1─12 2024年 波紋
2024年
その翌週、紡と望は病院を訪れた。
梅雨の合間の、じっとりと肌にまとわりつくような湿気を含んだ風が吹く午後だった。アスファルトの照り返しから逃れるようにして滑り込んだ病院のロビーは、ひんやりとした消毒液の匂いに満ちていた。紡は何度も通い慣れたその冷たい空気の感触に、無意識のうちに小さく身震いをした。いつもなら、この空間に足を踏み入れるだけで胸の奥がキリキリと痛み、一歩進むごとに足取りが重くなっていくのを感じる。しかし、今日ばかりは違っていた。少し後ろを歩く少女の、きゅきゅっと音を立てるスニーカーの足音が、紡の背中を優しく、けれど力強く押し出してくれていたからだ。
エレベーターで四階へと上がり、長い廊下を進む。白い壁に等間隔で並ぶ重い木製の扉。その中の一つ、一番突き当たりにある個室の前で、二人は足を止めた。
紡は一度、隣に立つ望へと視線を向けた。望は、まるでこれから大事な面接にでも臨むかのように、背筋をピンと伸ばして硬直している。制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめるその指先は、かすかに震えているようにも見えた。
「望、緊張してる?」
紡が小声で尋ねると、望は「う、ううん!全然!」と、裏返りそうな声を必死に押し殺して首を横に振った。その大げさな様子が可笑しくて、紡の張り詰めていた心がすっと解けていく。
「大丈夫だよ。お母さん、すごく優しいから」
そう言って微笑みかけると、紡はゆっくりと手を伸ばした。
ガラッ、と病室の引き戸を開ける。
独特の静けさが漂う部屋の中。かすかに聞こえるのは、一定の規則正しいリズムを刻む医療機器の電子音と、開け放たれた窓からかすかに流れ込んでくる、遠い波の音だけだった。
そこには、数日前よりもさらに一回り痩せ細った母の姿があった。
ベッドの上に上半身を起こし、白いシーツに身を埋めるようにして、母は静かに窓の外の海を眺めていた。傾きかけた午後の陽光が、母の透き通るような白い肌を照らし出している。その背中はあまりにも小さく、儚げで、まるで今すぐにでも窓から差し込む光の粒子に溶けて消えてしまいそうだった。紡は胸を突かれるような痛みを覚えたが、それを顔には出さず、明るい声を意識して部屋へと足を踏み入れた。
「お母さん」
その声に、母の肩がわずかにぴくりと動いた。
「紡。どうしたの、突然……」
母がゆっくりと、こちらを振り向く。その動きはどこか頼りなく、細い首筋の骨が痛々しいほどに浮き上がっていた。しかし、紡の姿を捉えた母の瞳には、いつもの深い愛情が湛えられていた。
紡はすっとベッドの傍らへと歩み寄り、自分の後ろに隠れるようにしていた少女の存在を促すように、少しだけ身体を横にずらした。紡の後ろから、少し緊張した面持ちの望が、ひょこっと顔を出した。
「友達、連れてきたよ」
望は、紡の言葉が終わるか終わらないかのうちに、まるで弾かれたように一歩前へと踏み出した。そして、直角に近いほどに深く、勢いよく頭を下げた。
「初めまして! 紡ちゃんのクラスの……あ、隣のクラスの、仲田望です! いつも紡ちゃんにお世話になってます!」
静かな病室に、望の元気すぎる挨拶が響き渡った。あまりの勢いに、頭を下げた拍子に結んだ髪が激しく揺れ、言葉の途中で自分のクラスではないことに気づいて慌てて訂正する様子は、まさに絵に描いたような緊張気味の挨拶だった。
その様子を見た瞬間、母の顔がぱぁっと明るくなった。
まるで、暗雲に閉ざされていた空から、一筋の強い光が差し込んだかのような変化だった。母の目が見開かれ、その瞳に生き生きとした輝きが戻る。
「まぁ……! 望ちゃん。紡からいっつも聞いてるわよ。本当に可愛いお友達ね。紡、良かったわねぇ……」
母はそう言うと、布団からゆっくりと両手を差し出した。歓迎の意を示そうとする母の細い指先が、嬉しそうに、そして興奮を隠しきれないようにかすかに震えている。
望は顔を上げると、母のその温かい眼差しに触れて、先ほどまでのガチガチとした緊張が嘘のように、いつものひまわりが咲いたような笑顔を浮かべた。
「えへへ、紡ちゃん、私のお話してくれてたんですね! 嬉しいな。私も、ずーっとおばさんにお会いしたかったんです!」
