1─13 2024年 身代わりの火の粉
2024年
しかし、世界はどこまでも残酷で、冷徹で、そして救いようがないほどに理不尽な場所だった。
ほんの少しの幸福を手に入れたと思った瞬間に、足元の大地が音を立てて崩れ去るような、そんな悪意が常に潜んでいる。紡がそれを身をもって知るのに、さほど長い時間は必要としなかった。
その日は、どこにでもある、ありふれた穏やかな初夏の昼下がりだった。
窓の外からは、抜けるような青空と、校庭を吹き抜ける生温かい風が教室に流れ込んできていた。紡は隣のクラスの仲田望と、いつものように中庭のベンチでお弁当を食べ終えたばかりだった。望が作ってきてくれた卵焼きの甘い余韻がまだ口の中に残っていて、紡の心はほんの少しだけ、ここ数年で最も満ち足りた時間を過ごしていた。
お弁当箱を片付けた後、「少しお手洗いに行ってくるね」と望に告げ、紡は一人で校舎の奥にある女子トイレへと向かった。それが、すべての始まりだった。
薄暗いトイレの個室に入り、鍵を閉めた時のことだ。
バタン、と小気味悪い音を立てて外の静まり返った洗面台のほうに、数人の足音が近づいてきた。それに続くようにして、鼓膜を不快に刺激する、聞き覚えのある甲高い笑い声が狭い空間に響き渡った。
紡の心臓が、ドクリと嫌な跳ね方をした。
その声の主たちを、紡は嫌というほど知っていた。クラスの中でカーストの上位に君臨し、いつも他人を値踏みするような視線で見下している、あの女子生徒たちのグループだった。普段なら関わらないように息を潜めるだけの存在。しかし、彼女たちが口にした名前に、紡の全身の血液が一瞬にして凍りついた。
「ねえ、ちょっと聞いてよ。マジでウケる話があるんだけど」
一人の女子生徒が、蛇が這い回るような粘り気のある声で切り出した。
「何? またウチのクラスの誰かの話?」
「違う違う。ほら、最近さ、古山とやたら仲良くしてる隣のクラスの女子いるじゃん。えっと、名前なんだっけ、仲田望だっけ?」
個室の中で、紡は呼吸を止めた。
心臓の音がうるさいほどに耳の奥で鳴り響く。冷や汗が背中を伝い落ちていくのが分かった。
「ああ、あのいつも古山と一緒にいる子ね。地味な補習仲間みたいなやつでしょ?」
「そうそう。ぶっちゃけさ、あの二人がいちゃいちゃしてるの、見ててマジで目障りだったんだよね。古山のくせに、何一丁前に友達作って楽しそうにしてんだよって感じじゃん。だからさ、案の定っていうか、ウチのクラスの男子にいじられててさ。それがもう、本当にウケるんだよね」
「えー、マジで!? 何それ、初耳なんだけど! 男子、何やってんの?」
「なんかね、移動教室の時に机蹴られたり、教科書とか荷物隠されたり、ノートに落書きされたりしてるらしいよ。昨日もさ、放課後に部室の裏で男子に囲まれて、なんか言われてたし」
洗面台の蛇口から流れる水の音に混じって、彼女たちの残酷な言葉が紡の耳に突き刺さる。
一言一句が、鋭利な刃物となって紡の心をズタズタに切り裂いていった。
「うわ、ウケる。でもさ、その仲田って子、どんな反応してんの? 泣いたりしてんの?」
「それがさ、全然! 何されても、何言われても、なんかヘラヘラしてんの。すいません、とか言いながら困ったみたいに笑ってるだけなんだよ。マジで反応薄くてキモくない? 普通、そこまでされたら泣くか怒るかするじゃん」
「えー、何それ、余計にイライラするやつじゃん。でもさ、それって完全に古山のせいだよね。古山と一緒にいるから、そんな目をつけられるハメになってるわけでしょ? そう考えると、仲田望って子、マジでかわいそー」
「本当それ。巻き添え食らってやんの。まあ、自業自得だけどね」
ケラケラと、高い笑い声が反響する。
彼女たちにとっては、退屈な学校生活を彩るための、ただの娯楽に過ぎないのだろう。他人の尊厳を踏みにじり、その痛みを嘲笑うことが、どれほど残酷なことか、彼女たちは想像すらしていないのだ。
足音が遠ざかり、トイレのドアが閉まる音が聞こえるまで、紡は身動き一つできなかった。
頭の中が、真っ白に染まっていく。
(望ちゃんが……いじめられてる……? 私のせいで……?)
