1─15 2024年 幸せだった
2024年
病院から一歩外へ出ると、張り詰めた冬の空気が容赦なく肌を刺した。冷たい大気を肺いっぱいに吸い込んでも、胸の奥に渦巻く得体の知れない恐怖と焦燥感は消えてくれない。視界が急速ににじみ、世界が歪んでいく。
「紡? どうした?」
不意に、聞き慣れた温かい声が鼓膜を震わせた。
顔を上げると、白く濁る息の向こうに望が立っていた。こちらの異変に気づき、大きな歩幅で駆け寄ってくる。その顔には、隠しようのない心配の色が浮かんでいた。
いつもと変わらない、実直で優しい望の姿。それを見た瞬間、私の心の中で限界まで張り詰めていた一本の糸が、音を立ててぷつりと切れた。
「望、ちゃん……」
声にならぬ声を漏らしながら、私は望の肩に頭を乗せ、崩れ落ちるようにしてその体に寄りかかった。自分の足で立っていることさえ、もう限界だった。
「なんで? なんでなの……?」
問いかけた言葉は、誰に向けられたものかも分からなかった。理玖の残酷な運命に対してなのか、それとも自分の無力さに対してなのか。
溢れ出す涙は止まることを知らず、視界をぐしゃぐしゃに濡らしていく。冷たい風に吹かれて、頬を伝う涙が痛いほど冷えていく。
望は、何があったのかを一切尋ねなかった。「どうしたの」とも「何があったの」とも言わず、ただ大きな両手で、私の頼りない背中を何度も、何度も、静かに撫で続けてくれた。
トントンと規則的に刻まれるその手の温もりだけが、今にも消えてしまいそうな私を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。
翌日。冬の柔らかな木漏れ日が行き交う白い廊下を歩き、私はその病室の前で立ち止まった。深く息を吸い込み、乱れそうになる呼吸を整える。昨日、泣き腫らした目はまだ少し重かったけれど、もう迷っている時間はなかった。
意を決して、静かにスライド式のドアを開ける。
「うわっ、来るなら言ってよ」
ベッドの上に上半身を起こしていた理玖が、驚いたように目を丸くした。手元にあった本を慌ててシーツの上に置き、こちらを見つめている。
私は努めて平静を装いながら、フッと小さく息を漏らして見せた。わざと呆れたような口調を作る。
「連絡先も知らないのに、どうやって言うの」
「あはは、それもそうだね。僕、スマホ持ってないし」
理玖は悪びれる様子もなく、いつものように無邪気に笑った。その笑顔は、彼が重い病を抱えていることなど忘れさせてしまうほど、透明で、あまりにも綺麗だった。
私はベッドの脇に用意されている、無機質なスチール製のパイプ椅子を引き寄せ、腰をかけた。そして、腰を落ち着けると同時に、ベッドに横たわる理玖の瞳を、まっすぐに見つめた。
彼の白い肌、少し細くなった肩、そしてすべてを見透かすような澄んだ目。
もう、躊躇している暇はない。明日が来るなんて保証は、どこにもないのだから。
「理玖、好きだよ」
飾らない、私の直球な言葉。
理玖は一瞬、何を言われたのか理解できないというように呆然としたが、次の瞬間にはあからさまに私から視線を逸らした。
病人特有の白い肌に反して、彼の耳がみるみるうちに真っ赤に染まっていくのが分かった。理玖は布団の端をぎゅっと握りしめ、消え入りそうな声を出した。
「それは……僕が『天使ちゃん』だから?」
冗談めかして、からかうような言い方。けれどその声のトーンには、どこか壊れやすい硝子のような、自信なさげな響きが混ざっていた。
私は優しく微笑んで、ゆっくりと首を振った。
「理玖だからだよ」
一呼吸置いて、胸の奥底に固く沈殿していた、本当の本音を言葉に乗せる。
「あの日の私はね、理玖を失うのが怖くて、あなたをこの世界に引き止めるために告白した。けど、今は違う。理玖の優しさを知って、理玖の弱さを知って、心の底から理玖という一人の人間が好きだから……だからこうして、もう一度告白してるんだよ」
「……そんな直球に言われると、さすがに照れるね」
