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天使が生まれた世界  作者: 大泉小


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18/22

1─14 2024年 暖かな嘘と本当

2024年

 夕暮れ時の帰り道は、どこか切なさを孕んだオレンジ色に染まっていた。アスファルトに長く伸びる二つの影を見つめながら、古山紡は心ここにあらずといった様子で歩みを進める。その隣を歩く親友の望は、普段通りの快活な足取りだったが、ふと紡の様子がいつもと違うことに気がついた。どこか遠くを見るような、記憶の深淵を彷徨っているような、そんな横顔。

 紡の頭の中には、幼い頃の記憶が、波のように寄せては返していた。ざざん、ざざんと耳の奥で鳴り響くのは、かつて毎日のように通っていたあの懐かしい海辺の羽音だ。そこで出会い、言葉を交わすこともなく、ただ一緒に笑い合っていた大切な存在。

 歩きながら、紡は胸の奥から溢れ出そうになる感情を抑えきれず、不意に、しかし確かな重みを持って声をあげた。

「……天使ちゃん」

 その唐突な響きに、望は驚いてぱちくりと目を瞬かせた。前触れのないその単語が、一体何を指しているのかすぐには理解できなかったのだ。望は歩みを止めることなく、尋ねる。

「天使ちゃん? 何それ、可愛いあだ名。誰のこと?」

「あの海辺でね、昔よく一緒に遊んでた女の子」

 紡はぽつりぽつりと、まるで絡まった糸を一本ずつ丁寧に解きほぐしていくように、記憶を紐解きながら言葉を紡いでいく。その声は小さく、夕暮れの心地よい風に混じって消えてしまいそうだった。

「その子の弟が……前に、私とデートした人」

 紡の口から飛び出した予想外の繋がりに、望は「えー! そうなの!?」と声を裏返らせて驚きに目を丸くした。それまでののんびりとした歩調をあからさまに緩め、紡の顔をまじまじと見つめる。

「ちょっと待って、そんな漫画みたいな偶然ある!? ええっと、前に言ってた、あのちょっと気になるって言ってた男の子のことだよね? なんて名前の人だっけ?」

「奥野……理玖」

 その名を口にした途端、紡の視線はまるで重力に逆らえなくなったかのように、所在なげに足元へと落ちてしまった。自分の靴の先を見つめる紡の表情は、夕闇の影も手伝って、ひどく暗く沈んで見える。望はそんな紡の様子を心配そうに覗き込んだ。

「前にその人の話を聞いた時はさ、なんでもないような、ただの男友達の話をしてるみたいな顔してたけど……。今の紡、なんかすごく寂しそうだね」

「そうかな?」

 紡は無理に微笑もうとしたが、その口元はかすかに震えていた。自分の心の変化に、自分自身が一番戸惑っているようだった。そんな親友の繊細な心の揺れ動きを、望は見逃さなかった。

「きっと、もう、紡にとって奥野理玖は、ただの過去の知り合いとかじゃなくて、大切で、大好きな人なんだね」

 真っ直ぐで、一切の飾り気のない望の言葉が、紡の胸の最も柔らかい場所に深く突き刺さる。図星を突かれたというよりも、自分がずっと目を背けようとしていた真実を白日の下に晒されたような、そんな衝撃だった。

「……もう、振られたのに。今更、気づくなんて」

 後悔の色を濃く滲ませ、今にも泣き出しそうな声を絞り出す紡。そんな彼女の華奢な肩に、望はそっと優しく、しかし確かな温もりを伝えるように手を置いた。

「あの時にした告白は、きっと届いてないよ。奥野理玖の心には、まだちゃんと伝わってないと思うな。だって、あの時の紡は、まだ自分の気持ちに確信が持ててなかったでしょ? まだ彼のことを心の底から好きだって、自分で認められてなかったから。だから言葉に迷いがあったんだよ。でも、今の紡なら――色んなことを思い出して、自分の気持ちに向き合えた今の紡なら、きっとまっすぐに言えるよ」