その事実が、津波のように紡の脳内に押し寄せ、押し潰そうとしてきた。
これまで望が見せてくれていた、あの屈託のない笑顔。紡を元気づけようと、一生懸命に言葉を紡いでくれていたあの姿。その裏で、彼女がどれほどの恐怖と屈辱に耐えていたのか。それを想像しただけで、紡は吐き気を覚えた。
私が彼女を巻き込んだのだ。私という呪いが、彼女の清らかな世界を汚してしまったのだ。
女子生徒たちが完全に去っていく音が聞こえるや否や、紡は個室の鍵を乱暴に開け、飛び出した。
鏡に映る自分の顔を見る余裕すらなかった。ただ、胸の中で燃え盛る焦燥感と恐怖に突き動かされるように、紡は廊下へと飛び出した。
「あ、危ない!」とすれ違いざまに他の生徒に叫ばれたが、そんな声は耳に入らない。
紡は狂ったように廊下を走り、階段を駆け上がり、望のいる隣のクラスの教室へと向かった。心臓が破裂しそうに痛む。息が苦しい。それでも、足は止まらなかった。神様、お願いだから嘘であってくれ。彼女たちの言葉が、ただの質の悪い冗談であってくれ。そう祈りながら、紡はひたすら走った。
しかし、現実はどこまでも冷酷だった。
望の教室の前の廊下にたどり着き、開け放たれた前方のドアから中を覗き込んだ瞬間、紡は自分の目を疑った。いや、見たくなかった光景が、そこに確かに存在していた。
昼休みの賑やかな教室の片隅。
望は一人で自分の机に向かい、背中を丸めて静かに教科書を読んでいた。その周囲には、誰もいない。彼女の周りだけ、ぽっかりと空白の空間ができているかのようだった。
そこへ、クラスの中心グループと思わしき男子生徒の数人が、大声で笑いながら近づいていった。彼らは望の机の横を通り過ぎる際、避けるどころか、わざとらしく体全体で望の机にぶつかっていった。
ガタガタガタッ!!
静かな空間に、激しい音が響いた。机は大きく傾き、その上に載っていた筆箱と教科書が、床の上へと派手に転がり落ちた。
「あ、わりぃ。狭くてさ。そこにいるのが悪いんだよ」
ぶつかった男子生徒は、謝るどころか、薄汚い笑みを浮かべて仲間たちと顔を見合わせている。
周りの生徒たちも、それを止める者は誰一人としていなかった。それどころか、関わり合いになりたくないという風に目を背けるか、あるいは楽しそうにクスクスと品性のない笑い声をあげて、その光景を眺めているだけだった。
当の望はというと──。
彼女は、怒ることも、泣き叫ぶこともなかった。ただ、何も言わずに、いつもの困ったような、どこか申し訳なさそうな歪んだ笑顔を浮かべていた。そして、震える手で静かに床に落ちた筆箱を拾い、散らばった消しゴムやシャーペンを集め、机の位置を元に戻そうとしていた。
その小さな、あまりにも小さな背中が、世界中のすべての不条理を一人で背負っているかのように見えて、紡の胸の奥から、ドス黒い怒りと、耐え難いほどの後悔が同時に込み上げてきた。
視界が怒りで真っ赤に染まる。
望を傷つけるすべてのものに対する憎悪が、紡の理性を一瞬にして焼き尽くした。
「望ちゃん!!」
紡は、自分の喉が裂けるかと思うほどの声で叫びながら、教室へと乱入した。
その場の空気が一瞬にして凍りつき、クスクスと笑っていた生徒たちの視線が一斉に紡へと集まる。しかし、紡には彼らの顔などどうでもよかった。
紡は望の机の前に詰め寄ると、驚いて顔を上げた望の静止を聞く前に、その白くて細い手首をがっちりと掴んだ。
「えっ、紡ちゃん!? どうしてここに──」
「行くよ」
紡は短い言葉の中に、拒絶を許さないほどの強い意志を込めた。
そのまま、戸惑う望を引きずり出すようにして、教室から連れ出した。男子生徒たちが何か野次を飛ばしてきたような気がしたが、紡の耳には雑音にしか聞こえなかった。
紡は望の手を強く握りしめたまま、学校の校舎から走り出した。
上履きのまま、昇降口を通り抜け、外へと飛び出す。太陽の光が容赦なく二人を照らし出す。砂埃が舞う運動場を、二つの影が全力で駆け抜けていく。
