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天使が生まれた世界  作者: 大泉小


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19/22

2─5 2026年 将来の夢

2026年

 目が覚めると、視界に飛び込んできたのは、眩しいほどに高く昇った太陽の光だった。カーテンの隙間から容赦なく差し込む白光が、網膜をちくりと刺す。紡は顔をしかめ、重い瞼をこじ開けた。

 頭がひどく重い。昨夜、夜更かしをしてしまったのが完全に祟っていた。枕元に転がっていたスマートフォンの画面をタップすると、表示されたデジタル時計の数字はすでに正午を大きく回っている。

「……理玖?」

 掠れた声で、その名前を呟いた。彼がまだ眠っているのなら、そこには穏やかな呼吸の気配があるはずだった。

 だが、家の中は奇妙なほどに静まり返っている。静寂が、冷たい質量を持って肌に張り付いてくるようだった。

 寝起きの混沌とした頭のまま、紡はベッドから飛び起き、這うようにしてリビングへと急いだ。

 そこには、誰もいなかった。

 心臓がどくんと大きく跳ねた。

「理玖! どこにいるの!?」

 返事はない。ただ、自分の声が虚しく壁に反響するだけだ。

 胸を突くような、鋭い焦燥感が全身を駆け巡る。血の気が引き、指先が急速に冷たくなっていくのが分かった。恐怖は、常に紡の心の奥底に澱のように沈んでいたものだった。それが今、一気に地表へと噴き出してきたのだ。

 紡は靴を揃える間も惜しみ、玄関に転がっていたサンダルに無理やり足を引っかけると、弾かれたように家を飛び出した。

 外の空気は、昼過ぎだというのにどこか肌寒かった。アスファルトを激しく蹴る音が、静まり返った平日の住宅街に場違いなほど大きく響き渡る。

 息が苦しい。肺が冷たい空気を吸い込んで悲鳴を上げているが、足を止めることなんて到底できなかった。向かうべき場所は、最初から一つしか頭に浮かんでいなかった。彼と出会い、彼と多くの時間を共有し、そして彼が何よりも愛していた、あの場所。

 角を曲がり、視界が急に開ける。潮の香りが混ざった風が、紡の髪を乱暴に煽った。

 息を切らせて海辺までたどり着くと、どこまでも続く水平線の手前、波打ち際にぽつんと佇む、一人の少年の背中が目に飛び込んできた。

 間違いない、理玖だ。

 白いシャツを風になびかせ、ただじっと海を見つめている。その背中はどこか寂しげで、周囲の景色から浮き上がっているようにも見えた。光の加減のせいだろうか、今にも透明になって、そのまま空気の中に溶けて消えてしまいそうな、危うい後ろ姿だった。

「理玖──!」

 声にならない叫びをあげながら、紡は砂に足を取られつつも全力で駆け寄った。一歩進むたびに、彼が幻のように消えてしまうのではないかと怖くてたまらなかった。

 距離が縮まる。あと少し。紡は勢いそのままに、彼の背中に後ろからしがみつくようにして、強く抱きついた。

「もう、どこにも行かないでよ!」

 理玖の背中に顔を強く押し当てたまま、切実な叫びが漏れる。

 抱きしめた身体は、確かにそこに存在していた。けれど、驚くほどに細く、そして少し冷たかった。紡はまるで、自分の体温をすべて彼に分け与えるかのように、腕に力を込めた。

 理玖は突然の衝撃に驚いたように、わずかに身体を揺らした。けれど、すぐにそれが紡だと気付いたのだろう。強張っていた彼の身体から、ゆっくりと力が抜けていくのが分かった。

 理玖は逃げようともせず、ただ紡の腕の中に身を委ねながら、いつもの優しい聲音で、静かに語り始めた。その視線は、抱きしめられている今もなお、どこまでも広がる青い海へと向けられているようだった。