 望はそう言うと、弾かれたように一歩前に出て、力強く紡の方を振り返った。その瞳には、親友の後押しをしようという強い意志が宿っている。

「心の底から好きだって、今なら全力で伝えられるよ!」

 そこで望はピタリと足を止めると、いたずらっぽく、そして最高に頼もしい笑顔を浮かべた。

「じゃあ、探そっか。奥野理玖」

「えっ? どうやって?」

 あまりにも突然で無鉄砲な提案に、紡は思考が追いつかず戸惑いの声を漏らす。連絡先も知らず、どこにいるかもわからない相手を、この広い街からどうやって見つけ出すというのだろう。そんな紡の不安を吹き飛ばすように、望はニカッと笑ってみせた。

「制服……制服だよ!今まで何度か会った中で、奥野理玖は制服を着てなかった?」

 望の言葉に、紡の記憶の引き出しが急速に回転を始める。そうだ、彼と過ごした時間、彼の姿。

「着てた。確か、西校の……」

「よし! 決まり! 西校に行こう。学校に行けば何か手がかりがあるかも!」

 望は紡の手を強く引き、夕焼けの道を走り出した。


 二人が息を切らせてたどり着いたのは、地域でも有数の進学校である西高校の正門前だった。時計の針はすでに午後五時を回っており、ちょうど部活動や放課後の補習を終えた生徒たちが、笑い合いながらまばらに校門から出てくる時間帯だった。

 望はきょろきょろとあたりを見回し、門から出てきた一人の女子生徒に目を留めると、物怖じすることなく声をかけた。

「あの、すいません! ちょっとお聞きしたいんですけど、奥野理玖くんって、まだ学校にいますか?」

 突然見知らぬ他校の生徒から声をかけられた女子生徒は、最初は少し驚いた表情を浮かべて身構えた。しかし、「奥野理玖」という名前を聞いた瞬間、すぐに何かに思い当たったようにぽんと手を打った。

「あ、奥野くん? 奥野くんなら、今学校にはいないですよ。三週間くらい前から、盲腸で入院してるんです」

「えっ、そうなんですか!?」

 望は驚いて紡と顔を見合わせた。まさか入院しているとは夢にも思わなかったのだ。紡もまた、ショックを受けたように目を見開いている。望はすぐに居住まいを正し、さらに詳しく尋ねた。

「実は私たち、彼の中学の時の同級生なんですけど……お見舞いに行きたくて。どこに入院してるか、教えてもらうことってできますか?」

「ええっと、確か……あの、海辺の近くにある大きな総合病院ですよ。みんなでお見舞いの寄せ書きを書いたから間違いないです」

「海辺の近くの病院……。わかりました、ありがとうございます!」

 望は丁寧に頭を下げると、お礼を言って女子生徒と別れ、少し後ろで立ち尽くしていた紡の元へと急いで駆け寄った。

「紡、聞いた!? 海辺の病院だって。あそこならここからバスですぐだよ。行こう!」


 しかし、紡の表情は晴れないどころか、ますます深い混乱の渦に飲み込まれているようだった。望に促されて歩き出しながら、海を臨む大きな病院のロビーに到着した時、紡はついに耐えかねたように困惑した声を漏らした。

「ねえ、望ちゃん……おかしいよ。私、理玖に二週間に会ったの」

「え? 盲腸で入院してるのに?」

「初めて理玖に会ったのが一ヶ月前。雨の日、デートの約束をした日にはもう盲腸で入院してたはず。それに、盲腸の入院って、普通は数日から一週間くらいだよね? 三週間もずっと入院してるなんて……」

 時系列の奇妙な矛盾と、盲腸という病名に対する違和感に、言われた望も「あ……確かに」と首を傾げた。しかし、ここでいくら考えても正解が出るはずもない。望は紡の肩を叩き、前を向かせた。

「うーん、深く考えても始まらないよ! もしかしたら長引いてるだけかもしれないし。とりあえず、奥野理玖の名前を探して、本人に直接話を聞こう。ね?」

「……うん、そうだね」

 紡は小さく頷き、二人はエレベーターで一般病棟へと向かった。

 廊下は静まり返っており、特有の消毒液の匂いが鼻を突いた。二人は外科や一般病棟の廊下を歩き、病室のドアの横に掲げられた名札を一つずつ確認していった。盲腸の患者が手配されるはずのエリアを、端から端まで念入りに探す。