「紡ちゃん、待って! どこに行くの!? まだ昼休み終わってないよ!」
望が後ろから必死に声をかけてくるが、紡は手を離さなかった。
正門を潜り抜ける時、職員室の窓から気づいたらしい先生が「これ、古山! 仲田! どこへ行くんだ!」と何か叫んでいるのが聞こえたけれど、今の紡の耳には何も届かなかった。世界から音が消え、ただ自分の荒い呼吸と、繋いだ望の手の温もりだけが確かに存在していた。
ただ、この場所から離れなければならない。
望を、あの地獄のような教室から、悪意に満ちた人間の巣窟から、一刻も早く連れ出さなければならない。その一心だけで、紡は足を動かし続けた。上履きの薄い底を通して、アスファルトの硬さと熱さがダイレクトに伝わってくるが、そんな痛みなど、望の心の痛みに比べれば無に等しかった。
どれくらい走り続けたか。記憶はない。
住宅街を抜け、坂道を下り、遮るもののない風の匂いが変わった。
気がつくと、二人はあの静かな海辺へと辿り着いていた。
かつて理玖と一緒に訪れた、あの誰もいない海岸。
ザザァン、と静かな波の音が二人の到着を歓迎するように響く。
上履きの隙間にザリザリと容赦なく砂が入り込んでくるのも構わず、紡は砂浜の真ん中まで進み、そこでようやく足を止めた。
繋いでいた手を離すと、望はその場にへたり込むようにして、肩で激しく息を乱した。
「はぁ、はぁ……っ、紡ちゃん……急に、どうしたの……? 学校を、抜け出すなんて……こんなことしたら、後で先生に怒られちゃうよ……?」
望は乱れた前髪を抑えながら、いつものように紡を心配するような目を向けてくる。その優しさが、その気遣いが、今の紡にとってはあまりにも苦しく、そして残酷だった。
紡は肩を大きく上下させながら、息を切らし、望に向き直った。
胸の奥で渦巻く感情が、言葉となって喉元までせり上がってくる。紡は声を震わせながら、腹の底から叫んだ。
「なんで! なんでいじめられてること、私に黙ってたの!?」
その言葉が静かな海辺に響き渡った瞬間、望はハッとして目を見開いた。彼女の身体が微かに強張る。しかし、彼女はすぐに視線を泳がせ、無理に作ったような笑顔を浮かべて、小さな声で言った。
「なんのこと……? 私、別に、何ともないよ? ちょっと男子が悪ふざけしてただけで、いつものことだから……」
「嘘つかないで!!」
紡の絶叫が、望の言葉を遮った。
「トイレで、みんなが話してるの聞いたんだよ! 隣のクラスの女子たちが、望ちゃんの噂をして笑ってた! 机を蹴られたり、荷物を隠されたり、裏に呼び出されたりしてるんでしょ!? なんで、なんで私に言わなかったのよ……! 私のせいで、望ちゃんがそんな目に遭ってるのに! 私が一緒にいたから、ターゲットにされたんでしょ!」
叫んでいるうちに、紡の目から、堰を切ったように大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
視界が涙で滲み、望の顔が歪んで見える。
自分のせいで、世界で一番大切な人が傷ついている。自分の存在そのものが、望を苦しめる原因になっている。その耐え難い事実が、紡の精神を狂わせそうだった。かつて自分が味わったあの孤独と絶望を、自分のせいで望が味あわされている。そう思うと、胸が引き裂かれるように痛かった。
紡の涙を見た瞬間、望の顔から、あの作り物の笑顔が完全に消え去った。
望の瞳が大きく揺れ、その綺麗な瞳からも、大粒の涙があふれ出した。彼女は涙を制服の袖で乱暴に拭いながら、これまでに聞いたこともないような大きな声で張り上げた。
「だって……! だって、紡は優しいから! そんなこと言ったら、絶対に自分のせいだって言って、また一人になろうとすると思ったんだもん!!」
望の叫びが、潮風に乗って紡の胸に突き刺さる。