理玖は困ったように眉を下げ、ふにゃりと笑った。けれど、その目はすぐに少しだけ寂しそうな、遠くを見るような色を帯びる。
「でも、僕はすぐに死んじゃうよ。だから、僕なんかじゃなくて、もっと他に、君を幸せにできる別の人──」
「嫌だ」
彼の言葉を遮るように、私の口から強い声が出た。自分でも驚くほど、毅然とした声だった。
「なんで、まだ生きてるのに、まだ返事も聞いてないのに、最初から諦めないといけないの? 私は理玖が好きなの。未来のことなんて関係ない」
真っ直ぐに想いをぶつける私に、理玖はとうとう降参したように、優しく笑った。
「確かにそうだね」
「……で、返事は?」
さらに一歩踏み込んで詰め寄ると、理玖は再び私から視線を逸らした。その横顔、耳の根元は、さっきよりもずっと、林檎のように赤くなっている。
彼は小さくモゴモゴと口を動かした後、意を決したように蚊の鳴くような声で呟いた。
「……僕も……好き、だよ」
その言葉が彼の口から零れ落ちた瞬間、胸の奥にポッと灯火が宿ったような温かさが広がった。嬉しくて、愛おしくて、私は心の底からの笑みを浮かべた。
「理玖のこと、大好きだよ」
私がダメ押しのように重ねて言うと、理玖はとうとう耐えきれなくなったらしい。
「もう勘弁して!」とでも言うように、恥ずかしそうに布団を頭まで引っかぶり、顔を完全に伏せてしまった。ベッドの上が小さく丸まっているのを見て、私は愛おしさが止まらなかった。
それからというもの、私の生活の中心にはいつも理玖がいた。
「……あ、紡、そっち引いたら絶対崩れるって」
「大丈夫、私の計算ではあと1本はいける……っ、あ」
カサッ、と軽い音がして、タワーがバランスを崩す。
「危ない!」という理玖の声と同時に、ガシャガシャと木片がベッドの上に散らばった。
それと同時に、私の体は理玖の胸元に引き寄せられていた。
崩れるジェンガから私を庇うように、理玖がとっさに私の肩を抱き寄せたのだ。
「……っ」
私の鼻先が、理玖の鎖骨のあたりにすっぽりと埋まる。病院の寝具の匂いに混ざって、理玖自身の少し甘い体温の匂いがして、頭がクラクラした。
理玖の胸から、トントン、と少し速いテンポの鼓動がダイレクトに響いてくる。
「……びっくりした」
上から降ってきた理玖の声は、いつもより少し低くて、男の子の響きがした。
耳元でその振動を感じて、私は顔を上げられなくなる。
理玖の腕が、私の背中に回ったまま、少しだけ強くなった気がした。
「あのさ、紡。ジェンガはもういいから……もうちょっとだけ、このままでいて」
そう言って、理玖は私の髪に、愛おしそうに顎を乗せた。
またある日は、懐かしい絵本を二人で読んでいた。
「ねえ理玖、この絵本、どんなお話だったっけ」
理玖が昔読んだという、お気に入りの古い絵本。
ベッドの端に腰掛けた私の膝に、理玖は「んー」と言いながら、ごく自然に自分の頭を乗せてきた。
「ちょっと、理玖!?」
「何? 紡の読んでくれる声、落ち着くからさ。……ほら、早く読んで?」
膝の上に、理玖のサラサラした髪の感触が伝わる。理玖は仰向けになって、下からじっと私の顔を見つめていた。
そんな至近距離で見つめられたら、緊張して文字なんて読めるわけがない。
「……むかし、むかし、あるところに……」
案の定、声が震えてしまう。
それを見て、理玖は満足そうに口元を緩めると、そっと右手を伸ばしてきた。
冷たい指先が、私の前髪を優しく耳に掛ける。その指先が、そのまま私の耳たぶに触れた。
「耳、真っ赤。紡、絵本読んでるだけなのに、なんでそんなに緊張してんの?」
確信犯だ。私の反応を楽しんでいる。
少し悔しくなって、「理玖のせいでしょ」と睨みつけようとした瞬間。
理玖は私の手をベッドの上に引き寄せると、自分の大きな手で、指を一本ずつ絡めるようにして握りしめた。
「俺は、紡が隣にいるだけで、いっつも心臓が壊れそうなくらい緊張してるよ」