「一人で紡が海に来てるの、病室の窓から見てたんだ」

 ぽつり、ぽつりと、理玖の口から記憶の断片が溢れ出す。それは、紡が知っているようで、完全には知り得なかった、彼の側の記憶だった。

「あの病院の上の階からさ、この海岸が見えるんだよ。紡はよく、一人でここに座って、海を眺めてた。寂しそうな背中をしてさ。それを見るたびに、僕の胸は締め付けられてたんだ」

 理玖の言葉は、静かな波の音に混ざり合っていく。

「急いで私服に着替えて、看護師さんの目を盗んで、会いに行った日もある。……でも、身体が言うことを聞かなくて、ベッドから動けない日の方がずっと多かった。会いに行きたいのに、今すぐにそこに行って抱きしめたいのに、ずっとひとりぼっちにさせてた日もあった。……あの時は、本当に辛かったな」

 過去の痛みを、まるで大切な宝物のように愛おしむようなトーンで、理玖は言葉を紡ぐ。その声には、当時の絶望やもどかしさ、そしてそれ以上に、紡に対する深い愛情が満ち満ちていた。

 紡は彼の言葉を聞きながら、胸が張り裂けそうなほどの思いだった。

 あの頃、自分だけが一人で寂しさと戦っているのだと思っていた。けれど、違ったのだ。理玖もまた、あの無機質な病室の窓から、届かない手を伸ばすようにして自分を見ていてくれたのだ。同じ痛みを、同じ寂しさを、彼はもっと過酷な状況の中で抱えていた。

 離したくなくて、消えてほしくなくて、紡は腕にさらに力を込め、ぎゅっと、壊れてしまいそうなほど強く彼を抱きしめた。

「理玖、私はここにいるよ。もう一人じゃないよ……」

 言葉にすると、涙が溢れそうだったから、紡はただ彼の背中に額を押し付けた。

 二人の間を、冷たい風がひゅっと吹き抜けていった。

 それは夏の終わりの生暖かい風ではなく、明確に秋の訪れを、そしてその先の冬を予感させるような、冷ややかな風だった。季節が確実に巡り、時間が容赦なく進んでいることを知らせるような、少し寂しい風。

 世界は止まってはくれない。どんなにこの瞬間を永遠に留めておきたいと願っても、時間は僕たちを未来へと押し流していく。

 そんな沈黙を破るように、理玖がそっと尋ねた。

「進路、決まった?」

 その問いかけは、あまりにも唐突で、けれど避けては通れない、現実の象徴のような言葉だった。

 紡は理玖の背中に顔を埋めたまま、呼吸を整え、しっかりと頷いた。

「うん。決まったよ」

 迷いはなかった。一人で悩み抜き、自分の心と向き合って、ようやく導き出した答えだった。これまでずっと、何のために生き、何のために学ぶのか、その意味を見失いそうになっていた。けれど、理玖と過ごした時間、そして彼が自分にくれた温もりが、暗闇の中で一本の道を示してくれたのだ。

 自分の未来を、これからの生きる道を、この世界で一番大切な人に伝えるために、紡は丁寧に言葉を選び、紡ぎ出した。

「学校の先生になるんだ」

 風の音が、一瞬だけ止んだような気がした。

 一瞬の間を置いて、理玖の身体からふっと完全に緊張が抜けたのが分かった。彼が張り詰めていた何かが、その言葉によって優しく解き放たれたかのようだった。

「そっか」

 理玖の声が、微かに震えていた。それは悲しみからではなく、純粋な喜びと、そしてどこか誇らしげな感情が混ざり合った、温かい震えだった。

「紡はきっと、いい先生になるよ。ううん、絶対になる」

 理玖はそう言うと、紡の腕の中でゆっくりと身体を反転させ、振り返った。

 紡はしぶしぶ腕の力を緩め、けれど彼の衣服を掴んだまま、理玖と正面から視線を合わせた。

 すぐ目の前にある理玖の瞳は、まるで秋の澄んだ空のように綺麗だった。そしてその奥には、言葉では表現しきれないほどの、溢れんばかりの慈愛が満ちていた。紡のすべてを受け入れ、肯定してくれるような、絶対的な優しさがそこにあった。

「だって、紡は暖かいから」

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