「私が言ったら、紡はまた心を閉ざして、私から離れていっちゃうでしょ!? それが一番嫌だったの! 男子にいじられることなんかより、紡がまた一人で苦しむ姿を見る方が、私にとっては百倍も千倍も辛かったんだよ!!」
望はしゃくりあげながら、胸の内をすべて吐き出すように言葉を続けた。
彼女の小さな身体が、激しく震えている。
「望ちゃんは、優しすぎるよ……。なんで、なんで自分の気持ちをさらけ出してくれないの!? そんなにボロボロになるまで我慢して……私たち、友達じゃなかったの!?」
「友達だよ! 大好きな、大切な友達だよ!! だから……だから守りたかったの……っ!」
望のその魂からの叫びを聞いた瞬間、紡の足は無意識に動いていた。
紡は一歩を踏み出し、望の小さな身体を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて、力いっぱい強く抱きしめていた。
砂浜の上で、二人の女子高生が、互いの身体を支え合うようにして、声をあげて泣きじゃくった。
波の音だけが、彼女たちの泣き声に寄り添うように、静かに寄せては返していく。
「学校なんて……どうせあと少しで、卒業するもん……」
望は紡の肩に顔を埋めたまま、涙で掠れた声で、けれど愛おしそうに、噛み締めるように呟いた。
「私はね、紡と一緒にいると、本当に楽しいの。紡お弁当を食べて、一緒にお話しして、笑い合える……。それだけで、私の心はどれだけ救われてるか分からないんだよ。だからね……周りの奴らに何されたって、私、平気なの。全然痛くないんだよ」
(ああ、そうか……)
紡は涙を流しながら、ぼやける視界の先にある、広い空を仰いだ。
胸の奥が、熱い何かで満たされていくのが分かった。
こんなにも自分のことを大切に想ってくれる人が、自分のために傷つくことを恐れないでいてくれる人が、この残酷で理不尽な世界には確かに存在しているのだ。
かつて、理玖が自分に遺してくれた言葉が、今になって本当の意味で紡の心に染み込んできた。
理玖の言った通りだった。この世界は泥にまみれていて、悪意に満ちていて、理不尽極まりない。けれど、その泥まみれの現実の底に、こんなにも眩しく、温かい光が眠っていたのだ。望という名の、かけがえのない光が。
私は、もう逃げない。
これまでは、自分が傷つくのが怖くて、あるいは誰かを傷つけるのが怖くて、ただ殻に閉じこもって嵐が過ぎ去るのを待つだけだった。けれど、今の自分には守るべき人がいる。自分のために盾になってくれた人を、今度は自分が全力で守らなければならない。
紡の心の中で、これまでにない強い覚悟が芽生えていた。
翌日、紡は朝一番で登校すると、職員室へと直行した。
そして、生まれて初めて、いじめの事実を学年主任の教師に対して、真っ直ぐな、いささかのブレもない目で報告した。これまでのいじめの内容、自分が目撃したこと、そして望が受けていた精神的な苦痛のすべてを、理路整然と、しかし強い怒りを込めて訴えた。
最初は「生徒同士のよくあるトラブル」として処理しようとしていた学校側も、紡の尋常ではない気迫と、後から駆けつけた望の涙ながらの証言もあり、問題視せざるを得なかった。
それ以来、望への陰湿な嫌がらせは、驚くほどピタリと止んだ。
当然、クラスの連中からの視線は変わった。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
他人の目なんて、彼女たちの薄っぺらい評価なんて、今の紡にとっては一銭の価値もないものだった。世界中に背を向けられたとしても、隣にたった一人、信じ合える存在がいれば、それだけで人間は生きていけるのだと、紡は知ったからだ。
「紡! お待たせ、帰ろ!」
放課後、夕日が赤く染める教室の入り口から、望が元気に手を振って姿を現した。彼女の顔には、もうあの無理に作った歪んだ笑顔はなかった。心の底から溢れ出るような、本物の、輝くような笑顔だった。
紡は机の上の荷物をまとめると、カバンを肩にかけ、心の底からの笑顔で応えた。