そこからは、驚くほど自然に会話の花が開いた。
望の持ち前の人懐っこさと、相手の懐にすっと飛び込む天真爛漫さは、病室の重苦しい空気を一瞬にして塗り替えていった。
二人はベッドを囲むようにしてパイプ椅子に腰掛け、学校での他愛もない出来事を話し始めた。
「おばさん、聞いてくださいよ! この前、数学の授業中にクラスの男子が盛大にいびきをかいて寝ちゃって。先生が怒って黒板消しをトントンって叩いたら、その男子、寝ぼけて『はーい、お代わりください!』って叫んだんですよ!」
「まぁ、お代わりだなんて。食いしん坊な男の子ねぇ」
「そうなんです! もうクラス中が大爆笑で。でもね、その時、隣のクラスの紡ちゃんを廊下から覗いたら、紡ちゃん、すっごく真面目な顔でノート取ってて。あぁ、見習わなきゃなって思いました」
「ふふ、紡は昔から融通が利かないくらい真面目だから。望ちゃんみたいに元気で楽しいお友達がいてくれたら、お母さんも安心だわ」
「もう、お母さん、余計なこと言わないでよ」
紡は少し照れくさそうに頬を染めながらも、二人のやり取りをただひたすらに愛おしく見つめていた。
話題は学校のことだけでなく、望の好きなお菓子の話へとも及んだ。
「私、最近駅前にできたケーキ屋さんのタルトにハマってて! 特にイチゴのタルトが絶品なんです。いつかおばさんが退院したら、絶対絶対に一緒に行きましょうね! 私、美味しいお店たくさん知ってるので、案内します!」
「まぁ、タルト。美味しそうね。おばさん、甘いものには目がなくて。楽しみにしてるわね」
母は、望の話を一つ一つ、本当に楽しそうに、相槌を打ちながら聞いていた。
病気が発覚して以来、母の笑顔はどこか影を帯びたものばかりだった。痛みに耐えるための歪んだ微笑みや、紡を安心させるための、無理に作ったような弱々しい笑顔。しかし、今ここで見せている笑顔は、違った。
母があんなに声をあげて笑ったのは、病気が発覚して以来初めてのことだった。
かつて家の中で毎日のように聞いていた、懐かしい母の笑い声。その声が病室の壁に反響するたびに、紡の胸の奥に溜まっていた冷たい澱のようなものが、少しずつ溶けていくような気がした。
楽しい時間は、瞬く間に過ぎていく。面会時間の終わりを告げる夕方のチャイムが遠くから聞こえてきた頃、母の顔には少し疲労の色が見え始めていた。それにいち早く気づいた望は、「あ、もうこんな時間!おばさん、今日はたくさんお話ししてくれてありがとうございました!」と、名残惜しそうにしながらも、すぐに立ち上がった。
「こちらこそ、来てくれてありがとうね、望ちゃん。本当に楽しかったわ」
「また、絶対に遊びに来ます!お身体、大切にしてくださいね」
「ええ、待っているわ」
母は、二人を見送るために、ベッドの上で小さく手を振った。その顔は、最初に出迎えた時よりもずっと血色が良く、生き生きとして見えた。
「今日は本当にありがとう」
病院のロータリーに出ると、夕方の少し涼しくなった風が二人を包み込んだ。オレンジ色に染まり始めた空を見上げながら、紡は望に向き直り、深く頭を下げた。言葉だけでは足りないほどの感謝の気持ちが、そのお辞儀に込められていた。
すると、望は慌てたように両手を振り、ぶんぶんと首を横に振った。
「当たり前でしょ、友達なんだから! お礼なんていらないよ。それにね、おばさん、すごく優しくて素敵な人だね。紡ちゃんが優しい理由が、今日お会いしてよーく分かった気がする」
望はそう言うと、紡の両手をそっと握りしめた。その手はとても温かかった。
「また一緒に来よう? 今度は、あのケーキ屋さんの焼き菓子でも買ってさ。お医者さんに怒られない程度に、内緒で食べちゃおうよ」
望のお茶目な提案に、紡の目頭が熱くなった。
「うん、また来よう」
二人は見つめ合って、心から笑い合った。
夕暮れのロータリーに、二人の笑い声が優しく響く。紡は、自分の隣にこの少女がいてくれることの奇跡を、噛み締めていた。孤独で、灰色だった私の世界に、望は鮮やかな色彩を連れてきてくれたのだ。
望と駅で別れた後、紡は一人、家路へとつくはずだった。
しかし、その日の夜、良いことがあった紡の足は、まるで目に見えない糸で引っ張られているかのように、吸い寄せられるようにあの海辺へと向かっていた。