悪戯っぽい笑みを消して、切なそうに目を細める理玖。ぎゅっと握られた手のひらから、彼の本気が伝わってきて、胸が苦しくなるほど締め付けられた。
その日は外が激しい雨で、病室の中もどこか薄暗かった。
看護師さんが「少し休んでね」と部屋の電気を消していったため、私たちは薄暗がりの中、2人きりで静かに過ごしていた。
「これ、最近クラスで流行ってる曲。理玖も聴く?」
私がスマホと有線イヤホンを取り出すと、理玖は「聴く」と言って、ベッドの端にスペースを作った。
「おいで」と手招きされて、私は理玖の隣に並んで座る。
一本のイヤホンを、片方ずつ耳につける。
コードの長さのせいで、二人の肩と二の腕が、ぴったりと隙間なく密着した。
動くたびに、理玖の肩の骨張った感触が腕に伝わって、それだけで曲のイントロが頭に入ってこなくなる。
「いい曲だね」
「……うん、そうだね」
前方を見つめたまま答える私に、理玖がふっと笑った。
「嘘つき。紡、今、曲聴いてないでしょ」
「えっ、聴いてるよ!」
慌てて振り向いた瞬間、理玖の顔がすぐ目の前にあった。
理玖は私の左耳からイヤホンをそっと外すと、代わりに自分の唇を近づけて、音楽にかき消されそうな小さな声で囁いた。
「俺の心臓の音のほうが、うるさいと思って」
イヤホンをしていない方の耳に、ダイレクトに届いた理玖の声。
次の瞬間、理玖の唇が、私の耳たぶに掠れるように触れた。
心臓が跳ね上がる私を見て、理玖は「あはは、照れるなよ」と嬉しそうに笑う。
雨の日の薄暗い病室で、私たちの温度だけが、熱く跳ね上がっていた。
理玖と過ごす時間は、冷たくて白い病院の壁を忘れさせるほど、鮮やかで、色とりどりの光に満ちていた。彼といるだけで、世界はこんなにも輝くのだと知った。
ある日の午後。窓辺から差し込む斜陽が心地よくて、病室の中は穏やかな暖かさに包まれていた。
理玖の体調が落ち着いているのを見届けてホッとしたせいか、私はパイプ椅子に座ったまま、ついうとうとと居眠りをしてしまった。
どれくらい眠っていたのだろう。
ふと肌寒さを感じて目を覚ますと、目の前に、至近距離の大好きな顔があった。
理玖がベッドから身を乗り出すようにして、私の顔を覗き込んでいたのだ。
驚いて声を上げそうになった瞬間、そっと頬に、理玖の掌の柔らかな暖かさが触れた。
「あ……」
声にならない吐息が漏れる。少しカサついているけれど、愛おしい、彼の体温。
理玖の長い睫毛が揺れ、その切れ長の瞳が、じっと私の唇から目元へと、愛おしそうに移動していくのが分かった。逃げ出したいほどの沈黙の中、理玖の親指が、私の頬をゆっくりと優しく撫でる。
心臓がドクン、と大きな音を立てた。あまりの距離の近さに、理玖の甘い香りと、お互いの吐息が混ざり合う。
「紡」
鼓膜に直接響くような、低くて、少し掠れた声。
理玖は私を捕らえて離さない視線のまま、さらに顔を近づけ、耳元でぽつりと囁いた。
「好きだよ」
悪戯っぽく、だけど心の奥を全部曝け出すような、優しく熱い響き。
今度は私の顔が、沸騰したように真っ赤に染まる番だった。一瞬、本当にキスをされるのかと思ってギュッと目を瞑ってしまい、そんな自分への恥ずかしさを隠すために、私はわざとジト目で彼を睨みつけた。
「……っ、何かした!?」
「いびきかいてたし、ちょっとよだれも垂れてたよ」
「最低!」
私が顔を真っ赤にして、慌ててハンカチで口元を拭う。
理玖は私の分かりやすい反応を面白そうに見つめ、それから本当に嬉しそうにケラケラと声を上げて笑った。
「嘘だよ。嘘。……可愛すぎて、ずっと見てた」
不意打ちの言葉に、ハンカチを握ったまま完全にフリーズする私を見て、理玖はさらに満足そうに微笑む。その少年のような、屈託のない笑顔を見つめながら、私は祈っていた。
この時間が、この笑顔が、この愛おしい手の温もりが、ずっと、ずっと永遠に続けばいいのに。
心の底から、神様がどこかにいるなら縋り付くような思いで、激しく脈打つ胸の痛みに耐えながら、私はただ願っていた。