 しかし──いくら歩いても、どの病室の前を探しても、「奥野理玖」という四文字の漢字は見当たらない。

「おかしいね……。盲腸で入院してるはずなのに、名前がないよ。別の階なのかな?」

 望が首を傾げながらスマホでフロアマップを確認しようとする。その横で、紡はどんどん青ざめていっていた。静まり返った白い廊下、すれ違う看護師たちの足音。周囲の冷たい空気感に耐えかねたように、紡は弱々しく首を振った。胸の奥を焦燥感と、得体の知れない恐怖が支配していく。

「望ちゃん、もういいよ……帰ろう。きっと、私の勘違いか、さっきの人が病院を間違えてたんだよ」

 諦めに似た寂しい笑顔を浮かべる紡を見て、望は胸を痛めた。ここまで来て、このまま収穫なしで帰すわけにはいかない。しかし、これ以上紡を無理に連れ回すのも酷だ。そこで望は、ふと思いついたように提案した。

「じゃあさ、せっかくここまできたんだし、紡のお母さんに会ってから帰ろう? それなら無駄足にならないでしょ?」

「……そうだね。お母さん、喜ぶと思う」

 二人は奥野理玖の捜索を一度諦め、母親の病室へと向かうため、一般病棟から別の病棟へと続く長い渡り廊下を歩き出した。窓の外には、夕日が沈みかけ、紫色に染まり始めた海が広がっている。

 その時だった。

 静かな、長く続く廊下の向こう側。緩やかなカーブを描く角を曲がろうとする、見覚えのある人影が、紡の視界の端をよぎった。

 ドクン、と胸の奥が激しく脈打つ。

 それは一瞬の出来事だったが、紡の全細胞がその影に反応していた。西高校の制服を着ていたあの時とは違う。けれど、その歩き方、その肩のライン、その髪の揺れ方。間違えるはずがなかった。

 居ても立っても居られなくなった紡は、隣を歩いていた望をパッと振り返った。その瞳には、先ほどまでの諦めは消え失せ、強い光が灯っていた。

「望ちゃん、先に帰ってて!」

「えっちょっと、紡!? 急にどうしたの!?」

 背後から響く望の驚きと引き止める声を置き去りにしたまま、紡は夢中でその人影の後を追って駆け出した。リノリウムの床を蹴る上履きの音が、静かな廊下に虚しく響く。

 後ろ姿だけでもわかる。どんなに遠くても、どんなに景色が滲んでいても、間違えるはずがない。だって、君は──私がずっと探していた、私の大切な人だから。

「待って……!」

 紡は全力を振り絞って走り、前方を歩く人影に向かって勢いよく手を伸ばした。そして、その腕を、すがるように強く掴んだ。

「……っ!」

 掴まれた拍子に、その人物が驚いたようにゆっくりと振り返る。

 そこにいたのは、間違いなく奥野理玖だった。

 しかし、紡の視界に飛び込んできた彼の姿は、彼女の記憶にある瑞々しい高校生の姿とは、あまりにも、あまりにもかけ離れていた。

 身にまとっているのは、きちんとした西高校の制服ではなく、白っぽく、サイズが少し大きく見える無機質な入院着だった。そして、紡が掴んだ彼の細い右腕には、痛々しく点滴の針が刺さっており、そこから伸びる透明なチューブが、彼が引いているキャスター付きの点滴スタンドへと繋がっている。

 何よりも紡を絶望させたのは、彼の顔色だった。かつて海辺で悪戯っぽく笑っていた面影はどこへやら、頬はこけ、肌は透き通るほどに白く、ひどく病床にやつれていた。盲腸の入院患者などという軽いものではないことが、一目で理解できてしまうほどの痛々しさだった。

 紡は目の前の残酷な現実を、どうしても受け入れることができなかった。掴んだ腕から伝わってくる体温は驚くほど低く、まるで触れただけで壊れてしまいそうな硝子のようだった。

「理玖……なんで、なんでここにいるの?」

 その腕があまりに細く、今にも自分の指の間から砂のようにサラサラと消えてしまいそうで、怖くてたまらなかった。紡の声はガタガタと激しく震え、涙が急速に視界を遮っていく。

「天使ちゃん……なんでここにいるの!」

 理玖は一瞬だけ、見つかったという驚きに大きく目を見開いた。その瞳に、かつての少年のような光が宿る。だが、それもほんの一瞬のことで、彼はすぐにすべてを諦めたような、それでいてすべてを包み込むような、切なくも優しい微笑みを浮かべた。

