたし、ちょっとよだれも垂れてたよ」

「最低!」

 私が顔を真っ赤にして、慌ててハンカチで口元を拭う。

 理玖は私の分かりやすい反応を面白そうに見つめ、それから本当に嬉しそうにケラケラと声を上げて笑った。

「嘘だよ。嘘。……可愛すぎて、ずっと見てた」

 不意打ちの言葉に、ハンカチを握ったまま完全にフリーズする私を見て、理玖はさらに満足そうに微笑む。その少年のような、屈託のない笑顔を見つめながら、私は祈っていた。

 この時間が、この笑顔が、この愛おしい手の温もりが、ずっと、ずっと永遠に続けばいいのに。

 心の底から、神様がどこかにいるなら縋り付くような思いで、激しく脈打つ胸の痛みに耐えながら、私はただ願っていた。

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