夜の帳が降り、街灯の光がぽつぽつと灯り始める中、紡は足早に砂浜へと続く階段を下りた。
昼間の蒸し暑さはどこかへ消え去り、夜の海風は少し肌寒さをはらんでいた。ザザァン、ザザァン、と、規則的に繰り返される波の音が、昼間よりもずっと大きく、深く響くように感じられる。
砂を踏み締める感覚が、足の裏から伝わってくる。紡は、暗い海を見つめながら、胸の内で溢れそうになっている感情を整理しようとしていた。
望という最高の友達ができたこと。
今日、お母さんが心から喜んでくれたこと。
暗闇の中で、一歩も前に進めなくなっていた私を、そっと支えてくれた人たちがいる。
そのすべてを、私の世界を繋ぎ止めてくれた理玖に報告したかった。
心が壊れてしまいそうだった夜、この砂浜で出会った彼は、ぶっきらぼうでありながらも、紡の言葉をただ静かに聞いてくれた。彼が投げかけてくれた言葉の数々が、どれほど紡の支えになったことだろう。彼がいなければ、紡は今でも自分の殻に閉じこもり、望の手を取ることさえできなかったかもしれない。私のバラバラになりそうだった世界を、もう一度繋ぎ止めてくれたのは、間違いなく理玖だった。
「理玖、いる……?」
紡は小さく呟きながら、いつも彼が座っていた流木の方へと視線を走らせた。
けれど、夜の帳が降り、波の音が大きく響くようになっても、理玖が砂浜に現れることはなかった。
流木の上には、誰もいない。ただ、昼間の太陽の熱を失った冷たい木肌が、闇の中にぽつんと佇んでいるだけだった。
紡は立ち止まり、じっとその場所を見つめ続けた。五分、十分と時間が経過していく。
しかし、今夜はどれだけ待っても、その気配すら感じられなかった。
冷たい風が、紡のスカートを強く揺らす。その風の冷たさが、彼女の肌を通して、胸の奥へと染み込んでいくようだった。
やはり、彼はもう来ないのだろうか。
どこか遠くへ行ってしまったのだろうか。
紡は静かに海を見つめ、カバンについたイルカのキーホルダーをそっと握りしめた。
それは、理玖と過ごした時間の中で、自分の心の中に確かに生まれた「何か」を象徴するような大切なものだった。小さなプラスチックのイルカは、夜のわずかな光を反射して、静かに輝いている。指先に伝わるその硬質な感触が、紡に現実を思い出させる。
溢れそうになる寂しさを、紡はそっと深呼吸とともに飲み込んだ。
理玖に会えなかったのは寂しい。けれど、不思議と、以前のような絶望的な孤独感はなかった。今の紡には、明日学校へ行けば「紡ちゃん!」と笑顔で手を振ってくれる望がいる。病院へ行けば、自分の帰りを待ってくれている母がいる。理玖が私に教えてくれた「世界との繋がり」は、もうしっかりと私の両足で支えられるようになっているのだ。
紡は、目を閉じた。目を閉じると、暗闇の中に、理玖のあの少し不器用な笑顔が浮かんできたような気がした。
(理玖。今日で、ここに来るのも最後にするね)
紡は心の中で、静かに彼へと語りかけた。
ここに来て、彼の姿を探し続けることは、もうやめにしよう。私は、私の現実を、私の大切な人たちと共に生きていかなければならない。それは、彼が私を導いてくれた道でもあるはずだから。
(あなたがくれた言葉のおかげで、私はこんなに素敵な友達に出会えたよ。……出会ってくれて、本当にありがとう)
胸の奥から湧き上がる感謝の気持ちを、波の音に乗せるようにして、紡は祈った。
彼に対する気持ちが、単なる感謝だけではないことを、紡は知っていた。夜の砂浜で、彼を待ち焦がれていたあの胸の痛み。彼の言葉一つに一喜一憂し、彼にもっと自分を見てほしいと願ったあの感情。それは、紛れもない恋だった。
理玖への恋心に、静かに区切りをつけたつもりだった。
紡はゆっくりと目を開けた。
目の前に広がる海は、相変わらず暗く、どこまでも深い。しかし、その水面には、夜空に輝く星々の光が、細かく、美しく反射していた。
波が引いていく。その後に残された湿った砂肌に、紡は自分の足跡がしっかりと刻まれているのを見た。
振り返り、階段へと向かって歩き出す。一歩、一歩、砂を踏み締める足取りは、ここに来た時よりもずっと確かで、軽やかだった。
カバンのイルカのキーホルダーが、歩調に合わせてチリン、と小さな音を立てた。
夜の海は、ただ静かに、その去りゆく背中を見送るように、いつまでも波の音を響かせ続けていた。