「見つかっちゃったか……」

 理玖は小さく息を吐くと、点滴スタンドを支えにしながら、廊下の壁際に置かれていた木製の長椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。その動作一つ一つが、彼にとって大きな負担であるかのように重苦しかった。

「ここの病室からはね、あの海がよく見えるんだ。僕たちが昔、よく遊んだ、あの海がさ」

 理玖は窓の外の紫色の海を見つめながら、静かに、まるで明日の天気を話すかのような淡々としたトーンで、恐ろしい事実を口にした。

「僕ね、癌なんだ。……もう、余命一年もないんだよ」

 その言葉は、紡の頭の上から冷水を浴びせかけられたような衝撃だった。余命一年。癌。彼の口から出た単語が、どうしても現実の言葉として脳に染み込んでいかない。

 理玖は静かにそう告げると、自分の隣の空いているスペースを、ぽんぽんと細い手で軽く叩いた。「おいで」と促すようなその仕草に、紡は震える足に無理やり力を入れ、引き寄せられるようにして彼の隣へと腰掛けた。二人の距離が近くなると、彼から微かに漂う薬品の匂いが、現実を嫌というほど突きつけてくる。

「驚かせちゃってごめんね」

 理玖は前を見つめたまま、膝の上で自分の手を握り締め、ぽつりぽつりと語り始めた。その声は、かつてデートの時に聞いたものよりもずっと掠れていたけれど、どこか懐かしい響きを持っていた。

「僕の姉はね、僕が生まれる前に死んだんだ。病気だったらしい。両親は、お姉ちゃんを亡くしたことが本当にショックで、狂ったみたいに泣いてたって。……それでね、僕は、姉が死んでから作られた子だったんだ」

 紡は息を呑んだ。理玖の過去に、そんな重い背景があったなんて、想像すらしていなかった。

「両親は、僕の中にお姉ちゃんの面影をずっと探してた。だから、僕は男の子なのに、ずっと女の子みたいに髪を伸ばされて、可愛い服を着せられて育てられたんだ。お姉ちゃんが生きてたら着るはずだった服。僕は自分のことを、死んだお姉ちゃんの『身代わり』なんだと思って生きてきた。僕という人間は、最初から存在してないんじゃないかって、ずっと苦しかった。そんな時にさ、一人で息が詰まって、海辺に逃げ出して、ぼーっと遊んでたら……紡が現れたんだ」

 理玖の瞳に、うっすらと遠い日の光景が映り込んでいるようだった。その目は、現在の病室の廊下ではなく、あの黄金色に輝く砂浜を見つめていた。

「紡はさ、僕が女の子の格好をしてるなんて気に病む様子もなく、元気な声で『私は紡!』って自己紹介してくれてさ。本当に太陽みたいな子だなって思った。でも、あの頃の僕はね、家でのストレスからか、精神的なもので上手く声が出せなくなってたんだ。だから、何も喋らない僕を見て、紡は勝手に『天使ちゃん』って呼び始めた。最初はね、男なのに天使ちゃんって何だよ、不服だな、って思ってたんだよ?」

 理玖は少しだけ悪戯っぽく笑った。その笑顔は、確かに紡の知っているあの「デートの時の理玖」だった。

「でもね、紡と一緒にいるうちに、その名前が──お姉ちゃんの身代わりじゃない、僕個人を紡が見つけてくれた、僕にとっての大切な、もう一つの名前になっていったんだ。紡といる時だけ、僕は僕でいられた」

 ふっと、理玖が寂しげに目を細め、外の景色へと視線を戻した。太陽はもうほとんど沈み、世界は急速に夜の闇へと向かっている。

「そしたらさ、急に親の転勤が決まって、引っ越すことになっちゃったんだ。紡にちゃんと伝えたかった。明日からもう来られないって。だけどさ、やっぱり声も出ないし、何より、楽しそうに笑う紡の顔を見たら、胸が苦しくなって涙があふれてきちゃって……。結局、何も言えずに、手を振ることもできずに、黙って消えてしまった。最低だよね」

 理玖は自嘲気味に、ふっと息を吐き出す。

「ずっと後悔してた。あの海辺に、紡を一人きりにしてしまったことを。だから、高校生になって、ようやくこっちの街に戻ってきた時、すぐに紡を探したんだ。でも、西高校の名簿にも、近くの高校にも『古山紡』って名前の子はいなくてさ。諦めかけてた。そんな時──この病院で、紡が診察券を忘れていって、看護師さんに名前を呼ばれるのを聞いたんだ。あの日、僕はようやく、ずっと探してた紡を見つけたんだよ」

「……診察券」

 紡は思い出した。数ヶ月前、母親のお見舞いに来た際、受付でうっかり母の診察券を落としてしまい、名前を呼ばれたことがあった。あの時、理玖はすでにこの病院にいたのだ。

「一度見つけたら、後は簡単だったよ。いつもあの海辺に佇んでいた女子高生が、僕の知っている紡だって気づくまでに時間はかからなかった。……あの日、久しぶりにちゃんと話せて、デートもできて、本当に夢みたいに嬉しかった」

 理玖はそこで言葉を区切り、少しだけ苦しそうに胸を押さえた。紡が思わず手を伸ばしかけると、彼は首を振ってそれを制し、話を続けた。

「でもね、天使ちゃんが『僕の姉』だってことにしたのは──嘘をついたのはね、紡に、僕のことを忘れてほしかったからなんだ」

「え……?」

「だって、もし天使ちゃんが僕だってことに気づいちゃったら……僕がもうすぐ死ぬって知った時、紡がものすごく悲しむでしょ? そんな顔、させたくなかった。天使ちゃんはもう、ずっと昔に死んじゃったお姉ちゃんで、今ここにいる奥野理玖とは別の人。そう思わせておけば、僕が死んでも、紡の思い出の中の天使ちゃんは綺麗なままだし、僕というただの同級生が死んでも、そこまで傷つかずに済むと思ったんだ」

 理玖は紡の顔を真っ直ぐに見つめ、いつも通りの、あの優しくて、少し困ったような笑顔を作った。その笑顔の裏に、どれほどの覚悟と悲しみが隠されていたのかを察し、紡の胸は張り裂けそうになる。

「生きてる人がさ、目の前でこれから死んでいくのを見届けるより、もうとっくに死んでたんだって思われてる方が、遺される方は気持ち的に楽でしょ? 僕は紡に、僕の死で傷ついてほしくなかったんだ。……これが、僕のついた嘘の、今までの全部」

 言い終えた理玖は、満足したように小さく息を吸い込んだ。

 その瞬間、紡の体は考えるよりも先に動いていた。

 ガタッと椅子が鳴るのも構わず、紡は理玖の細い体を、たまらず強く、壊してしまいそうなほど強く抱きしめていた。

「……っ、紡?」

 理玖の驚いた声が耳元で聞こえる。彼の体は想像以上に薄く、背中に回した紡の手には、彼の骨の感触が痛いほどに伝わってきた。

「嘘つき……! 大嫌い……、なんでそんな嘘つくの……!」

 紡の腕の中で、理玖は拒むこともせず、ただ静かに、困ったように笑っている。その胸の鼓動が、弱々しく、けれど確かに紡の肌に伝わってくる。

「楽なわけないじゃん……。そんなの、全然嬉しくないよ……。理玖に、会いたかったの。ずっと、ずっと……。天使ちゃんが理玖だって気づかなくて、ごめんね。でも、私、昔からずっと、あの海辺で離れ離れになった時から、ずっと君に会いたかったんだよ……!」

 紡の目から、堰を切ったように大粒の涙があふれ出し、止まらなくなった。大粒の涙は理玖の白っぽい入院着の肩口を、みるみるうちに濃い色へと濡らしていく。後悔と、愛おしさと、失うことへの恐怖が混ざり合った感情が、涙となって溢れて止まらない。

「理玖、そばにいてよ……」

 理玖はしばらくの間、何も言わずに、ただじっと紡の涙と激しい感情を受け止めていた。彼の肩が、紡の涙の温もりで満たされていく。

 やがて、理玖は諦めたように、そして心底愛おしそうに、目を細めた。点滴の針が刺さっていない方の左腕をゆっくりと回し、紡の背中を、包み込むように強く、強く抱きしめ返した。

「ごめんね、紡。……見つけてくれて、ありがとう」

 夕闇が完全に病院の廊下を支配し、窓の外の海は黒く深い藍色へと姿を変えていた。しかし、二人がお互いを抱きしめるその小さな空間だけは、確かな温もりと、何年もの時を超えてようやく通じ合った、本物の心の光で満たされていた。

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